(前回からのつづき)
公園の奥の方、氷の張った池の近くの地面を見て驚いた。石が埋没している・・・のではなく石の周りの地面が盛り上がっている。
霜柱とは違うのかな?こういう現象を何というのかカチャッてみたら『凍上(トウジョウ)』かもしれない。
凍上は「寒気によって土壌が凍結して氷の層が発生し、それが分厚くなる為に土壌が隆起する現象」、他にも「霜柱が成長して土全体が盛り上がる現象」とある。
池の近くなので地中の水分が多いのだろう。あまり見かけない現象だ。
寒冷地では、これにより建物が傾いたり、道路や鉄道線路が盛り上がるなどの事故につながることがあるそうなので厄介な現象でもある。
落葉しているこの時期、野鳥は見かけやすいとバーダーさんが言っていた。
でも、私なんぞが確認できたのは(更にコンパクトデジカメで撮れたのは)ツグミとヤマガラくらい。
※ヤマガラ→ジョウビタキのご指摘をいただいたので訂正です。
そういえば、昨年は沢山の鳥見さんがいたけど今年は少ない。午後だからかな。
見沼といえば(社会でも習ったような気がする)見沼代用水。穏やかに流れている。せっかくなのでパチリ。
公園には井沢弥惣兵衛為永さんの像が建っている。(↓お月さまがでていたので、扇子?の先においてみた。)
何故、為永さんの像があるのかというと、当然ここ見沼に深い関係がある。せっかくなので勉強がてら記しておこう。
江戸時代初期、農業用水を確保するため、関東郡代の伊奈忠治は、長さ8町(約870m)の八丁堤を築き、面積1,200ha・平均水深1mの「見沼溜井」を造った。
しかし、土砂の流入で貯水能力は低下していった。
江戸中期になると新田開発が命じられ、堤を切って開拓し「見沼たんぼ」になるとともに、代替の用水確保のために利根川から約60kmに渡って用水が引かれ、 見沼たんぼの西縁と東縁の台地にそって水路が掘削され、農業用水が供給された。これが「見沼代用水」である。なお用水から田んぼにひいた水は、低地に流れる川に排水される。
この見沼田んぼ・見沼代用水を造ったのが井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)である。
為永は紀州の生まれで、紀州藩士時代に多くの土木事業を成し遂げ、8代将軍吉宗のときにその技が認められ、江戸に呼ばれ旗本になった。享保の改革に伴う新田開発や河川改修に尽力を尽くした。
主な事業には、武蔵国(当地)の見沼開拓・見沼代用水開削、多摩川改修、下総国の手賀沼の新田開発、木曽三川の改修計画、鴻沼の干拓などがある。
井沢弥惣兵衛の見沼開発は伊奈氏の方法(関東流)とは異なり、既存の沼を廃して新たに用水路を開削し、用水と排水を分離するもので、この方法は、一般的に「紀州流」と称されているそうだ。
見沼代用水のおかげで、関東では広大な田園が潤った。めでたしめでたし。
その辺のところは、あまり突っ込まないでください、お師匠様(笑)。
土木工事にはたくさんの人と日数をかけたはずですよね。
人力で成せる知識と技術もスゴイと思います。現代人では・・・。
まだまだ代用水沿いに田んぼはありますよ。
でも、車で通る所は決まっているので・・・、
念のためヤフー地図の写真でも確認しました(笑)。
良い、非常に良い傾向です。
昔の土木工事って凄いですね~。
用水路とか基本人力掘削でしょうから!
今は、自然公園といて保存されているのですね。
まだ、田んぼはあるのですか?
まあ、単に忘れただけかも知れませんが…。
訂正しま~す。
今日も月がキレイです。
嫁さんもそう言ってました(こっちは埼玉だから)。
あっ、年代の違いかな~。
昔の新田開発、土木事業は大変ですよね。
でも、それがあったからこそ今がある。
高麗の民俗資料館でそんなことを思いました。
全然習っていないけど…(笑)
横浜で「吉田新田」と言えば有名だけど、たぶん横浜の小学校に通った人にしか通用しない。
でも、こういう郷土の歴史というのは、重要なんですよね。そうでないと、世の中がみんな平準化してつまらなくなってしまう…