秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

千歳山周辺散策@里山信仰と恥川

2019-11-17 | あこや姫伝説

勧音堂すぐ下に耕龍寺があります。

龍だけに龍神様がたくさんいました。(御堂の中に)

「1062年平清水の奥地深山にあって、勧音菩薩を祭礼する天台宗の寺だった。

中頃、千歳山東方の寺ヶ入に移り、さらに1394年肥前国佐賀城下の玉林寺の 徒弟自玉和尚によって

千歳山西麓に移され「清水山耕龍寺」と号したといわれる。

 以後、曹洞宗の名刹となった。 境内には深山以来の勧音菩薩を祀り、

最上三十三観音第六番の札所として 信仰を集めている。(以下省略)」

※看板の説明より

 

伝説では付近一帯は湖で、そこに住む竜神を白苗和尚が成仏させたことから、

 湖は耕地に生まれかわり、耕龍寺の名がつけられたという。

看板の説明にある「奥地深山」というのが、瀧山(りゅうざん)だったのです!

山好きなので、瀧山はよく知っています。

 姥神がある参道コースがある。

きつそうなのでまだ登ったことがないのだが。

蔵王麓にあり、大山桜が有名。

※東北・夢の桜街道より https://www.tohoku-sakurakaido.jp/lineup/yamagata/sakura41.html

この桜について西行法師の歌があるのです。

  「たぐひなきおもいではの桜かな うす紅の花のにほひは」(山家集)

この頃から、桜が咲いていたかは疑問ですが、 西行が奥州に来ていた頃、藤原実方を追っかけしているので、

 阿古耶姫伝承にも興味をもっていました。

『この地区から西蔵王高原ラインと交叉し、 標高が510㍍の高原地帯となり、神尾地区がある。

 この地区は滝山信仰と関係が深く、滝山信仰の盛んな鎌倉時代には、 別当(寺・行屋を含む)三百坊があったと伝えられている。  

滝山は1,362㍍の山、背景に蔵王大権現が鎮座する蔵王連峰をひかえている 霊山(古くはリョウゼンという)であった。

福島県の霊山と同様に修験者達の交流がなされていたことが、 福島の霊山を訪れて知ることができた。

単純に慈覚大師が開山した山でなく、一連の天台密教の修行場としての役割を 果していたのが瀧山であった。

この高原では毎年5月8日に「瀧山大権現=薬師如来」の祭礼が行われる。

 オオヤマサクラの下で、後藤利雄元山大教授の提唱で「西行祭」が賑やかに行われた。』

※山形市観光協会(Web山形十二花月)より

瀧山信仰が盛んだった鎌倉時代、300の坊があったという。

だから千歳山も信仰が深い場所だったわけですね。

『里人が死ぬとその屍は端山に葬った。

肉体を離れたその人の魂は、美しい端山の頂きに登ると考えた。

 端山に登った霊は、三十三年のあいだ端山の頂きに止まるという』

※山形の自然と文化

この端山は、山形市内では千歳山であり、深山が瀧山と言われます。

瀧山麓に日本最古の鳥居と言われる社がある。 伝説には、天邪鬼が一夜で造ったが、

一番鳥が鳴いたため中途半端で立ち去り、 こんな形になったという伝説。

もう一つの伝説はこの鳥居の主の龍が夜になると鳥居にからみつき、

龍の赤い眼と合うと熱病にかかり死ぬ者もいたところ、 和尚が龍は霊だから首を落とせば消えると教え、

侍が龍退治をしたという伝説である。

首以外に斬りつけても龍はすぐ再生するため侍は苦戦したが、

 砂を投げつけて龍が眼をつぶった瞬間、龍の首に斬りつけて龍の首を斬り落すと

 石鳥居の端が落ち、以来龍が現れなくなったという。

しかし、天台宗を目の敵にする鎌倉幕府執権北条時頼の命により瀧山は閉山されたと。

なぜ北条氏は天台宗を避けていたのか?

修験者の行動などが問題視されたというのが定説かもしれない。

 修験たちは夫婦、家族をもっていたのですが、 ある説では、横暴な振る舞いが広がったということ。

妄想するに、女性の講が多かったことがあると思います。

東北地方の奥州札所三十三観音の勧請は、天台宗の開祖慈覚大師なのですが、 名取老女説もある。

盲巫を広めた宗派のお寺周辺に集中して札所観音霊場があることを考えれば、

女人禁制である山岳信仰が解禁されていた可能性も考えられます。

山に女が入ることはタブーとされますが、黙認されていたこともあったのでは?

出羽三山信仰が広がる鶴岡で生まれた「黒川能」の「鐘巻」 の話し(『法華験記』)を読めば、なんとなく理解できるのかも。。。

女は男を惑わす魔物と考えられていた中世。

罰を受けるのは、女だった時代です。

黒川能は世阿弥、音世弥が作成された部分があるそうですが、 謡曲「名取ノ老女」も音世弥が作成したものです。

熊野修験なのですね。

女性も行っていた山岳信仰を、黙認?していた天台宗のバックに、 広大な荘園をもち、

在地の長から「庄」に変えて、 熊野修験が武将たちの力になっていたことがありました。

阿古耶姫伝承も、羽黒・熊野信仰が関係していると思います。

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 さて、「恥川」という川がありますが、こんな阿古耶姫伝承があります。

「父の眠る千歳山の墓を訪ねんと遥か京の都から幾山河を越え悪路の 雑草の露を踏み分け

やっとの思いで千歳山の麓に辿りつき、 墓参りに詣でるため旅姿の乱れを直そうと近くに流れていた

小川に自分の姿を写してみたところ余りの顔のやつれ、髪の乱れ、

衣服の乱れに驚き恥じ入り口ずさんだのが、

「いかにせん 写るすがたは つくも髪  わが面影は 恥かしの川」

と呟いたそうです。

すると歌に感じ入った水神は姫が渡る所の流れを地下に流し水を無くしたと言われます。

その後、四十年間千歳山万正寺に庵を結び父の霊を弔い1036年9月15日に没した説もあります。

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焼きものの里・平清水のはじまりは、江戸中期の頃。

常陸笠間の小野荏兵衛が、 平清水の丹羽治左ヱ門方に寄寓して窯業を始めたといわれ、

現在では陶祖として崇められているが、実際には、 それを引継いだ岩波村の伊藤藤十郎らによって成功し、

世に平清水焼の名を知らしめた。

看板横の御堂に、おびんずる様が祀られていました。

わ~、こっちからみる千歳山は新鮮。

この後、平泉寺(へいせんじ)の後に参拝した大日堂がすごかった!

黄泉の世界に迷いこんだみたいです。

つづく

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