秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

経之塚古墳と直弧文の鹿角製刀

2019-07-27 | 東北地方の伝説(宮城県)

大野東人の話がありましたが、気になる古墳を発見。

場所は、名取空港の近くにあり一部だけ残されています。

古墳に興味がない人にとっては何がなんだか萌え萌えにはならないのでしょうが、

経之塚古墳で発掘されたモノに、私は何かがフツフツとなるのです・・・。

まず、古墳について。

 『経ノ塚古墳(きょうのづかこふん)は、名取市東部の海岸線から約2km内陸の 浜堤上に築かれた、

直径36m、高さ約7mの周湟が伴う円墳。 土取工事や道 路工事などで墳丘は完全に崩されてしまいました。

明治45年の調査により家形(いえがた)埴輪(はにわ)・鎧形(よろいがた)埴輪 ・円筒(えんとう)埴輪 が発見される。

大正12年の隔離病舎建設の際は、 墳丘から1.8m掘った所に粘板岩製の長持型組合石棺が出土し、

その中から2体分の人骨、直弧文が入った鹿 角製(ろっかくせい)刀装具をつけた 直刀2口、刀子1口、

漆塗の櫛などが発見されました。

  古墳から発見された、長持型組合石棺・鹿角製刀装具・家形埴輪・ 鎧形埴輪については日本最北の出土例であり、

出土品等から、 古墳は5世紀中頃に畿内政権と密接な関係を持つ、有力者の古墳と考えられています。  

なお出土した埴輪の中で、東北大学に保管してある家形埴輪・鎧形埴輪 ・円筒埴輪は、国の重要文化財に指定されています。』

 

これはすごいかもよ~。

漆塗の櫛~!!

 して、東北最北の出土例とされる石棺の他、 「直弧文が入った鹿角製刀装具をつけた刀」

そうです!以前から何度も妄想していた直弧文です。

名取で見つかるとはね~っ。

しかも、2人の人骨発見も興味深い。

もしかしたら夫婦ってことはないですかね?

一人は女性で、有力な人だったような気がします。

複数の家族なり、他の部族と一緒に埋葬されるケースがある塚や円墳に対し、 この古墳は、「しっかりした家の人」のお墓と言えます。

しっかりした人・・・としか言えないけれど、 妄想するに、「百済からきた人」

現在、観世音になっている。

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なかなかツウな古墳です。

この遺品が見たいなあ、と思って探してみたら、さすがインターネット。

東北大学総合博物館のデータベースサイト、 (古墳時代・石製品、ガラス製品、鹿角製品)に、掲載されています。

ちょっとみづらいですが、直弧文らしい部分に。(取っての部分?)

http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/data_base/koukogaku/zuroku/zurokudb/index21.html

またちょっとこれについて触れますが、 直弧文古墳は近畿地方が多く、近畿にいた豪族に関係すると言われます。

「葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)」という人がいまして、 4~5世紀頃の人で、竹内宿禰の子と言われる古代豪族。

この方が被葬者とされる石棺から出土した埴輪群から 家型、楯や矢などを入れる箱、珍しい形象埴輪がみつかる。

それを復元したのがこれで、直弧文でした。

経之塚古墳でも鎧形埴輪があることから、葛城系の豪族だったら とっても興味があるんですけど、ざっくりと百済系の人としか言えません。

直弧文は、この時代にしか発見されていない独特の紋様です。

多くは石棺などに施されるもので、非常に複雑な紋様といわれますが、 「回転運動」を現しているそうです。

渦巻きなどはよくありますが、直弧文は直線と円弧の2種類の 幾何学紋様を組み合わせたもの。

鏡もあり、これも「奈良県葛城郡」で発見されているので、 葛城王朝に関係している紋様かもしれません。(写真下)

ある説では、産み出す意味の円のサークルを線で切っていることから、

二度と生まれ変わらないようにする意図がある呪術的な意味も。

九州式という直弧文もあり、5、6世紀に石床、石障の独特のスタイルを もつものが発見されているが、

これは「石人」というのが墓を守っており、 三韓征伐で、朝廷と百済軍と戦った磐井氏の石室がそうでした。(筑紫:磐井の乱)

岡山県吉備地方にも直弧文の石室が発見されており、 吉備王族の話もある。

『日本書紀』に、 3世紀以降に移住したと思われる吉備一族が葛城氏とともに、 河内の王家によって弾圧を受けていくのが5世紀頃とされる。

この頃は、朝鮮半島で葛城氏が管理していた伽耶(任那日本政府)が 葛城襲津彦の奮闘むなしく新羅によって滅びたと。

これらの話しから、直弧文は、破れた人たちの墓に掘ると思われる。

吉備、葛城、九州の筑紫など・・・。

任那は新羅によって統一されるので、任那を建国した葛城氏であれば、

新羅や九州の豪族、磐井氏たちと一緒に組んで、百済についた日本の政府(朝廷側)と争うことになる。

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そのような敗戦した豪族たちが、日本海と太平洋側にわかれて到着したのだろうか。

福島県浪江町の上の原古墳からも鹿角製刀装具が見つかっており、 これも直弧文が刻まれていた。

浪江町は直弧文の刀が多く発掘されている。

高麗剣 と称する装飾形状とは、 韓国で武寧王陵王が発掘された時、環頭大刀が発見されたものと同じ。

1971年発見された百済時代の武寧王(501~523)とされる。

この剣は、埼玉の稲荷山古墳出土の刀より長くて大きいのです。

取っ手の部分。(武寧王の刀の例)

不思議なのは、百済王(現:韓国)の武寧王陵王の墓を調べたところ、

 興味深いことに、木棺が日本の近畿地方南部に生息する 高野槙(コウヤマキ)であることがわかったそうです。

高野槙は、高野山の霊木だったらしい。

武寧王という「武」がらみの土地には「武」をつけるから、 武蔵は「武寧王」の百済系であると?

新羅は最初に和銅をみつけたけど、高句麗・百済が入って来て、 後に北上していったと思います。

この百済が日本にきて金を発掘し、 蝦夷征伐で坂上田村麻呂など坂上家などの将軍たちが、東北進出を目指します。

 藤原仲麻呂(恵美押勝の乱)を治めたのは、坂上刈田麻呂で、マロの父。

 その話しが、悪玉姫伝承として宮城県に伝わっていると思います。

 (悪玉姫は父の刈田麻呂の方では?)

近畿へ逃れた古代豪族も直弧紋を使用しているので、 この時代、直弧紋が流行していたのかもしれません。

ということで、名取にある経之塚古墳出土の遺品は、 近畿地方にいた豪族の一族と思います。

現在、古墳の前は、震災の爪痕で雑多な土地になっていて、産廃のトラックが止まっていました。

こんな場所になっていても、眠っている古墳があるんですね。

一気に津波で流された跡地には、何も残されていませんが、小さな痕跡は残る。

無くなってもエネルギーはわずかに残り、わずかな光だけが灯されて飛来しているので、

亡くなった方々の人生のストーリーは、時代に関係なく語りづいていくべきだと思います。

それも供養になると思います。

こんな時に、こんな場所で古墳というのも、導かれたような気がします。

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