中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

主述文に於ける述語の分析

2010年10月05日 | 中国語
 前回は、主述文の主語の分析でしたが、今回は、主述文の述語を分析し、それを類別していきます。ここで注目すべきは、「主述述語文」(“主謂謂語句”)という文型です。

                         文と文の分析
                      主述文の後半部分の類型

 主述文の後半部分の類型は、述語の構造に基づき区分される。基本的な類型は、名詞性述語、動詞性述語、形容詞性述語である。

(一)名詞性述語
 名詞性述語は長さが短く、口語で多く用いられる。例えば:
   (1)明天∥晴天。(述語は名詞である)
   (2)這個人∥好本領。(述語は名詞を中心とする偏正詞組である)
   (3)這些書∥図書館的。(述語は“的”構造の詞組)
   (4)毎人∥一本。(述語は数量詞組。適当な名詞を加えることもできる)

 名詞性述語の主要な機能は説明、或いは判断であり、肯定的な面から主語に対して説明や判断を加えるもので、例(1)、(3)、(4)がそうである。時には主語を描写するのに用いられることもあり、このような描写機能を持つ名詞性述語は、大部分が名詞を中心とする偏正詞組で構成される。例(2)がそうである。

(二)動詞性述語
 動詞性述語の主要な機能は、叙述である。
   (5)大会∥開始了。(述語は動詞である)
   (6)主席∥作工作報告。(述語は動賓詞組である)
   (7)同志們∥挙手表決。(述語は連動詞組である)
   (8)大家∥選他当代表。(述語は兼語詞組である)

 動詞性述語は、主語の描に用いることもできる。
   (9)会議∥進行得十分順利。(述語は後補詞組である)
   (10)任務∥能够gou4完成。(述語の中で、助動詞を状語としている)

 動詞“是”とその賓語を組み合わせた述語を用いる時、その機能は説明、或いは判断である。例えば:
   (11)冬至∥是北半球白天最短的一天。
   (12)熊猫∥是熊。
   (13)陽歴七月∥是最熱的天気。

  この文は「A是B」の形で表すことができる。例(11)では、AとBが指すのは同一の事物である。例(12)では、AとBが指す事物は同じ種類に属する。例(13)では、BはAの特徴を表している。

(三)形容詞性述語
 形容詞性述語の主要な機能は描写である。多くの文において、形容詞の前には状語を伴う。例えば:
   (14)他的学問∥比我好。(述語は、形容詞を中心とする偏正詞組)
   (15)灯光∥亮得使人們的眼睛都睜不開来。(述語は後補詞組)

(四)主述述語(“主謂謂語”)
 中国語には一種の特殊な文型があり、それがいわゆる主述述語文(“主謂謂語句”)である。主述述語文は、一般の主述文が転換して形成され、主に三つの種類がある。一つ目は主述文の中のある動詞の賓語、或いは賓語の一部分が文頭に持って来られたものである。例えば:
   A-(1)我没有聴到過這個故事。
      (2)知道這件事的人不多。
      (3)我認為這個問題可以討論。
   B-(1)這個故事我没有聴到過。
      (2)這件事知道的人不多。
      (3)這個問題我認為可以討論。

 A組は一般の主述文で、B組は主述述語文である。例(1)は、“聴到過”の賓語“這個故事”を文頭に持ってきている。例(2)は、“知道”の賓語“這件事”を文頭に持ってきている。例(3)は、“認為”の賓語、“這個問題可以討論”の中の“這個問題”を文頭にきて、何れも主述述語文を形成している。原文の述語は叙述性のものだが、主述述語文に変化した後、述語の機能は説明、或いは判断となる。

 二つ目の主述述語文も、相対応する非主述述語の文である。例えば:
   ■ A 大家的斗志昴揚。      ■ B 大家斗志昴揚。
        他的身体健康。              他身体健康。

 A組は形容詞性述語文で、B組は主述述語文であり、これらの述語は何れも描写性のものである。B組で、“大家斗志”、“他身体”は偏正詞組を構成していない。つまり、“斗志”は“昴揚”と直接連携している。“身体”は“健康”と直接連携している。また、“大家”と“他”は主語であるので、後ろに“的確”、“也許”のような副詞を用いて状語とすることができる。

 三つ目の主述述語文は、文全体の修飾語の中から介詞“関于”、“対于”などを取り去ることで構成される。例えば:
   ■ A 関于田間管理,他的経験很豊富。
        対于這個問題,我們有不同看法。
   ■ B 田間管理,他的経験很豊富。
        這個問題,我們有不同看法。

 A組は非主述述語文で、B組は主述述語文である。B組の主語が表すものは、依然として範囲、対象、或いは関係する事物である。述語は判断の意味を含むが、主語がどうであるか直接は説明しない。

 以上の例文からみて、主述述語文の主語は大部分が話の起点であり、話題性を含んでいる。この性質は、上記の三つ目の主述述語文の場合が最も明らかである。このような話題の主語は、一つの文、或いはクローズ(分句)に属するが、前後の連続する文章や会話の中で、これはしばしば重要な役割を占める。例えば:
   (1)她年紀小,胖胖的,穿着一身毛線衣褲,正在登上竹凳,想去拿桌上的
     苹果。
   (2)她只有八九歳光景,眼睛溜圓,臉色紅潤,頭髪很短。
   (3)她只有八九歳光景,胖胖的,眼睛溜圓,臉色紅潤,頭髪很短,穿着一身
     毛線衣褲,正在登上竹凳,想去拿桌上的苹果。

 ここに三つの複文がある。例(1)は、クローズ(分句)の主語は“她”である。例(2)では、第1クローズの主語は“她”、後ろの各クローズにはそれぞれ別の主語があるが、この複文全体から見れば、全てのクローズの主語は“她”であると見做して差し支えない。このように見ると、後ろの3つのクローズは主述述語文に属する。例(3)は、例(1)と例(2)を合わせたもので、主語の確定については、異なった見方をすることができる。しかし、この文を理解するには、“她”がこの複文全体を貫いている。例(2)の各クローズの主語が異なると考える場合も、少なくとも第1クローズの主語“她”が重要な地位を占めていることは認めざるを得ない。このことはつまり、私たちが言うところの主述述語文の主語が話題性を備えていることの根拠である。話題の主語は、たとえ構造的には一つの文、或いはクローズに属するとしても、意味や意志の上ではしばしば一つのクローズだけでなく、文全体、或いはその前後の関連する部分にまで影響を与える。

 一般の主述文を主述述語文に改めるのは、しばしば表現上の必要に適応するためである。例えば:“我去過那個地方,你也去過那個地方,那儿的風景真不錯。”もし、“那個地方”が話題の焦点であるなら、次のように改めることができる:“那個地方我去過,你也去過,風景真不錯。”


【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社1995年


 主述述語文を採用することにより、主語(それも文章全体の主語ですが)が話題の焦点であることが明確になり、述語はその説明、或いは判断となります。このことを知っていると、文章や講演の内容の中心が見えてきます。


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沈宏非のグルメエッセイ: 焼乳猪(仔豚の丸焼)

2010年10月03日 | 中国グルメ(美食)
 今回は、広東料理の中でも、有名な仔豚の丸焼のことを書かれた文章を紹介します。機知に富んだ、沈宏非の文章をお楽しみください。

                          焼乳猪

 “烤乳猪”、仔豚の丸焼を、広東人は“焼乳猪”、或いは“焼猪”と呼ぶ。とはいえ、言語の規範のことをあまり質問する必要はない。なぜなら、“烤乳猪”であれ“焼乳猪”であれ、広東人が発明したものだからである。ちょうど、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」し、その後、土着の住民を「インディアン」と呼び続けたのと同様、それに服せざるを得ないのである。

  《礼記》の中に出てくる“炮豚”と現代の“焼猪”の料理法は似ているが、“炮”すなわち炙られたものが“乳猪”、生まれたての、まだ母親の乳しか飲んでいない仔豚であるのかどうかは、言葉が簡単すぎてよくわからない(語焉不詳:〈成〉言葉が簡単すぎて意を尽くさない)。それに比べると、広州の考古学上の発見はより説得力がある。南越王第二代、王趙胡(紀元前122年頃)の墓の中から、仔豚の丸焼用のオーブン、叉(豚を突き刺して炙るフォーク状の鉄串)と仔豚の骨の破片等が発見されたのである。

 広東の仔豚の丸焼が天下に誇る料理技法であることを除き、“乳猪”の広東の民間風俗の中での種々の付加的な用途は、ここで説明しても自明のことであると証明できないかもしれない。婚礼に欠かせないものである他、清明節の墓参でも、広東人は乳猪を供え物とし、毎年の清明節の時分には、肉屋(“焼腊店”:香港や広東省によくある、ローストダックや焼き豚など、肉類のローストや燻製を専門に扱う店)は“祭祖金猪”、つまり先祖にお供えする仔豚の丸焼を大量に販売することで、大いに利益を上げる、黄金シーズンである。この他、仔豚の丸焼は、珠江デルタ一帯の昔の風俗では、貞節であるか否かの印とされた。凡そ新婚初夜に女性が処女を捧げ(“落紅”という。元々、処女膜が破れて赤い血が流れ出ることから)、何日かして夫婦揃って実家に里帰り(“回門”という)した日に、男性側は必ず“大紅焼猪”、つまり仔豚の丸焼を贈り、また途中の道では笛や太鼓を打ち鳴らし、村中に女性が貞節であったことを明らかにするのである。

 もし“落紅”が見られなかった場合も、やはり夫婦揃って実家に里帰りするのだが、その時は、贈り物は仔豚の丸焼から“焼鵞”、つまりロースト・グースに代わる(一説には生の豚の耳を一対贈るとも言う)。劉万章著《広州の昔の婚姻風俗》に言う。「女子が貞節であるか否かは、仔豚の丸焼が出るかどうかで一目瞭然で、もし仔豚の丸焼が無いと、訴訟を起こしたりしなければならず、堪えがたいことであった。」

 広東や香港では、今でも女性が結婚前に貞節を失うことを、戯れで“失猪”と言うが、仔豚の丸焼がどうして貞操と関連ができたかは、人を試すような問題である。イギリスの作家Charles Lambはこう考えた。仔豚が美味しいのは、その「純潔」が重要な要素であると。Lambは《豚の丸焼の技巧の起源の考察》の中で、こう言っている。「それは未だ生まれて丸一か月に満たない小さなもので、未だ汚れた豚の囲いの中で、色欲の情に汚されていない。これは、彼らの遠い祖先から代々伝えられてきた悪習である。」

 やはりこじつけがある。さもなければ、誰か、私の代わりに劉心武先生に聞きに行ってくれないだろうか。

                  食べるのは皮のところだけである

  北京ダックを食べる時は、皮に連なった柔らかい肉片があればよく、こんなに大きなアヒルの体を完全に捨ててしまって知らん顔をするのは、多くの人がもったいないと感じるところである。ところが、仔豚の丸焼は、食べるところは皮だけで、北京ダックよりもっと高慢である。

 この黄金色のサクッとして脆い皮について、Charles Lambはこう書いている。「私がずっと信じていることは、ローストの仕方がすばらしく、火加減の絶妙な超絶技巧で精緻に作られた、あのような一噛みで砕け、ほんの一口口に入れれば溶けてしまい、香ばしくサクッとして心地よく、薄茶色の脆い仔豚の皮は、天下に他に比較し得る美味は無いということである。そして、この脆い皮は、一言でまたその他のことばに置き換えて表現することはできない。――それはあなたが無意識にあのサクッと柔らかく味わい深い、脆い薄い皮を噛んでみようと思わざるを得ず、それによりその中の全ての美味しさを心の底から享受する――それは凝脂のような糊状の粘質――これを脂肪と言ってしまうと汚らしいが――しかしそれは、その名状し難い、暖かく芳しいものであるかのようで――それはすなわち油脂の花の――その蕾のまだ固いうちに摘み取られ――その芽吹きの際に採取され――その天真無垢の段階で、つまり……脂身と赤身、脂肪と肉の絶妙な結合であり、この時、両者は早くも融け合って一つになり、もはや分かつことができない。だから溶けて“玉露瓊漿”の美酒のような非凡な逸品になるのである。」

  長々と《豚の丸焼の技巧の起源の考察》の文を引用したことをお許しいただきたい。このようにせざるを得なかったのは、第一に、これがこれまで私が読んだ、仔豚の丸焼についての最も美しい、第一等の文章であるからである。第二に、このような文章がイギリス人の手によることは、いつも仔豚の丸焼を食べている中国語作家が恥ずかしく思うに足ることであるからである。もちろん、高健先生の訳文は、原作に忠実、かつ原作を上回るところもあるが、“凝脂”、或いは“玉露瓊漿”、また単一の“酥”ということばが、原文中のambrosian、adhesive oleaginous、crackling、brittleの類と匹敵しうるものであるかどうかは、ひとまず言及しない。

  《豚の丸焼の技巧の起源の考察》は18世紀の冗談文学であるが、詩のようなことばは、ことばの表現力を少しも出し惜しみしておらず、歯の浮くようなわざとらしさはロミオの愛の独白にも匹敵する。ただし、Lambが正統な広東式の仔豚の丸焼を食べたことがあるかどうかは、これまで考証した人はいない。しかし、Lambが文章の中で話題にしている友人のM(Manning)は、17世紀初めに中国に住んだことがあり、しかも広州で医師をしていた。

 仔豚のあの脆い皮を焼きあげることは、決してたやすくできる(“軽而易挙”)ことでは決してなく、誠にLambの言うように、最高のローストの仕方と絶妙な火加減が必要である。

  10キロ以下で、まだ母乳を飲んでいる仔豚をし、内臓を取り去り、調味料に漬け込み、蜜を塗り、叉(豚を突き刺して炙るフォーク状の鉄串)を刺して炭火の上に置き、ひっくり返しながら90分ほど焼き上げる。焼く時には、絶えずひっくり返して、熱が均等に当たるようにし、同時に刷毛で絶えず豚の身に油を塗る。サクサクした皮に焼き上げる秘訣は、先ず仔豚の体の内側を炙り、その後、外皮を焼く。このようにしてはじめて、肉の油脂がゆっくりと表皮に浸透し、最後には「脂身と赤身、脂肪と肉の絶妙な結合」による「“玉露瓊漿”の美酒のような非凡な逸品」が得られるのである。

 更によく考えられた作り方は、耳や尾が焦げるのを防ぎ、仔豚の美しい体形を保つ為と言われているが、コック達は焼く前に、野菜の葉などでこれらの部分を包み、また豚の腹の中に水を入れた瓶を入れ、腹の中が焦げるのを防ぐ。

  広州では、皮の形状の違いから、仔豚の流派には二通りある。それは、“麻皮”派、つまり表面のざらざらした皮のものと、“光皮”派、つまりつるつると光沢のある皮のものがある。“麻皮乳猪”は、又の名を“化皮乳猪”と言い、特徴は焼く時に火を強火にし、更に絶えず油を塗ることである。同時に絶えず針や錐で皮の表面を打ち、油がはじけて出る気泡で豚の表皮を柔らかくし、最後に胡麻のように均一で稠密な気泡を形成させ、黄金色を呈させ、食べるとサクサクとして脆く、「口に入れると溶ける」と賞賛されるのである。

  “光皮乳猪”、皮のつるつるとした仔豚の方は、料理の工程では上記の技巧を必要としないが、見た目の深い赤紫の色彩では勝り、つやつやとして彩溢れ、売る時の見かけで言えば、“麻皮派”など相手ではない。“麻皮乳猪”と“光皮乳猪”は食べ方も異なる。前者はごく薄い皮の下の柔らかい肉の層もいっしょに切り取り、“千層餅”、つまり小麦粉をパイ状に焼いたものに挟み、海鮮醤(海老やオキアミを発酵させたペーストの入った、甘いタレ)、砂糖かネギ、赤トウガラシの細切りをつけて食べる。後者はその薄く脆い皮だけを、甘味噌をつけて食べる。

 白砂糖、甘味噌は、どの広東料理レストランでも仔豚の丸焼のお決まりの調味料である。この二種類はごくありふれたもので、生のネギと甘味噌が北京ダックに欠くことのできないものであるのとは異なるが、それでもある程度まで仔豚の最後の味を決定するものである。

                     光り輝いて登場する

 仔豚は美味しいだけでなく、見た目も良い。

  仔豚の美味はいくつかの文藝作品に見られるが、Charles Lambにとどめを刺す。仔豚の丸焼の見た目の良さ、形(体全体に、宋の哥窑の青磁のような裂花紋が入っている)、色(棗のような深い赤色、或いは黄金色)については、正式な宴席で、仔豚が供される場面での体裁にある。

  《清稗類鈔》の記載によれば、「焼烤席は、俗に満漢大席と呼ばれ、宴席中に上品(すばらしい料理)で出ないものは無い。燕窩(ツバメの巣)、魚翅(フカヒレ)や諸々の珍味の他、必ず焼いた豚が出るが、それは一匹全体を焼いたものである。酒が三巡すると、焼いた豚と膳夫(コック)が入って来て、僕人は皆礼服を纏って入って来る。膳夫は料理を奉ると待機し、僕人は身につけていた小刀をはずして肉を切り分け、器に盛り、膝を曲げて一礼すると、首座の客にそれを献じる。」

 “満漢大席”はすなわち“満漢全席”であり、中華料理の最高峰の料理である。許衡《粤菜存真》が記す広州、四川の二種類の版本の満漢全席のメニューには、何れも仔豚の丸焼が出ている。広州のメニューでは、仔豚の丸焼は“第二度”の“熱葷“とされ、紅扒大裙翅、翡翠珊瑚、口蘑鶏腰のすぐ後に出され、最後から二番目のメインディッシュと位置付けられる。やや簡略な四川のメニューでは、仔豚の丸焼は“叉焼奶猪”と書かれ、“四紅”(叉焼奶猪、叉焼宣腿、烤大田鶏、叉焼大魚の四種類のメインディッシュ)の第一に列せられている。

  今日の結婚式、同窓会、表彰式典のような会場全体を請け負った宴会で、仔豚の出てくる派手さ加減と言ったら、それに勝りこそすれ決して劣らない(“有過之而無不及”)。笛や太鼓の音が一斉に鳴り響き、数十頭の仔豚が数十台の飾り付けた輿の上に乗せられ、古代の給仕の扮装をした服務員が1列縦隊で輿を担いで現れ、仔豚の眼窩の中には二つの赤色の電球が取り付けられ、会場の照明は落とされ、それにより二つの絶えず瞬く赤い光が突出し、正真正銘の「光り輝く登場」に、主人の体面と来賓の感動は、ここに双方とも最高潮に達する。

  もっとすごい場合は、会場内を巡って来た仔豚が厳かにテーブルに置かれた後も、依然明かりが点けられず、一筋の、きらきらしたスポットライト(“追光”といいます)が仔豚に当てられ、あたかもこの仔豚が講演を始めようとしているかのようである。

                    乳猪全体(仔豚丸々一匹)

 広東では、仔豚の丸焼はレストランで食べることもできるし、街の肉屋で購入することもできる。しかし何れにせよ、仔豚を食べる時は豚の一部だけ持って来ても良くなく、一匹全体を食べるのが良いのである。

  いわゆる仔豚の一部分というのは、一匹の仔豚から切り取られた十から二十枚くらいの肉片である。もちろん、豚全体の焼き加減が素晴らしければ、その一部の品質も何ら劣るところが無いが、見た感じが一匹全体のようには堪能できない。この他、置いてあるうちに冷めてしまい、皮のサクッとした歯ごたえは失われ易い。一匹丸々の仔豚は、メニューには“乳猪全体”と書かれ、特別な料理の名称である。“乳猪全体”を食べようと思うと、少人数ではダメで、恐らく「友達全員」か「仲間全員」を揃えないといけない。人数を揃えるのが容易でないだけでなく、一匹「全体」の仔豚は通常、予約が必要である。

 不幸なことに、仔豚は会食や宴会でしばしば「雰囲気を盛り上げる」重要な役割を担っているので、およそ仔豚丸々一匹が出される時は、十中八九、「全体大会」の類の、空前の盛況で、賑やかで混乱した場面であり、実際に仔豚を仔細に味わうには邪魔が多過ぎる。今年の年初、香港のチャリティー公演“万衆一心千禧耀東華”の出演者として参加した時、主催者の手配で、レストランで祝賀会が行われ、皆といっしょに楽しんだが、最後は気まずい思いで別れた(“不歓而散”)。その原因は、主に騒々し過ぎたことで、舞台の下で全員が飲み食いするのは良いが、何人かは大声でゲーム(“猜枚”:酒席でのゲームのこと)をし、大声でカラオケを歌う者までいた。しかし、同じく出演していた歌手の楊千(“”は女偏)が後で芸能記者に語ったところでは、彼女はこのような「周りが賑やかな」ところで歌を歌うのは全く気にしないのだそうである。というのも、これまで彼女がしてきた経験の中で、彼女がはっきりと記憶しているのが、このような場所で歌を歌う時、お客さんの何人かはテーブルの上の仔豚の丸焼を食べるのに夢中で、音を出して食べる者までおり、楊千が言うには、このような味わいは本当に我慢できないもので、自分が甘味噌になったような感じがするそうである。だから彼女は誓いを立て、自分にこう言い聞かせた。「心血を注いで歌を歌おう。決して仔豚に付く甘味噌のようになってはならない。」

 甘味噌について言えば、私は、これは実はそれぞれのレストランの仔豚の丸焼の出来を評価する重要な指標であると考えている。大部分の仔豚を販売するレストランは、豚の焼き具合は皆悪くないのだが、ただ総じて誠意が欠けている。豚といっしょに届く甘味噌と白砂糖が、皆固まってしまっているのである。明らかに、これは厨房の中で長く保存されていた結果である。


【原文】沈宏非《飲食男女》江蘇文藝出版社2004年から翻訳

 沈宏非の食べ物描写は、表現が豊かで、いつも読んでいると生唾が出てくるのですが、さてうまく翻訳できたかどうか。読者の皆さんが、実際に食べられた時、なるほど、と思っていただければうれしいですし、食卓の蘊蓄話にでもご活用いただければ、と思います。


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主述文の主語と述語

2010年10月01日 | 中国語
 主述文で、主語と述語は文の最も直接的な部分ですが、文の中で、どの成分が主語で、どの成分が述語であるかを正しく分析することは、文章を正しく理解する上でたいへん重要なことです。今回は、様々な例を取り上げ、主語、述語の成分について、見ていきたいと思います。

                        文と 文の分析
                         主語と 述語

 主語と述語は主述文を構成する直接成分であり、主述文は文の典型である。

 文法学者は主語について三種の異なる理解をしている。一つ目に、主語は述語動詞に対するものと考える。例えば英語の文法では、Subjectはpredicate verbに対して言い、述語動詞の形態は主語に付いて変化しなければならず、主語と述語の間には一致関係がある。二つ目に、主語は陳述の対象と考える。主語は陳述されるもので、述語は主語に対して陳述を加えることである。ここに於いて、主語と述語は「完全」なものを指す、すなわち、主語以外の部分は述語であり、述語以外の部分は主語であり、このことはこれらが詞であろうと詞組であろうと同様である。三つ目に、主語は話題(topic)を指すと考える。話題は広範な概念であり、およそ文の陳述の起点は、全て話題と見做せる。

 異なる概念から主語を確定し、ある文を分析した時、その結果は全く同様であるかもしれない。しかし、別の文を分析してみると、その結果に差が出ることがある。例えば:
     (1)中国又爆炸了一顆原子弾。
     (2)老王,我昨天還見到他。

 例(1)を分析する時、一番目の観点により、“中国”を主語と確定すると、“爆炸了”が述語である。二番目の観点によれば、“又爆炸了一顆原子弾”が述語になる。例(2)を分析する時、一番目の観点と二番目の観点を採ると、何れも“老王”は主語と見做すことができない。しかし三番目の観点を採れば、“老王”を主語と見做すことができる。

  私たちが文の主語と述語を言う時、主に二番目の観点を採り、これらの関係は陳述と被陳述の関係である、と考え、文によっては三番目の観点を採り、主語は「話題」であると考える。

 中国語では、一般には主語は述語の前に置かれる。例えば:
     (3)太陽∥従東方升起。
     (4)東方∥升起了紅太陽。

 名詞、人称代詞、名詞性詞組を主語にするのは、最もよく見かける。時間名詞、場所(“処所”)名詞は二重の性質を持っている。一つは事物性、一つは時地性である。事物性を表す時間名詞、場所名詞を主語にする場合、述語は時間や場所自身がどうであるか説明するか、時間や場所が行為の対象であることを説明する。例えば:
     (5)一九七六年∥是難忘的一年。
     (6)北京∥我没有到過。

 時地性を表す時間名詞、場所名詞は、事情の発生や事実の存在する時間や場所を明示し、これらも主語になることができる。例えば:
     (7)去年∥発生了几件大事。
     (8)這里∥有一些新書。

 このような時間名詞、場所名詞が別の主語の前に置かれると、これらは文全体の修飾語になる。例えば:
     (9)(去年)世界上∥発生了几件大事。
     (10)(這里)我們∥有一些新書。

  もちろん、“屋里坐吧”のような文は、省略文であるので、“屋里”は主語ではない。文の頭に時間名詞や場所名詞が連接して出現する文、例えば例(9)のようなケースでは、先ず場所名詞が主語にならなければならない。すなわち、“世界上去年発生了几件大事”と言えば、主語は依然として“世界上”である。動詞の前にいくつかの名詞性成分がある時は、その中の一つを選んで主語にしなければならない。選択の順序は、動作の主体(“施事”)、手段(“工具”)、受動者(“受事”。⇔施事)、場所時間である。しかし、“在世界上去年発生了几件大事”と言う時の主語は“去年”である。これは、中国語では、介詞構造は主語にすることができないからである。この他、別の実詞(副詞及び助動詞は除く)、各種の詞組、及び“的”構造も主語にすることができる。数詞が単独で主語になるのは、大半が数字や計算を表す文に於いてであり[下記例(11)]、量詞が単独で主語になるのは、その繰り返し(“重畳”)形式の場合に限られる[例(12)]。数量詞組が主語になるのは、それの指す事物が一般に前の文で既に出現した場合である[例(13)]。
     (11)九十∥是三十的三倍。
     (12)(他対我講了許多話,)句句∥都銘刻在我的心上。
     (13)(我国古代通往西域的大路有両条,)一条∥是従玉門出発的北路。

 動詞、形容詞が主語になる場合、述語は一般に形容詞である[例(14)]か、或いは動作を表さない動詞(例:“是”、“使”、“有”など)が構成する“動賓謂語”(動詞+賓語構造の述語)[例(15)]、“兼語謂語”(兼語式の述語)[例(16)]である。
     (14)説説∥容易。
     (15)辱罵和恐吓∥決不是戦斗。
     (16)勤労∥使人聡明。

 “動賓詞組”(動賓構造の詞組)[例(17)]、“主謂詞組”(主述構造の詞組)[例(18)]、“的”構造の詞組[例(19)]も、よく主語になる。
     (17)提高産量∥靠採用先進技術。
     (18)群衆教育群衆∥是一個好辦法。
     (19)放光的∥不都是金子。

 動詞や形容詞が名詞や人称代詞を定語として伴うと、詞組全体が名詞となる。このような名詞性詞組も、しばしば主語になる。例えば:
     (20)会議的如期召開∥是大家努力的結果。
     (21)教師的高明∥在于能使学生超過自己。


【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社1995年


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