秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

名草巨石群 1

2014-09-01 | 洞窟・巨石探訪

主人が「足利にすごい巨石があるよ。」と、言って連れて行ってくれた。
栃木県の静かな山合いにあるその巨石は「名草巨石群」といって国の天然記念物に指定されている。
にも関わらず、その歴史がほとんど皆無であり、どんな人がどんな理由で森に住んでいたのかわからない・・・。

___3 (奥の院にある巨石の森)

説明では、
「名草の厳島神社境内の奥にかけて一帯に花崗岩の巨大奇岩礫が並んでいます。
花崗岩は非常に大きな固まりであったのが、節理(割れやすい石)に沿って風化し、水に洗われてついにいくつかの大きな石の累積となって残りました。
名草の巨石群は粗粒の花崗岩特有の風化状態を示す代表的なものとして昭和40年に国の天然記念物に指定されました。」

Photo12 (天然記念物 名草村ノ巨石群) 

・・・で?
国の天然記念物にしては寂しい説明。
これだけじゃわからんな~。

名草弁財天------------------------------------------------------

Photo13 ここにも弁天様がありました。
名草弁天は、810年~824年、空海上人が水源農耕の守護として弁財天を祀ったのが始まりと伝えられている。
白い大蛇の道案内により、清水の流れる大きな石の前に出た大師は、岩の前に祠を建てられたという。
1693年、全蔵院住職が、領地検分の家来に弁財天宮の再建を願い出て、下附金三両でお舟石に石宮を建立したのが本宮である。明治の神仏分離令により、厳島神社となった。

(厳島神社の看板より)

縄文時代、例えば岐阜県の金山巨石群のように、天文学的な石組みを設定した巨石がある。
どのような意味があるか詳しくわかりませんが、星や銀河、惑星などの動き、太陽や月の天体観測や、地軸のバランス(磁場の移動を防ぐ?)など今よりもすぐれた宇宙学を持っていた古代人がいて、宇宙を反映した大地の流れをたどっていくと巨石群に当たるらしい。

何か意図的に置かれたことは確かにあります。
名草巨石群もそのひとつでしょう。

名草巨石群は、厳島神社境内と、奥の院と2か所あります。

Photo08

巨石は日本に限ったものではなく世界中にある。
古ヨーロッパの巨石群をみると面白い。
イギリス・アイルランドに特に多く、直線上の列石では200個近く並べられたものがあり、プレアデス星団や大角星?に向けたとの天文学的な説もある。

糸を紡ぐ三女神の話では、朝飯前に業者の糸を売って家に帰る途中、転がっていた石を「ふざけて」積んだと伝わる巨石がある。
古代星の観測所と考えられている。そのような場所に女性の存在がいつもあるので、古代は卑弥呼のような存在が大きかったと思います。

Photo06

また、穴あき石というのもあり、一人がくぐり抜けられるくらいの大きな穴で、その直線上に立石がある。この穴石は、手足の病気に関する治療力があり、石の周りを東~西に9回周ると良いとされる。
日本の神社にもたまに藁で作られた輪が置いてあるのを見かける。
輪の周りを回ると良いといわれているので風習が似ています。

この穴の石は、急な体調の変化で生後発育が悪くなる子供の「取り換え子」といって出産後の女性が、この穴をくぐると健康な子供に取り換えられるという。それは、良い精霊が住んでいるので本当の(健康な)子供を取り返してくれるという。

Photo10 (空洞に巨石を置く)

 

Photo05 (四角い穴のある石)

巨石群の中に、渦巻き、同心円などが彫刻されているのがあるそうだ。
みたことはないけれど、日本にも見つかっている。
イギリスでは、「のっぽのメグ」といわれる巨石があり、同心円や渦巻きの他、カップマークのくぼみが彫られている。
左巻きは冬の太陽、のっぽのメグとは魔女のこと。
世界はたったひとつの言語で語られたヒエログラフは今も巨石に刻まれています。

(参照:巨石 イギリス・アイルランドの古代を歩く 山田英春著)

Photo09 (自然か人工の穴か?)

さて、名草巨石群にのっぽのメグはいるのかな?

神社から歩いて奥の院の巨石までいけますが、この日はべっとり湿気たっぷりで、ジメ~っとしていた。
涼しんだけど、暑いというすっきりしない日…この湿気、体力的に無理っす。
車でも(道は狭いが)行けるというので、即決。車で奥の院まで行った。

車での道中は不安でしたが、対向車とのすれ違いは神経使いますので、大型車だとちょっとしんどいかも。
着いてみるとそんなにうっそうとした暗い森ではなく、何だか誰かに管理されているかのように、清楚できれいな森に感じました。
不思議な穴があったり、磯山弁財天でみたような風穴なのか?そこに石が積まれていたり、
清水が流れるところに石を置くのは、遠野で見た時と同じ。
水と石は深い関係があるようだ。
この水を浄化するために石を置いているのかもしれない。
田畑や大地に潤す水を良くするために、森を手入れするだけではなく花崗岩の力を借りていたのでしょう。波動療法的な感じでしょうか?

さて、この巨石にどんな歴史があったのか知る術はありませんが、帰ってきてから、いろんなところに繋がりました。

Photo15_2 (巨石の下には清水が流れ出る)

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「名草」と聞いて、思い浮かぶのが「ナグサトベ」
それは、ずっと前にネットか本だったか何かの史料で歴代巫女の名前が記されている名称の中に、「ナグサトベ」という名前があり、トベやトメが巫女の名前であることをその時知った。
名草巨石群は、「ナグサトベ」という女性が北関東にいたのだろう、と思っていた。

ところが!これも今更という感じではありますが、ネットで「ナグサトベ」を調べていたら、「名草戸畔 古代紀国の女王伝説:なかひらまい著」の本がヒットした。
しかも、その本の協力者である写真家小野田真理さんとは、よく秩父探訪している知人でした。
そーかそーか。思い出した。
真理さんとは4年前ボブさんと三峰山へ行った時に出会って、その時、熊野にいた女性酋長を調べている人がいて写真を撮るのでよく熊野へ行っていると言っていたのを思い出した。
その時は、名草の「な」の字もないほど無知で、熊野や西日本の歴史がわからないので、へ~そういう人がいたんだね~という感じでした。
ようやくそれを思い出し、ナグサトベは北関東にも来ていたのか?知りたくなって早速、本を購入しました。

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その前に、栃木県の古代史についてちょっと触れてみたい。

___2 律令制の前は、栃木県は下野国と那須国と二つの国に分かれていた。
殺生石の伝説にあるのは、那須国の話。
下野国は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の四世の孫奈良別が国造(地方酋長)として支配し、那須国は景行天皇の時に建沼河命(タケヌナカワノミコト)の孫大臣命が国造になって支配した。

タケヌナカワノミコトは、崇神天皇のとき、将軍として東海に派遣される。
『古事記』によると、高志(越)の国の平定に向かった大毘古命(大彦命)と相津(会津)で出会ったとされ、これが会津の地名の由来という。
豊城入彦命とは同じ豪族とも考えられているので、全く下野国と那須国は違うというわけではない。

4C頃から古墳があり、那須国は那珂川流域が中心にあった。
渡来人がやってきたのは、4c末頃~6cにかけて。
大和、摂津、河内、山城などの畿内地方から移住し本格的に移住をしたのは、7C半ば以後であるとされる。
日本書紀によると、天智天皇の時代、百済の男女2千人を東国へ移住させ、その後の天武天皇の時代に、百済の僧侶、俗人23人を武蔵国へ移住させた。
持統天皇の頃に、高句麗人56人を常陸国へ、新羅人14人を下野国へ移住させ、田を食料を与えて生業につかせたとある。

下野国に渡来した人は新羅人であり、那須地方に移住したと考えられている。
(参照:古代下野への誘い 塙 静夫著)

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___5 巨石があった時代は、それよりもっと古い時代。
ナグサトベも古い時代の人。
BC3000~2000年頃に北九州~和歌山県へ上陸したと伝わる。
初代ナグサトベの誕生はこの頃から。

ナグサトベの本は、伝説や神話ではなく地元の人たちやナグサトベの血をひく方たちの口承を元に書かれているので、とても貴重な話があります。
神武東征の話もとてもリアルで、よくわかる。
やはり、口承や伝承はどんどん発信すべきだと思いますし、このような本があって良かったと思いました。

ただ、名草巨石群とナグサトベが関係しているか本には記載がないのでわかりませんが、全く関係していないとも言えません。ここまでやってきた子孫はいたのでは?と思います。
詳しい話は、この本を読んで頂きたいのですが、勝手に妄想してみた。

ナグサトベは、和歌山にいた女性酋長で日本書記に、
「6月23日、軍は名草邑に着いた。そこで名草の女酋長(女蛮族)を殺した」
と、記されているだけである。
軍とは神武東征の事ですが、(地元の人々により)そのナグサトベの遺体を3つに別けて、
頭は「宇賀部神社(おこべ)」胴体を「杉尾神社」足を「千種(ちぐさ)神社」に埋めたという伝承。

しかし、口承ではナグサトベは殺されておらず、神武に降伏したと言われている。
降伏した理由は、二ギハヤヒがナガスネヒコを切ってしまったことにあり、二ギハヤヒと交流があったナグサトベは降伏しざる得ない状況にあったという。

Photo14 宇賀部の宇賀は、弁天様の宇賀神と通じているのでしょうか?
頭を意味する「こうべ」から宇賀部が当て字になった?のだとしたら、神戸もこうべだから頭だ。
神戸には六甲山がある。

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この著によると、宇賀部神社がなぜ頭の神様といわれているのか?について、ナグサトベの子孫である小野田寛郎氏は、

「御先祖様は、百姓仕事は体が第一だが、慣れないうちは手元をしっかりみて、鍬の先が一分の狂いもないように頭を使って体に教えこまなければならない。
手慣れてしまえば、体にまかせるだけでできるようになり、さほど頭を使う必要もなくなる。
そのゆとりで他のことに細かく注意し、まわりのことをよく見て、立ち休みのときに考えれば、何か良い案が浮かぶ。
それを実行すれば、生活(金銭)にゆとりができ、人間としても賢くなれる」と教えたもので、頭脳ばかりを使って金儲けしろ等といったのではない。つまり商業や金融などの実業でないもので金儲け意味するものではない」

弁財天も「財」にいつの間にか変わっている。「才」や「斎」ではなく。
何でもお金を出してくれる女神にされてしまった・・・。人間のエゴは神々をも、もてあそぶ。
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Photo16_2

(異界に通じる胎内くぐり岩=子宮にたとえ、生まれ変わることができる意味がある)

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ナグサトベの口承によると、ヤタガラスはナグサトベにより山へ追いやられた形になったそうです。
AD200~300年頃、ヤタガラスは元々山岳地帯にいた部族であった。
ナグサトベは九州(大分県)に上陸し、漁や山の暮らしをし、稲作に知識もあった。
ムラとしての機能もあり、統一されていくとどんどん人口が増えていったので、紀伊半島へ移住したそうです。
神武東征でヤタガラスが道案内したのは、その時のナグサトベに追いやられた不満があったから寝返ったといわれています。

神武天皇は抵抗するナグサトベを避けるように熊野を目指したようです。

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Map_2 (Google earthより)

ちなみに、関東地方には「石尊山(せきそんざん)」という名前のつく山が集中している。標高は低いが、巨石群に隣接して足利にも石尊山がある。この近くに「織姫神社」がある。向かいに面して群馬県安中にも石尊山がある。埼玉県小川市にもある。

間には利根川が流れるので、利根川を挟んで石尊山とつく名前が偶然?ある。

足利の石尊山の伝説----------------------------------------------------

 今からおよそ1500年ほど前のこと。それまで無名の山だった現在の石尊山の上空に5色の雲がかかり、雷鳴とともに豪雨が降り出した。山は轟音とともに揺れ動いた。この雷雨と山の鳴動は一週間ほど続いた。8日目の朝、村人たちが山を見上げると、山頂にこれまでなかった大きな岩が出現していた。

 この岩は後に釈迦岩と呼ばれるようになる。村人たちはこの岩への信仰を深め、山は「鳴動山」あるいは「鳴山」呼ばれるようになった、という話である。

石尊山信仰についてのサイト http://www5f.biglobe.ne.jp/~sy-baba/hosokusekison.html#iti

 

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