中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

于丹《荘子心得》[1]: 荘子何其人(4)

2011年12月07日 | 中国文学

■[1]
 ( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます)


・不謀而合 bu4mou2 er2he2 [成語](意見や理解が)はからずも一致する。偶然に一致する。
・穿透 chuan1tou4 (鋭利なものが)物体を貫く。貫通する。
・境界 jing4jie4 程度。境地。

   私たちの社会には多くの抗癌者クラブがあり、多くの抗癌スターがいる。実際、嘗ては癌と聞くと、それはほとんど死刑判決のようなものだった。しかし現在はどうして何年も生きることのできる人が出てきたのだろうか。それは心の持ち方であり、その人は楽観的なのである。彼自身が死の瞬間を恐れていないのに、どうして死を恐れるのだろうか。ここで言う死亡とは心の中での一種の暗示であり、実は荘子はずっと死を恐れない人であった。彼は恐れないという方法で、つまり“楽生”(生を楽しむ)の二文字で、つまりちゃんと生きることは、死を恐れるのに比べ、ずっと強いのである。この観点は、儒家の思想ともはからずも一致する。これはつまり、孔子が彼の弟子に答えて言った6文字、「未知生焉知死」である。人は、まだ生きるということが分かる程生きていないのに、どうして死んでからのことを考えようとするのか。この一点は、儒教と相通じると言うことができ、私たちにある種の温かい気持ちを与えてくれ、一種素朴な価値観である。つまり、「活在当下」、永遠にこの4文字である。人は今という瞬間を生きている。今という時に名を看破し、利を貫かせ、更には生死を恐れなくなれば、私たちの心の空間はなんて大きくなるだろうか。これが「大境地」である。


■[2]


・挂碍 gua4ai4 気がかり。懸念。
・田頭 tian2tou2 田んぼのあぜ。畑のそば。
・汗流浹背 han4liu2 jia1bei4 [成語]背中が濡れるほど汗をかく。びっしょりと汗をかく。
・樹蔭底 shu4yin1di3 木陰。
・哼 heng1 鼻歌を歌う。
・悠閑 you1xian2 ゆったりと。のんびりと。

  皆さんは、荘子はこんなに多くの事を看破したのに、消極的だと思われるか。彼について言えば、もう気がかりは何もない。それなのに彼はなお何を気にかけるのだろうか。実は、荘子の時代、心の中で判断しても、必ずしもそれが転化して行動につながらなかった。民間にこんな笑い話がある。二人の人が畑のそばにいた。一人は炎天下、一生懸命、麦を植え、汗びっしょりになっていた。もう一人は木陰でお茶を飲みながら、鼻歌を口すさんでいた。その後、畑仕事をした男はもちろん自分は勤勉で、道徳上あの怠け者に訓戒を垂れる資格があると思い、彼に言った:ごらんなさい、あなたはこんなに怠けて、今後どうやって飲み食いするつもりなのですか。あなたはどうして毎日こんなにたくさんの時間を浪費しているのですか。すると、涼んでいた男はのんびりと、こう言った:ちょっとうかがいますが、あなたはこんなに懸命に働いているのは、どうしてですか。豊作のためですよ。豊作は何のためですか。豊作だったら、取れた穀物を売ってお金になりますよ。涼んでいた男はまた問うた。売ってお金にしてからどうしようというのですか。麦を植えていた男は言った。お金ができたら、衣食で困ることがなくなります。またこのように炎天下になったら、私は働かないで、木陰に横になり、お茶を飲み鼻歌を歌い、のんびりと生活できます。すると、今涼んでいる男が言った:私はもうそういう生活を送っているんですよ。だから、私の今の生活は、あなたの未来の夢なのです。

■[3]


・遮蔽 zhe1bi4 遮る。覆う。見えなくする。
・隠約 yin3yue1 かすかなさま。はっきりしないさま。
・看中 kan4zhong4 気に入る
・成全 cheng2quan2 ある目的を達成するよう、助ける。尽力する。成就する。
・樊籬 fan2li2 垣根。障壁。
・浩瀚 hao4han4 広大なさま。(書物などが)多いこと。
・拘囿 ju1you4 こだわる。限定する。
・風発揚励 feng1fa1 yang2li4 精神を奮い立たせる。
・窘困 jiong3kun4 困窮する。

  しかし、皆さん考えてみてください。これは単なる笑い話だろうか。多くの場合、私たちはいつでも得られる事が、私たちの観念上の誤解によって隠されてしまっている。このように言うことができる:荘子は彼の本の中で、多くのかすかな彼の生活の影を残しており、この中の多くが儒家と互いにやり合っていると判断することができる。ただ、儒家が重んじるのは、永遠に大地の上での聖賢の道徳であり、好んで言うのは人が一生のうちで打ち立てた功績、業績であり、そのように努めることであるに過ぎない。一方、道家が重んじるのは、もっと高くて広い、天上にいる人之精神の自由であり、好んで言うのは人が最後に成就した後の超越である。こう言うことができる:中国の儒家思想は、社会という物差しで、人がなすべきことを担当するよう要求するが、道家思想は、生命というレベルで人が飛躍することを要求する。なすべきことを担当するというのは私たちの社会的な責任であり、超越というのは私たちの生命の境地である。

  だからこの意味から言うと、荘子の多くの物語を見て、あなたは彼の一連の生命哲学が、単に積極的か消極的かで論じるべきものではなく、私たちの生命の別の体系で打ち立てられた一連の参照事項であると理解することができる。荘子の言葉によれば、人生の至高の境地は、天地の間を勝手気ままに行き来すること(逍遥遊)である。つまり、内心の何重にも重なる垣根や障壁を看破し、宇宙の静けさや天地の広さの中に人生のあるべき位置を得、このような広大な座標系の上で、人をして真に人間らしくさせ、私たちの内心からこだわりを取り除き、私たちの精神を奮い立たせ、理想的な自己を形作り、現実の中の様々な困窮を、たちどころに看破できさえすればよく、永遠の生命に導かれ、このように逍遥遊の境地に遊ぶことは、私たち一人一人が永遠に追い求める価値のあることである。

     -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

  以上、見てきましたように、荘子の語る人間像というのは、自然のままというより、先ずしっかりした自我を持ち、分をわきまえた上で、気張らず、自然体で人や社会に接するということではないかと思います。


にほんブログ村 外国語ブログ 中国語へ
にほんブログ村