秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

福島県双葉町の古代史 その1

2017-02-16 | 東北地方の伝説(福島県)

一度書いてみたかった双葉町の歴史。
ここにはどんな古代の歴史があったのか。
原発のせいで故郷に帰れないことを、
いったい誰が、想像したのだろう…。
先祖のためにも、この地について何かを調べなければとずっと思っていた。

これも妙見から続いている。
相馬の妙見様が、双葉町の原発について想うことがあるのだろう。
でも、現地に行けないのでわからないでいたら、うれしいニュースが。

産鉄族のオオ氏で妄想していた横穴式石室の壁画が、
3Dで蘇ることに!(2月11日の記事)

「東京電力福島第1原発事故で全町避難する福島県双葉町がアーカイブ事業の一環として、
町の現状をレーザー光線などで精密に測量し、3D(立体)画像化する作業を進めている。
これまで町内の学校などを撮影。
9、10日は事業に協力する東北大が国史跡「清戸迫横穴(きよとさくおうけつ)」に入り、
古墳時代の貴重な壁画を測量した。」


この渦巻きマークは、妙見信仰の宇宙の中心を模したものだと考えられている。
発祥は九州にあり、茨城県から福島相馬にもたらされた。
松本清張氏によれば、九州から東北地方太平洋側沿岸に進出した人々が、
途中の海域の渦巻きをみて、イメージしたものであろう、と。

残念ながらそのままの状態で残されることはないのだが、
3Dで蘇るとは、まさにこの古墳があの世とこの世を結ぶ蘇りの古墳である
ことがよくわかった。
遺跡や遺品は、別の媒体を通して記録されていくようになるのだが、
この時代に、実際生きていたようなバーチャルを体験できる日は近いのだね。
この記事を読んで、もう物質文明は終わりに近づいていると思った。




染羽-----------------------------------------------------

双葉町は、標葉(しねはorしぬは)と楢葉(ならは)の二つの葉がある。
この周辺には古墳が非常に多く、夫沢横穴古墳の長者原の地名、
標葉郷夫沢村は相馬中村藩領。
古墳の壁画、妙見の宇宙の中心に繋がる。
では相馬氏の前は・・・?

現在の浪江町の東部、高瀬川と室原川の2河川による河岸段丘の台地上には、
古くから文明の形跡が確認できます。
町内にある順礼堂遺跡・七社宮遺跡・植畑遺跡・大平山貝塚・清水遺跡・中平遺跡などは、
縄文時代の遺跡であり、その出土品の中には、全国的に見ても当遺跡にしか
見られない独自のものが確認されています。

当地には、これら画期的な縄文文化の延長線上にある独自の弥生文化が
展開されていたことは、町内に少なくとも13か所以上存在する
遺跡の内容からみて明らかです。
古墳時代(西暦300年頃から600年頃)となると、この河岸段丘の両岸一帯に、
前方後円墳、後方墳、円墳、方墳など多様な古墳が次々と建設され、
その周辺には、大規模な集落が多数あったことが証明されています。
その数は、近隣の他地方に比して類を見ないほど多いと言わざるをえません。

この時期と同時代と考えられる第13代成務天皇の御世に、
足彦命(たらしひこのみこと)が、染羽国造(しめはのくにのみやつこ)に任じられ、
現在の浪江町、双葉町一帯から、大和朝廷の威光を示していました。
この「染羽」という地名が、8世紀頃になって「標葉」に変更されたと言われています。
いずれにしても、この国造と数多い古墳群の存在は、当地が古代における
政治・文化の中心地であったことを物語っています。

一方、浪江町民の心のよりどころとなってきた苕野(くさの)神社(請戸地区)は、
和銅年間(715年頃)に社殿が建立されたものです。
貞観の津波(869年頃)、慶長の津波(1611年)他で海没するなど様々な災害に
遭いながら遷宮し、さらに月日を経て、再び東日本大震災に見舞われることとなりました。


浪江町の歴史(浪江町のサイトより)
http://www.town.namie.fukushima.jp/soshiki/2/namie-history-1.html

苕野(くさの)神社(タカオカミ、クラオカミ、五十猛など)は、
茨城県大杉神社と関係深く、眷族は烏天狗、鼻高天狗。
あ、前回の鼻が折れた天狗のことですかね。
義経の家来、常陸坊海尊が大杉大明神の神徳により奇跡を起こしたと伝わる。
そして、この神社の眷族である烏天狗を、阿波さま(あばさま)とよんだ。
阿波が属する台地「信太流海」「夢むすぶ」神といわれる。
霞ヶ浦のことで、航路標識に大杉を利用していた。

霞ヶ浦~千葉県の常総台地には、製塩遺跡、土器の出土が発見され、縄文後期~晩期のもの。
霞ヶ浦湖岸は砂鉄に恵まれ、浮島村や麻生船着場の所も砂鉄で黒々としており、
古代鉄民タタール人が住んでいたという伝承もあるそうだ。

原発のある地域は、昔から津波が多い所でした。
869年貞観地震の津波、1611年慶長の津波、震災と3回の津波を経験している。
なので、あの場所に原発を置いたことに問題があるのだから、人災ですよね。
宮城県の女川原発は過去の津波被害を考えて高台に建設されましたが、
福島県の場合は、なぜかそれを怠った。


浪江町の風景より:標葉郷相馬野馬追祭
http://www.town.namie.fukushima.jp/soshiki/2/furusato-namie-pictures.html

標葉について-----------------------------------------------------

「信太」と「阿波」のキーワードと、「染羽」→羽が「葉」となった。
これは元は葉山信仰だったのが羽になって羽山になっていたりして。

標葉の祖は、苕野神を氏神としていました。
標葉四郎隆義という人が初代。(1159年頃)
その父親が、海東小太郎成衡といわれ、海東氏とは、平家。
相馬妙見の話をしましたが、桓武天皇(第5)→高望王→国香次男の藤橋氏
国香の平氏は海東氏の後に標葉氏となった。
海東小太郎成衡は、源頼義の娘と結婚して、清原氏の養子になったが、
それが原因で後三年役が始まる。

詳しいサイトがありますので、リンクしておきます。
「藤標記」
http://www.sky.sannet.ne.jp/taneyasu/new_page_1.htm

さて、標葉が染羽を由来とし、志波(しは)と訓読みする。
続日本紀に標葉と記し、先代旧事本紀では、成務天皇(13代)阿岐(安岐)
国造の飽速玉男命(あきはや)を10世紀足彦命を国造に定めたと。
信夫国と同系、後に石城国となる。


飽速玉男命とは、明るく映える玉という意味。
飽速を祀る神社があります。
速谷神社(はやたに)で、広島県にあるが、どうも調べてみると水軍発祥があり、
海賊なんだとか。
野間神社があり、愛媛県の今治にあるのですが、飽速玉男命を祀る。
そして野間神社は、鹿児島県にもあった。

広島は、阿岐(安岐)とよばれ宮島がある所。
厳島神社より格が上だったという!
ということで、標葉の祖は、鹿児島~愛媛~広島の水軍=海賊だったかもしれない。

大和の蝦夷地へ政権として五国を治めていたのは、
阿尺国、思(太)国、伊久国、染羽国、信夫国。
これが鉄であり、九州から鉄を求めて開拓をした。
なぜか九州と東北は近畿の大和より有力な豪族と鉄技術があった。

これには出雲の存在もあり、九州と東北の統合を考えており、
ちょうど中心にある甲信越と関東地方。
関東はその当時、毛国といわれるように豊かな田園がありました。
ここを武蔵国とし開拓をすすめます。
そこに出雲が入り、南は九州、北は東北の豪族たちがやってきて、
一大都市を築きました。

染羽について-----------------------------------------------

染羽が実際、ここから由来しているのかわかりませんが、
気になるので情報としてあげておきます。

島根県益田市に染羽天石勝神社があり、祭神の天石勝命(アメノイワカツ)と
多数の天津神を祀っている。
ここに弁天池があり、イワクラ信仰があり、かつては滝があったそうです。
725年天石勝命を祀ったと考えられ、この神々の由来には、
元国津神を天津神として祀ったようです。

染羽の地を開いた春日族が、石神(いわがみ)として祀ったそうで、
やはり春日神なのだ。
春日神とは、藤原氏(中臣氏)の守護神である武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)、
祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって春日神と総称される。

春日神は、石上神宮の十種神宝を奉納している神事と関係する。
古来、物部氏のふるえ~の祝詞がここでもあげられているようなのですが、

東北へ逃れてきた多氏と物部氏が重なるのは、楯原神社(大阪府)の存在が気になった。
神功皇后の時代に、楯之御前社の社号を楯原神社に改めたとする神社。
息長真若中女媛という碑があり、息長氏と関係している。

ここに神宝十種宮があり、祭神は布留御魂神(フツヌシ)。
天正年間に石上神宮が織田勢の襲撃を受けた際、十種の天璽瑞宝が流出し、
生魂の杜へ奉斎されたものの、幕末の混乱のなか再度略奪され、
街の古道具屋で発見されたとそうだ。


※楯原神社
http://mononobe.webcrow.jp/tabi/tatehara/index.html

なぜ陸奥国に滋賀県が由来しているのかが、このあたりで繋がっていて、
息長氏なんですね。
神武東征があった神武より別の天皇家がいたと。
それが「意富富杼王(おおほどのおおきみ)」といい、息長氏の祖という。

関東地方にたくさんの帰化人を迎えた天武・持統天皇は、
三韓征伐で軍功してきた人を歓迎している。
元は、日本に住んでいた人たちが、例えば、中東の方から戻ってきて、
朝鮮半島にたどり、任那は日本の領土だったので協力。
それぞれが三韓征伐で争ってきたこともあると。
その時に、神功皇后なる女性がおり「女性として戦ったアマゾネス」という姿で
長い間、信仰が続いている。

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