中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

梁思成、奈良、京都を救った建築家

2010年05月16日 | 中国史
 梁思成という人物をご存じだろうか。中国近代の思想家、政治家で、日本とも関わりの深い梁啓超の子で、建築家であったが、日中関係では、第二次大戦の末期、アメリカの日本本土爆撃戦略立案に際し、建築家の立場から、京都、奈良の古代建築の保護を訴え、京都、奈良を戦禍による破壊から救った人物として知られている。
 折しも今年は平城遷都1300年に当たり、彼の功績を記念し、奈良に梁思成の銅像を建立し、永遠に記念することになったとのことである。 今回は、梁思成の功績に関する記事を紹介する。

           梁思成一句話救下日本両座古城
        梁思成の一言が日本の二つの古都を救った
文化中国-中国網 culture.china.com.cn 時間: 2010-05-14

■ 京都和奈良是日本的両大古都,這両座城市擁有許多具有唐代風格的古建筑,藝術価値極高。然而很少有人知道,它們能幸免于二戦時的轟炸,要帰功于我国著名的建筑学家 ― 梁思成。
・轟炸 hong1zha4 爆撃
 京都と奈良は日本の二大古都で、この二つの都市が保有する多くの唐代の様式の古代建築は、芸術価値が極めて高い。しかしながら、これらが幸いにも第二次世界大戦の爆撃を免れることができたのは、我が国の著名な建築家、梁思成によるものだと知る者は少ない。

■ 近日,記者従在京挙辧的“古都的恩人梁思成演講会曁為梁思成在日本奈良樹立銅像啓動儀式”上了解到,日本奈良已决定在今年10月31日慶祝平城建都1300周年時,挙辧梁思成銅像的揭幕典礼,梁思成的銅像将永遠安放在奈良。
 最近、記者は北京で開催された「古都の恩人、梁思成の講演会、ならびに奈良に梁思成の銅像を建設する発起式」で了解したが、日本の奈良市は今年10月31日の平城遷都1300周年の祝賀の際に、梁思成の銅像の除幕式を開催し、梁思成の銅像を永遠に奈良に置くことを決定した。

      不轟炸建議被盟軍採納
      爆撃しないという建議は連合軍に聞き入れられた


■ 在此次啓動儀式上,羅哲文等深情地回憶了梁思成与日本奈良、京都之間的故事,将半個世紀前的歴史重現于眼前。
 今回の発起式で、羅哲文らは梁思成と奈良、京都の間の物語をしみじみと回想し、半世紀前の歴史が眼の前に再現された。

■ 梁思成是我国著名建筑学家,国学大師梁啓超之子。1901年,梁思成出生于日本東京,他的童年是在日本度過的,当時雖然生活清苦,却給梁思成留下了許多美好的回憶。梁思成晩年曾回憶説:“我愛美麗的日本和我童年記憶中和藹可親的、善良的日本人民。這里面有在幼稚園和小学里教導我的師長,有在須磨海濱教我游泳的漁人,有我坐火車上学時毎天在車上照顧我的車長……還有許多当年在一起嬉戯的日本小朋友。”
・和藹可親 he2ai3ke3qin1 穏やかで親しみやすい
・嬉戯 xi1xi4 遊び戯れる
 梁思成は我が国の有名な建築家で、国学大師、梁啓超の子供である。1901年、梁思成は日本の東京に生まれ、子供時代を日本で過ごした。当時、生活は貧しかったが、梁思成に多くの美しい思い出を残した。梁思成は晩年、こう回想したことがある。「私は美しい日本と、私の子供時代の記憶の中の穏やかで親しみやすい、善良な日本人が好きである。この中には幼稚園、小学校で私を指導した先生、須磨海岸で私に水泳を教えた漁師、列車で学校に通っていた時、毎日列車の中で世話をしてくれた車掌……当時いっしょに遊んだたくさんの日本の友達がいる。」

■ 梁思成与古都奈良甚有淵源。孩提時代,梁啓超就曾帯他去奈良的法隆寺游覧,那時正値大殿重修,父親便花了一元銭的香資将梁思成的名字刻在了大殿的一片瓦上,祈求佛祖保佑。没想到几十年后,這座古刹竟因這個名字逃過了滅頂之災。
・淵源 yuan1yuan2 根源。源
・孩提 hai2ti2 幼児
・香資 xiang1zi1 =香銭:お布施。賽銭
・滅頂 mie4ding3 頭のてっぺんまで水につかる。溺死する
 梁思成は古都奈良とはゆかりがある。幼い頃、梁啓超は彼を連れて奈良の法隆寺を遊覧した。その時ちょうど本殿の修理をしており、父親は一元の浄財をし、梁思成の名を本殿の瓦に刻ませ、仏の加護を祈った。思いがけず十数年後、この古刹はこの人物により戦禍を逃れることができたのである。

■ 1912年,梁思成随父母回到中国。然而,侵華日軍的残暴譲梁思成対日本的愛跌至冰点。1937年七七事変爆発,北平淪陷,衆多歴史古跡惨遭炮火摧残。面対日本人的宴会請柬,梁思成憤然拒絶,挙家出走。在逃亡過程中,梁思成一家又険些在長沙喪命于敵軍的空襲。不幸的事情接連発生,先是担任第十九路軍炮兵校官的弟弟梁思忠,在淞沪会戦中英年早逝。接着1940年,梁思成的内弟、飛行員林恒在保衛成都的空戦中壮烈殉国。多年后,梁思成的后人説,面対国仇家恨,父親最終能做出保護日本古都的决定,其実并不是一件容易的事情。
・淪陷 lun2xian4 陥落する
・内弟 nei4di4 妻の弟。義弟
 1912年、梁思成は父母と共に中国に帰った。しかし、中国侵略の日本軍の残虐行為は梁思成の日本への愛を氷点まで落下させた。1937年の七七事変勃発で、北京は陥落し、多くの歴史遺産が砲火で破壊されてしまった。日本人の宴会への招待を、梁思成は憤然と拒絶し、一家で北京を脱出した。逃亡中、梁思成一家は長沙で敵軍の空襲により生命の危機に遭遇した。不幸は続けて発生し、先ず第十九路軍炮兵将校をしていた弟の梁思忠が、淞沪会戦で若い命を落とした。続いて1940年、梁思成の義弟、飛行員の林恒が成都防衛の空中戦で壮烈な殉死をした。後年、梁思成の子孫は、国の仇、家族の恨みに直面し、父親が最終、日本の古都を保護する決定をするのは、実際に容易なことではなかった、と語った。

■ 1944年夏天,美軍已対日軍占領区和日本本土開始戦略轟炸。在重慶,梁思成在羅哲文的協助下開始整理古跡遺址名単、在地図上標明位置,并向盟軍提交不要轟炸的建議。梁思成的建議最終被採納,遍布于京都和奈良城内的古代建筑,在戦火中毫発未損。
 1944年夏、アメリカ軍は日本軍の占領地区と日本本土に対し、戦略爆撃を開始した。重慶で、梁思成は羅哲文の協力の下、古跡遺跡の名簿の整理を開始し、地図上に位置を標記し、連合軍に爆撃をしないよう意見書を提出した。梁思成の建議は最終的に採用され、京都、奈良市内に分布する古代建築は、戦火で少しも破壊されることがなかった。

        “梁思成是我們日本的大恩人”
        「梁思成は私たち日本の大恩人である」

■ 現在的奈良和京都已発展成為国際知名的観光城市,保存完好的古建筑群為這両座城市増色不少。比如,奈良歴史上曾做過日本的京城,公元710年,日本天皇遷都到奈良,当時叫平城京。据説,整個平城京的建設,是模倣唐朝的長安城建置。奈良的唐招提寺是由唐代鑑真和尚親手興建的,現為世界文化遺産。由于文化遺存保護完好,毎年這里吸引着成千上万的観光客来此体会古都的魅力。而這一切,応帰功于梁思成。
・成千上万 cheng2qian1shang4wan4 数の非常に多いさま。幾千幾万
 現在の奈良、京都は国際的に有名な観光都市に発展し、よく保存された古代建築群が少なからずこの両都市の魅力を増している。例えば、奈良は歴史上、日本の都になったことがあり、西暦710年、日本の天皇は奈良に遷都し、当時、平城京と呼ばれた。平城京の建設全体は、唐朝の長安城のレイアウトを模倣したと言われている。奈良の唐招提寺は、唐代の鑑真和上が自ら建立し、現在は世界文化遺産になっている。文化遺産の保護が完全であるので、毎年ここに幾千幾万の観光客を引き寄せ、古都の魅力を体感させる。そしてこの一切は、梁思成の功績に帰すべきである。

■ 啓動儀式上,梁思成的学生、中国工程院院士張錦秋回憶了日本友好人士対梁思成的評価。她説:“1985年我曾到日本奈良、京都進行建筑考察,日本建筑界権威福山敏男在一次接待活動中動情地説,梁思成是我們日本的大恩人,是他在二戦中向美国提出了保護奈良和京都的建議,我們的古都才得以保存下来。我們永遠不会忘記他。”
 発起式で、梁思成の学生で、中国工程院・院士の張錦秋は日本の友好人士の梁思成に対する評価を回想した。彼女は言う。「1985年に私が日本の奈良、京都の建築の視察に行った際、日本の建築界の権威、福山敏男は接待の席で興奮して語った。梁思成は私たち日本の大恩人であり、彼が第二次大戦でアメリカに奈良、京都の保護の嫌疑を提出したからこそ、私たちの古都は保存された。私たちは永遠に彼を忘れないと。」 曾為解放軍編制全国古建目録以防炮火損毀解放軍に全国の古代建築目録を編集し砲火による破壊を防いだ

■ 梁思成不僅是日本古都的恩人,也是中国文物保護事業的開拓者、中国古都的恩人。1944年末,梁思成任教育部戦区文物保存委員会副主席,負責編制文物目録,防止文物因戦争而遭到損毀。1948年12月,梁思成応解放軍要求,絵制北平古建筑地図,以備攻城時保護文物之用。1949年2月至3月,梁思成与莫宗江、羅哲文等清華大学同仁編制《全国建筑文物簡目》,以備作戦時保護文物之用。這些目録中所列出的文物建筑和歴史遺跡,后来大多被列為国家重点文物保護単位,甚至成為世界文化遺産,従而得到妥善的保護、伝承,為全世界所知。
 梁思成は日本の古都の恩人であるだけでなく、中国の文物保護事業の開拓者で、中国の古都の恩人である。1944年末、梁思成は教育部戦区文物保存委員会副主席に就任し、文物目録の編集を担当し、文物が戦争により破壊されることを防止した。1948年12月、梁思成は解放軍の要求に応じ、北京の古代建築の地図を作成し、都市攻撃時の文物保護に備えた。1949年2月から3月まで、梁思成は莫宗江、羅哲文等、清華大学の同僚と《全国建筑文物簡目》を編集し、戦時の文物保護に備えた。これらの目録に列記された文物建築、歴史遺跡は、後に大多数が国家重点文物保護単位に指定され、世界文化遺産になったものもあり、これより適切に保護、伝承され、世界に知られるところとなった。

■ 在此次活動啓動儀式上,来自西安、揚州的代表追憶了梁思成対当地文化遺産保護做出的貢献。西安市政協副主席向説,梁先生曾両次帯領中国営造学社的同仁遠赴西安,対古都大雁塔、小雁塔、清真寺等多項古建進行測絵、調研,為小雁塔做維修計劃,為碑林博物館工程做了設計。据張錦秋介紹,上世紀50年代,在審査西安小雁塔保護維修方案時,梁思成提出了“整旧如旧,保持原貌”的維修原則,這項原則之后被《中国文物保護法》採納。他認為文物保護応該是使其延年益寿,而不是返老還童。梁公的主張与10年后発表的世界遺産保護文献《威尼斯宣言》不謀而合。張錦秋説,在我国城市化迅猛発展的形勢下,梁思成過去提出的“以新護旧、新旧両利”的原則、“拡大城市緑地,保護文物古跡”的方法及古城保護的系列規劃已経成為現在古都保護的支柱和霊魂。
・延年益寿 yan2nian2yi4shou4 長生きをする。寿命を延ばす
・返老還童 fan3lao3huan2tong2 老いてますます盛んになる。若返る
・不謀而合 bu4mou2er2he2 (意見や理解が)はからずも一致する。偶然に一致する 
 今回の活動の発起式で、西安、揚州からの代表は梁思成の当地の文化遺産の保護に果たした貢献を追想した。西安市政治協商会議副主席の向は言った。梁先生は嘗て二回、中国営造学社の同僚を連れてはるばる西安に来て、古都の大雁塔、小雁塔、清真寺等、多くの古代建築の測量、調査研究を行い、小雁塔の修理計画、碑林博物館プロジェクトの設計を行ったと。張錦秋の紹介によれば、1950年代、西安小雁塔保護修理案を審査する際、梁思成は「古いものは古いまま、元の姿を維持する」という修理の原則を提出し、この原則の後、《中国文物保護法》に採用された。彼は文物保護はその寿命を延ばすことで、若返らせることではないと考えた。梁思成の主張は10年後に発表された世界遺産保護文献《ヴェニス憲章》とはからずも一致している。張錦秋は言う。我が国で都市化が猛烈な勢いで進んでいる情勢下、梁思成が嘗て提出した「新を以て旧を護り、新旧両方を利する」の原則と、「都市の緑地を拡大し、文物古跡を保護する」方法、及び古城保護の一連の計画は、現在の古都保護の支柱、精神となったと。

       銅像由中日合作完成
       銅像は中日の協力で完成される

■ 対于梁思成当年的義挙,了解真相的日本人対其一直心存感激。為了感謝“古都的恩人”,日本中国友好協会名誉会長平山郁夫生前就曾建議,為梁思成在日本奈良樹立一尊銅像,以紀念和表彰他的貢献。在梁思成弟子、中国文物学会名誉会長羅哲文的積極奔走下,2009年8月,“為梁思成在日本奈良樹立銅像組織委員会”成立,全国政協副主席孫家正任名誉主任,羅哲文任主任。
 梁思成の当時の義挙に対し、真相を知った日本人はそのまっすぐな心根に感激した。「古都の恩人」に感謝するため、日本中国友好協会名誉会長平山郁夫は生前、梁思成の為、日本の奈良に銅像を建て、彼の貢献を記念し称えようと建議した。梁思成の弟子で、国文物学会名誉会長羅哲文の積極的な奔走により、2009年8月、「梁思成の為、日本ならに銅像を建てる組織委員会」が成立、全国政治協商会議副主席孫家正が名誉主任に就任、羅哲文が主任に就任した。

■ 据介紹,為梁思成在日本奈良樹立銅像将由中日両国合作完成。塑像由我国雕塑家李象群創作,銅像塑成后除在日本奈良県文化会館永久安放外,還将在我国西安、揚州、曲阜等与梁思成有密切関係的城市樹立。同時,以此為契机,中日両国還将挙辧一系列的公益文化活動。整個項目正在中国社会文化基金会、中国日本友好協会、国家博物館、西安市人民政府、揚州市人民政府、清華大学建筑学院等相関部門的積極参与下穏歩推進。(李静)
 紹介によれば、梁思成の為の日本奈良での銅像建立は中日両国の協力により完成される。塑像は我が国の彫刻家、李象群が制作し、銅像完成後、日本の奈良県文化会館に永久に安置される他、我が国の西安、揚州、曲阜等、梁思成と密接な関係がある都市にも建立される。同時に、これを契機に、中日両国は一連の公益文化活動を実施する。全ての項目は、中国社会文化基金会、中国日本友好協会、国家博物館、西安市人民政府、揚州市人民政府、清華大学建筑学院等、関連部門の積極的な参与の下、着々と推進されている。(李静)

文章来源: 中国文化報

中国語の音韻による修辞(2)

2010年05月16日 | 中国語

  前回、音韻や平仄による、中国語の音韻上の修辞について見たが、今回は、音節の均衡、文のリズムの問題、音声による感情伝達の問題、について見ていきたい。
 テキストの原文は、胡裕樹主編《現代漢語》重訂本 上海教育出版社1995年である。

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                    (二)音節の均衡

 中国語のことばには、単音節、二音節、多音節のものがあるが、二音節のことばが大多数を占める。多くの二音節のことばは、しばしば単音節の同義語を見つけることができる。このようにして、ことばを選ぶ時、音節の長短から適当なことばを選択することができる。
 一般に、単音節のことばは単音節のことばと配合し、二音節のことばは二音節のことばと配合する。例えば、“花”と“花朶”、“鮮花”は同義語だが、私たちは、“白花”、“紅花”というが、“白花朶”、“紅花朶”とは言わない。また、“白色的花朶”、“紅色的花朶”と言うが、“白色花”、“紅色花”とはあまり言わない。“花開”と言うが、“鮮花開”とは言わず(詩歌の中では或いはこのような言い方があるかもしれない)、“鮮花盛開”と言うが、“花盛開”とは言わない。“読書”と言うが、“書”を二音節の“書報”に変えると、“閲読書報”と言わなければならない。“句型”と言うが、“句”を二音節の“句子”に変えると、“句子類型”と言わなければならない。
 単音節、二音節のことばの配合は、これらのことば自身の配合の問題であるだけでなく、これらのことばの置かれた言語環境が関係する。
例えば:
(13)因為勝利,我們的驕傲情緒……可能生長。……務必使大家継続地保持謙虚、謹慎、不、不躁的作風……。

(14)我們含泪佇立桔子洲頭,漫歩湘江峭岸;清水塘,岳麓山,徘徊板倉小径,依恋韶山故園……万千思緒,随山移水転。
・佇立 zhu4li4 長時間立つ。たたずむ

 例(13)の“驕傲”は二音節の語で、主に“情緒”という二音節の語と釣り合わす為に二音節になっている。後半の文で、単音節の“驕”が使われているのも、“不”と組合せて二音節とし、“謙虚”、“謹慎”、“不躁”といった二音節の語と形式が対称となるようにするためである。
 例(14)の“佇立”と“漫歩”、“回”と“登”、“徘徊”と“依恋”も、それぞれ二語ずつが呼応している。

 ここから、音節の均衡は二つの面を表していると言える。一つは文の中の音節のつながりが急に長くなったり短くなったりして、落ち着かなくなってはならない。一つはフレーズ(節)の音節が呼応することで、文の構成が整い、形式的な美しさが要求される。

                   (三)リズムの鮮明さ

 リズムに注意を払うのは詩歌の基本的な要求である。詩歌の歌いあげる情感は平板なものではなく、波乱や起伏があり、これを文字に訴えることにより詩歌のリズムになるのである。
 郭沫若はこう言っている。“大概先揚后抑的節奏,便沈静我們。先抑后揚的節奏,便鼓舞我們。這是一定的公例,鐘声是先揚后抑的,初扣的時候頂強,曳着的裊裊的余音漸漸微弱下去。海涛的声音是先抑后揚,初起的時候従海心漸漸卷動起来,愈卷愈快,卷到岸頭来,‘拍’的一声打成粉砕。因為有這様的関係,所以我們聴鐘声和聴海涛的心理,完全是両様。”(だいたい、先に高揚し後に抑制されるリズムは、私たちを落ち着かせる。先に抑制し後に高揚するリズムは、私たちを奮い立たせる。これは一定の法則であり、鐘の音は先に高揚し後に抑制され、初めに掛けられた時が最も強く、引きずられながらゆらゆらとした余韻が次第に弱くなっていく。海の波涛の音は先に抑制し後に高揚し、始めは海の中から次第に巻き起こり、巻き上がれば上がるほどスピードがつき、岸に到って、「バン」と音をたてて粉々になる。このような関係にあるので、私たちは鐘の音を聞く時と海の波音を聞く時の心理は、完全に正反対である。)
“節奏的確是有這両種効果的,一種是鼓舞我們,一種是沈静我們。聴軍歌、軍号、軍鼓時的感覚,是前的一種。聴儿歌、簫声、賛美歌時的感覚,是属于后的一種。抒情詩也自然生出両種派別。譬如惠迭曼(Whitman)的詩是鼓舞調,太戈儿(Tagore)的詩是沈静調。”(リズムは確かにこのような二種類の効果があり、一つは私たちを鼓舞し、一つは私たちを冷静にする。軍歌や軍隊ラッパや軍隊ドラムを聞く時の感覚は前者である。童謡や簫の音色や賛美歌を聞く時の感覚は、後者に属する。叙情詩も自然と二種類のグループに分かれる。例えば、ホイットマンの詩は気持ちをウキウキさせるが、タゴールの詩は気持ちを落着かせる。)
(郭沫若《論節奏》(《文藝論集》P233-234 人民文学出版社1979年)

 およそリズムを構成するには、二つのたいへん重要な関係を離れることができない。一つは時間の関係、一つは力の関係である。時間の関係は、しばしば句式の長短として表現される。力の関係は、しばしば音声のアクセントとして表現される。
 一般的に、長編詩は勇壮な勢いを形成するのにふさわしく、短編詩は活発で軽快な状況を表現するのにふさわしい。
例えば:
(15) 炮声響了,
       你立刻昂然站起来!
    一会儿,下隧洞,
       一会儿,登山崖,
    一会儿,進工事,
       一会儿,上炮台:
    一会儿,看長天,
       一会儿,望大海:
    你発出的炮火
       像閃電般把敵人的陣地劈開。

 これは、郭小川《大海浩歌》の中の一節で、彼は長編詩で自分の豪快で勇壮な気持ちを表現するのが巧みで、ここに一節の短い詩の行を挿入し、躍動するリズムにより、機知に富んだ機敏な動作を、生き生きと活発に、ありありと紙上に表現している。

 音声のアクセントは詩の中にリズムを形成する。これは声調の要素を除き、主に語法的なストレスを用い、ストレスを強調することで詩歌の旋律の中に強弱の異なるリズムを作り出す。
例えば:
(16) 哪,外面是声音声音
    生命在招呼着生命。
    解放自由永久的平等,
    奴隷奴隷們在搏争光明。

 リズムを表す基本単位は“音歩”或いは“頓”と呼ばれる。中国語では一般に二音節、或いは三音節を“一頓”とし、単音節或いは四音節以上のものは稀である。
(17) 五月的 ―― 鮮花 ―― 開遍了 ―― 原野,
    鮮花 ―― 掩蓋着 ―― 志士的 ――鮮血。
    為了 ―― 挽救 ―― 這垂危的 ―― 民族,
    他們 ―― 曾頑強地 ―― 抗戦 ―― 不歇。

(18) 昔時 ―― 不見 ―― 此処 ―― 山青,
   
野花 ―― 焼紅 ―― 嶺頭的 ―― 流雲,
   
而今 ―― 杜鵑花 ―― 謙遜地 ―― 譲位,
   
偶遺二三 ―― 点綴在 ―― 新辟的 ―― 田

 “頓”の区切りは、音声上の間歇に着眼し、したがってしばしばことばの意味の区分とは一致しないところが出てくる。リズムの要求により、時にはひとつのことばを二つの“頓”に分けて置くことがある。
例えば、“一衣帯水”は“一衣 ―― 帯水”と読まれ、“一衣帯 ―― 水”と読むことはできない。“為他人作嫁衣裳”は“為他 ―― 人作 ―― 嫁衣 ―― 裳”と読まれ、“為 ―― 他人 ―― 作 ―― 嫁衣裳”と読むことはできない。
 一般に、詩歌には相対的に安定したリズムがあることを要求される。一首の詩の中で各行の“頓”の数はだいたい同じであることが望ましく、そうでないと雑然とした感じになる。

  詩歌のリズムの中で、ある音頓の感情を強めるため、音頓の後に“襯字”(chen4zi4 口調をそろえたり、メロディーに合わせるために加えられる字)が加えられる。“襯字”は一般に語気詞や助詞で、ことばの勢いを強める作用がある。賀敬之の《回延安》の中では大量の“襯字”が使われている。
例えば:
“心口呀莫要這麼害的跳,灰塵呀莫把我的眼睛擋住了”,
“千万条腿来千万只眼,也不够我走来也不够我看!”
“楊家嶺的紅旗呵高高的飄,革命万里起高潮”,
“身長翅膀吧脚生雲,再回延安看母親!”
ここで“呀”、“来”、“呵”、“吧”は皆“襯字”である。

 詩のリズムを調和させるため、詩歌の中では“虚詞”(機能語。文法上の働きをするだけで、単独では文成分にならない単語。副詞、介詞、接続詞、感嘆詞、擬声語をいう)を活用しなければならない。もし詩の中が全て二音節のことばであると、聞いていて気持ちが悪く、平板で味気なく思える。郭小川は嘗てある作者が詩の末尾に二音節のことばを使っていることの欠点を批評したことがある。その詩の各行の末尾には、“利箭、快刀”、“火箭、導弾”、“狂卷、叫囂”等のことばが用いられていた。彼は簡潔に一字の語にするか、二字の語の間に接続詞を加えるべきで、そうでないと美しい旋律が構成できないと考えた。(郭小川《談詩書簡(二)》(《談詩》P30-31、上海文藝出版社1978年)

 詩歌の中だけでなく、散文でも、続けざまに二音節のリズムを置くのは避けるべきである。二音節の組合せでは、一二の虚詞を加えるだけで、文が生き生きとし、平板ではなくなり、変化に富んで情趣がある(中国語で“錯落有致”cuo4luo4you3zhi4)。
例えば:
(19)有些報道文章,比社論或新聞還重要,比副刊雑誌上文章,也更能吸引読者,不僅給人印象真実而生動,還将発生直接広汎教育効果。……同是知識経験和文章,在将第三者綜合表現上,得失就可見出極大差別。
 上例で、“還将発生直接広汎教育効果”に二つの虚詞を加え、“還将発生直接而広汎的教育効果”とすれば、ずっと言い易く、且つ聞き易くなる。
 同様に、“得失就可見出極大差別”を“或得或失就可以見出極大的差別”と変えることにより、文はずっと生き生きとしてくる。

                (四)音声による感情伝達

 私たちは、時にはことばの音声を利用し、状態を模倣し感情を伝えることで、文章をもっと生き生きとさせることができる。 客観的な事物を描写する時、音を重ねたことば(“畳音詞”)を使うことで、文章の形象性を増加させることができるだけでなく、文章の音楽性を増加させることができる。
例えば、朱自清の《荷塘月色》で、
(20)曲曲折折的荷塘上面,弥望的是田田的叶子。叶子出水很高,像亭亭的舞女的裙。層層的叶子中間,零星地点綴着些百花,有裊娜地開着的,有羞渋地打着雑儿的;正如一粒粒的明珠,又如碧天里的星星,又如剛出浴的美人。微風過処,送来縷縷清香,仿佛遠処高楼上渺茫的歌声似的。這時候叶子与花也有一些的顫動,像閃電般,霎時伝過荷塘的那辺去了。叶子本是肩并肩密密地挨着,這便宛然有了一道凝碧的波痕。叶子底下是脉脉的流水,遮住了,不能見一些眼色;而叶子却更見風致了。
 このようにしとやかで美しい月明かりのハスの花を、大量の“畳音詞”を使うことで、一幅の生き生きとして人を引きつける絵画、一曲の美しく響く楽曲のように、人に言語芸術の美しさを享受させている。

 事物の動く情景のイメージを再現するため、しばしば擬声語を用いて音声を模倣して描くことで、人にその場にいるような感じを与えることができる。
例えば:
(21)紅的高粱,白馬牙玉茭,揚着風,一陣陣煙霧騰騰,馬蹄答答響,石碾子咕嚕嚕轉着跑,人臉晒紅了,汗珠在眉峰上閃光,灰塵披満衣衫,声音却分外歓暢、洪亮。

(22)窓外,雨声漸瀝,雷声不断,雨点打在白玉階上,梧桐叶上,分外地響。風声緩一陣,緊一陣,時常把雨点吹過画廊,敲在窓上,又把殿角的鉄馬吹得丁丁冬冬

 擬声語は自然風物の音声の描写を表現するだけでなく、人物の描写で声や姿、笑顔を表し、人に、生き生きとして、真に迫っているように感じさせる(中国語で“維妙維肖”wei2miao4wei2xiao1、“栩栩如生”xu3xu3ru2sheng1 )。
例えば、老舎《女店員》で:
(23)斉凌云:其実呀,我并不像你們想的那麼神気!念初中,在中間休息了一年,
        初中畢業,又没考上高中!你看媽媽那个挖苦我呀!
        (学媽媽的語調)啊,一朶鮮花似的大姑娘,敢情是个大草包啊
        連高中都考不上!我神気什麼呀!
 自然風物の描写について言えば、真に迫って風物を描いたり、周りの雰囲気を際立たせるのを助け、人物の声の描写については、性格を描き、話の筋を進めるのを助ける。

 時には、ことばの音の同じもの(“諧音”)を利用し、別の意味を引きだすことのできることがある。あるものは人に冗談を言って面白いように感じさせ、あるものは人に意味深長に感じさせる。私たちは日常生活でよく人がこう言っているのを聞くことができる。: “干部干部,先!”“要向看,不要向看!”等々。
 このような状況は、文学作品の中でもよく見かけることができる。例えば:
(24)病人恢復了健康。畸零人成了正常人。正直的人已成政治的人。他的進歩顕著。

(25)鉄良随即套上了双铧犁,聚蘭交代説:“你雖然也聴老梁同志説了,究竟没実験過,別性急。机器,‘急气’越急越气。”

 時には人物をうまく描写するため、正確に語気詞や感嘆詞を運用することが必要である。人物の表情や態度、喜怒哀楽が、しばしばひとつの語気詞や感嘆詞により生き生きと表現することができる。(中国語で“活霊活現”huo2ling2huo2xian4。 生き生きとして真に迫っている)
(26)“好了,好了!”看的人們説,大約是解勸的。
    “好,好!”看的人們説,不知道是解勸,是頌揚,還是煽動。

(27)“我出十塊銭,請你們准我進農民協会。”小劣紳説。
   “嘻!誰要你的臭銭!”農民這様回答。

 例(26)は、魯迅《阿Q正伝》の中で阿Qと小Dが喧嘩した時の傍の観衆の態度である。“好了,好了!”は語気詞“了”を用い、彼らが二度と喧嘩しないよう希望している。 “好,好!”は語気詞“了”を用いておらず、彼らが引き続き喧嘩するよう煽動しており、意味の違いはたいへん大きい。
 例(27)は感嘆詞“嘻”を用い、農民の封建地主階級への軽蔑と嫌悪を表現している。

 文学作品の中には人物の異なる表情や態度を描くのに、尚更語気詞や感嘆詞の運用と切り離せない。
 魯迅の《祝福》を例に言うと、祥林嫂がこっそり「私」に、人が死んだ後、魂はあるのかと聞いた時、躊躇して考えが決まらない「私」は、こう答えた。“也許有罷 ―― 我想。” “罷”の字一つで、口ごもっている様子が形象的に表現されている。
 次に祥林嫂はこう聞いた。“那麼,也有地獄了?”“阿!地獄?”「私」の驚きや、どうしてよいかわからず途方に暮れる(中国語で“無所措手足”wu2suo3cuo4shou3zu2)様子が、ありありと紙上に表現されている。
 しかし祥林嫂は尚手を緩めない。“那麼,死掉的一家人,都能見面的?”“唉唉,見面不見面呢?”この時の「私」は、いいかげんにお茶を濁しているかのようだ。
 三つの語気詞と感嘆詞は真に迫って「私」の困り果てた様子を描写し、祥林嫂の古い伝統観念への疑問と反抗に対し、強く反対している。
 また、小説の中で、何度も“啊呀”という感嘆詞を用いて衛老婆子を描いている。時にはそれを用いて自分の「不満」を表現し、時にはそれを用いて祥林嫂の姑の言い逃れを表し、時にはそれを用いて祥林嫂の嫁入りへの抵抗の驚嘆を表し、時にはまた祥林嫂の反抗行為の理解し難いことを表現したり……これら全てが生き生きと彼女のような、風向きを伺う才に長け(中国語で“善観気色”shan4guan1qi4se4)、口がうまく舌がよく回る(“巧舌如簧”qiao2she2ru2huang2)性格の特徴を表現している。


【原文】胡裕樹主編《現代漢語》重訂本 上海教育出版社1995年