シャツのほころび涙のかけら

昔よく聞いたNSPのタイトルを拝借。…趣味や日常を綴っています。基本はガンバレ自分!時々覗いてみてください。

豪国、墓地と庭園に感動!

2009-03-01 | 豆知識的な…

たまには見るものだな~「世界ふしぎ発見!」ちょっと感動。最後の問題に関してだった。(問題自体は…忘れた。)
オーストラリアのシドニーから西に約250キロ。草原のまっただ中にある小さな街『カウラ』には、南半球で最大規模の日本庭園があり、春は郊外の並木道に桜が咲き誇る。そのカウラでの悲惨な、でも感動的な史実。

第2次大戦中、ここに主にイタリア人と日本人(約1,100人)の捕虜収容所があった。
収容所の生活は、農業を行うほか、野球や相撲などリクリエーションが自由に行われていた。負傷者・栄養失調者などにも手厚い看護を施した。日本兵のためにわざわざ米や魚も取り寄せて支給したという。
捕虜というと、シベリア抑留のように過酷で劣悪な環境と強制労働を思い起こすが、カウラではまったく異なり、他と比べればかなり待遇が良い?(失礼)とも言える生活だったわけだな。

1944年8月4日、収容所が定員オーバーしたため、兵士のみ別の収容所に移すと通達。
日本兵の上下の信頼関係は厚い。全体一緒の移送ならば良いが、分離しての移管はいかがなものか?とトイレットペーパーに○×を記し多数決投票を行った。
翌日、集団脱走が行われた。武器?は身近にあるフォーク・ナイフなどの金属製品、野球バットといったもの。その結果、日本人231人、オーストラリア兵4人が亡くなった。終戦の一年前のことだ。

脱走というと、普通は生き延びるためにするものだが、ここでは違う。死ぬことを目的にした脱走だ!ありえないことだが・・・「生きて虜囚の辱を受けず…」という戦陣訓の考え方、当時の集団心理によるようだ。反対したくとも強硬派に流されて否応なく賛成した者も多いという。
当然、当時の日本政府はこの悲惨な事件を隠蔽し、当事者は口をつぐんだ。その結果、今でもオーストラリアでは誰もが知っている有名な事件だが、日本の歴史教科書にはでてこず、この事件のことを知らない日本人は多い。

1947年のイタリア人・日本人本国送還まで収容所は運営された。
墓地が建設されたが、捕虜であることを恥としていた日本兵は、偽名を名乗っていたため、身元が分からない遺骨が多く。墓石にも仮の名前が彫られている。

1963年、オーストラリア政府の計らいによって、墓地は日本の領土として割譲された。
(このことも知らなかったけど…)これは大変なことなのでは!?日本に帰りたいが帰ることはできない。自ら異国での死を選んだ兵士。それが、日本の土地で…。
墓地ができてから、オーストラリアで戦時中に亡くなった日本人は軍人・民間人を問わず、カウラに埋葬された。
カウラの方々にだって、憎しみや悲しみがあったと思う。なのに…ちょっと泣けた。

また、日本人墓地建設を契機に、この事件への追悼と両国平和と友好のシンボルとして、カウラの方々は、日本庭園の建設計画をも推し進めた。市民運動から発展したこの造園計画は、日豪両国の政府、民間有志団体の熱意と数々の惜しみない協力によって成し遂げられた。

政治的に作られたのではなく、市民の方の熱意で作られたのだ。カウラの方々はスゴイ…書きながら、また泣けてきた。

事件の事は、何度か映画やドラマで取り上げたようだが、私のように可哀そうなドラマはなるべく見ない…という方もいると思う。なので、こうした事実は、今回のようにオーストラリア特集の一つとして取り上げたり、戦争と関わる一つの史実としてとりあげてほしいものだ。もちろん教育の現場でもね。

コメント
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