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(yottin blog)

荒波人生 昭和37年 古河へ墓参りに行く

2020年01月07日 21時43分16秒 | 小説/詩

茨城県古河市、茨城県というと大洗、水戸など海岸の印象があるけれど

関東平野のど真ん中、内陸にむかって針のように伸びた先端

そこに古河市がある、かずが生まれた時は、まだ猿島郡(さしま)古河町

であった。

古河の駅に降り立ったのは実に20年ぶりだった、それだって既に東京へ

上京した後の事で、正式にこの町を出たのは小学校5年生、昭和10年

のことだから、古河を離れて27年が過ぎていた

寺を訪ねる前に、自分が生まれ育った家を見たいと思って、そっちへ

むかった

古河は江戸時代は城下町で、初代藩主は有名な老中、土井大炊頭

(おおいのかみ)利勝で石高は16万石

利勝は徳川家康の重要なポストを受け持ち、その正体は家康の一族

あるいは実子という説もある人物だ

その他にも歴史的には河越夜戦で北条氏康に敗れた古河公方の

本拠地でもあった

そんな城下町であるから、その地名も厩町、仲ノ町、白壁町など雰囲気の

ある地名があり、かずが産まれたのは白壁町の旧武家屋敷であった

家は風呂もあり、部屋数も5つほど、その中にはいかにも武家的な4畳間

切腹の時に使う(しじょうのま)と呼ばれていた。

ここを訪ねるのは27年ぶりだった、少し迷ったけれど雀神社へ向かう

大通りから左手の小径に入ると、間もなく塀に囲まれた大きな旧家があらわれた

かずの家の隣は、家老松井様のお屋敷だったと子供の頃から聞かされていた

その松井様の家があった、その隣に畑に囲まれたかっての我が家があった

電球柿の木、お稲荷さん、栗の木、懐かしかったが嫌な記憶も多い家であった

複雑な気持ちでそこを立ち去り、子供の頃に遊んだ「おすずめさん」雀神社へ

むかった

入口には上って遊んだケヤキの木が、朽ち果てそうな姿でまだ立っていた

お詣りしてから、祖母が働いていた製糸工場にむかった、建物はあったが

もう稼働していなかった。

子供の時には製糸工場で働いている祖母を機械の音を真似て「ガーガーばあちゃん」

家事をする祖祖母を「おうちばあちゃん」と呼び分けていたものだった、

かずには二人のばあちゃんがいたのだ

けれど父や母は物心ついたときには家にはいなかった。

この町の駅近くにある寺に祖母、祖母の連れあいの義祖父そして祖母と義祖父の

一人息子正男が眠っている

寺に着いた、さっそく墓参りをしようと寺に入って声をかけた、寺の若奥さんが顔を出した

かずと似た年頃だった

「白壁町にいた阿南の者です、長い間ご無沙汰していましたが、今日は祖母達の墓参り

にやってきました」

すると奥さんは「私は嫁でわからないので住職と代わります」と言って奥に入っていった

間もなく年配の住職が現れた

「阿南さんというと、徳五郎さんのことかね?」と聞き返した

覚えていてくれたと、かずは喜んで「そうです、そうです」と言った

すると住職の顔が曇った、「立ち話もなんだから上がってください」

住職について控えの間に入った、そこで改めて挨拶をして永代経や小布施を丁寧に

差し出すと住職は困った顔をして

「実は徳五郎さんの墓は墓じまいさせてもらったのです」

「えっ!?」言っている意味がわからなかった

「徳五郎さんが亡くなって、家族の方が東京から納骨に来られたが、その後

音信不通になってしまった、20年には東京が空襲で焼かれて家族の方は

残念ながらみんな亡くなったというような風の便りも聞こえてきた、それでも

25年頃まではもしかしてと思って,墓の掃除などもしておったが、誰もお見えに

ならなんだ、それでもう誰も親族はおられんのだと思って共同廟の方にうつさせて

もらって読経だけは欠かさずしているのだが・・・まことにすまんことをした」

かずは呆然とした・・・義祖父が水死した息子と、亡くなった妻のために建てた墓

だから、先祖代々というわけではないが自分を可愛がってくれた祖祖母の墓

が無くなったと思うと全身の力が抜けてしまった。

しかし口だけは「そうでしたか、おっしゃるとおり私の両親は東京で空襲に遭って

亡くなりましたが、私だけが兵隊に行っていて難を逃れ生き残ったのです、しかし

戦後は生活に追われてついには親戚を頼って日本海の方へ移り、今はそこで

結婚して生活しています、ようやく一息ついて墓参りを思い立ってきたのです」

と言った

住職は「このようなことになって小布施はいただけません」と返そうとしたが

「墓は亡くても、このお寺にお骨と魂があるから、どうかこれからも仏を守って

いただければありがたいのです、なかなかここまで来ることは出来ないので

お盆には毎年、小布施をお送りしますのでぜひお経だけはあげてやってください」

と頼んだ

住職は「わかりました、心を込めておつとめさせていただきます」答えた

 

帰りの汽車の中で、かずは思った(両親の葬儀を、義父の弟の慶次に任せた為に

浅草の日輪寺でおこなったが、あの時、古河の寺で葬儀をすれば良かった、

そうすれば俺が生きていたこともわかって、墓じまいはされなかったのに)

そう思うと悔しくて涙が出そうになった。

(おれは親不孝者だ・・・)この思いは一生心に残った、そのため、かずは

自分の死と向かい合った90歳頃から、「いずれ守る者が無くなる墓よりも、

毎年、会員が集まって供養をしてくれる共同墓地に入る」という信念をもち

自ら共同墓地の会長を務めたのだった。