秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

海の縄文

2013-11-29 | 東北地方の伝説(宮城県)

深山権現
被葉衣観音の由来

昔、代ヶ崎の浜に、見かけたことのないみすぼらしい女の修験者がやってきた。
飢えと寒さで途方にくれている様子をみて、浜のある人が気の毒に思い、お世話することを申し出た。修験者は大喜びでその申し出を受けたが、「庭(土間)の片隅でええがら」と言って
そこから離れようとせず温かい食べ物や着物を差し出してもどうしたわけか固辞して受けようとしなかった。
日が経つにつれて体も回復し、家事や田仕事まで手伝うようになった。
家の人達は不思議に思ってその修験者の行動を注意してそれとなく見ていると、流し口に布袋をさげてたまったものを食べているようであった。

その家の主人がおかしい人だと思ってある晩、そっと起きて庭の片隅をのぞいてみたら、修験者が仏の姿になり、後光がさしていた。

ところが、朝になってみると仏の姿は消えていた。
そしてその仏像を造り、被葉衣観音と名付けて多聞山の一番高い所に祀ったという。

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(左:深山権現  右:多聞天)

縄文人は、主に山で暮らしていた人だと思っていたのですが・・・海で暮らしていた縄文人もいたのだと、やはり海を知らない秩父人はそこに発見があったりするのだ。

七ヶ浜も震災の被害にあいました。(宮城県のほぼ中央東にあり)
今は少しづつ復興していますが、今は穏やかな海が青い空と透過し、行き交う船の波が飛行機雲のようでここは天と地の堺がないみたい。

そんな見晴らしのよい多聞山に被葉衣観音の由来がありました。

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被葉衣観音(ようえかんのん)というのは、葉衣はバラーシャ樹の葉をまとうシャバラ族の女性という意味だそう。
祓いの神様とされています。(守護してくれる人)
シャバラ族は、インドデカン高原の山間部に移住した種族で、三十三観音の一尊です。
チベットでも信仰されているものなのですが、どのような経緯でこの伝説が伝わったかはわかりません。

多聞山は、標高56m。多聞天像を安置し毘沙門堂があるので多聞山とよばれるようになりました。
塩釜港、松島湾の光景が美しく、松島四大観音として知られています。

___11近くには、最も古いといわれる吉田浜貝塚があります。
気候が温暖で食物が豊富であったため、縄文時代、約1万年前から住んでいましたが、吉田浜貝塚は、7500年前とされます。

塩釜神社のシオツチという人は、縄文時代の酋長でしたが、弥生人も一緒に村で暮らしていました。
(東北では大和朝廷が東国征伐にやってくる古墳時代でも縄文人が住んでいました)
狩猟の肉食中心だったのが、稲作が入ってくると野菜中心の草食になっていきます。
そのため塩分が不足してきたことで、塩を補給するために貝を食べて摂取するようになった
そうです。それが全国に広まったということでした。

このあたりは、ヤマトタケルが陸奥に入り海上の要衝だったと伝わっています。

巨人説の話の多くは貝塚がでてきますが、貝をたくさん食べて捨てたのが大きくなって山になったという話は、大山津見神を祀る鹿狼山(福島・宮城県)や七ツ森の朝比奈伝説にもあります。
これもルーツが縄文からと思います。

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日高見国の酋長は紫波彦という人で、塩土老翁がその同一だとしたら、縄文時代からいた酋長ということになるのでしょうか?
スサノオと関係しているのは、須佐の焼畑農業を行ってきた氏族であったというより、物質文明ではないシャーマニズムな世界があった地球のことを示していると思います。

うまく言葉で説明できませんが。。。(蘇我氏や秦氏はそのような人たちの末裔でしょう)

猿田彦も縄文人か縄文時代にいた長だったので猿田彦と同じ系譜にあたるかもしれません。

御釜神社の神事に行われるホンダワラの刈りは七ヶ浜が舞台となります。
その始めとして鼻節神社がありますが、猿田彦神をお祀りしています。

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(三月田稲荷神社と大山積見神社)

鼻節神社の鼻節は、花渕という地名からきているようです。
花渕崎東海7キロ沖合の海底の岩に元々、鼻節神社があったのですが、貞観の大震災の時、陥没し垂水に遷宮したので、鼻節神社の奥の院であるといわれています。
(しちがはま祭事記より)

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伝説・・・昔、親船が荷物を満載して花渕浜に向けて航行中に、にわかに海が荒れておおしけとなり、波にもまれながら大根様の上を通ったら、みしっと音がして船底に穴があき、海水が噴出したので大騒ぎになった。早速、垢取りでみんなで水をくみ出したが、だんだん水かさが増してきた。
船頭が鼻節神社の方に向かって手を合わせて「鼻節様、どうか助けてけさえん」と一心に拝んだら、今まで勢いよく吹き出していた水がぴたりと止んでほっとした。

ようやく、花渕浜に着いて船底の穴がのぞいたら、大きなアワビがしがみついていて穴を塞いていた。
この事があってから村の人たちは、鼻節神社のお祭りには、生きたアワビをお供えするようになったと伝わえられています。
これが6月1日に行われる大根明神祭(あわび祭り)とし、海上安全を祈願します。

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(石祠が大根神社  石は何だろう・・・

鳥居から右へ行くと海岸へ降りる方ですがそれが表参道で、左に行くと裏参道になる。
この神社では、猿田彦神が塩土老翁と同じとされています。
ただ、猿田彦神以外のご祭神の説もあり、それが木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)とも。
大山積見神とお稲荷様が仲好く鎮座されているので、どちらもそうなのかもしれない。
その境内の前は、とても明るい感じがしてとても気がよい所でした。

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※三月田稲荷神社は保食神を祭神として字三月田に、天神社は菅原道真を祭神として代ヶ崎浜字八ヶ森に元々鎮座していたが、両社とも明治42年(1909年)7月8日に合祀された。(Wikipedia)

なので、もしかしたらここも女性が関係しているかもしれない?母親のような大きな心をもった神様という感じがしますが、富士山にも関係してそう。。。

照らす光の先にはイカリのようなものが。

それが、女性の修験が仏になったという伝説の被葉衣観音につながっている気もします。

鼻節神社は、由緒ある歴史深い神社なので、また何かわかったらお伝えしたいと思います。

<鼻節神社への道>

七ヶ浜町アクセス情報

http://www.shichigahama.com/relax2/spot05.html

01txt 
(仙台港:津波高さ(7.2m)の看板・・・2階あたりまで津波がきたようです)

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「体から頭が学ぶ」会・第二回目

2013-11-23 | イベント・セミナー
「体から頭が学ぶ」会・第二回目(秩父)


太極拳、山歩き、気功、整体、民俗舞踊、言霊、など等を手がかりに、
自分の体を知ることで心を知る、自然を知る、世界を知る、
学びの会の第二回。

船頭:Gar
場所:ほしのゆめ
日時:11月28日(木)午後7時から
内容:
☆吐出法・深息法
☆愉気法
☆体勢―勢い、ということ。緊張と弛緩
☆全開掌―花の咲くように
☆柔らかい、ということ
☆体の整う歩き方2 重心の移動と脱力
等。
※集まった顔触れや天気などにより、内容は変化することがあります。

持ち物等:動きやすい柔らかい服装で、タオルを一枚お持ちください。
参加費:500円(星の夢を支えるチカラ)
HP★星の夢の唄唄
http://hoshinoyume-chichibu.blogspot.jp/
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達谷窟堂

2013-11-18 | 東北地方の伝説(岩手県)

___13達谷西光寺・・・
気になっていた所にやっと行けました。

多くの遺伝子を受け継ぐ日本人だから、坂上田村麻呂はどのように統治したらよいかを考えていた人だと思います。
アテルイも同様で、後に天台宗がそのような環境に置かれた遠い祖先を、同士を弔う気持ちで仏教を通じて祈りを捧げたのだと思いたい。別に征服といったようなものではなく。

一関インターを下りて厳美渓の方向へ進み、道の駅(博物館あり)先の交差点を右折すると平泉へ行ける。
この道は比較的すいていてスムーズに平泉へ行けると思います。
途中に巨石があったりして面白い里道が続く。

厳美渓から10分くらい走ると達谷窟堂があります。
ここも世界遺産に含まれていた?と思います。(違っていたらすみません)

ここは…看板の説明が長すぎてしんどい…。

延暦20年(801)、大将軍は窟(達谷窟)に篭る蝦夷を激戦の末に打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。

 大将軍は、戦勝を毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を摸ねて、
九間四面の精舎を建て、108躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として達窟毘沙門堂
(別名をいわや窟堂)と名付けた。

 
すごく簡略すると、悪路王といわれた人がいて、あまり良い行をしないから坂上田村麻呂が征服した、といった感じ。

108体の毘沙門天を祀っているそうですが、なぜそんなに数多くの毘沙門天を祀ったかは不明。
ここは、エミシ征伐の北方警備として置かれたといわれています。

___12
達谷窟堂は、善光寺(長野県)のお戒壇巡りみたいに、岩や石を母の胎内を現し、地下界から再び地上へ生まれ出る太陽を崇拝している意味があるそうです。
暗黒の世界が死であり光は生。その体験をすることができる岩なのだ。
なので、修験の方たちがこの岩に籠っていたそうです。

やはりここも天台宗の円珍というが891年頃に建立しました。
この方は和気氏で、母は佐伯氏で空海の姪にあたる。

天台宗の開祖である円仁は栃木県の壬生出身だから、下野国からやってきた人たちが東北へ来た目的は金などの鉱石が影響していると感じます。
平泉の黄金があるように、ここの岩場にも金が隠されていたかもしれない、と思うのです。
参拝してみると何となく(行ったことはないけれど)吉野の金峯山寺に似ている感じです。
吉野の蔵王権現が祀られているのも岩のある所だったと思います。
役小角は金を交易としていたから、岩場に隠していたという説を想像してしまう。。。
または、金を祭祀としていたのでとても重要な場所だったとか。

このような岩や石を母の胎内とみたてるのは、ミトラ信仰(古代ペルシア)が発端だとする説があるようです。
アーリア族はミロク(弥勒菩薩)を信仰しており、ミトラはマイトーヤともいう。
ミトラは「契約」という意味。
マイトーヤもミロクもインドでは手に水瓶を持っている。

毘沙門天というと上杉謙信が浮かぶのですが、聖山である須弥山の北方を守るのが多聞天。多聞天は毘沙門天(サンスクリット語でヴァイシュラヴァナ)のこと。
平泉中尊寺は須弥山を創造していました。

___1
鬼を寄せ付けない意味で仏教は邪悪なものをはねのけようとする。
では、この鬼は何か?というと、人ではなく人間がもっている「煩悩」なのだ。
鬼といわれた人たちを排除し自分だけの利益を考える欲と煩悩。

なので、本来はピラミッドのようにあの世とこの世を行き来する能力があった岩場だったのが、後に修験の人達の住処になり、金のルートとして使われ、敵がどーのこーのではなく、互いの煩悩を捨てた場所として蓄積されてしまった場所ではないだろうか。
だから闇に入り、新たな自分に生まれ変わることが必要だったので毘沙門天をたてる。
ここも須弥山の一部として考えられていたでしょう。

でもその精神はどこからもたらされたのだろう…

▲射日神話のオロチ族---------------------------▼

悪路王はオロチ族ではないか?という説があります。
スサノオが退治したヤマタノオロチの大蛇もオロチョンだという話があります。

ヤマタノオロチは大地震を引き起こすプレートの地殻変動を表現したものと、龍族の争いや産鉄族などがいわれていますが、すべてはエミシの先住民が住んでいた所であり、エミシのいる所には火山の噴火が起こると信じられてきた人たちが伝承していったものだと思います。

私はオロチョンは何となく聞いたことがある程度だったのですが、こんな伝説を見つけました。

オロチ族の射日神話

はじめは、3つの太陽があった。その時、この大地はまだ冷めたばかりで大地は水のように液状だった。この大地は我慢ならないほど熱く、岩も石も煮立っていた。
当時、どんな人間も部族も生き物もいなかった。いたのはハダウだけだった。
大地が固まりだした時、ハダウは2つの太陽に矢を放って殺した。
1本の矢で姉を、もう1本で妹を。そして真ん中に太陽だけを残した。
またアムール川中流域にある岩絵は太陽が3つ輝いていて岩が軟らかかったその時に描かれたものだと、ナーナイ族(鮭の民)は伝えている。

★マルハニチロのサイト(ナーナイ族について)
http://www.food.maruha-nichiro.co.jp/salmon/culture/c06.html

ニブフ族(アイヌは、スメレンクル(西の人)とよんだ)では、始めて太陽は3つくっついていたので、世界は非常に熱く、魚や獣は火傷をして死んだ。
そこで至高神が太陽を二つに消して一つだけにしたので、生き物はつぎつぎに生まれて殖えたという。

ウリチ族(ロシア極東地域、ハバロフスク地方に住む先住民)では、この世の始めにいた一人の男が、石を投げて2つの太陽を殺して地上に秩序をもたらしたことになっている。

このような射日神話が北方ではこの地域に限られていること、その主な分布が中国大陸から東南アジアにあることは興味深く極東地域の原住民の起源について重要な示唆を与えているものと考えられる。(世界神話辞典より)

埼玉県入間市の地名由来にも同じ話がありましたが、神武東征の話も同じようなものです。
その太陽から落ちてきたのが三本足の烏だったことから、太陽神を信仰していた2つの部族が対立していたことを示唆していると考えられています。
また、その太陽神は、女性であり姉と妹という関係もあるようです。

兄妹始祖神話は、ニブフ、ナーナイ、ウリチ、オロチ、ウゲデ族に認められる。
この世にいた最初の人間が兄と妹であったこと、この二人の婚姻が近親婚として動物によって糾弾されるという。
日本でも異類婚といって動物や魚などと人間の婚姻話がありますが、シベリア、極東や北東シベリアに集中しており、熊と人間の婚姻はツングース(満州語系)の民族に多い。
魚の主、獣の主といって動物や森の領主になる時、人間は婚姻関係をもつと考えられる。

(世界神話辞典より)

ツングース系の人々の遠い祖先は、古代中国で「東夷(とうい)」と呼んだそうです。
東夷は、弓矢のうまさで知られた人々と関係します。
東夷は現在の中国山東省あたりを中心にしたといわれるが、太陽を射るというモチーフはそのあたりにいた遠い祖先からの記憶かもしれない。

(国立民族博物館)

四川省で三星堆遺跡が発見されました。BC1600年頃の長江文明。
目が飛び出て耳が大きく異様な姿の仮面が多数発見されて話題になりました。
いまだにこれを作った民族が何かはっきりしていない。
その仮面には金箔が発見されており金加工が優れていました。

目から飛び出した棒状のものが何を表現しているのかは、人には見えないモノが見える超能力的なことを伝えていると聞きました。

Right
三星堆というのは、円丘状の土山が3つあり、これが道教の最高神で天上から撒いた3握りの土がここに落ち、金色に輝く3つ星のようだったことからだから、三星堆と名付けられたそうです。

そういえば達谷窟堂の鳥居は3つある。
三峰神社の3つ鳥居とは違って、3つの鳥居をくぐって参拝するようになっている。
岩には大きな大仏が彫られています。

生と死の境界であった達谷窟堂。
残念ながら、観光客が増えたのであまり落ち着ける所ではありません・・・。

(←石博物館で撮った写真)

▲治水伝説の禹------------------------▼

ここで、ちょっと気になる情報をネットで見つけた。
青森県にも北斗七星があった。
それが岩木山付近にある。
モヤ山、大星神社、八幡、猿賀、熊野、岩木山神社、毘沙門天を結ぶと大きな北斗七星になる。

近くには妙見、モリ山という名前もあり。

何度かでてきた「禹」ですが、洪水伝説と関係しています。
川に沿って北斗七星の形に置く場合は、もしかしたら治水神話によるかもしれない。
まして秩父の黒谷は和銅がとれたところだから、各地から良質の銅を求めて鍛冶屋たちが集まり、荒川の治水工事が盛んに行われたと思います。

古代中国では、帝堯(ぎょう)のときに洪水が起こったが、鯀(こん)は治水に失敗して殺され、
その子の禹が成功したという神話があります。
失敗したのは、自然の理に背いて河川をせき止めようとしたことにあり、禹の成功の理由は、自然の勢いを助けて河川を疏通したことにあると言っている。
山間に溜まった水を山を破って水路を通じて流し、干拓して人間生活の場にしたという伝承は
必ずしも洪水の発生を物語らないこともあるが、中国の他にもインド、チベットにも伝わっている。

日本の伝説で、巨人が山を作ったとか足跡に湖(沼)ができたなどといった話は、蹴裂伝説といって阿蘇、甲斐などもそう。
かつて湖だったものが、干拓したものだと語られています。

いずれにしても、世界に伝わる洪水伝説によってその後どのような社会(国)が形成されたか、という伝説が多いようです。
大体は、船にのって山頂まで辿りつき、そこで王になったという兄弟姉妹の話が多い。

おそらく太陽が2つも3つもあるほど熱いというのは、異常気象のことかもしれません。
日照りで雨が全く降らない時に、太陽を殺して干ばつを乗り越えてきた話だと考えることもできます。その干ばつを救った人が世界を統治したと、伝わっていったのでしょう。

ここは、平泉は「和」であることを実感する場所でした。
和の国を作ろうとした仏教文化であることは間違いないです。
鎌倉の源氏が平泉を真似て作ったのだから。
東北の和が世界遺産になったことは今をとてもよく象徴しているものなので、達谷窟堂を参拝できて良かったと思います。

姫待不動堂・・悪路王などは京からさらってきた姫君を窟上流の「籠姫」に閉じ込め、
「桜野」で花見を楽しんだ。逃げようとする姫君を待ち伏せした瀧を人々は「姫待瀧」
とよび、再び逃げ出せぬように姫君の黒髪を見せしめに切り、その髪を掛けた石を「鬘石(かつらいし)」という。
姫待不動尊は智証大師が祀ったとされます。

何だか重たい話ですが、その姫という人は貴族出身で高貴な方だったと思います。
政略結婚のように別の豪族、氏族同士の婚姻はよくありました。
「瀧で待ち伏せ」というのは、瀧で修行か儀式的なことをしていた巫女だったから、瀧によく現れたということでしょう。
髪は奈良時代は命のように大事にしてきました。
長い黒髪を垂らすのは高貴な人。その大事な髪を切ったというが石になったという話が、女性への恩恵みたいなものも感じます。

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(姫待不動堂と弁天池)

ちなにみ髪を神事として使うものは、「船玉さま」です。
これも謎の神事で不思議です。

このかつら石は、平泉へ行く途中の道にどーーーんとあってびっくりします。
そのまま素通りしてしまいましたが、かなり大きな岩でした。

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(厳美渓)

<達谷西光寺への道> 仙台~一関IC~342号線 厳美渓方面へすすむ。道の駅のところ右折して31号線へ進むとすぐです。

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志波彦と冠川③(塩釜神社)

2013-11-13 | 東北地方の伝説(宮城県)

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前回の続き・・・
チカトに詳しいガーさんからのコメントより。

ニワタリ、ですが、鶏とは違い歴史的仮名遣いなのでもともとの発音は「にはとり」。「庭鳥」の意味です。一方、二渡、仁和多利、新渡、見渡、三輪足、鬼渡、子渡、は、すべて「は」ではなくて「わ」ですね。

五感としてはアイヌ語のような気がします。他言語の影響(残影も含め)を鑑みるときは慎重にならなくてはですが、アイヌ語「ワタリ」は「崖や大岩」という説もあります。

また、二渡、鬼渡、見渡、は、古い東北言葉では容易に変化しそうですから、中心となるのはやっぱり「に・わたり」なのでしょうね。
真冬の諏訪湖の氷がさらに冷えてできる長大な亀裂を、神の通った痕として「おみわたり」というのを思い出しますが、これは関係なさそうだな・・・

「ハ」は蛇(のようなモノ)と関係ある言葉ですから、阿須波、志波、波波、は類語ですね。「ア」と「シ」が何を意味するかがわからないですが。
この場合の「キ」は留まる空間・容れ物、憑り代、という意味だと思いますから、アラハハキは顕ハハ(の)キ、です。木を「キ」と音にするのも関係ありますね。

木に神が宿るといわれるのは、天に向かって伸びた木々が風に揺れている姿が龍のようで、その揺れる姿は生命力を呼び覚ます。風を自由に操り、洪水があれば水の流れを変え、旱魃が続けば雨を降らすことができた。

今は自然をコントロールしながら共存できることができなくなった。だから妄想でしかない。

悲しいことなのだ。

そういえば、ホロワ山の伝説の中で行方不明になる女性の名前がオリイでしたが、その折居神社は茨城県水戸市にあり水神と伝わります。
タケミカヅチを祀り後に天台宗によって仏法に変わる。
このあたりも大物主神を祀る鳥海山や山寺のマタギ伝説に関係してくる天台宗の円仁が浮かぶ・・・。

▲スサノオが結界にされるのは?-------------------▼

エミシ征伐に薬師様を祀るのがわかりませんが、宗教が人の心理に影響を与えると知っていた支配者の特権というか、いい方向へ流れるのなら良いけど悪い洗脳だと厄介だ。
哲学や思想に基づいて歴史が変化してきたと思いますが、天台宗は大乗仏教で中国の天台山から発祥しているがそこは道教の聖地。
日本では比叡山にあたる。
中国の天台山あたりでは越の人が古くから住んでいたと伝えられ南方系の女性中心の社会なのだそう。
越とは黄河流域の都市で長江文明を築く。
北斗七星を形に歩く禹歩は、ここからきているとの説。
この越国は新潟県の糸井川周辺で翡翠をもっていた国として日本では栄えていた。
その越人とは黄河流域に住んでいた人たちだったのでしょう。

雲水神社の話をしましたが、雲南省の雲と関係しているか不明ですが、紀元前100年頃、てん(さんずいに眞)王国というのがありました。
この国の詳細については史料が全くなく、長江流域で稲作を行う国といった内容しか史料に残っていません。
福岡県で見つかった金印が似ていることで、てん王国の人々が日本へやってきた可能性が高いといわれています。
またその金印の取手は蛇。
蛇を崇拝していた女性中心の社会が九州から伝わっていることは、てん王国から来た人が福岡へ渡来して縄文人と一緒になったといわれています。

このてん王国は、人柱を立てて生贄にした風習が残り生贄になる人は知識のある人で、名誉だったそうです。
また、女性がリーダとなる母体社会があり、機織を行っていました。

ただそのてん王国が元々どこから来たか?は不明。

ヤマタノオロチ伝説の出雲風土記には「越の八口(やくち)」という言葉がでてくる。
越は越国、口のクチは蛇と同義であるとされる。
ヤマタノオロチは、越国からやってきた越のヤマタノオロチにスサノオが酒を飲ませて油断させて殺したという説があった。

という事は、スサノオは越国からきたと考えられるのですが・・・。
参照(梅原猛「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」)
この説は、ヤマトタケルとよく似ている。女装して酒を飲ませて油断させ殺す手段が同じ。

Siwahiko01 Siwahiko02

シワヒコさんがアマテラスの子と考えると、それはアマノオシホミミのことになるのだろうか?
シワヒコ=オシホミミは、勾玉の持主である子だとする。
とすると、塩釜神社が東北一の宮だと考えて東北の日高見国の王がオシホミミ(シワヒコ)と考え、冠川と名付けられるのも冠は皇の象徴というより、アイヌ語のカムイである神のことを伝えていて、ホロワ山の伝説にあるようにオシホミミという存在が大きかったと思います。
その冠を落としたオシホミミは日高見国の王権が失われたという意味になるのでしょう。

そのオシホミミはどんな人なのか…?

横穴式石室が九州~茨城~福島県の相馬~宮城県北部まで残っています。
それが多氏という最古の氏族。
オシホミミのように「耳」がつく最も古い貴族と伝わります。
多氏は、神八井耳命を始祖としており、関東の妙見信仰が厚い千葉氏は多氏の部曲である多部の後裔。
奈良県に多坐弥志理都比古神社というのがあり、神八井耳命を祭神し、他にタマヨリヒメをお祀りする。
八耳とは、八井命といって多くの井戸を司る水神のことをいいます。
それに神八井耳とは神武天皇だとする説が有力。

なので秩父にも多氏の痕跡があり、秩父に祀られている若御子皇子は神武天皇のことでこの神社に物部氏(守屋)が鏡を奉納したとの言い伝えがあります。
それに武甲山も諏訪神と関係しているから、御嶽神社の守護は守屋家と決まっている。

スサノオはヤマタノオロチの後にクシナダヒメと結婚しますが、父親は大山津見神の子といわれ、名前を「稲田宮須賀之八耳命」と変えます。
この須賀がソガ(蘇我)では?という話。藤原氏や物部氏が対立していた蘇我氏の討伐に、スサノオと関係してくるのはスサノオは元は蘇我氏にとっては王のような役目を果たしていたのだろうか。
阿須波(アスワ)が制圧されて、飛鳥(アスカ)の鳥族が勢力を増す。
そこからスカ→スガ→ソガ、になったと…。

古事記ではスサノオは天照に追放されてしまいますが、追放ではなく八と関係するのが多いのは、八井耳の貴族の養子?になったという意味も考えられます。
言霊ですが八は七よりは多くの事を知っている叡智の意味もあると思います。

また、蘇我氏と親密な関係にあった聖徳太子も「八耳皇子」とよびます。

ちなみに、横瀬町の古御嶽城跡の石碑配置で、氷川大神、国常立神、春日大神の3神に向かって建てられていたのは、聖徳太子像でした。
かなり大きな石碑ですが比較的新しい。
そのままみたら、3神が上で聖徳太子は下と、上下関係を気にしているみたいだ。
適当に置いたというよりは(偶然だとしても)聖徳太子像は氷川大神や春日大神に対して謙遜しているような感じを受けた。
向き合った形に周りの天孫系石碑が並ぶ形。
国津神に関係する氷川や春日大社(タケミナカタとヤサカトメ)の石碑に対し、尊敬の意味を込めて配置したと思われる古御嶽城跡は、武甲山を真近にみる所に建つ。何か深い意味があって置かれたと思います。

聖徳太子は実在しないというのが定説ですが、じゃあ聖徳太子は誰か?

私は蘇我氏だと思います。

View (塩釜港)

この新羅から海を渡り日本海で王国をたてた越が関係していると思いますが、この越は高志(こし)ともよび、それが越王(胡四王)神社(祭神はスサノオ)の流れになっていると思います。
また、越の四人の王という意味から、塩釜神社の祭事に伝わる塩竈が四つということも関係しているかもしれません。
四の数字もまた多く、朝比奈伝説が伝わる七ツ森は、朝比奈が歩いた足跡を「四斗田」という。
朝比奈は熊野と関係しているようです。
後でお話しますが、塩釜神社の7つの釜のうち3つが行方不明と伝わり、その3つ釜があると伝わる場所に、行(すき)神社があります。
この行神社は七ツ森にあります。また、七ヶ浜の鼻節神社は猿田彦を祀り、御釜神社の神事に関係している場所。
行神社も鼻節神社も共通しているのは、十六弁菊が伝わり、岐神であったとされる。
ここに神武天皇が関係している気がしますし、ユダヤにも関係しているかもしれません。

アマテラスとスサノオの誓約というのが古事記にあり、勾玉(シワヒコ)と剣(宗像三女神)とは、物部氏と蘇我氏の誓約にも捉えられても不思議ではありません。
蘇我氏は中臣鎌足(鹿島神宮)に殺され、仏教と神道の宗教戦争のように描かれていますが、実際はスサノオ(蘇我氏)の新羅国VS藤原氏の百済国との争いが影響しているといわれています。

ある説では、蘇我氏が越国の王を継承したということもありますが・・・・
本当は物部氏も蘇我氏も親密な関係にあったと思いますが、藤原氏に政権を握られ物部氏は、まさか蘇我氏を討つとは思っていなかったでしょう。
でも多氏も同じ新羅系の人だと思いますが、蘇我氏と別れたと思いますのでどちら側にもつかず多氏は単独で?エミシ征伐に向かったと思います。そういう意味では多氏は個性的な感じがします。

▲塩竈神社--------------------▼

塩釜に古くからいた人たちは、北陸から諏訪地方に渡って川や海でやってきた先住民(ワタツミ)と、石伝説が多いことを考えると、関東にいた氷川(アラハバキ)系の物部氏と合流して交易をしていたと思います。

それに、神武東征の神話にある話はシオツチ神が「東に美しき地あり」と聞いて、海幸彦、山幸彦が東征する話だったと思うのですが、伝説のワタツミとタマヨリヒメの間に生まれた子がワニ伝説となるのだが、ウガヤフキアエズだという。
浦島伝説の地底国は、海に沈んだウガヤフキアエズではないだろうか?
やたらと海を崇めるのは根底にそれがあるのかもしれない。
伝説では、ウガヤフキアエズはトヨタマヒメの妹である玉依姫に育てられ、後に神武天皇と結婚する。神武天皇がウガヤ朝出身の確証はわからないが、そういうことを言いたいのだろう?

だとしたら、九州~熊野~諏訪or新潟~埼玉に関係している神武東征だから、古事記の「東に美しき・・・」は埼玉県行田市にある古墳群の王国をさしていたりする?

Sherintop

私は塩釜神社の鹿島神(たけみかづち)は、藤原氏ではなく多氏だと考えたい。
物部氏が天児屋根命(春日大権現)=ワカヒコを弔うために石碑を置いたと考えられる古御嶽城跡があるように、藤原氏の祖神と思って祈願している先は、排除されてきた出雲神、縄文(アイヌ)酋長、諏訪のモリヤなどの祭祀の祈りを弔うように組み込んだと感じる。

塩釜神社だけではなく、意味をもって作られた拝殿の配置や七曲坂という名前や数字など、参拝するまでの道筋にも、意図をもたせて祖神を弔うように組み込まれてきたのが神社ではないか?と思います。

また、関東・東北にもよくでてくるアジスキタカネヒコやアマノコヤネ(タケミカヅチ)という意味で祀っているという事もあるでしょう。
アジスキタカネヒコも高という漢字をあてている。
それが妙見信仰=北極信仰につながっている気がする。
だから宇宙の天に対し地を鏡にして北斗七星の何か?を埋める(祠を立てる?)のだろう。
塩釜神社にも七が多く関わっていて、猿田彦の石碑が塩釜神社の古道の入口にあり、その道が七曲坂だから禹歩と同じ意味があるのかもしれない。
猿田彦が天孫系の人たちを案内したという伝説があるけれど、道案内したのではなく築いてきた伝統や儀式を譲った、(先へ行かせた)という意味の譲歩ではないだろうか?

その石の意味が罪悪感をもって弔うことを考えたか、怨霊を気にしたか、呪術の復活を願ったものだったのか。

★七曲坂

シオツチ神が歩いたと伝わる最古の参道。
ここは江尻界隈といい、古代~中世は海だったので入江の最奥部(Y地形)なので江尻とよばれた。
途中には、金花水という湧水が参拝者の喉を潤す。
シオツチ神が踏み分けられた跡が七か所あり、七曲水戸というのがある。
おだい橋、祓川も渡ったと。
おこしかけ石というのは、シオツチ神が座った石。四方跡公園にあるそうだが、よくわからない。
説明では猿田彦の石碑の前にある六角形の石だというが、よくわからず素通りしてしまった。
実際は不明ということで、地中に埋まっているのだそう。

七曲坂という名前がつくのは全国にいくつかあるみたいだ。知っているところでは、岐阜県の金華山。宮城県の金華山と同じ緯度?位置にあるから同じ名前の山。

もちろん神様は鹿。それに巨石の聖地である岐阜県。その山道に七曲坂がある。これも妙見信仰に関係していると思います。

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御釜の伝説

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四口の神釜には屋根がありませんが、ここに湛えられた水は常にあふれることも枯れることもないとされ、江戸時代には世に変事のある時、その前触れとして御釜の水の色が変わるといわれていました。
また、塩釜の地誌によると、釜はかつて七個あり、そのうち三個は盗賊に持ち去られたという伝承あります。
それによると、釜ヶ淵の海底に沈み、別の一個は野田の釜田の田の中に埋まり、さらにもう一個は、黒川郡戸田村の行神社と称される所の池に沈むと記される。

さて、塩釜神社から太平洋側に向くと七ヶ浜がある。そこには弥栄神社(八坂神社)が祀られていてご祭神はスサノオ。
塩釜神社の神事には、海藻の一種であるホンダワラを取ることが重要だという。
この海藻が良い塩を生むのだ。七ヶ浜の鼻節神社(祭神は猿田彦神)というのがあり、この沖合から出し海底のホンダワラ(海藻の一種)を刈り取る。
藻刈神事という御釜神社に伝わる神事があり、海水の塩の濃度を高めるといわれる藻を使い
塩を作ることだ。
塩の工程が神事になっており7月4日~6日まで続く。
4日に藻を刈り取り、5日は水替神事といって釜ヶ淵(松島湾)に古い水を返し、満潮の時に水を汲む。その新しい水は御釜神社の四つの釜に入れて、6日の次の日に塩焼きする。
新しい水を使うと良い濃度の塩ができるという。
そして新しい塩を少しと古い水も一緒に釜に入れることで、生まれ変わる命の再生をあらわしている。
塩は穢れを払う時に使われますが、海との関わりが深いのは、命が海で誕生していることだから。
海を命の母体として捉えるのが塩釜神社が最も古い祭事の証拠であり、その工程を記録したのが神事になっている。 

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満潮の時に水を汲むというのは、多くの生物は満潮時に卵を産むことが多く、人でも排卵期と満潮が重なることがあるといわれている。(科学的根拠はないけど)

その塩により防腐剤や食に対する文化が広がったので縄文人やアイヌ人など先住民は記録していくためにその工程を覚えながら神事とした。その教えを伝授したのが早くに東北地方に住んでいた出雲族や糸魚川流域の海部族など、先住民と一緒に暮らした産鉄族だったと思います。
伊達家が守護していることが多いことから、色麻町の伊達神社はイソタケル(熊野)や多氏も関係している。
色麻(しかま)は元は四竈という地名だったので塩釜神社と繋がりがあったと思います。
水分祭という神事もこのような海から誕生した命の再生がルーツにあると考えます。

それに塩釜神社も白鹿が神の使いであった。
鹿を奉納する諏訪神社もそうだが、水と考えると水を清める神である早池峰山の白鹿神をイメージする。
水神は女性だから塩釜神社にも女性が深く関っていたと思います。

シオツチという人ではなく、釜そのものを神として敬ったのです。

藤鞭と牛石

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昔、和賀佐彦(わかさひこ)という神様が7歳の子供の姿になって塩をのせた牛をひかれました。
その牛が石になったと伝わるのが牛石。そこの池の中には今もなお牛の背を思わせる石が一年に一度の水替神事の際、その姿を見ることができる。
またこの池の水は、海とつながっていると言われる。
また神様が立てかけた藤の鞭に枝葉が茂り、藤の花が咲いたのをお祀したのが藤弦社といわれます。

諏訪のタケミナカタは藤の枝をもって諏訪のモリヤに調伏する。
また「藤」についてはいろいろな諸説があり、諏訪のモリヤが鉄輪であった。
どちらも祭祀を司る呪術的な力があったと考えると、神降ろしの時に使用するものが藤or鉄ということだったと思います。

伝説に神が立てかけた藤に葉が茂る意味は、水が豊富に湧き出たということかもしれない。
フジは元はフチだったかもしれないので、フチはアイヌ語でグランドマザー。
おばあさんが生んだ水ということ。

精霊みたいな話だが、釜には水がないと何も生まれない。
これも塩釜神社が海を命と考えている世界観がみえて、おばあさんという古老の女性がいたような海を妄想しながら、シワヒコさんの追っかけはここでおしま~い。

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志波彦と冠川 ②

2013-11-08 | 東北地方の伝説(宮城県)

▲阿須波神(アスハ)-----------------------▼

前回の続きですが、
シワヒコさんが諏訪と関係していることを考えるならば、雲水神社が関わっていそうです。
泉区古内に雲水神社があり、二渡神社と同じ神である水神を祀っている神社があった。
祭神は天之水分神。
仁和多利権現として本社以外に、実沢の熊野神社、市名坂の二柱神社、大沢地区のオボシタ様(?)
の四座に水の恵みを与え配分する神、田の神信仰と伝わる。
二柱神社はイザナギ、イザナミの二神を祀るが、元は仁和多利大権現だった。

この四座というのは、塩釜神社の祭事にあたる藻刈神事の時の四竈に関係している気がする。

この「仁和多利」が、鳥の鶏(にわとり)からきている。
福島県、山形県、宮城県、栃木県、茨木県を中心に「ニワトリ」とつく神社が100社以上あるという。二渡、仁和多利、新渡、見渡、三輪足、鬼渡、子渡・・・などなど、すべて「鶏」を由来とするそう。

なぜ鶏なのか?は白い鳥に関係しているといわれているが、鶏は日が昇ると鳴くので太陽信仰をしていた人たちの守り神とも考えられます。
その中で、特に多いのが会津地方で、鬼渡神社というの名前の神社が60社もある?!
宮城県鬼首、栃木県の鬼怒川、長野県の鬼渡などの地名も同じものだろう。

宮城県に紫波姫という地名があり、由来は紫波姫神社があるから。
ご祭神がコノハナサクヤヒメの富士山の女神であり、大山津見神の系統。
坂上田村麻呂伝説が多いので、シワヒコさんは坂上田村麻呂?という説もあり。

で、この紫波姫に対して、紫波彦の男神がいるはずなのだが、それがシワヒコさんなのだ。
シワヒメ・シワヒコの由来が地名辞典によると、阿須波神からきているとある。
古事記によると、子庭津日神か、越前国足羽神社のことをいう。
阿須波神を調べると、足腰の神様として考えられることが多く、一緒に「波比岐神」を祀る。
波比岐神はハヒキとよみ、岐(境)を意味し、「顕」を頭につけて「顕波波木神」で「アレハハキ」と読むこともある。顕が「現れる」という意味があるので、ハハキが現れるから、アラハバキと繋がる。

きっと荒川も、現れる川という意味でつけられたと思う。
何が現れたのか?というと多人数の人が船に乗ってどこからかやってきた姿をみて現れたと思ったのだろう。

また、井の神として水を祀り、阿須波は基礎作りといえる屋敷神や大地に踏ん張って立つ防人の守り神といわれている。
井戸水や屋敷といったことを考えると、アスワやアウワという言葉が元は麻のことを示すと考えると、麻を栽培していた縄文人と関係の深い神だと考えられます。

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阿須波神を祀る神社には、生井(生きる)、福井(福をよぶ)、綱長(長生き)井と一緒に5社祀られることがある。
賀茂別雷神社があり、泉区にも賀茂神社、雷神社がある。
しかし、雷とは雨の下に書く「田」が重要で、稲作の事を伝えている漢字だとの説もあり、田に雨を降らすものが雷という意味で弥生文化の信仰かと思われます。
これは「古代東北の城柵と北斗七星の祭祀」の本の中で記している「田のエミシ」のことを言うのかもしれない。

会津からのルートを考えた時に、さきたま古墳が残る古墳時代に繁栄していた大彦命が新潟県の糸井川ルートから会津へ北上してきた海人族の存在を考えます。

(写真:塩釜神社のご神木)

寒冷期に入り、稲作が後退し、5世紀頃本格的に行われていたのは新潟県、福島県辺りまで、一部で行われいたのが、山形、宮城、岩手県までで、この線は狩猟文化であるマタギ文化の北限とほぼ一致している。
古墳時代の寒冷化に伴って続縄文人は北方から後退したのが、北海道と本州の交易は逆に増えている。得意とする産物を交換しあえば、相互に生活が豊かになることは今も昔も変わらず、6世紀頃までに北陸、最上川河口、岩木川河口、津軽半島沿岸、下北半島沿岸、青森湾、道南を結ぶ交易ルートができていたことは遺物からも窺われる。
このルートによって本州から鉄器、土器、織物、米、塩などが北海道から昆布、魚の干物、毛皮などが運ばれた。

(引用:古代東北の城柵と北斗七星の祭祀 千城央)

大和朝廷はこの北方ルートの産物を手に入れたいとの思惑があったらしい。

<新羅の伝説>
稲作文化に鶏という白い鳥が関わってくるのはなぜか?
伝説で読むと、その井戸と鶏が信仰になった背景に、新羅国が関係しているようなのです。
世界の伝説にも鶏や卵の世界創世記伝説は多い。

その中で一番、鶏と関係の深い神話が「新羅」にありました。

新羅の始祖伝説
昔、慶州で徳のある君主を求めていた時に、古い井戸の辺りで電光がさした。
一匹の白い馬が礼拝をしているように膝まづいていると、巨大な卵があり、馬は天に昇っていった。その卵を割ってみると、男の子がでてきて、体から光を放っていた。
天子だと考えた村人は、「赫居世」(明るく世を治める人)と名づけた。
さて同じ日に、井戸のそばに鶏竜が現れて、女の子を産んだ。
唇が鶏のような嘴だった。この二人は後に王・后となり、国号を新羅とした。

新羅 金氏王家の始祖
大きな光が鶏林の中からさすのがみえた。黄金の櫃(ひつ)が木の枝にかかり、光の先から白い鶏が鳴いていた。このことを王に話した瓠公(ここう)は、王と一緒に林へ行き、櫃をあけると男の子がいた。
名前を閼智(あち)と名付けた。

済州島の神話
天地が混沌としていた時代、空の一角に(子の方角)に、大地の一角(丑の方角)に開いて、
空と大地が生じた。陰陽相通じて五色が交じりあった。
天皇鶏が尾を振って大きな声で鳴くと闇が明けた。この時、天上には太陽、月が2つ出ていた。

済州島の伝説がわかりやすいですが、日本にも天の岩戸伝説があるように、はるか昔、寒冷期といえるのか?陽が差さない時が何日も続いた天変地異があった時の様子にみえます。
いずれも太陽を呼ぶのが鶏であることから、太陽神のシンボルとして考えられていたようです。

それは、太陽を卵と表現しているものですが、井戸と水も関係しています。
しかし、この光の卵が元はインドからきている神話であり、太陽と違って自由に浮遊している物体?と想像してしまう伝説から生まれていました。

さすがインド・・・

大水の増殖(大洪水)の時、熱力によって黄金の卵を生じ、水上を浮遊していた。
すると、プラジャーパティという神が生まれた。
後に三語の神を生む。その言葉は、地、空、天である。

プラジャーパティは、宇宙万物の創造神。
ブラフマー神と同一とされ、生み出した10人の聖仙を指して、プラジャーパティとよばれ10人の創造神の呼び名である。この数には7人、8人説などもあり。(Wikipedia)

実は、この10人の創造神を祭っているのが、阿須波神で、古事記でも同じように、大年神と天知迦流美豆比売神(あめしるかるみづひめのかみ)の子供が、10人の御子神を生んだと伝わっている。

光の物体が水上から現れ、言葉を伝える。巨大な船に乗ってやってきたのか?
UFO説は否定できないことも伝説には多々あり…。さて、卵はUFOか?単なる鶏か?

<東北に伝わるニワトリ伝説>

また光とニワトリでは、神武東征のナガスネヒコが関係している。
氷雨の護符があるように、金の鳥は「ニワトリ」のことをいうのでしょうか?

宮城県、岩手県、秋田県には「ホロワ」という保呂羽山があります。
アイヌ語で「奥羽における先住民の祭神」といった意味がある「poropa(酋長)」
のことを言う。
酋長の墓を神とすることを「ホロバ」といったので、そこからホロワになったといわれています。

ホロワ山の伝説(宮城県戸倉・藤浜)
往昔、長清水の2人の女性が保呂羽に栗拾いに行ったところ、鶏に似た金色の鳥が飛んできた。
これをみて、一人の女性が捕まえようと追いかけ、山中に入ったが行方不明になり帰ってこなかった。その女を神として祀り、名前が「オリイ」と言ったので、「折居神社」と称した。
それから鶏を飼ってはいけないと伝わる。

祭り・・・小さな鎌形を鍛冶屋で打ってもらい、子供のムシ封じを祈願して奉納する。境内や参道に杉の苗をうえる風習がある。
また、戸倉、藤浜地区には、魔王神社があり疫病の流行によりヤマトタケルが白馬に乗り、幣束を立て板におりてきた。
子供や人々が集まることを好む神と伝わり、疫病が流行した時は遠藤家だけかからなかったと伝わる。
この神を「ヤクジの神」という。

※ヤクジの神は、薬師のヤクシからと思う。

岩手県黒石寺の仏像
大同2年(807年)、夷賊によって当山薬師寺焼失。
将軍は、威信を示さんがためにこれを城内の飛騨の匠に一昼夜にて、七間・四間の堂を修築することを命じた。
しかし、東北隅の基板が出来上がらぬうちに鶏が暁を告げてしまった。
この故事をもって里人は鶏を飼うことをせず、薬師堂の東北側は土間のままであったという。
後、849年天台宗円仁が東大寺を出て錫(しゃく)を東奥に曳き、堂背の大師山に至り、石窟に座禅し、行基菩薩の霊夢を感じ、薬師寺を石窟の蛇紋岩に見て黒石寺と、北の山中に妙見祠があることから山号を妙見山と号して再興、四十八宇を造った。
これにより全山天台宗とし、薬師如来を本尊とするが故に薬樹王院とも号した。
 

黒石寺(こくせきじ)は妙見山という。
岩手県では裸祭りで有名な蘇民祭信仰の発祥。

『備後(びんご)風土記』の中に蘇民信仰の逸文が残されている。
 北海の武搭神(たけあきのかみ)が南海の神の娘をめとろうと旅に出、途中で日が暮れた。
そこに将来兄弟二人が住んでいた。兄の蘇民(そみん)将来は大変貧しく、弟の巨旦(こたん)将来は裕福で家や倉を百余りも持っていた。
武搭神は弟に一夜の宿を借りようとしたが断られ、やむなく兄の家に泊めてもらった。
兄は粟の飯でもてなした。後に武搭神は八人の王子と帰る途中将来の所に寄り「かつての報いをしよう。おまえの子孫がその家にいるか」と問うと、「妻と娘がいる」と答えた。すると「茅(ち)の輪(わ)」を腰に着けることを命じた。
その夜、神は蘇民の妻、娘を除いてすべてを滅ぼしてしまった。
そして「私は須佐之男命(すさのおのみこと)なり、後の世に疫病あらば蘇民将来の子孫といい、腰に茅の輪をつける者は疫を免れるであろう」と申された。
武搭神・須佐之男命・牛頭天・薬師如来は同一神仏であるという。(黒石寺HPより)

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<ニワトリは竈から生まれた?>

タルなどの壷をさしていたものを、白い鳥が何か技術を運んできたようにみえる伝説…。
白鳥伝説にあるように、鷲=鷹族と白鳥族の融合。
このタルのような壷が塩釜神社に関係していると思います。

(写真:塩釜神社にある甑炉型鋳銭釜)
宮城県の色麻町は、元は四竈だった。竈と関係ある地域が塩釜以外にあるのだから、このあたりは、竈が重要だったのだろう。おそらく水が入った壷に何かあったのかもしれない。

その神事を今でも続けている塩釜神社は素晴らしいと思います。その祭事の様子を塩釜神社博物館で見ることができますが、海の産物を神から頂いた捧げものとして大事にしているところが縄文精神そのもの。(7月4日に祭事が行われる)

またその意味もとても深く「七」に関わる。次回、塩釜神社についてお話したいです。

写真下:北上川河口で水上交通の至便な石巻に鋳銭場を設置し、1727年に鋳造を開始した。ただ、鋳銭事業についての詳細は不明とのこと。

Ro(クリックで拡大)

さて、釜については塩釜だけではなく、シワヒコさんが逃げてきた?であろう泉にも伝わります。でも、ここでは釜ではなく「甕」になっている。

泉区松森に蛇神を祀る大甕神社があります。
ここに伝わる話では、ご祭神は、スサノオがヤマタノオロチで退治した酒作りに使用した大きな甕の一つであると?。これを見つけた人が熊谷氏という人で、伊達正宗に伝えたところ、仙台城へ持ち帰ろうとしたが、入口で急に重くなり動かなくなってしまった。
「天が熊谷氏に授けたのだから返そう」と言ったら軽くなったという。

そもそも、釜は甕で亀ではないだろうか?
妙見様が亀にのってやってくるのは、本来は、釜だったのだろう。水甕というくらいだから、水と甕が重要だったことを考えると、柄杓の北斗七星が繋がる。(写真:七曲坂の虹)

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それがいつの間にか、カマがカメに変化した?
カメに敬称の御をつけると「オンカメ」オンカメ→オオカミになったりするし、オカメになったりもする。
オカメの由来は、アメノウズメからと考えられている。
となると、猿田彦神が塩釜神社で一番古い山道といわれる「七曲坂」の入口にあるのが繋がる。
塩釜神社へ行くには、石を置いて結界を設けていた。しかも七つに曲がる坂という名前も気になる。
ここにも女性酋長の巫女が関わっている気がしてならない。

もうひとつ、シワヒコさんは坂上田村麻呂と同じではないか?という理由に、田村神社というのがありますが、秩父にもあるこの田村神社は、坂上田村麻呂を祭神とする由来が多いのだが、他に、井戸の水の上にいる神とする意味をもつ田村神社(香川県)があります。
ご祭神が、災難続きの理由が大物主の祟りであると伝えた倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめ)という巫女。
井戸=灌漑用水の進歩によって稲作文化が進歩したことと、祭儀を司る巫女の存在。
稲作文化を運んできた渡来人により、縄文人がそれを受け継いで新たな文化を支えてきたことがあったのです。
また、坂上田村麻呂も御霊神のように考えていたことが東北地方にはあったと思います。

<シワヒコさんの出身はウガヤ朝?>

ウガヤ朝とはよく聞くけどあまり詳しく知らない。
でもこの言葉はよく出てきます。
シオツチ神が「東に美しき地あり」といった場所は一体どこだろう。

妄想は続く・・・。

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志波彦と冠川①

2013-11-04 | 東北地方の伝説(宮城県)

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泉ヶ岳は、仙台での故郷の山なのですが、七北田川の源から流れるヒザ川の湧水がとにかく美味しくて、始めて飲んだ時は生き返るくらいにジワ~と体中に水が流れる爽快さが最高だった~。水にも相性があるのだろうか?

「水は味がないのでほとんど飲まない」
子供みたいな理由で水を飲まない大人がいるが、私がそうだ…。
でも、この水は500mlの量をゴクゴク飲める。

(何でこんなに美味しいのだろ~う)
この美味しい泉を育む森には、志波彦という人が伝説に現れているから?
へ~って感じだったけど、妙に最近気になってしょうがないのだ。まるで森の妖精のような話?

導かれるようにして、
・北斗七星
・ニワトリ
・諏訪
・塩

こういうキーワードが行くところ全部つながってしまったけど、上手くまとめられない。
先日登った神行堂山のある南三陸も関係しているようなので、どんどんハマってきそうな感じですが、何だかわけわからなくなった。

いろんなエミシ伝説などを読んでも、結局、エミシは支配者でもあり援助者でもあり、どちらにも存在していました。
どっちがどっちというのではなく、哲学・思想の争いであって、
「金や鉄などの鉱石をお金にする物質文明な人」
「金や鉄を祭祀として使い自然と共鳴する人」の違いであると思う。
そのどっち側についたら自分は幸せになれるのか?という問いが東北の最果てに託された課題であると思いますし、現代社会の問題でもあるからエミシを知ることは大事なこと。

関東も土蜘蛛など、そのような土着的精神があったけど、今はその精神を育む土地が残念ながらほとんど残っていません。
でも、人はその遺伝子を持ってうまれているのだから記憶している。
それをどうやって表現していくか?によるのだろう。

「エミシは哲学」
「農業はエミシ」

という言葉を、地元の方から聞きました。
ほんとにその通りで、追われた民の歴史は哲学に達する領域なので、自分がどちら側の視点で読むかによって善人でも悪人でもなれます。

そういう悶々としたぼんやりな部分が世の中には存在していて、私の中にその悶々があるのだから、クリアにしたい欲がある。
そんな世界をかいま見る環境哲学みたいな感じに流れたらエミシはもっと面白い。
それで過去とおさらばできれば尚良し。

Izumi01 Izumi02

▲歴史の中のシワヒコさん-------------------------▼

宮城県では陸奥国一宮の塩釜神社が有名すぎて、この方の影が薄い。
でも本来は、この豪族やら貴族やら?エミシやらアイヌ人や縄文人だったり、新羅系渡来人だったり…。
よくわからないけれど、シワヒコさんのような先住民の長が鉄釜が造るようになって、格段と塩の技術が発達し、古くから塩との交易を行ってきた場所がこのあたりにありました。

七北田川の伝説で知ったシワヒコさん。この方の名前は関東地方にはなく、突如、東北地方にあらわれる。親しみやすくシワヒコさんと呼んでしまうほど申し訳ないが神様的な感じがしない…。

伝説では、白馬に乗っていた志波彦は石につまづき落馬して冠を落としてしまった。
それから冠川と呼ばれるようになった。
冠川は、「神降り」のカムリorカムイの意味もあり。

七北田川は、昔は冠川とよばれていました。
黒鼻山の南西尾根に水源を発し、南に流れヒザ川から七北田ダムへ流れ、岩切を通り太平洋へ注ぐ。
泉ヶ岳は船形火山群のひとつで、山頂には薬師如来、三吉大明神を祀る。
昔は女人禁止の信仰の山だった。

昔、明治時代頃かと思いますがこのヒザ川の近くに水神碑があり、雨乞いを行っていたそうです。
泉ヶ岳~船形山の縦走登山は結構人気らしく、関東地方からもやってくるほど知られている。
船形山の山頂で偶然、埼玉県からきた登山グループと出会って聞いた話だけど。

さて、この冠川の伝説が冠を落とすくらいなのだから、高貴な人であったけど、逃れてやってきたところ、落馬して亡くなったとみたらよいのか?

志波彦が亡くなったと伝わる所が、「石止(留)神社」のある所。
二柱神社によると武烈天皇を祀っているというが、ご祭神は赤味を帯びた礫石。
「落馬して怒った神は、付近の石をことごとく拾い上げ下流に石が流れてはいけないと見張りの神を置いた」と伝わる。
礫石は、古墳や石器づくりに使われることが多い。
七北田川の流れをコントロールしていた人がいて、灌漑用水や治水工事に長けていた人たちが利用していた川のようだ。
ここにも産鉄の匂いがぷんぷん。

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「泉誌」によると、志波彦は今岩切村にあり、岐神(ふなと)を祀っていた。
石止神社は御霊明神社という。(御霊神社とは、祟りをする者の霊を祀る=クナト神と同一)
百柱の神を合わせ祀った総社の塩釜社より古く、多賀城西にある明神大社と祀られた。
志波彦は、諏訪神の苗裔と考えられている。

諏訪神社と関係していることは、秩父の諏訪神社が北斗七星の形に祀られているのと同じように、七北田川周辺~岩切~塩竈神社~海側(七ヶ浜)までを考えると、「七」の数字にまつわる話がいくつかある。
やはりここにも北斗七星の信仰がありました。
七北田(ななきた)という地名も、七ツの村があったからということだけど、本来は北斗七星の七だと思います。
それに黒川郡には七ツ森がある。七つすべての山には薬師如来が祀られ、神が座す鞍(クラ)=倉とつく山名がすべての山についている。
薬師様というところがエミシ征伐におかれた宗教のような気がしてならない。

元は、岩切に冠川神社があり志波彦を祀っていた。明治時代までここにあったのを、塩釜神社にうつされたという。塩釜神に協力したと伝わるがその意味はよくわからない。
現在の冠川神社は、八坂神社境内に祀られている。

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ひとつ気になるのが伊達家。
なぜ?伊達家は塩釜神社の神々の由縁を改めなおうそうとしたのか?
塩竈神社には謎が多く、ご祭神を秘匿としていました。
それを改めなおそうとしたのが、伊達綱村なんだけど、直接神々にお伺いするのは恐れ多いというので、家臣を派遣して話を伺うようにする、という手紙を神社へ提出している。
自分でいかないのは何だかよくわからないけど・・・。
その結界を破り伊達家が代々、本当の塩竈神社の言い伝えを厳かに記してきたのかもしれません。
後に、塩釜神社の再建についても伊達正宗が指示しています。

その秘密とされていた神様が、左宮のタケミカヅチ神(鹿島神宮)で、右宮がフツヌシ神(香取神宮)とわかった?
別宮にシオツチ神。後になって、シワヒコ神を祀った。
でも本当にそうなのかな~、という感じで実際のところよくわからない。

Sherin01_2(塩釜神社別宮)

ただ、重要な位置にあるのは別宮の塩土神で、参拝すると海側(塩釜港)へ向かって礼拝するようになっています。
神様と崇められた豪族は、海からやってきたのでそちら側へ向かって参拝するようになっている。10年ぶりくらいに参拝に行ったのですが、白い布で覆われていて工事中だった宮があり、
後で鹿島、香取神だと知ってびっくりしました。
てっきりシオツチ神だと思っていたので、じゃあ、別宮に祀られているのは誰なんだ?と、全然わからなかった。

鹿島神と香取神を一緒に祀るということは、藤原氏のことを指しているのが一般的らしい。

元は、先住民、渡来人と一緒に暮らし繁栄してきた都を、交易目的として藤原氏が支配してきた歴史があったと考えられます。

塩釜神社については長くなりそうなので次回に。

▲石伝説が多い泉のエミシ---------------------------------▼

Photo
東北地方の開発が一番最初に行われて国府がおかれた所は、福島県安積(あさか)。
そこから信夫~阿武隈川河口の岩沼へと広がる。
泉区の古代地名の中で古い所は、「福岡」とよばれる。
奥州街道は奈良時代、多賀城~七北田川に沿って北西に向かい、「鷲ノ倉」の下を通り北上した。
また、実沢には道祖神が祀らている社があり、かなり古くから開拓地としてあった。
その実沢一の神社が、諏訪神社。
金神社というのもあり、自然石がご神体である。
他にも泉区には石を祀る社が多い。
小角にある飯石明神社では、祈願するものは、小石をひとつ借りて病児の枕元に置くと、良いと伝わる。
本社は、島根県にある神社で、出雲系の先祖に稲作技術を教えるため今に残る石の上に降臨したと伝わるが、泉区の飯石明神社にはそのような伝承はない。

野村の須賀神社は、スサノオを祀っている神社だが、2本のきゅうりのうち、1本は河童へのお供えのため七北田川へ流したという。
「天皇」という地名の側に須賀神社がある。「天王」という地名もあり不思議な場所にある。

エミシ征伐でやってきた呰(あざ)麻呂は、780年「山夷の塞」とよんでエミシの境界に「五道を封ぜよ」と、兵を遣わした。五道とは、鷲座(わしくら)、楯座、楯石沢大菅屋、柳沢など。(続日本紀)
原住民VS大和朝廷が及んでいた所が泉にあった。
724年~805年頃まで多賀柵や色麻柵など、城柵をたくさん作り始めた時期にあたる。

この鷲座とよばれたのが、泉区福岡にある鷲倉神社。
この時の北方警備の先端に祀られた神社だという。
本来は、屏風岳にあったのを現在の場所まで下ろし、山頂には岩鞍がありましたが、現在は神社内に移されている。(ここも伊達正宗が再建を指示している。)
ご祭神は、石器時代の石棒と伝わる。面白いのがよく落雷があったようで、雷神が失くした太鼓のばちがご神体とか。

伝説には「この御神石の美しさに魅せられた泥棒が、ある時盗み出して運んだが、御神石は、段々重くなり東方の小野へ投げ捨ててしまった。通報をきいて驚いてかけつけた堂所の人たちがお迎えに行ったが、一人で持っても軽く持てるはずが、その時は4人が持って
やっと堂に納めることができた」

鷲倉神社は、信濃国より宮床の宇和館城主となり罪を犯したのか退散して帰農になり、土着した子孫。諏訪神社の氏神とする「鴇氏」であったそうだ。(泉誌より)
現在は、山そのものを祀るオオナムチが神となっている。
 
他にも福岡には、八木沢大明神がある。
こちらのご祭神は、今は焼失してないのだが、30センチほどの兜(かぶと)だと伝わる。
箱を持った感じがそうだった?が、実際に見た人はいないらしい…。

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シワヒコさん説はいろいろ。
坂上田村麻呂だったり、スサノオの末裔だったり。
で、ホツマに詳しい友人から面白い話を聞きました。
天照神(男神)の息子だとする説。正妻のセオリツヒメを母にもつ。
シワヒコさんとは直接関係ない?のだが、スサノオに関係してくる話は結構多い。

Izumi_3(泉ヶ岳から)

やたらと結界を設けられるスサノオや猿田彦。
なぜかー?
そこに悪女的な女性の存在があったりする説もあって興味あり。。。
だから、冠川神社は八坂神社と一緒に祀られるわけだ。

友人から聞いたホツマツタエの面白い解釈によると、スサノオの子供は宗像三女神だと。
遠くの島に行かされたのは、スサノオがアマテラスの側近と一線を超えてしまったわけで。
正式な子ではないので、スサノオは権力を失い追い出されたという昼ドラみたいな話。

ホツマではスサノオがヤマタノオロチで退治する龍は、悪女だったり腐敗した社会だったり、世の中の乱れを絶ち切るための結界という意味らしい。(女性と断ち切る意味が強い)
スサノオは騙された?と思うのですが、それが女性を使って権力を奪われたor失ったという意味が強いと思う。
それでスサノオを助けたのが先にいた出雲や諏訪のモリヤなどの先住民(縄文人)だったでしょう。

また、昔は最も重い刑は、死刑ではなく「孤立」だったそうだ。
左遷は、知らない土地に行かされても人との接触は許された。
しかし、孤立は一切人と接することを許さない一番苦しくて重い罰。

自らひきこもるのとは違い、昔は人との接触を絶つことがいかに苦しくて辛いことか、わかっていたのです。
そのような苦痛を与える罰として死刑よりも重い罪と認識していた。

と、考えると、宗像三神が祀られている島は、立ち入り禁止と聞いた。
人が入ってはいけないということは、何か罪を犯した人が重罪に処せられて島流しされたのではないか?
神格化されるより、人が入ってはいけないことを頑なに住民に伝えた方が恐怖が募る。
それが重罪なんだろう。
まあ、昔は海賊もたくさんいたので、逃げることはできたと思うが、女性だったからなおさら?女性との縁を絶ち切るというところでスサノオが結界の象徴とされたのかもしれない。

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このような話は、スサノオに限らずヤマトタケル伝説に通じる気がする。
女の敵は女だから、エミシ征伐に女性を利用したことは十分考えられる。
義経が女性的に描かれていたり、上杉謙信は女性であったとの説もある。
男でもあり女でもあった人は今も昔も変わらず存在していました。

秩父の場合、武甲山は古くは女性が祀って祈りをささげていた山だったから、後になってヤマトタケルが征伐しに武甲山へやってきた。
なので、武甲山を男神にされたわけであり、これは、宝登山も同じ。
それに妙見様が武甲山に降りてくるという伝承も、水甕をもった女性(or男性)だったからと私は思います。

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能にもある「猩々(しょうじょう)」という話は、海に現れる者が猩々といい、酒で儲けを考えていた人がいて舞をして踊りをみせる。そして猩々から酒壺を与えられ猩々は海に帰るという話。

柄杓を使うところがあるのだが、柄杓という漢字は当て字で、本来は「斗」とかく。

また、猩々の猩という部首は、けものへんだが、このけものは犬をあらわしている。

けものへんの犬に星・・・といったら、おおいぬ座のシリウスだ。他に猩々は、禹や蛇にも関係する伝説がある。

猩々は赤い顔をした猿(オラウータンのような)と表現されて中国に伝わる。この伝承が、日本の伝統文化によって伝えられているということは、猿などの動物とよばれ差別された人たちが残した功績が大きかったからではないでしょうか?

物部氏などが「密かに」日本人の精神に伝えていく作業というのは、伝統芸能の中にも「密かに」祖先の教えを刻んでいるような気がします。

※平泉の能楽堂(重要文化財)にて。タイトルはまさしく「猩々」でした。

Hiraizumi01 Hiraizumi02_2

ん~能はチンプンカンプン。。。

私はこっちのショウジョウバカマの方が好き。(花の由来は同じく猩々と見立てて赤い色の花だったから?)

Flower01 (やくらい山にて)

それでまだまだ気になるシワヒコさんについて。

①阿須波神
②新羅・越国の人
③水甕=亀などなど

が、気になるのですが、長くなるので次回に…。

Right_2(南三陸の夕日)

<泉ヶ岳への道>

標高1172m 地下鉄泉中央駅より泉ヶ岳行きバスあり。車:仙台市から約1時間弱。根の白石方面~泉ヶ岳へ。

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