ナグサトベがいた地域にも龍神信仰があった。
秩父でも荒川は暴れ川といわれたので、武甲山が龍信仰になっている。
ナグサトベのいた紀の川もかつては「暴れ川」といわれていたそうだ。
国主淵といのがあり、昔、国淵川には大蛇が棲むといわれ畏れられていた。
この大蛇は村の娘を人身御供に要求したので、毎年4月3日に娘の代わりに、大飯を淵に沈めるようになったという。
1592年 和歌山で大干ばつが起こり近くの田畑や川は干し上がってしまった。
ところが、国主淵だけは枯れなかった。
その時、村人は淵の中にある竜宮に通じるといわれる洞穴が、大木でつまっていることに気付いた。このままでは淵が枯れてしまうと考えた村人は、その土地の豪族であった橋口隼人の家臣、桜井刑部(ぎょうぶ)が名刀である「村雲」という刀を携えて川に潜った。
そして大木を切りつけてみたところ、大木は大蛇だった。
大蛇は大暴れすると、雷雨が響き渡り、大粒の雨が降り出した。
蛇と格闘していると、水中から怪物のような面が現れて動き回った。
桜井氏はその面を捕まえて持ちかえった。
名刀は大蛇に奪われてしまったが、以後、その面で祭祀を行うと必ず雨が降ると信じられた。
著者によると、この雨乞い信仰=龍信仰の発祥は、出雲であるとされる。
オオモノヌシは蛇である。
強い生命力をもつことと、若返りを秘めている。
大国主は出雲族の神様とされ、オオモノヌシ(大物主)は、その霊体のようなもので、蛇=龍であると伝わる。
村雲という刀の由来は、雲を従えた大蛇の尾から出てきたことから村雲の剣とも呼ばれるようになった。
岩手県の一ノ関から発祥した日本刀の源流、も草(もぐさ)=蕨手刀は、神話にでてくる「天叢雲剣 アメノムラクモノツルギ」がモデルとなったと伝わる。直刀ではなく、ゆるやかにわん曲した刀の方がよく切れるので重宝された。
十握剣(トツカノツルギ)とも呼ばれる神剣がある。
物部氏が神宝として伝わる十種(とくさ)と同じようなものだろうか?
この剣は多くの神々を生み出し、また八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したとあるが、実際、剣で蛇や龍などを切ったというのではなく、結界を用いる、悪いものを断絶するという、祈祷や呪術的な方法の切り方がある。
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名草の人たちは、南方をルーツにもつ海人族で、その信仰を出雲から受け継いでいるそうです。
そういえば、二ギハヤヒが降臨した鳥海山は大物忌神を祀る。
オオモノヌシとは異なるようで、実際どんな神なのか不明。
大物忌神は、「エミシの国の女神:菊池展明著」によると、
「675年を皮きりとして天武によって急にまつられだす神がある。竜田の風神(難波)と広瀬の大物忌神である。
4月と7月に祀られ、稲作農耕の守り神とされるのだが、天武天皇が亡くなった後、持統天皇が奉るようになるが、その後は途絶える。」
詳しくはここでは割愛しますが、この二神はもともとその地に祀られていたのではなく、日本書紀の記述に記載されていたことから祀られるようになったそうだ。
(写真:弁慶岩・カッパリ割れてます)
ただ、大物忌大神と倉稲魂命は同一とされているのですが、伝説の「ひさめ」という語句から
巫女のような女性酋長の存在があったと思われます。
そこに二ギハヤヒが降りてきたのだから、出雲から渡ってきた巫女という事なのでしょうか?
「氷雨除けの護符」であったように、
(詳細はこちら(http://blog.goo.ne.jp/inehapo/d/20131007)
ナガスネヒコは、「登美那賀須泥毘古(トミナガスネヒコ)という。登美でトビであるのならば、トビが矢に止まるのは、その矢の力を止めたと解釈できる。それも巫女のシャーマン的な女性を感じさせる。
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ナグサトベがどのような人々だったのか?参考程度に。詳細は、ぜひ本を読んで頂きたい。
・トーテムは楠(くすのき)であるとされる。
それがイタケルという人格に変わり、船玉神(住吉大社)は大楠を祀る。
・長身であったこと
・東南アジアとポリネシア人のルーツをもち、2千年前に紀伊半島に移住。祖先はラピタ人である可能性が高い。
・カヌーは石器で造られ、鉄のような釘などの金属は一切使用していない。
このブログでも福島県会津の磐梯山で、ポリネシア語で通じる地名の話をさせて頂いた。
ナグサトベがそのルーツをもっているのなら、長~い時間をかけて、(千年くらいの時間をかけて)人口が増え九州から紀伊半島~北関東~東北地方へ渡ってきたと考えられます。
詳細はこちら http://blog.goo.ne.jp/inehapo/d/20131224
鳥海山に伝わる「うやむや関」は、マオリ語で「ウイ・ア、ムイ・ア」という言葉があり、通行人に質問を連発して困らせるといった意味があるのだと。
山形県にも、うやむや関が伝わっていることを考えると、山形~秋田へ。
その逆の秋田~山形には、古くからポリネシア人の先祖が住んでいたでしょう。
南方と北方からやってきた一族が融合し、建国したのがアラハバキ王がいた津軽だったとの説もあります。
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巨石には「船」という名前をつけるものが多い。
石のように固く大きな物を象徴しているようだが、その船と一緒にやってきた技術が日本刀に発展する剣の技術であっただろう。
その先端にいたのは、エミシとよばれた人々でした。
また、なぜ出羽三山の羽黒山に、スサノオゆかりのお社が多いのだろう?と
思っていたら、ナグサトベの本にこのような出雲の伝承があった。
出雲の旧家の口伝には、秦族の「スサノオ」は出雲に移住すると、大国主の娘、高照姫を娶った。
丹後国風土記に書かれた「彦火明(ヒコホアカリ)」と同一らしい。
ホアカリは、大国主の娘である天道姫を娶ったとある。
名前は違うが、どちらもともに大国主の娘。
また、丹後海部氏と出雲口伝には、スサノオは出雲から丹波に移住し、ホアカリと名乗る。
このホアカリのまたの名がニギハヤヒであるとする。
丹波と出雲の伝承ではスサノオ・ホアカリ・ニギハヤヒは同じ秦族と解釈される。
(写真:奥の院の御船石)
後に蘇我氏と物部氏の対戦で、物部氏は出羽に逃れることになる。
宮城・山形県堺には、船形山がある。
由来のように、山形の日本海から上陸した女性が何かに追われて陸奥へ逃れてきた。
地元の人がその女性を船の中にかくまらせた。
しばらく経って船をあげてみると、黄金の薬師如来像があった。
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