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(yottin blog)

父の49日法要

2018年04月23日 09時01分21秒 | 宗教

わが家は先祖代々、栃木県黒羽で暮らしていたが、明治の終わり頃、相次ぐ不幸で豊かな土地家屋を失い

宇都宮を経て、茨城県へ出た、父は古河で生まれた

そこで父の祖祖母、祖母、母は茨城の今の常陸大宮出身の徳五郎の世帯に入り、徳五郎は古河の寺に墓地を建てた

その墓に昭和20年終戦までに、祖祖母、祖母、祖母の亭主(徳五郎)、祖母の二人の息子が埋葬された。

祖祖母と祖母と二人の息子は古河で、徳五郎は東京で父達家族と同居中に亡くなった。

慶応生まれ74歳の徳五郎は散髪中に息を引き取ったと言うから、最高の終いだったが、床屋の親父は驚いたろう。

 

父は母の再婚で戸籍が替わって、東京で生活したが昭和20年には東京大空襲で母と義父が行方不明になり

翌年、遺骨が無いまま浅草の日輪寺で叔父(義父の弟)と二人だけで葬儀を行った(墓は無い)

父は晩年、この時の葬儀は古河でやるべきだったと悔やんでいた

昭和23年、東京で食い詰めて今のこの地にやってきた、ここには父が2~3才の時離婚して出て行った実父が

新たな家族と住んでいた、ここは実父の生まれ故郷なので本家を始め、親戚が多く、東京での孤立した暮らし

とは違う、人間関係が複雑に絡み合う世界だった。

父は頼るものの無い世間で頑張った、そして昭和40年頃には生活基盤が安定し、ようやく亡くなった両親や

古河の肉親の法要を思い出して、古河の寺に連絡した。

寺にしてみれば、30年前に東京に行ったきり音信不通になった人からの連絡で驚いた

しかも風の便りに空襲で全滅したらしいとも

寺は父の家の墓を継ぐ者がいないと判断して、無縁仏として境内の無縁墓に改葬して墓終いしたのだった

それを聞いた父のショックはどれほどであったろうか

こうした事があって、父は自分が年老いて行くに連れて、この地で新たな墓を建てるかどうか迷ったようだ

結局、少子化していく日本では墓守は不可能と判断して、地元の共同墓地に入ることを選択した

そして自ら共同墓地の会長になって、粗末な墓碑を取り替えるため奔走して木曽福島へ走り

墓石を求め、立派な墓碑を建立した。

父の思惑に反して、母が先にこの墓地に入った、母に遅れること7ヶ月、父も再び母の元に旅立った

月並みだが、あの世で再会を喜んでいるだろう。

 


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