秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

登喜盛の長者屋敷清水(2)

2017-09-07 | 東北地方の伝説(岩手県)
大昔からこの川の水系から湧き出る清水は、7つの石英安山岩質の
岩の割れ目から、湧き出ている蔵清水という。
蔵は岩のこと。

地元の伝承より、大正時代、ある夫婦が蔵清水の祭りのお参りをしようとした2日前、
夢に女神が現れた。
「長者屋敷の丘の蔵清水を支配する女神と言い、
7つの蔵清水が湧いているが、これらの清水はその昔、この地を愛し、
自然と共に生きてきた縄文人が暮らしていた。
この水は飲んでもおいしいし、病気や目が治る水でもある。
しかし、近頃のマトーの人たちは、そのことを忘れ、丘は荒れ、参道も悪路になっている。
なのでお前たち夫婦に白羽の矢を立てた。蔵清水の管理をお願いしたい。」

と言ったそうだ。



そのご宣託を受けた夫婦は、別当職につき、補修工事をした。
それから、蔵清水のご利益を聞いた人たちが集まってくるようになったそうだ。





元々信仰のあった場所に、霊場を開いた巫女がいたことを物語るものですが、
7つの蔵には、7つ井戸といったように、全国にも7か所に井戸を置く話がよくあります。

長者屋敷伝承にある「神子田多賀康の娘「岩花」を家宝のお釜とともに、幽閉した」
というのがありますが、「神子」という名前から、岩花はイタコのような巫女だったと考えられます。
お釜とは、水分神との事。
水と岩の関係というのは、かなり深い意味がありそうです。


----------------------------------------------------------
長嶺神社に祀られている猿田彦神について妄想したいところですが、
この場合の猿田彦は、猿ではなく「申」の意味かもしれない。

例えば、「岩の割れ目から湧き出る蔵」というのは、女岩であり女陰石のシンボルです。
その岩の割れ目から誕生した話が、中国四川省と雲南省にあります。
それが登場してくる禹(う)の一族なんです。
神という文字は、「申(しん)」から由来します。


図:申の金文:双頭渦文から四頭渦文へ。


図:荻原秀三郎「稲を伝えた民族」

その「申」は渦巻きです。

隼人の盾

いろんなところで、禹が繋がってきますが、これが「水」のことをさす。
荒れ狂う水。荒申で、荒神(こうじん)。
申と猿は別ですが、「猿」は水が荒れるものと考えられている。
エミシ征伐やアイヌ人がいた場所に、よく「猿」の名前がつく岩がいくつかあります。
猿跳岩、猿鼻、猿岩、猿ヶ石川、沙流川など。

岩手県一関に照井堰があります。
800年以上前、田んぼをひらく時に工事を行った時、猿鼻という山が登場する話がある。
猿鼻山にさしかかると、工事が進まず、落石などもあり思うようにいかないと。
そこで、平泉の高舘にいた弁慶に相談する。
弁慶は瓜が大好きで瓜畑の瓜を全部食べてしまったと。
その後、工事が順調に進んで水が流れるようになったという。
瓜と工事が上手く進んだ理由がわかりませんが、瓜は、瓜子姫があるように
焼畑から農業への転換期を示していると考えられるそうです。
その焼畑を行ってきた民族が、猿田彦であるという説。

また、福島県国見町に「水熊」という大きな黒い怪獣がいた話があります。
人々はなんとかこの水熊を退治したいと願っていましたが、
広くて深い湖底を移動する水熊になすすべがなかった。
ある時、この地を訪れたヤマトタケルは、その話を聞き、
五十沢の猿跳山に水路を開き、湖の水を干して水熊を退治しようと思い、命令を下す。
人々が猿跳山から切り開くと、湖の水はたちまち流れ出し、
黒岩沖に口から炎をはき、巨大な怪獣が現れた。
ヤマトタケルは、大きな弓をつがえ放たれ、矢は命中し、水熊は退治された。
その後、流れは阿武隈川に、湖底は豊かな盆地になりました。

国見町は、半田山があります。
半田沼の水蜘蛛伝承や赤牛伝承も、土砂災害を伝えているものです。
------------------------------------------------------
さて、その国見町の話と似ているのが禹の伝承にもあり、熊が登場する。
「四川岷江上流の禹の神話」の公開講座の資料より。

「漢書」巻6武帝紀
啓は禹の子である。禹が鴻水工事を行い、?轅山(かんえん)を開通させていたとき、
熊の姿だった。禹は妻に「合図の太鼓の音が鳴ったらメシをもってきてくれ」と言った。
禹は石に躓き、その石が太鼓にあたった。妻は合図だと思い、やってくると熊の姿を見た。
妻はそれを恥じて崇高山の麓まで逃げ、そこで石と化し、啓を産みおとすところだった。
追いかけてきた禹が「わが子を返せ」と叫ぶと、石は北方に破れ、中から啓が出てきた。


古代ギリシャでは女神が熊の姿をしている考え方があり、何千年にもわたって伝説に残され、
クレタ島でも熊の聖母が生き残る。
洞窟で熊の女を意味する祭りが行われている。

中国では、クマは、男性のシンボルであり、男の子の誕生を予告する陽の表現だとされる。
クマは、自分のすみかの山と関係があり、ヘビ(水に対応する〈陰〉)と正反対である。
せいぜい、雄のクマを雌のクマに相対的に対置させたことを表す。
また、錬金術の用語では、クマは、本能と進化の最初の相に対応する。
その色は、第一質料の黒である。
※Bear(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/bear.html)より

ということで、「黒い姿」や男鹿半島のナマハゲがコウモリという黒い姿であることも
世界中でクマを神格化してきた大地母神を「クマ」にしているわけです。

伝説より、禹は羌族出身で石紐から産まれたとある。
石紐とは、岩間の窪みのことで、岩塊中より生まれた人は死して再び岩塊中に
帰ると信じられてきた。
これを岩間葬(がんかんそう)と言って自然岩の亀裂部分を利用した特殊な墓葬。

五帝時代、帝舜が少数民族である禹を抜擢したことから、治水に活躍。
帝位の継承を受け、
最後は長江下流の会稽で没した と伝わります。
それから禹は治水の聖王と呼ばれ、英雄として伝説に残されるのです。

禹の治水方法は、自然の景観をそのまま残し、
渓谷の流れを利用して治水を行ったそうです。(具体的には不明)
今のように、ダイナマイトで爆破して水脈を変えるやり方ではない。
例えば、楽山大仏もそうですね。
巨大な大仏を作ったのは、濁流の流れを変えるためで、これがダムの発祥です。


これが、長江上流の金沙江。雲南省の虎跳峡。(Wikipedia)
すさまじい大河です。
「金沙」が、「カナサナ」みたいだね~。


雲南の峡谷地帯を流れる金沙江。(Wikipedia)
ひゃー,ふかっ(・∀・。)
--------------------------------------------------
「岩の割れ目から」清水が湧き出るのを神格化した岩信仰とは、
禹の岩間葬がルーツにあると思います。
また、なぜこの場所で治水が行われたかというと、やはり地震が非常に多いところだったからです。
2008年四川大地震で岷江(びんこう)が震源地でした。


都江堰と岷江(古代の水利・灌漑施設:Wikipedia)
----------------------------------------------------
渡来人は、大陸から渡ってきているので、中国北部の禹一族の話を聞いていたと思います。
また、それを継承した人が日本へやってきて、稲作と治水工事を行ってきたと思います。
そのような人たちは、雷を信仰してきました。
イナリは「鋳なる」で鉄を打つ意味もあります。
新しい鉄の技術と稲作をもたらした雷となっています。

なので、治水工事を行った人は、アイヌ人や蝦夷ではなく、北部中国がルーツとして
日本海を経由してやってきた人であり、
南へ南下した人と、北へ北上した人と別れたのですが、同族だったと考えられます。

長者屋敷清水の岩から生まれる水の誕生は、天の岩戸を想像します。
イワクラでも、磐に亀裂が入っている巨石を神格化している石はとても多い。
その意味に、羌族たちの岩間葬がルーツにあると考えられるのです。

なぜ、エミシが朝廷によって制圧されるのかは、難しいところですが、
アジールという考え方もある。
これも禹の居住地域に関係するのです。
エミシが戦いに強かったのは、アジールという聖地が関係していたからでは?


※漢の画像石に見える禹 (武梁氏石祠堂画像石)

「夷人、その地に営し、方百里、敢えて居牧せず。」(「華陽国志より)
この地で生活してもあえて放牧をしたりしないといった意味。
それは、禹の住む聖地であったため。
ただ、そこへ行けば、3年で出所できると。

アジールには、禹がいた。
その光景は、大木を立て、鈴鼓を県けて鬼神に事うと。
逃亡者がくれば皆之を還さず、好みて賊と作す。

アジールとは、ギリシャ語のasylos(不可侵)からきており、
神殿、寺院、森などは役人でも入りこめない聖地だったと伝わる。
犯罪者もそこへ逃げれば逮捕されないという。
もし悪いことをしてもそこへ逃げれば3年で出ることもでき、または、返さずに賊人を作ったそうだ。
なので、朝廷は出羽や陸奥国の東北に柵をたくさん設けて、アジールとして認めていたのではないでしょうか。
逮捕されない暗黙の社会的了解。

またそれは、「宗教的な権威に守護されている避難所」とされる。
出羽三山や熊野修験が、そのような人たちを保護し、宗教的思想をもたらしたうえに、
荘園を与えてもらいながら、稲作をすすめた。
それは政府も容認していたわけです。

ただ、古代のアジールと現代のアジールとは、解釈が違う部分があります。
一概に、それすべてがアジールとは言い切れませんが、
柵を設けたのは、アジールとの境界といえると思います。

東北に逃れた物部氏は、アラハバキ族がいた北東北のアジールへ。
犯罪者というわけではないですが、物部氏は、ナガスネヒコ一族に賊として受け入れられたのでしょう。
また、そのような人たちを利用してきた大和朝廷があり、坂上田村麻呂がそれに関与していた?

また、アテルイなどエミシの聖地には、母系社会があります。
禹の地域も、母系社会です。
薬草、主食は大麦、ヤクの家畜、織物、塩分の強い土なので塩を作っていた。

また九州の志賀島で発見された漢倭奴国の金印と類似している。
滇(てん)王国の「滇王之印」が出土し、取手は蛇です。
テンという国は、青銅器が発達していた国でした。
それが日本の出雲に繋がっていきます。


青銅の彫像
---------------------------------------------------
また今回も禹が出てきましたが、最近、大地の荒れ方が悲惨なのですが、
水が極端に減っているからだと思います。
それだからか、そういう場所に大雨をもたらす現象は謎ですが。

大洪水が世界中で多いことに、警告している禹なのですが、
岩場を守る意味は、岩から生まれた思想に基づく。
その岩の亀裂から生まれたのが、日本では「水」であり、清水となり川へながれ海へでる。
荒れ狂う水は、荒申であり、荒神となる。

ということで、申も龍であり、サルとは塞となり、アジールのように、
大きな木を立てて、何かを守っていた・・・わけですね。。。
いやいや、北東北はすごい。
アテルイもすごい。
相変わらず妄想しすぎですが、ようやく夏の宿題が終わった!笑

そろそろ紅葉のシーズン到来です。
しばらく山にこもります。
コメント

登喜盛の長者屋敷清水(1)

2017-09-05 | 東北地方の伝説(岩手県)
最後に立ち寄った場所が、八幡平にある「長者屋敷公園」でした。
やっと行くことができて感激~。
今回も、3年前と同じ松尾寄木にあるパドックでお世話になりました。
八幡平温泉をひいており、離れにお風呂があるので、ゆっくり温泉に浸かることができます。
料理も美味しいし、水がとても美味しいので珈琲が上手い!
猫もいるから、楽しい。おりこうさんで、部屋には入ってこない。
廊下で寝てたりするから可愛い(´・∀・)
アンティーク調の雑貨もあってアットホーム。女性にも人気のようです。

この場所は、登喜盛というアテルイがいた場所なので気に入っています。
八幡平は今回で4回目ですが、毎年訪れたくなる場所。



その登喜盛が一番、大事にしていたと思われる清水がある。
「長者屋敷伝説」

長者屋敷は奈良時代、高丸悪路の一子登喜盛の居城で、
登喜盛長者屋敷と呼ばれていたという。
登喜盛一族は、各地からかすめ取ってきた財宝をこの地に蓄えて住んでいた。
盛岡の大宮に住む神子田多賀康の娘「岩花」を家宝のお釜とともに、
この場所に幽閉したことから、お釜霊場の名も残っている。
神子田多賀康に、娘の救出を依頼された征夷大将軍坂上田村麻呂は、
早速、登喜盛一族を討ち、岩花を助けだした。
田村麻呂は、その時、ここにわいている霊泉清水で、天皇ご下賜の刀を
洗い清めたことから、太刀清水とも呼ばれた。





よくある伝説ですけど。
一関の達谷巌谷堂の姫待不動尊の話に似ているねえ。
この水は、「昔は目の病に効く」といわれたそうです。
霊場として水が祀られ、この近くには縄文時代の複合遺跡も見つかっている。

「およそ1200年前、ここに住んでいた長者は、花嫁を迎え入れる大行列を
チャシ(砦)の前をさえぎる長川にまたたく間に、
豆俵の橋をつくって無事に迎え入れたという事から、「豆渡り長者」とよばれ、
人々から尊敬されていました。
その後、大和朝廷の侵攻に対し、長者は蝦夷の総大将としてここから出陣していきました。
そして征夷大将軍の坂上田村麻呂率いる朝廷軍と壮絶な戦いをし、
大和の人々から大変恐れられていたアテルイこそ、「豆渡り長者」であると伝えられています。




この場所で、チャシ(砦)の館を建て、松尾八幡平周辺のいくつかのコタンを束ねる
サパネク(族長)だったと考えられます。
チャシは、他に、水沢市羽田の田茂山、北上の展勝地の丘、一戸町の御所野の丘だったと推定される。

八幡平は豊かな森がある自然の宝庫です。
住むのにとても良い場所だったと思います。
八幡平の地名由来も、エミシとのゲリラ戦があった時に、
麻呂の部下がこの地を砦としていた。(源太森)
岩手山の方へ逃れたアテルイを追っていた麻呂ですが、
八幡平を占拠したとし、戦勝祈願として八幡神を祀ったことから八幡平といわれる。




中央に小さい鳥居がある。ここから湧き出ているようです。

伝説にある、神子田という人がよくわかりませんが、
神子田という武将は、豊臣秀吉の時代に登場しています。
関係するのか不明ですけど。

登喜盛について知ったのは、図書館でたまたま見つけた
「日高見国:松尾八幡平物語」でした。
「屋敷台」は、アイヌ語で「イ・アシ・ケ・タイ」→「ヤシキタイ」
その意味は、(畏れ多い)それが立っている所の森。
それは、イナウの事を示しており、祭壇があったと考えられます。
祭壇があった場所は特定されてませんが、おそらくストーンサークルであると。
屋敷台ストーンサークル(釜石環状列石)なんですね。
岩手県八幡平市柏台(旧・松尾村寄木字畑、通称釜石地区)にあり、
亀ヶ岡式土器が見つかっています。


ストーンサークル(Wikipedia)

登喜盛は、この場所から後生掛の方へ逃れたといわれます。
鹿角にも大湯ストーンサークルがありますが、登喜盛一族が祭壇にしたと思います。
後生掛の意味は、「自分の来世(後生)」を願った意味があるそうです。
今の自分の代に代わって保護してもらうよう家族の幸せを願った所と。
登喜盛が来世を願った場所が、藤七温泉がある畚岳(もっこ岳)です。(写真右上の山)


(Wikipedia)

サパネク(族長)は、八幡平を拠点とし、北は鹿角と胆沢平野をつなぐ
中継地点としており、政治、軍事的にも重要な役目があったと考えられるそうです。
一応、参考に、アテルイがいた時代を「38年戦争」というのですが、
770年~811年の争いで、蝦夷が亡くなった数は、約1454名。
大和朝廷側は、約1061人。そのうち、巣伏の戦いで溺死した数は、1036人。
不明な数も多いので、これよりもっと多い。
他にも100近い蝦夷の村が焼かれ、逃亡した大和側の兵士は、340人くらい。



この絵をみて、あ!と思いだしたことがあり、
昨年秋に、大物忌神社へ精麻を奉納した前にみた夢で、赤く太陽のような光の中に、濃い顔のおじさんが見えた。
こんなに濃くはないんだけど、南方系の人だと思った。それがなぜかニギハヤヒだと思った。
「松尾八幡平」の本でも、夢に現れた登喜盛の図も、濃い顔で髭のある南方の人だった。
左目は普通だけど、右目は怒ってる顔。
夢で見たときに怒ってるように見えたのは、こういう事なんですね。

エミシの地に、無念さを感じるのは、怒りをまだもっている事にあるのかもしれない。
看板の説明も、この絵にも表されていますが、「まほろば」というのは、
「マ・ホロワ」で、真実の地という意味があります。
真実の歴史を知らないまま、誤解されたままの古代史を信じている人がいる限り、
蝦夷鎮魂には至らないと思っている。

ちょうど先週土日、熊本のあっちゃんが祈りの旅をするため、縄文アラハバキの北東北を巡っていました。(神人さんと)
それで仙台で会ったのですが、巡った場所は、私がお盆後に行った場所と同じ所でした。
ずっと前から、岩手山の三山伝説がある送仙山と関連する浮島古墳に行きたいと思っていたところ、
あっちゃんが鎮魂のために行ってくれた。

みな、それぞれの役目があって、蝦夷の地を辿ってくれている。
やっぱり、東北地方は惨酷な歴史があり、その破壊の上で生活しているのです。
過去は過去ですが、歴史をあなどってはいけない。
鎮魂や祈りをささげる必要があるから、そういう人たちは大変ですけど、お役目として導かれていると思います。

皆のお役目があって私も自由な妄想ができるし、勝手な事を言っている部分もありますが、それを許して頂いていると思っています。
ただ、私は体で受けるのは嫌なので、頭で考えることに徹してますけど。笑。
---------------------------------------------------
さて、看板の説明をよむと、アテルイは悪い山賊になっていますが、
なんだかんだと清水で刀を洗う麻呂は、刀を洗うことばかりしてるような。
さすがに霊水を汚すことはしないので、刀という神宝を敬う意味で、
刀を洗う=清めることがあったと思います。
ユダヤだと思うので、洗礼をした所だと思いますが。



霊水というのは、動物もたくさん水を飲みにやってくるから、
美味しい水なんです。
マタギとしては獲物を捕らえるのに、最適な場所。
美味しい水があるから、縄文時代から人が住んでいたわけです。





大和朝廷は、農業をしてほしかったので、開拓をすすめます。
住む家も、木を使うことが多く、お寺を建てるにも木が必要です。
森を開拓するのに木を伐採し、清水を田園に流すために水が豊かな場所に移住してきます。
人口も増えてきますから、大変です。
葦という湿地帯は、稲を育てるのに好都合だと考えた渡来人が、
葦のある場所に開拓をすすめたという。
葦も同じイネ科なので、稲が育つわけです。
そのような湿地帯に多くの弥生人が住んできました。

そうなると動物も移動を始めるので、マタギは稲作に協力しませんから、
どんどん北上していき、平地から奥山へ逃れて住むようになる。
そのような人たちが、サンカとなり、山民となり鬼にされていく。

著者によると、登喜盛は蛇を信仰していたスンダドントの人たちと。
温暖化による環境の変化で四方に移住したといわれる。
スンダドント(スンダランド)のルーツをもつ人は、タイ人、ビルマ人、マレーシア人、
フィリピン人、台湾人、ボルネオ原住民、インドネシア人など。

前回、蛇の話になっていましたが、真虫のことですね。
蛇を信仰していた南方の人たちとは、アンコールワットの遺跡にもある。
7つの頭をもった大蛇(ナーガ)です。
大蛇はナーガとよぶ。(スネナガヒコ)

ぱどっくの近くにも蛇頭清水(金沢清水)があります。
金と蛇というところから、イメージはアラハバキのような感じがします。
アラハバキ族は、蛇と金を象徴としている気がします。

蛇で登場するのが上毛野田道で、猿賀神社です。
エミシが上毛野田道の墓を荒らしたところ、大蛇になって現れたとされる。
エミシが、墓をあばく理由とは、上毛野氏は元は、土蜘蛛などの先住民だったと思います。
後に朝廷側についた熟エミシとなり、稲作を進めていくのですが、
亡くなった後は、蛇を祖とする人だから、それを伝承するために、
エミシが墓をほって大蛇が登場した。という伝承にしているのです。

さて、水が大事!ということを最後に長者屋敷で教えてもらいましたが、
鹿角から、猿田彦だと思っていました。
でも、サルちゃんは、よくわからない。
実家の産土神がサルちゃんですが、よくわからん。
えんぶり長者や猿賀神社など、猿田彦を妄想しようと思ったけど、
虫ばっかり出てくるから、蛇なんだな、と思っていた。

が、長者屋敷公園にいったら、神社があった。
それが長嶺神社というもので、なんと、ご祀神が猿田彦神だった。



その時は、神社の由来がわからなかったので後で調べようと思っていましたが、
ここでサルちゃん登場。
実家の神棚も猿田彦神という護符だらけなので、
小さい時から、神様は猿田彦しかいないと思っていた。
そういうものだと思っていたから、別に気にしたことがなかったけど、
ここでサルちゃんとは何かを妄想してみたくなった。
でも実態がわからない。それは人じゃないからだよね。

長嶺神社について調べると、伊勢古市に長峯神社があり、アメノウズメを祀る。
なので、芸能の神様として信仰が厚い。
ということは、長者屋敷に祀られている長嶺神社に猿田彦神を
祀っているのは、伊勢の長峰神社に由来するものでしょう。

「神都長嶺記」より、http://taikou-mochi.com/nagamine.html
今から二百年余り前の、寛政八年(1796年)江戸時代後期の頃の古文書で、神宮
の宮掌(神主)大内人秦定賢によって、当時の人々の生活、
文化及び故事来歴等が記されています。

その一説によると、旧古市街道にあつた神宮参拝のために伊勢の国司北畠氏の力添えによって、
整えられた長嶺茶屋で作られていた焼餅を、秀吉公が
「美味也と御称美なし故太閤餅と号けし云々」と記されています。
古市は、その昔長嶺(ながみね)と呼ばれ、伊勢音頭、古市歌舞伎の発祥地と言われ、
外宮から内宮に至る参宮街道としておかげ参りの人々で大層な賑わいだったとの事です。
古市にある長嶺神社は、天の岩戸の前で舞をまったとされる
天細女命(あめのうずめのみこと)他、八神がまつられ、
現在も芸能の神として崇められております。

-------------------------------------------------
長嶺神社は、最近祀られたものと思いますが、それだけではないのです。
岩から染み出るこの清水がなぜ信仰になったのか。
つづく。
コメント

義経の恋人:皆鶴姫伝説

2017-07-20 | 東北地方の伝説(岩手県)
義経が京都・鞍馬山(鞍馬寺)で修業をしていた頃のこと。
義経に想いを寄せる皆鶴姫が、義経のために父・鬼一法眼のもとから
中国伝来の兵法書を盗み出した。
義経が奥州へ出奔した後、そのことを知った鬼一法眼は皆鶴姫を罰するため
舟に乗せて海に流したという。その舟が流れついたのが、気仙沼市松崎前浜の母体田海岸。
夢のお告げでそれを知った義経は、姫の遺骨と観音像を見つけだし、
平泉と気仙沼の中間に観音寺を建てて祀ったという。

いまでは観音寺は気仙沼市本町に移り、皆鶴姫伝説とともに、
義経が使っていた笈が伝えられ、境内には弁慶袈裟掛けの石も残っている。
また気仙沼市内には、観音寺と母体田の高台に観音堂が建てられ、皆鶴姫の霊が祀られている。



(芸術的な観音様)

母体田の観音堂
http://www.miyagi-kankou.or.jp/kakikomi/detail.php?id=3922

ところで、皆鶴姫の話は、福島県の会津にも伝わっています。
会津地方でも、この地で皆鶴姫が亡くなったという。
詳細は、こちらのサイトへ。

会津の皆鶴姫
https://www.aizukanko.com/spot/163/

母体田という地名は、モタイと読ませる母体ですね。
アテルイとモレのモレは、名前には諸説がありますが、母體(モタイ)とよぶ。(磐貝公母體)
アテルイが生まれたといわれる場所を、田茂(タモ)という。(田茂郷跡呂井)
モは、母の地名をあてる事が多い。
母袋(もたい)、田母神(たもかみ)など。
栗駒山は磐井郡駒形山で、母体村といった。
ですから、アテルイとモレは、イエスとマリアの分霊にされているのです。
誰かがそのように祀ったのだと思います。

会津と気仙沼の関係はわかりませんので、
今回は、気仙沼の皆鶴姫神社の妄想を。
この日は、室根神社へ参拝する時に、室根山の途中にあったので、立ち寄った時のものです。
室根山の側にあるので、義経の従者が熊野信仰を気仙沼(唐桑)にもたらした
穂積氏の系譜なので、この神社も、熊野と穂積氏が関係していると思います。
室根神社については、こちらを参考にしてください。

※熊野老女物語
http://blog.goo.ne.jp/natoriuba/e/f1feb6dec59be1f8cfd5c71c87e02929
----------------------------------------------------
ここの皆鶴姫神社は、旧室根村文化財保護委員会発行の「奥州室根山」によると、
義経を尋ね室根町についたところで息絶えたとのと言い伝えがあり、
そのことを土地の方が不憫に思い祀った神社とのことです。





他にも、金売吉次との関係を示す話も。(日本伝承大鑑より)
「気仙沼の港を見下ろす高台にある古刹である。
天台宗に属し、全国に七寺のみという延暦寺根本中堂の「不滅の法灯」を
分灯された寺院である(東北では山寺立石寺・平泉中尊寺と並んで三寺のみ)。

この寺院には名前のごとく観音菩薩像が安置されているが、この像には1つの悲恋の伝説が
残されている。
源義経がまだ鞍馬で修行に励んでいた頃、文武の師・鬼一法眼の娘である皆鶴姫と
よしみを通じて、法眼の持つ兵法書『六韜』を盗み出した。
そしてその書を携えて、金売り吉次と共に奥州藤原氏の許へ赴いたのである。



平泉に着いてしばらくして、義経は夢を見る。
京都に残してきた皆鶴姫が奥州の母体田の浜に打ち上げられている夢である。
不吉な知らせとばかりに義経は浜へ駆けつけると、人だかりができている。
そばへ行くと、うつろ船に乗せられた皆鶴姫の亡骸があり、
その手には観音像が握られていたのである。姫は父の法眼の怒りを買って、
うつろ船で流されていたのである。

事の真相を知った義経は、姫の冥福を祈るために観音像を観音寺に納めたという。
またうつろ船の残骸の一部、義経の使っていた笈なども観音像と共に、
観音寺に安置されている。
(異説では、皆鶴姫を乗せたうつろ船が浜に漂着すると、
高貴な人を助けて後難に巻き込まれるのを恐れた村人が幾度も船を沖に押し戻している
うちに姫は衰弱して亡くなったともいう。
また衰弱した姫を老夫婦が助けて住まわせていると、
数ヶ月後に義経の子を産んだが、産後の肥立ちが悪くて結局亡くなってしまったともいう。
いずれの話でも、義経とは会えぬ運命で終わっている)


皆鶴姫がうつろ船で漂着したという伝承地が、先にも述べましたが弁天町の一景島公園だそうです。
しかし、大震災の津波により、公園内にあった一景嶋神社もろとも流失してしまったという。
こちらは、それ以前の写真です。
今はもうないんですね・・・残念。



ところで、この伝承が伝わる観音堂も、三十三年に一度のご開帳があるとの事。
先日、登米の興福寺のご開帳にいってきましたが、
奥州三十三観音というのは、蝦夷の歴史が関係しています。
蝦夷討伐の為、というより、鎮魂のために天台宗が祀ってきたお寺のようなのです。
それがやはり「鬼」なんですね。


(元はこちらに神社があったようです。)


※七つの星があります。

「観音寺は気仙沼の市街地を足下に望む丘陵にあり、この地域きっての名刹です。
創建は和銅年間(709)、当時蝦夷の地であったこの地を藤原宇合が
蝦夷の勢力を鎮圧しその首塚を南流山にまつったのが始まりと言われています。」


この南流山には、南流神社があります。室根山の麓です。
由来には、「今を去ること1330年ほど前、「朝一時山(あさいっときやま)」と呼ばれていた
室根山には、身の丈八尺(2.4メートル)もある、髪が縮れ赤ひげの鬼のような山男たちが
住んでいました。

この山男たちが人々の生活を脅かしていたので、里人の願いにより、
朝廷では953騎を派兵し、討伐を行いました。
討伐した首領の首を山の中に埋め、以来、「朝一時山」は「鬼首山(おにくびやま)」
と名を改められました。

男の2人の副首領の首二つのうち、一つは里に埋め「鬼地塚」と名を付け、
一つの首は都に送られました。
後に、この戦いで死んだ多くの者を弔うために、都に送られた首がこの地に戻り、
首塚と供養塔を建てるとともに、聖観音を勧請し、
宝物として太刀やお経が納められたのです。

南流神社の本尊は、見ると目がつぶれるとされていたことから、
永遠にその姿を見ることを禁じられ、人々の目に触れることはありませんでした。


観音様:一関市HP
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/18,8310,132,159,html


★1:皆鶴姫神社、★2:南流神社

--------------------------------------------------------
さて、皆鶴姫が盗んだといわれる兵法が、「六韜(りくとう)」といわれるものだそう。
「韜」は剣や弓などを入れる袋の意味と。
観音寺には、義経が使用したと伝わる「笈(おい)」があり、
行脚僧や修験者などが仏像,仏具,経巻,衣類などを入れて背負う道具のことをさす。


画像:飛不動龍光山より http://tobifudo.jp/index.html

この兵法のひとつ虎韜から、「虎の巻」という語源が生まれたそうです。
戦国時代には成立していたそうなので、義経が生きていた時代には、
すでにこの兵法が大陸から修験者へ伝授されていたと思います。
大化の改新の際、中臣鎌足が暗唱するほど読み込んでいたという伝承もあるというのだけど、
単に「自己啓発本」みたいな内容だったりして・・・。
今、流行ってるんっすよ~、みたいに。(かるいなっ)
僧侶や修験者たちは、今でいうヒーラーやカウンセラーのような役目だったと思うので、
そういう人たちの話を聞いたり、書物を読んだりするのは今の時代も変わらず、
興味が湧くものです。

陰陽師とはいえ、結局は、人が人を操ることになるのだったら、
武器を使ってというのは、とてもリスクが高いし面倒だし。
簡単に相手を倒す方法というのは、話術とかそういうものだったりするもので。
それも中国の戦術として位置づけられていることはありますよね。
Wikipediaに大体の項目がのってましたが、
「武韜」 - 政治的戦略についての記述。とあると、
やっぱり自己啓発本みたいだなぁ。

その兵法を盗むとは、アマゾネスな皆鶴姫。
義経がその兵法をほしくて、皆鶴姫に近づいた話もあるそうですが、
昼ドラのような妄想が・・・。
------------------------------------------------------------
ところで、妄想が飛んでいきますけど、「うつろ舟」にビビっときた。
うつろ舟=うつぼ舟とも言います。

うつろ舟とは、これ。


宇宙船地球号? ヘ(゚д゚)ノ
UFOじゃん Σ(゚◇゚;)
キター ━(゚∀゚)━
未知との遭遇。
(最近、絵文字にはまってます。。。)

うつろ舟(虚舟)とは、茨城県大洗町(北茨城市とも語られる)沖の
太平洋に突如現れたとされる、江戸時代における伝説の舟のこと。

大洗町の海といったら、震災の次の日に、携帯のテレビで
大きな渦巻きができているのをニュースでみました。
やっぱり~、何かあるんですよ。

虚舟は海から流れて漂着したが人々に恐れられ、再び海に流されてしまったという話。
なので、義経の皆鶴姫も、そのような伝承から「うつろ舟」であると。
ですが、「空飛ぶ円盤の江戸時代的表現ではないかとされているが、虚舟が「動力を持っていた」、
もしくは「空を飛んだ」等、読み取れる資料は存在しない。」(Wikipedia)

宇宙の話にとんでいきたいところですが、
実際、どうなんでしょう?
今、UFOが不時着することってないですよね。
現れるなら、「その人にしか見えないように」現れるモノだと思っているので、
みんながみているUFOが、何だか全然ピンとこない。

20歳の時にみた実際のUFOと、数年前にみた夢がシンクロした。
夢の話は、インディアンがでてきて、親指と人さし指で輪をつくって空をみていたのを
真似してみると、その輪の中に見えたのがUFOでしたが、
黒い鳥のようだったので「カラス」と思ってみていたら、光ってUFOに変わった。

黒いものが空にいたら、カラスと思います。
でも光るのだから、鳥じゃない。
実際UFOをみた時は、最初は遠くに、30分後くらいたつと、近くに現れました。
その時、「あちらも私に気づいている」と感じて怖くなったものです。

近くに現れた時は、黒い物体だったので、カラスだと思った。
でも光るので、カラスではない。
それを今思いだすと、20歳の時にみたUFOは、
夢にインディアンがでてきて見せてくれたのと、同じ型のUFOだった!
ということに、皆鶴姫伝承のうつろ舟で気づいた。

実際にみたUFOもゆっくり回転していたのですが、片面がガラス?だったので、
回転しているから、ガラス面が太陽の光を受けて、チカチカ光ってました。
うつろ舟も、鉄でできており、窓があり(ガラスが張られている?)丸っこい形をしているそうです。

他、うつろ舟には文字のようなものがかかれているとか、
中には異国の女性が乗っており、箱をもっているとか。

なので、私の経験上、黒いカラスのような鳥は、
UFOに姿をかえるモノだと思っています。
たぶん、私はそういうUFOと縁があるのだと思います。
最近、みかけたものですが、NASAも公認した「黒騎士」といわれるUFO?が
地球の周りを旋回しているそうです。
私が見たのとはちょっとタイプが違うけど、こんなかっこいいモノではなかったなぁ。


画像は、これ。(ブラックナイトシャトル)
なんか孤独・・・。

妄想するに、神武東征で追いかけていたのは、うつろ舟のようなUFOだったりする。
鳥船というのもそうです。だから、黒いカラス(ヤタガラス)に見え、何でも姿を変えることができる。
が、今はそれを話したところで、だからナンだ?という感想でしかない。
ぽっかーんとなってしまう。

でも世界の神話を読んでいると、どう考えても宇宙人だよね。
UFOだよね。という話はたくさん出てきます。

ひとまずここは、伝承から紐とくと「舟に遺体があった」というリアルな話から、
「舟葬(しゅうそう)」と考えます。
いろんな葬式がありますが、昔は鳥葬、舟葬もあったんですね。
亡くなった遺体を船にのせて流すものです。
水葬とも言います。
舟形の棺なんですが、エジプトぽいですね。

ブリタニカより、
死体を小舟に乗せ川や海に流し,あるいは舟形の棺に入れて埋葬するなどの習俗。
前者は水葬の一種であり,代表的な例はポリネシアにみられるが,
ミクロネシアやメラネシアの一部にも分布している。
台上葬においても棺を舟形にする例がインドネシアにみられ,
これらはいずれも海上他界ないし海底他界の観念と結びついている。

日本では棺を一般にフネ,入棺をオフネイリといい,舟葬の名残りともみられるが,
これは舟で島嶼,あるいは陸行できない海岸の葬地に運んだ習俗に由来するものであろう。
奄美大島宇検湾の伊里 (えざと) 離れという無人島には,
かつて夜間ひそかに死者を舟で運び葬ったといわれているが,
こうした例は南島に広範に分布している。


航海していた人が、途中で亡くなった場合、陸で葬式ができないので、
そのまま舟で遺体をのせて海岸に到着した時に、その遺体を運んで埋葬するという事でした。
つまり、皆鶴姫は、船にのって航海していたのが途中で亡くなったのでしょう。
地元の人が嫌がったのは、遺体だったので、埋葬する地を探していたのを
断られたということでしょう。
義経は、それを聞いて、室根山近くに埋葬したのかもしれません。
なぜなら、ここには熊野修験者がたくさんいたからです。
熊野信仰と義経は深い関係があります。

海外では、ノルウェーに多いそうです。
海賊とも関係していると思います。
スウェーデンなどもそうですが、バイキングの風習で、
ノルウェーのオスロにあるバイキング船博物館にあるオーセベル船は、
女王アーサを葬ったものとされ,その優美な船と豊かで芸術的な多くの副葬品で名高いそうです。
写真は、こちらにあります。
※北欧
http://hana4.fan-site.net/mysite8.htm

義経の皆鶴姫伝承が、北欧由来のバイキングだったりしたら興味深い。
そのルーツはなきにしもあらず・・・。
大陸をわたって日本への航海中に亡くなった可能性もあり、
またその末裔が住んでいたことで、伝承しているのかもしれません。
熊野神社は、海側にたくさん祀られています。
熊野水軍があるように、日本には海賊がはびこっていて海外では有名でした。
上陸が非常に難しかったようです。

そんな歴史があったことを考えると、どのようにして、
古代の熊野水軍や安東水軍は、東北地方で奮起していたのでしょうか?
でも、東北地方にキリシタンが非常に多いことを考えると、
マリア信仰がとても盛になったのは、水軍たちがもたらした信仰もあると思います。
貿易項目の中に宗教があったということで、
キリスト教が日本海に多いのは、クリスチャンが対馬海流にのって漂流したこともあり。

なので義経に係る姫が、マリア様みたいだ。というのも、西洋人だったかもしれないし。
(宇宙人かもしれないけど→宇宙人にしたい…)
そんな皆鶴姫伝承から、ふっとバイキングがケルト人を迫害してきたことを思いだす。
日本の場合、逆にバイキングが修験者となって村を守っていたことを思うと、
日本とは摩訶不思議な島国だと思うのです。
それは、悪人が善人に変わるような島国という事で不思議なのです。
コメント

一関の六芒星 その2

2017-06-29 | 東北地方の伝説(岩手県)
藤原政権に時代が代わり、
物部氏がもののふでなくなったのは、
人々の意識の変化にあると思います。

母性を理解できない人が、祈祷はできないといったものだったか。。。
例えば、ウランが麻薬のように売買されていたことがありました。(今もあると思う)
外国の話ですが、ウランの知識を知らない人が使うと、
それが何の価値になるかわからないので、ウランを街中のごみ箱に捨てていたそうです。
(袋に入った粉状態で)
ウランを知らない人が手にもったら被ばくします。

比較するものが違いますが、
例えばの話ですが、祈祷もある種、危険をはらんでいます。
わからない人がそれをすると、かえって悪い方向へ働きます。
物部氏はたくさんの巫女をしてたがえていた、卑弥呼の姉と弟のような関係があったと
考えられています。
そのため、巫女の神降ろしについて、疑問を抱いたのかどうか。
女が男になりすぎた?
そのようなやり方を止めたと考えられます。(言霊の時代がなくなった)

女性性のエネルギーや母性や母神という言葉を
しつこく言うのは、私もよくわかりません。
ですが、説明できないけれど、重要なことだというのはわかります。
現代にそれをあてはめても理解できないわけです。

ただ、理解している人たちは、滝を祀ってきたのだろうと思います。
母なる大地と言いますが、その思想は、環境や自然を守ることと同じ働きをもたらします。
そこから食べ物を得て、へその緒を通じて赤ちゃんにいき、自分の体内にも入るわけです。
だから、ウケモチの神という。

古来は大地母神でした。
天から神が降りてきた天孫降臨というのは、天を父神とした思想です。
それはイエスキリストが代表的です。
それから男と女を区別した。
鉱石でいうと、金と鉄です。
それ以前の太古の人類は、両性具だったと思います。
観音様は両性具といわれます。
なので、舞草神社は、観音山とよばれるようになった。

剣が両刃というのは、両性の意味があり、刀はカタハで、片方のどちらか一方になる。
刀は、本来、人を斬るものではなく、護身として身につけるか、家に置いておくものです。
見えない邪気を斬るためですが、自分の中にある邪気です。
それを自身では見られないから、相手の姿に自分をみたわけです。
それを見たくない人は、相手を傷つけます。
それでは、自身の邪気は一生、消えません。
これは、魂がもっているものらしく、来世生まれかわっても持ち続けるそうです。


※両方の刃をもつ剣:(剣名:以餅鉄守一作之1864年)

つまり、剣は、陰陽の両方備えることに重要性を示している。
剣を神宝としていた古来は、バランスのよい時代だったのです。
剣は「両手」でもちます。
竜退治をするミカエルは、剣を両手でもっている宗教画が多く描かれています。
片手で持つように改良されたのは、騎馬民族の由来からと思います。


岩手県指定文化財 毛抜形透蕨手刀 陸奥国 中尊寺蔵
長52cm 反り0.4cm
エミシの首長・悪路王の佩刀(はいとう)と伝えられる。

舞草刀発祥といわれる平泉の観音山に、
ククリヒメの御霊がある意味がわかります。
ククリヒメは、善も悪も「一括り」にするからです。
湾曲の形は、直刀より「振る」時に、円を描きやすいからでしょう。
悪を祓うのではなく、悪でもその気を円にしてまとめてしまう力があったと、
私はそんな風に思います。

また、日本ではトヨタマヒメのように、海が母神である思想もあります。
海が産みになっているのは、古来の母神といえます。
生かされているのは、母神のおかげなのですが、
少しづつ、その意味がわかってきた人たちも増えていることは事実です。
それが、女性性の芽生えになっていると思います。

----------------------------------------------------
保呂羽山の波宇志別神社の由来は、
ホロワのハウシワケ、「ポロパウシワッカカムイ」で、
ポロパは偉大な酋長。「偉大な酋長が水の神を祀った」意味が
あるアイヌ語に由来する説があります。
物部氏は東北へ逃れ、北方や南方の民族、アイヌ人たちにいろんな知識を
教えて暮らしていたと思います。

八幡平に、「登喜盛(ときもり)長者屋敷」
という人の伝承があります。




「その後、アテルイの生まれ変わりという若い族長が現れる。
首をはねられたアテルイが飛んで帰ってきた所は、達谷の窟であると伝わる。
鬼の首領として生まれ変わったのが、「悪路王(大武丸・高丸)」といい、
アテルイの子ともいわれる。
八幡平の松尾に、日高見国の有力族長の地位にあった登喜盛とその一族がいた。
登喜盛長者屋敷のチヤ(砦)に館を構え、八幡平周辺のいくつかの
コタンを束ねる新進気鋭のサパネク(族長)だったと考えられます。」


砦は、水沢市羽田、田茂山(アテルイとモレの碑)
一戸町御所町の丘、北上市展勝地の丘などに推定され、
胆沢平野のエミシ勢力と北の鹿角や二戸地方のエミシ勢力をつなぐ中継点に位置するため、
政治・軍事の役目をもっていたそうです。
松尾村というところに、登喜盛がいたそうですが、大武丸とも称される。

この本の表紙のイラストは、登喜盛が夢に現れた姿を描いたそうです。
南方系の人みたいですね。



松尾の由来は、「マトーコタン」のマトーの由来が考えられ、
その意味は、気品ある女性といった意味があるそうです。
縄文からの名水といわれた清水蔵滝は、登喜盛が守っていた清水と伝わる。

古モンゴロイド系の祖神、蛇を神格化する水神と考えられ、
「スンダドント」と似ているそうです。
また、南方の民族の剣は、「クリス」といった蛇のように波うつ剣をもっていました。

おそらく、波うつ剣の湾曲の技術を南方の産鉄族から学び、
舞草刀の湾曲の刀が生まれたとも考えられるのです。
南と北の融合。その地点に、一関があったのです。

実際、八幡平には朝廷とエミシのゲリラ戦があり、
今でも遺品が発掘されるそうです。


八幡平からみる岩手山

岩手山の古名は、「岩鷲山(いわわしやま)」という。
アイヌ語のカムイ・イワ・アシ・イが由来で、「神々の座する岩が立っている山」の意味。
鷲神社という名前が各地にあるが、由来は、鷲という鳥ではなく、
「イワ・アシ」のアイヌ語である「神が座する岩」からきているかもしれない。
その姿が、羽を大きく広げてみえたので、後に鳥が神となったのです。
「立っている」というのは、アイヌのイナウ(幣)のことを差すようです。

波宇志別神社の元来の神は「天日鷲神(アメノヒワシノカミ)」という。
鷲という漢字は、ワシとよみますが、それ以前は、「アシ」と呼んでいたと思います。
イワアシが、アシと省略された。
アイヌ語で、asのアシには、いくつかの意味がありますが、
アシには、人に対して言う「わたしたち」という意味もある。
また構築という砦の意味も含まれているが、
自然の風が吹くの「吹く」も、「アシ」という言葉があった。
風が立つ。そんなイメージ。

アシが立つの意味があれば、足がそれで、足を祀る神というのは、
元は、柱からきているかもしれない。
「鷲」とつく地名や山名、神社は、御柱のことを示していると。
山と天に立つ柱(カムイ)であり、それが渦巻きだと思う。
それは自然の柱(スパイラル)のことを伝えていて、
そのような聖山を崇めていたアイヌ人やエミシたちは、その山に降りてくる羽をのばした
鳥のような姿を神としてみていたのかもしれません。

岩手山の雪渓の形が、鷲の姿にみえるのは、
カムイの姿を、私たちに見せているからです。
それに対し、福島県の「あずまはや~」とよんだヤマトタケル吾妻山の雪渓は、
ウサギなのです。上手くできてます。
女のスパイラル(上向き三角)、男のスパイラル(下向き三角)が、
山には柱のようにスッと天に伸びているのです。
-------------------------------------------
ということで、まだまだ知らない岩手県。
私は八幡平が大好きで、きっと過去にこの地にいたと思います。
岩手山も富士山より感激します。
今回の一関の妄想で、まさか、登喜盛に繋がるとは思っていませんでした。
数年前に、「エミシの森八幡平」で書いていましたが、
どこかで霊統が教えてくれているのだと思います。
また機会があったら、鬼死骸村や他の3か所巡りをしたいと思いまーす。
コメント

一関の六芒星 その1

2017-06-29 | 東北地方の伝説(岩手県)
前回の話で、舞草神社の漢字を付け加えると、
舞は正しくは、「イ」偏がつきます。

さて、相変わらず妄想がおかしい私ですが、
一関の地図を改めてみると、6つのうち3か所は行ったことがないので、
よくわかりません。
なので、ネットを参考にちょっと調べてみました。
共通しているのは「滝」のようなのです。
まずは結ばれている神社について。



④三嶋神社(萩荘字中桑)
この三嶋神社は裏手が山になっていて岩が多い場所だそうです。
三嶋神社は、三島神社というのが愛媛県にあり、一番多く愛媛県に祀られています。
平泉に行った次の日、なんと愛媛出身の方と仙台でお会いしたんです。
話の中で、三島神社がでてきて、境内に瀬織津姫を祀る小さな祠があったと。
(大荒魂?)三島神社と瀬織津姫の関係を聞いていたのですが、
私はその時、六芒星に三嶋神社があることを覚えておらず・・・。

家に帰って一関の地図をみて、納得しました。
一関三嶋神社は、大山津見神、保食神、倉稲魂命を祀ります。
ここに宇賀神の(女性性)クンダリニーを思う。
蛇ですが、DNAでもあり螺旋の形状。

愛媛県宇和島の三島神社は、
平安時代の初期、大同元年(806年)に大三島の大山祇神社より勧請されたと伝えられている。
宇和島を治めた伊達氏がいるねぇ。
橘氏・西園寺氏・伊達氏の崇敬篤く、宇和島の南の守り神となっている。
ご祀神:大山津見神(おおやまつみのかみ)
石長比賣神(いわながひめのかみ)
木花佐久夜比賣神(このはなさくやひめのかみ)

萩荘には、美しい滝が多いようで、地図には「滝津姫神社」というのもある。
滝を姫として祀っているのは、滝修行をする修験の場だったかもしれません。

⑤狐禅寺の滝神社(藤の沢)
ここも美しい滝があるそうで、不動滝とよばれています。
厳美渓に「鈴振りの橋」がありました。
また、鈴振りの滝というのもある。
断崖から磐井川に流れ下る滝のこと。

詳細は、こちらへ。
「東北の真ん中で写真日記」
http://kuritaro-photograph.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-8a31.html


※厳美渓

⑥鹿島神社(真柴字佐野)
昔、鬼死骸村という地名の村があり、由来は大武丸の首を埋めたことによる。
すごい地名ですけど~。岩手県ならでは~。
鬼死骸八幡神社があり、明治時代、井戸沢から鹿島神社に移されたとある。
伝説には、吾勝郷にいた大武丸の首をここに埋めたと伝わり、
その巨石は今も伝承として残されている。
他に鬼石井、的場、清水などがあり、鬼とタタラの地名があらわれる。



参考:鬼死骸伝説
http://www.nishi-iwai.org/ubusuna/n/onishigai.htm

ところで、吾勝郷には吾勝神社がある。
一関萩荘芦ノ口にあり、境内には保呂羽神社もあった。
吾勝大神、保呂羽大神、白鳥大神、の三神を祀る。
ここも同じくヤマトタケル征伐の話があり、自鏡山に天照の御子アメノオシホミミ
を祀り、保呂羽山神社は、スクナヒコを祀っている。

国生みの伝承に基づいて書かれた神々を祀っているようですが、
マロは、ヤマトタケルを相殿に勧請し、戦勝祈願したという。
平泉の三峰神社の伝承と同じようなので、源氏がもたらしたものかと。
自鏡山はきれいないピラミッドの山なので、
自鏡山に向かって拝願していたと思われます。

-------------------------------------------------------
観音山は、バナジウムがとれた為、湾曲の刀をつくることができた舞草神社がある。
ここは白山信仰が由来のようです。




観音岳


観音岳からの風景(北上川)

※詳細は、「日本刀発祥の地」へ
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/3acd245b041f7ce7175922e0bad6a363

達谷毘沙門堂も岩ですが、櫛姫伝承や近くに滝もあります。
一関は渓谷が多いためか、滝も非常に多く、滝という地名も多い。
真滝や滝沢、そしてどうもこのあたりには、熊野信仰がもたらされている。
滝神を多く祀るのはそのためか。





滝沢という地区に、熊野白山滝神社があります。
熊野と白山を統一しており、また、ククリヒメはセオリツヒメでもあった。

「延暦10年(AD791)坂上田村麻呂東夷征伐の折、磐井郡司安倍黒人が
田村麻呂に従い追討のため荒滝に来て賊を討ち、住民を安んじた。
この時白山大神を桂峯に熊野大神を延寿原に奉祀した。
寛治2年(AD1088)熊野大神を桂峯に奉遷して熊野・白山二神を合祀した。
また大同年間(AD806-810)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮座して
神威を仰ぎ滝神社を奉安し、後この三神を合せて一村の鎮守とした。」

瀧神社
http://www.nishi-iwai.org/ubusuna/494.htm

そういえば、気仙沼の横田町には、6社の瀧神を祀っている。
瀧神とは、瀬織津姫のことだという。
気仙沼に瀬織津姫を勧請した熊野信仰が関係しているからでしょう。

ある人の話ですが、紀伊の熊野の滝修行の多くは、男性で社長や経営者が多いそうです。
滝修行をすると、出世したり事業が大きくなっていくという話が伝わり、
熊野の滝修行はそんな夢を望んだ人たちがたくさん訪れるそうです。
それは、女性を尊敬する気持に気づくのだと。
自分も母親から生まれているということに気づかされるからという。
女を敵としていたことが、味方になるという意味なのか、
そんな風に気づかされると上手くいくんだとか。

そうすると、仕事でも家庭でも女性を敬う気持になっていくんだと。
すると、事業が拡大し、儲かるとか出世するとか・・・。
男性も女性性が強くなっていくと、いろんなことが上手くいくわけです。

ある意味~、女を敵にまわすと大変なんだと思う。笑。
職場でも女の派閥は面倒くさい。
男がそれに巻き込まれたら大変です。
けれど、そんな女でも味方にするとうまくいくもので。
そういう男性は、確かに好かれます。
でも変な女といると、生気を吸われますなぁ。

とにかく、滝に打たれる男とはなんぞや?と思っていたところ、
この話を聞いて、なるほど~と思いました。
滝の祓えというのは、とても純粋でシンプルで、
自分の内側にある悪い部分や強いこだわりといったものを、
払拭するためにあると思っています。
その力に水が非常に効果的ということです。
とは言いますが、これが難しい。
だから、私は女性性を学んでいるところなのです。

達谷毘沙門堂にも、櫛の姫伝承があり、姫待滝という名前の滝や、
巨石がありますが、名前が櫛や髪を意味する巫女の名がある。


※姫待滝



蝦蟇ヶ池というのがあり、
「蝦蟇を降伏する白蛇、即ち宇賀神王を冠に頂く八肘の辯才天女を自ら刻して祀り、
蝦蟇ヶ池辯天堂と名付けたと伝えられる。」だそう。



封じられているのは、宇賀神という海神だったりする。
それが龍や蛇伝承になり、女=鬼=陰となる。
----------------------------------------------------------
妄想するに、そういう滝修行を修験者がやっていたのですが、
政府としては不便になる。
反対されるのは困るから、大人しくなんでも従う国民にせねば、と。
そこから、その滝の力を封印してきたのだろうと。

前の話に戻しますが、自鏡山にアメノオシホミミが祀られていますが、
この人は、中津国に降りて、大国主と国譲りをした話がある。
しかし、一度失敗し、2度目の時に降臨するよう命令されたが、
子供ができたので断り、その代わり、自分の子にさせた方がふさわしいという。
その子が、ニニギノミコトでした。

ニニギは、アメノオシホミミ(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命)と
アキツヒメの間に生まれた子とされ、
アメノホアカリも兄弟といわれる。
アメノホアカリ(天火明命)は、ニギハヤヒと同一。

ニニギが降臨する時に道案内した国津神が、猿田彦でした。
5つの職能軍団とその長だった伝承があり、
5つの職能とは祭儀のことをいう。
アメノコヤネ(祝詞:後の中臣連の祖)、アメノフトダマ(祭祀と祭具)、
アメノウズメ(芸能)、イシコリドメ(八咫鏡)、タマノオヤ(勾玉)。
と、それぞれ祭具の意味がある。
5という数字は物部氏がこだわっていた数字にあるそうです。
五十鈴も「五」ですが、陰陽五行も5。

一関の場合、鉄や刀をもたらした土地と考えると、
新しい産鉄族の到来の意味があると思う。
ニニギは稲の意味がある。これは、鉄文化を伝えた用語だろう。
古来のアラハバキの産鉄族から、二ギハヤヒの産鉄族への転換。
物部氏は古い鉄文化から、新しい鉄文化を融合したものとみられ、
そのために東北地方に逃れ、アラハバキ族?や北方、南方の先住民と協力して
いたと考えられます。

それに関与していたのが、大武丸という人だったでしょう。
この人は、八幡平でも伝承されている人でした。
宮沢賢治の歌にもあります。

「むかし達谷の悪路王
まつくらくらの二里の洞
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ」
宮沢賢治:原体剣舞連


つづく。
コメント

一関六芒星の中心にあるのは…

2017-06-27 | 東北地方の伝説(岩手県)
平泉へ行くちょっと前に、一関の神社を結ぶと六芒星になるとの情報を教えてもらった。
へ~、一関に六芒星があったとはねえ・・・。
それで悶々としていたところ、平泉の刀八毘沙門天が見たかったので、
行けたらその中心の神社に行ってみたいな、と思っていました。

こちらのサイトを参考にさせて頂きました。
http://daiken.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-38c5.html

六芒星のほぼ中心にあたるのが、なんと、山目の配志和神社だという。
なっとく~。
平泉へは何度も行ってましたが、この神社にも何度も前を通っていました。
配志和神社のことは知っていたのですが、あまり興味がなく。
立ちよることもありませんでした。


①中尊寺
②達谷毘沙門堂
③舞草神社がある観音山
④三島神社
⑤狐禅寺の滝神社(藤の沢)
⑥鹿嶋神社

実は、1年以上前から山友と、宮城県志津川の保呂羽山へ登ろうとずっと言っていて、
全然いけなくて、都合も合わない事もあり、行かないままでいました。

配志和神社(はうしわけ)とは、秋田県横手市にある波宇志別神社があります。
志津川の保呂羽山(男保呂羽山、女保呂羽山)にも波宇志別神が祀られている。
たしか、物部氏が関係していた話があったと思ったけど、忘れた…。

その波宇志別神と山目の配志和が全く同じかどうか微妙なのですが。
これを祀った人は、舞草神社と同じ御霊というのはわかった。

以前から、物部氏のことを思うと無念さがこみ上げていました。
一関や平泉、水沢などの地では無念さや、悲しみがいつもあるのですが、
妄想するに、物部氏は「仕方なく」母性の力を封じてきたんじゃないか、と。
そんなことをふと思う。
「いたしかたなく」
だから、東北に逃れて「物部」という名前も封印したのです。
とはいうものの、私個人のことかもしれないけどね。
そういう悲しみはもういいのかな。
いつまでも引きずっていてもしょうがない。

考えてみると、東北地方に多い鹿島神社には大体、イワクラなどの巨石がある。
また鬼伝承もある。
まさに、一関の六芒星がそうなんですね。

導かれた山目の配志和神社。
本当は、これをブログに書くことをためらったのですが、
知られたくない情報は、自分のところにはこないよね…。
なぜなら、ブログに書かれるから。笑
というポジティブな言い訳をしつつ、勝手に書く。
--------------------------------------------------------


私の身近な友人、知人たちが、いろんなインスピレーションで、
いろんな情報を教えてくれるおかげで、ブログが書けるようになってます。
今はもうそうなってる。不思議ね~。
みんなで作っている歴史なんだよね。
で、そういう話を聞くと、私は動くんだ。
それが面白い。
でも残念ながら感じることが弱いので、頭で分析してしまう。
まあ、いっか。

きっと、こうやってパズルのピースがはめられて、
結果、大きな一つの絵ができるんだね。
一関の大きな絵がみたい。
そう思う一心で、妄想ス。

さて、神社説明の前に結論。
女性性の芽生えを恐れ、母神を封じてきたけれど、
今、開かれていることを示している。
ククリヒメやセオリツヒメやコノハナサクヤヒメや、いろんな名前が登場しますが、
ひっくるめて、女性性のエネルギーという大地のクンダリニーということを、
私は感じます。
世の中が男すぎる社会、強い男性性をもつ女が壊していく世の中。
それに対する反動が、今起こっていると思うのです。
世界中に天変地異のような山火事、大洪水、地震・・・といったものは、その反動です。



あまりにも男性のエネルギーが強すぎた結果、
埋められていた女性性のエネルギーが地上へ持ち上げられ、
噴火しそうな勢いになっている。
怒りではなく、抑え込んできたものが出たがっているわけです。

バランスが大事というのは、そういうことなのですが、
巨大地震が起こるのは仕方ない。
正しい歴史を解明する努力を怠った結果でもあり、
信じてこなかったことが悪い。
誰も信じてもらえない深い歴史が、東北地方にはあるのですがそれを怠ってきた。

でも、これ以上東北地方を背負わせるわけにはいかない!
なので、女性性を高めることが、これからのために必要だと思ったのです。

その女性性のエネルギーがあった場所がここだったと思う。
で、これからそのエネルギーが上昇していく、いや、もうそうなっているのかな。
千厩、室根山など気仙沼から一関の場所には、女性性を高める何かをしてきた。
という漠然としたモノを感じました。
それを破壊されそうになっているところで、今、一番重要な一関なのです。
そこで六芒星だったのです。
朝廷が恐れた女性性の目覚め。
--------------------------------------------------
ということで、配志和神社へ行ってみると、すごかった。
舞草神社によく似ている雰囲気。
ちと、寒い風が上から、さ~とくる。
涼しくて気持ちよいけどね~。これが霊気なの?



やっぱり、こんな形で、三角で結ばれる。
舞草神社と達谷毘沙門堂と配志和神社。
舞草神社のある観音山は、白山ククリヒメが祀られている(麓に)ので、下向きに流れている。



三角で結ばれる神社や山は多数あるのですが、剱坂(男)と産湯ヶ池(女)がある。
このあたりもタタラ場があったそうです。







下向き三角=女=水
上向き三角=男=剣

聖杯伝説っての~?
秋田唐松神社で妄想したのと似ている。
だから、古くは東北に逃れた物部氏が関与しているはず。
だから舞草神社とよく似ている。
それに磐だし。



ヤントラ(マカバからきている)ヒンドゥー。
「儀礼には念珠を用い,マントラ(神歌)が唱えられ,
御詠歌に似たバジャンが熱狂的に歌われることもある。
またヤントラという象徴的・神秘的図形が用いられ,
卍(まんじ)がスワスティカー(幸福の印)として使われ,
儀式を行うためにマンダラ(曼荼羅)と称する一定の円形の場所を設ける場合もある。
宗教的なめでたさ(吉祥)の象徴として種々の花が用いられるが,とくに蓮華はその代表である。」




六芒星の立体が、マカバ。



※画像:ダヴィンチコードの謎を解く
http://mandalaya.com/code.html

日本刀発祥地である舞草刀がある神社と悪路王の達谷毘沙門堂、そして配志和神社。
剣と産水。火と水。そしてなぜか、毘沙門天。
これは教えてもらったのですが、坂上田村麻呂は毘沙門天で祀られているのだと。
義経の持仏も毘沙門天で、(中尊寺の白山神社の縁起に義経の持仏は毘沙門天とある)
ということは、私が刀八毘沙門天にビビっときたのは、
マロや義経が関係しており、その力に毘沙門天の働きもあるのだと。
毘沙門天は、多聞天ともいい、字のごとく、聞き入れてくれる力がある。
悪を退散させると言われているのは、実際は、封印ではなく、
悪を聞き入れる働きがある。

なので、実際エミシを征伐するというのはなく、マロはエミシたちにとって守護神であった。
よって、悪は吸収して、消化し、良く吐きだせばよい。
だから、お正月に餅を食べるのは邪気を食べるといわれる由縁です。




※このような森が残されていて良かった。

そしてそれが女性性の働きに繋がるというのは、ここはマリア様の働きがあったと
思うような場所でもある。
私はそのような解釈をしてしまうのですが、どんな女神であれ、大地母神を守ってきた
存在であることに間違いない。



配志和神社の由縁。(看板の説明)
「延喜式内神名帳に記載される延喜式内社で、磐井郡二座のうちの西岩井・流の
総鎮守守神として、崇められてきました。
はじめ磐座山に鎮座して火石輪(ほしわ)と呼ばれ、後に始輪大明神(しわだいみょうじん)
穂志波社梅森明神、蘭梅明神(梅の宮)、刃蔵社とよばれていました。
配志和神社に改めたのは927年で中世に現在地に移されて今日に至っています。
1763年によると、その創建は日本武尊が蝦夷征伐の際に、高皇産霊尊、瓊瓊杵尊(ニニギ)
木花開耶姫命の三神を祀り戦勝祈願したことといわれ、その三神が祭神とされています。」


磐井は、言霊では「祝い」で、
元は、「ほしわ」とよばれ、「しわ」ともよばれた。
紫波みたいな。
そういえば、紫波姫にも近い場所ですね。
コノハナサクヤヒメを祀っていたのは、紫波姫神社もそうでした。
諏訪神にも関係しているのかなあ。

戦勝祈願というのは、母神の強さを封じたようにも聞こえる。
妄想するに、ニニギとコノハナサクヤヒメは、イエスとマリアみたいなものです。
スピな話ですが、男女神を祀るのに、イザナミとイザナギの関係を、
ニニギとコノハナサクヤヒメにしたのは、
人間が心をもち自我が芽生えるためには必要な働きで、
それは、イナンナの話にもあったように、肉体をもつことで美を得たという伝承は、
寿命をもたらしたことにある。
ニニギがコノハナサクヤヒメの愛を繋ぐために必要だったのが、
ムスヒ(高皇産霊尊)の神だったと思います。
そういう展開があったと考えれば、六芒星の中心にある理由がみえてくる。



死を意識したということは、心をもち私という個を得たけれど、
苦しみも同時に得ることになったと。そして死と向き合うことになった。
その苦悩は、水沢で聞いた「アルファでありオメガである」という人間の命のサイクルがあり、
「我ゆえに我あり」の私とあなたの客体を生んでいる。
五十と五十。百にすることの大事さは、モモにある。
桃は、私とあなたが一体になった瞬間生まれるもので、子供だけではなく
いろんな閃きも含んでいます。



ニニギは妹のコノハナサクヤヒメの人間の寿命と美=いろんな苦しみも含め、
地球で生きることを選んだのに対し、
姉のイワナガヒメは人間ではなく、エーテル体のような肉体をもたないから、
死もなければ寿命も関係ない存在だった。
それは、地球が形成される以前の話で、ニニギが降臨した話をもたらしたのは、
キリスト教でもあると。

隠れキリシタン、伊達政宗、仙台も六芒星の街。
その力を守っている六芒星というのは、マリア様に関係していると思う。
タタラとイエスキリスト、西洋でいう剣で、日本でいう刀。
地球が大地母神というは、出産にある、と思う。
胎水で生まれるのは、地球が水の惑星だから。

産まれることに敏感になってしまうのは、この森は蘭梅山といい、梅がついている。
伝承では、菅原道真の子がここに梅を植えたところ、梅が満開に咲き乱れた話になっている。
梅のパワーは、桜より強いと思う。(御霊信仰とかあるんでしょうけど)

梅ヶ井という清水は各地にあります。
ここもそんな清水があったと思います。
洗礼をうけていた水だったかもしれないし。







ニニギが降臨し、「わたし」という意識をもたせ、
男女のクンダリニーを地上にたくさん植えた。
それが木(樹木)で、森なんですね。
たぶん、宇宙と繋がるためには、木を通さないとならないから木をご神体とするのでしょう。



一関では、最大で最古の杉だそうです。





だから、ここにも立派な老木があります。
ほんとうに素晴らしい木でした。





しかし、男は女を支配した。
それから破壊が始まった。
そこに無念を感じるのです。
---------------------------------------------------------
火石輪というのが、ストーンサークルみたいですね。


石が4つあった。

ここでは、古く、先住民が暮らしていたと思います。
縄文かどうかは不明ですが、インディアンみたいな人だったかもしれない。
昔は、アイヌ人とは違う民族のインディアンがいてもおかしくないと思ったことがあります。



また「実は」という話になってしまうのですが、
一関に鬼死骸村という地名が昔ありました。
現在は、その名前はありませんが、真柴という地名のあたり。
最初、ここに行きたいと思っていたのですが、その晩、インディアンが夢にでてきました。
残酷に殺され、首をとられた夢だったのです。
その時のインディアンの悲しみに打ちひしがれた苦しむ顔を見てしまった。
嫌な夢をみたな・・・と思ったのですが、夏至の日にみたのです。
しかもその原因が、アヘンなんです。
アヘンとインディアンについて調べたら、暗い歴史がありました。

鬼死骸村に埋められた首の伝承があります。
それが「大武丸」なんです。
そこがシンクロしていると思ったのです。
だからといって大武丸がインディアンと言っているのではないです。
白人に迫害されたインディアンと、朝廷に迫害された大武丸が同じ苦しみだと気づかされたのです。


※TABI LABO
http://tabi-labo.com/263919/native-amerian

大武丸の首は、伝承には達谷毘沙門堂へ飛んでいったと。
そういう場所は、宮城県でも「鬼首」という。
だから六芒星の中に入っているのです。
そして、室根山も鬼首山といった。

首を埋めたというのは、ハイヌヴェレで考えれば、
再びその御霊を別の肉体に宿すための伝承にしている。
大武丸の分霊を、例えば、義経や伊達政宗といった人たちに宿す。
そのような蘇生をしていたのが、物部氏の十種神宝だったかもしれないのです。
幽体離脱に近いかもしれない?

でも、私が思うのは、もう、誰もが義経や伊達政宗や、イナンナとか
セオリツヒメとか、なんでもなりたいものに、なれると思うのです。
特別なことではなくなります。

義経は平泉で亡くなっていないのですが、別の肉体に宿し全く別の人に
生まれ変わった可能性もなくはない・・・。
それを伝えるために、北上し北海道まで渡った伝承になっているのでしょう。



てなことで、まだまだ続く。
いったい、六芒星を繋いでる神々とはどういう意味があるのか?
六芒星に関わる神社と大武丸について妄想はつづく。


三宝大荒神社


白鳥神社


月見ヶ池
コメント

源義経の家人たち

2017-06-25 | 東北地方の伝説(岩手県)
夏草や 兵どもが 夢の跡(松尾芭蕉)



ここで戦場があったとは思えない平和な風景。
松尾芭蕉の碑もある高舘義経堂の景色は、
束稲山がみえ衣川も雄大に流れている。
平泉では好きな風景のひとつです。



以前からずっとシンクロしていた「鈴」でしたが、
人物であれば、鈴木氏がいるのですが、穂積氏や鈴木氏の系譜に、
義経の家臣だった「亀井六郎重清」という人がいます。

『源平盛衰記』では一ノ谷の戦いで義経の郎党亀井六郎重清として登場する。
『義経記』では義経最期の衣川の戦いで「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年23」と名乗り、
奮戦したのち兄と共に自害した。弓の名人であった。






同じく自害した重清の兄:重家とはどんな人か。

源義経に従い源平合戦(治承・寿永の乱)の諸戦で活躍し、衣川館で義経と最期を共にした。
紀州熊野の名門・藤白鈴木氏の当主。
平治の乱で源義朝方について戦死した鈴木重倫の子とされる。


Wikipediaより
重家は、熊野往還の際に鈴木屋敷に滞在した幼少時代の源義経と交流があり、
『続風土記』の「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると弟の重清は佐々木秀義の六男で、
義経の命で義兄弟の契りを交わしたとされる。

その後、重家は義経が頼朝の軍に合流する際に請われて付き従ったとされ、
治承・寿永の乱では義経に従って一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどで軍功を立てて武名を馳せ、
壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献した。

また、重家は義経から久国の太刀を賜ったとされる(穂積姓鈴木系譜)。
平家滅亡後は源頼朝から甲斐国に領地を一所与えられて安泰を得ていた。

しかし、後に義経が頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経のことが気にかかり、
所領を捨て長年連れ添った妻子も熊野に残して、腹巻(鎧の一種)だけを持って
弟の亀井重清、叔父の鈴木重善とともに奥州行きを決意し、
文治5年(1189年)に奥州に向かった。

その奥州下りの途中に一度捕らえられて、頼朝の前に引かれた時には、
頼朝に堂々と義経のぬれぎぬを弁明し功を論じた。→衣川館で自害?

重家の妻・小森御前は、重家が奥州に向かう際は子を身ごもっていたために
紀伊国に残されたが、夫を慕いわずかな家来を連れて後を追った。

しかし、平泉に向かう途中に志津川(現在の宮城県南三陸町)の地で
夫が戦死したことを聞かされ、乳母とともに八幡川に身を投げて自害したとされる。
その最期を哀れんだ村人たちが同地に祠を建てたと伝わり、
現在でも小森御前社として祀られている。



供養塔

-----------------------------------------------------------
といった歴史があるのですが、義経が逃れた痕跡は、この場所で途絶えている。
が、義経が北上した説があり、北部岩手、青森~北海道まで義経伝承が残されている。



宮古市の横山八幡宮という神社に伝承されている話がある。
「源義経の主従であった鈴木重家は、文治5年に平泉を脱した後、
老齢のためこの地の「近内」というところに住み、
義経の命により横山八幡宮の宮司として残ったと記す古文書もある。」


ということは、鈴木重家は生きていたと。
自害はしてない。よって義経も自害していない。
「判官(ほうがん)びいき」といわれ、義経が責任逃れみたいに
されている部分もありますが。
このへんの歴史はわからないので、義経の詳細は割愛します。


※「大」文字



宮城・岩手海岸沿いに義経伝承が残されている理由はよくわかりませんが、
そこまで逃れる理由というのは、やっぱり気になる。

おそらく、迫害された?天皇家を代々かくまっていた熊野信仰というのもからんでいると思い、
また、鈴木氏は、室根山に瀬織津姫を熊野から勧請した人であった。
伝承には、鈴木重義とあるが、該当する人物は穂積姓藤白鈴木氏の系図になく、
鈴木重家の子で陸奥国に住した重義のことであるとも云われると。
古館家が後裔を称する。

室根神社の創祀伝承より、
「養老二年(718年)、大野東人は鎮守府将軍として宮城県の多賀城にいて、
中央政権に服しない蝦夷征討の任についていた。
蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征討ができなかったので、神の加護に頼み、
当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを
元正天皇に願い出て認められ、その結果、
「紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴」
とその家臣が熊野神の神霊を奉じて紀州から船出して、五ヶ月後に陸奥の本吉郡に着いた。



中尊寺近くにある熊野三社



「鈴木重家は、遡ること、藤原実方の母に至る。
実方の母は、熊野別当だった。(熊野別当祖泰救母)
あこや姫と藤原実方。
あこやの琴ひきは、熊野のコトビキの事もあり、琴=事でもある。
言霊のような祈祷にも通じる意味があるのですが、鈴が関係している気がしてならない。

私が鈴に導かれているのは、住んでいる熊野のルーツをたどっている意味もあるわけで、
それが目的でもあるんですけど、鈴といえば、秋田唐松神社の鈴が浮かぶ。
私はこっちの印象の方が強い。これも物部氏に絡んでいると思う。

陸奥国で影響を及ぼしていた熊野信仰は、義経の家人としていた鈴木氏が関与し、
そのルーツは、二ギハヤヒを敬う穂積氏にあたる。
その人たちが、室根山に瀬織津姫をもってきたらしい。
また、その鈴は、「祈祷」するための神の道具でもあった。
そこには東北に逃れた物部一族が背景にいたことは言うまでもなく。。。



蝦夷を征伐できない理由。
その力を抑えるには、熊野しかないと考えた大野東人がいた。
大野東人は、日本刀発祥といわれる平泉の舞草神社そばにある白山神社にも関わる。
看板の説明より「724年大野東人がこの地に勧請し建立したと伝え、
白山妙理大権現と称していた。」
どこかでその力を恐れつつ、どこかでその力を敬う。


※舞草神社がある観音山

また、大野東人や坂上田村麻呂などのエミシの地を征伐する理由。
瀬織津姫や白山菊理媛などの力を征伐するとはどういう意味か?
そんなことばかり気にしているわけではないのですが、
エミシが重要なんです。良くも悪くも。

妄想ですが、義経は女性的なイメージがあります。
女であったとは言えませんが、義経の分霊が、どこか強い霊力を宿していた力を
もっていたことを恐れていた兄の頼朝がいた気がするのです。

この妄想から導かれた場所が、一関のある神社でした。
(義経とは関係ないです)

鈴からシンクロするその意味は、「振動」のことでもあります。
それは、私が学んでいることでもあるのですが、
私自身が変わるために必要なことでもあった。
もうこれはそのような時代に変化していることを自覚するために、
あの場所へ行ったのだな。
そこでわかったことがあった。

やっぱり、そういうことなんだ・・・つづく。

----------------------------------------------------------
義経堂へは、毛越寺から歩いて15分くらい。
レンタルサイクルを利用している方が多いです。
駐車場もあり。
(写真:おまけ)






※「卯の花清水:残念ながら水は枯れてしまったそうです。
コメント

毛越寺の刀八毘沙門天

2017-06-24 | 東北地方の伝説(岩手県)
6月のあやめの季節。
また、平泉へ行ってきました。
2008年6月14日、М7.2の岩手・宮城内陸地震があった時、
友達がその時一関に住んでいて、しかも、この地震は2回連続して起こった地震でした。
2度目の地震がおきた時に、友人がもう嫌になったと言っていたので、
心配になり様子をみに一関に行ったことがあります。





思ったほど市内では被害がなく友人宅も大丈夫だったので、その後、平泉に行ったのですが、
世界遺産になる前だし、地震があった直後だし、ほとんど人がいない寂しい
毛越寺だったのを覚えています。

その地震で、衣川が泥で濁っていて、本線でその川を渡る時、
何とも言えないものを感じたことがあります。



さて、今回、平泉へ行きたかった目的は、毛越寺宝物館で特別展示している
「刀八毘沙門天(とうはちびしゃもんてん)」を観たかったからですっ!



この情報は、山形で見つけました。
なんかすげーっ、となって。
目をあわせられないほどの形相。

それで期間は、第一期が7月10日まで。
第二期は9月15日~10月2日。
・・・行くなら、いまでそ。
------------------------------------------------------
刀八毘沙門天とは、(Wikipediaより)

「正式な経典、由来は定かではない。
「刀八」とは、兜跋(とばつ)から発祥したと考えられ、
戦国時代に多くの武将達の信仰を集めた。

姿は、兜跋毘沙門天とは異なり、三面十臂像・四面十二臂像など様々である。
共通して特徴的なのは、刀を八本持ち獅子に乗る像が多く見られる。
さらに大部分の刀八毘沙門天は、頭上に如来を頂いている姿が目立つ。
信仰の上で、通常の毘沙門天信仰と変わりはなく、
戦国武将の守り本尊として祀られるケースが多い。
戦国武将の上杉謙信は、刀八毘沙門の旗を掲げていた。」


掛け軸の絵になっているのですが、よくよく見ると、
毘沙門天は木の切り株のような上に建っている図なのです。
世界樹を想像しますね。
天空の城みたいな。
へ~、面白い。







思いだした!
もうかなり前、10年以上も前かなあ。
米沢の泥足毘沙門天を見せて頂いたことがあります。
上杉謙信が越後の春日山本丸北側にあった毘沙門堂のご本尊で、
出陣の前、夜を徹して祈願をしていると朝、護摩壇の上から外に向かって
点々と毘沙門天の足跡がついていたと。
上杉謙信の戦場まで、一緒に出向いてくれたのだ、ということで、特に上杉謙信が
気に入っていた毘沙門天です。

http://www.houon.org/houonji/houmotsu.html写真は、こちら。

それで、この泥足毘沙門天が大きいと思っていたら、小さいのです。
40、50センチくらいのものですが、とっても素晴らしい彫刻でした。
人間業とは思えないほど、素晴らしい毘沙門天だったのを覚えています。
とても貴重なものを見せて頂きました。

毘沙門天といえば、東和町(花巻市)にある成島毘沙門天の、達谷の兜跋(とばつ)毘沙門天が有名ですね。
京都に埋葬されている坂上田村麻呂は、平城京に向いていたという説がありますが、
ある説では、東和町の兜跋(とばつ)毘沙門天に向かっているとも。
なぜなら、毘沙門天は、鬼門(東北)におかれるといった話があり、北を守るとされている。
成島毘沙門堂と達谷窟毘沙門堂(西磐井郡平泉町)
ともに、坂上田村麻呂創建の由緒を持つことからです。



-----------------------------------------------
改めて毛越寺をまわってみて、こだわっているな~と思う所もあって面白かったです。
毛越寺は、850年慈覚大師の創建と伝わります。
12世紀頃には、堂塔40あまり、禅坊500余。
中尊寺を上回る規模だった。
池の庭園は、浄土を具現化したもので、北に山水を入れる遣水(やりみず)があった。


(遣水)

この遣水は、庭園の発掘調査中にそのままの姿で発見されたもので、
遣水の遺構は奈良の宮跡庭園を除いては例がなく、
平安時代の遺構としては唯一のものである。遣水は池に水を取り入る水路であり、
玉石を底に敷きつめ、流れに水越し、水切りの石、その他水の曲がりや角や池への
注ぎ口に石組みを配するなど平安時代の指導書「作庭記」の様式を伝えている。
その美しい流れとせせらぎは、浄土庭園に風雅な趣を添えており、
「曲水の宴」の舞台ともなる。



願い事をかなえてくれるお地蔵様。

さて、この寺が慈覚大師の創建ということですが、
開山堂に近づいた時に、地元らしき女性の方が、
「普段開いてないのに、珍しく開いている~」という事を言ってました。



改築工事中だったから?開いていたのですが、
普段は開いてないというので、のぞいてみると、行基の像がありました。
へ~、普段は見られないものなの?と思い、しっかり見てきましたが、
どうして顔は白いんだろうね?
みんな大体、顔をまっ白しろすけに塗るよね。(そんなことどうでもいんだけど)
蜂子皇子もまっ白だったなあ。
という感想でしかならない・・・。



池には、のっほほ~んと龍頭船。
微動だにしない。全然ゆれてもない。(勝手に動いたら怖いけど)
乗りたいな~、乗れないよな~。

一番気にいった魔多羅神。
かっこよかった~。いいお顔をされてます。





毛越寺には不思議なまつりがあり、基衡の妻にまつわる
哭き祭りがあるそうです。僧侶が列になって悲しげに読経して歩くのだそう。
愛妻に先立たれた基衡の悲願ぶりを伝えるようです。



藤原基衡(奥州藤原二代)が、毛越寺を造営させたそうですが、
この方は、文化の摂取に財力を注ぎこんでいたそうです。

基衡は、円隆寺の本尊、薬師如来尊、十二神像を雲慶という京都の仏師に
依頼したのですが、仏像が完成するまでの3年間、
砂金百両や駿馬、鷹羽、アザラシの皮、絹や白布などの産物を陸路、
海路で山ほど送りつけたそうです。
仏像が完成すると、その出来が美しいので、鳥羽法皇は京都から持ち出すことを禁止した。
が、基衡は円隆寺の寺額を書いてもらった藤原忠道などに働きかけ、
平泉への搬送を実現させたという。

また、左大臣、藤原頼長から陸奥、出羽にある5か所の荘園の増税を
要求されたときには、金を10両から50両に引き上げるなど、
理不尽だとして要求を拒否、最終的に双方が納得できるところで妥協にこぎつけた。
※岩手大陸より

-----------------------------------------------------
数か月前に、場所は平泉であろう夢をみました。
私の先祖は、本当は誰なんだろう?と思っている夢でした。
こんなブログを書いているからですけど・・・。



いろんな歴史上に登場する名前が出てくるのですが、
一番、濃くはっきり出てきた名前が、「藤原秀郷」だった。

少し小高い丘のようなところにいて、
空は明るく日差しが点々とさし、花々が咲き乱れる美しい高原地帯に、
十二単衣を着たような男女の長い列が、大きな牛車を引いていた。
どんな人が乗っているのだろう?と牛車をのぞくと、
大きな人の顔がありました。
肌が焼けただれて火傷をした顔。
ぞっとしたのですが、殺されたか火災の被害にあったのか。
その人を埋葬するための列だったんです。
きらびやかな牛車にのせられていたので、平泉に関係する人なんだろうな。と
思った夢でした。
あの世界は、平泉の黄泉国なのかな、そんな風景をみせてもらった気がする。

遺体は惨酷なんです。
でも風景や物や人やすべてが光に包まれて美しい。
そのギャップがわからない。。。



しかし、なぜ、藤原秀郷が先祖となり、
平泉なんだろう?と思ったんです。

初代清衡は、陸奥国国府多賀城の官吏でした。
藤原経清の嫡男として生まれたのですが、父である経清は、
百足退治をした藤原秀郷(俵藤太)の血筋を引く家柄と言われます。

本当の先祖というよりは、霊統の方かもしれませんが。
平泉に何度も足を運んでしまうのは、先祖と関わりがあるのだな、と思う。

さて、もうひとつの平泉の目的は、義経堂へ行くことでした。
ここは、1度だけ行ったことがありますが、けっこう前だったのでほとんど覚えてません。
鈴のシンクロは、ある人の事かもしれない。

つづく。
コメント

蘇民将来子孫門戸☆

2017-03-27 | 東北地方の伝説(岩手県)
「ソミンショウライ シソンモンコ☆」
は、呪文みたいなものです。
最後に、五芒星をつけるのが重要らしいです。
水沢へ行った時に、水沢駅に大きなレリーフがありました。



ちょっとびっくりですね。
さすが水沢。
こういうのが駅に飾られていることを何も不思議でない風景になっていて、
蘇民将来を知っている外国人がいたら(いるのか?)
日本では今でもそのお祭りをしていることに、驚くよね。
これが東京のメトロにあったらなあ。ワラ

蘇民将来について事細かいことを書いていても、キリがないほどたくさんの伝承が残っている。
以前から書いている話でもありますが、もう一度思い出しながら、妄想したくなった。
なぜなら、蘇民祭りで有名なのは、黒石寺なんですよね。



天使ミカエル-----------------------------------------

その前に、前回の天使ミカエルがなぜ竜を退治するようになったのか。
ヨハネの黙示録より
「わたしはまた、一人の天使が底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、
天から下って来るのを見た。
この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、
つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、
鍵をかけ、その上に封印し施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、
諸国の民を惑わされないようにした」


実は、ミカエルはサタンと双子の兄弟という話がある。
おそらく、善と悪という二人の自分が登場させているものだと思います。
やっぱり、光があるのは闇のおかげです。
互いに必要なもので、シリウスAとシリウスBのような関係で、
閻魔大王の兄と妹のヤミーのようで。

そっくりな自分という双子とは、自分の中の悪を封じたということでしょう。
兄弟の話は、世界神話でも多く語られます。
ミカエルの任務は、知識の木から実を食べてしまった人類の祖、
アダムとエヴァを楽園から追放する任務をしていた。
皇帝のような姿で軍衣をまとって地上を訪れる。

ある説では、人類が神に近づこうとしたことがあったそうだ。
堕天使というルシファーは天では非常に良い天使だったのだが、
欲をもったことで、地上に落とされたという話などがあります。

人間の欲というのは、神というとわからないのですが、
難しいけれど、肉体を持っていなかった時代があり、肉体をもつことで、
人は寿命をもち病気をし、死を経験することになったと。
なので、ルシファーは、一旦、天上(次元が違う話ですが)していたのが、
地球に戻されたんだろうな、というSFな話でしか妄想できません。

西洋で語られるルシファーとは、
「天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが竜に戦いを挑んだのである。
竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。
この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、
全人類を惑わす者は、投げ落とされた。」

----------------------------------------------------
さて、西洋の話から、日本では近い存在としてスサノオ伝承があります。
蘇民将来とは何か。
駅のレリーフの説明より。
「中国古代文字、金石文字で書いた厄除けのおおまじない。
☆マークは、護身の秘法として唱える。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前の九字を切ることを表している。

日本の祭りの源流のひとつと言われている全国各地で行われている
蘇民祭ですが、なかでも旧正月7日の夜から翌朝にかけて行われる黒石寺の蘇民祭は、
全国的に知られております。

ではなぜ、「蘇民将来子孫門戸」の文言が厄除けになるのか、
「備後風土記」和銅6年(713年)に、昔、北海におられた武塔の神が、
南海の女神をめとりにお出かけになり途中で日が暮れてしまいましたので、
蘇民将来と巨旦将来の兄弟に宿を頼みました。
裕福な弟の巨旦将来は断りましたが、貧しい兄の蘇民将来は快く宿を引き受けました。
後日、蘇民将来の家を訪れた武塔の神が申されるには、「吾、じつは速須佐能雄の神なり
蘇民将来のために報いよう。茅の輪を腰に着けよ。また後世に疫気あらば
蘇民将来の子孫と言って茅の輪を腰に着けよ。すれば、疫気から免れるであろう」
と申されました。


-------------------------------------------------------
「牛頭天王と客人神伝承」によると、
客人神とは、「まろうど」と言いますが、韓国語で「ソンニム」で
天然痘の意味がある。ソンニムがソニンからソミンへ転訛たとも言える。
兄弟の話から、ミカエルの善と悪の双子の関係がみえてきそうなものです。

「まどろむ」と「まろうど」が言霊としては似てるから、
眠い言葉だと思うだけなんですけど。どうも、その変が、眠る地になっていると
感じているのは私だけか・・・。

客人神とは、客人をもてなすことにより「穏やかにお帰り願う」という意味があり、
これが星の運行なんです。
牛頭天王は、朝鮮のムーダンから由来しています。
朝鮮に由来する巫であり、韓国の伽耶山に牛頭と書かれた石碑が鎮座します。
伽耶(かや)は、加羅(から)のことで、元は安羅でアラに通じる。

また、この国の特徴は、支石墓にある。
ヨーロッパでは、アイルランドのケルトが発祥。
日本では最も古い巨石があるから、支石墓は西から来たものと、
古来から日本にあったものが混合している。
で、このような石の造りの墓を得意としていたのには、有名な豪族では蘇我氏、
葛城氏、同じく支石墓のあった物部氏たちなど。
特に、物部氏のフツノミタマの祝詞や物部数詞からは、朝鮮から由来する祈祷がルーツにあると
いわれている。物部数詞は、易学を元にしていると思われるのですが、
易学を知らずして、十種神宝は理解できないのだろう、と。

朝鮮半島では、松の木をご神木とすることが多い。
あこや姫伝承がある千歳山に伝わる「松の木の精霊」も、
松に神がおりるコトビキ(琴弾き)であった巫女=あこや姫を残している場所に、
物部守屋を継承する石碑があるのも、偶然ではないという事。

「ソシモリ」という場所が古事記だったか、神話にでてきます。
スサノオがおりた場所がソシモリで、スサノオが降りたのは高い柱のこと。
ソシ=高い柱、モリ=頂上。
東北地方では、「山(ヤマ)」とは言わない。
古くから山のことは、「森(モリ)」と言っていた。
モリは頂上にあり、神が降りてくる柱だから、東北(主に北部)ではモリという。

御柱ということなんでしょうね。
おそらく、諏訪のモリヤは、本来は、守るモリではなく、
柱を降ろす時に、矢を放ったのだろうと思うので、そのような想像をすると、
よく東北地方には山に矢を放つ伝承が多いのは、柱を降ろす時の儀式に、
山に向かって矢を放ったことに由来するのだと思うのです。
どういうものかわかりませんが。

なので、モリヤ(守屋)というユダヤ人は、後からやってきた渡来人であり、
本来のモリヤ(守矢)の姿とは遠い気がするんですね。
動物儀礼といったものは、ユダヤにもありました。
動物の血を玄関にぬっておくと災難から免れる話は、蘇民将来と同じです。

その降りてくる木が、朝鮮では松の木とされるそうです。
日本では杉。
そんな松については、琵琶湖の唐崎神社が有名。
日吉大社を祀る神社なのですが、、龍の姿に身をやつした大神様が、
船にのったまま松のこずえに上がるという神業を示されたことから、神聖視される。
想像するに、大津波でたまたま船が陸にあがったという事かもしれないが。
これから祭りには、粟飯を供えるという。
蘇民が宿を受け入れた時に、粟飯を提供したとあるので、唐崎神社の話は、
蘇民将来と同じ伝承があるといわれる。

ハリサイニョ-------------------------------------------

さて、龍といえばハリサイニョ。
スサノオの第二妃。
なぜか、2番目。
いろんな名前にされているので、ひっくるめて龍の女神とする。
ハリサイニョは、女性神官で巫だった。
占いをしており、井戸の水で足を洗ったことから、石占井というのが残る場所もある。
石神井にも似ている。

牛の角がはえた動物のお面をかぶる祭りなどは、朝鮮半島にもある。
牛頭天王の顔に、角があったというのはムーダンの始祖パリ公主(ハリサイニョの夫
のパフォーマンス)にあったと考えられている。
例えば、豚の頭を両手で持ちあげて被るしぐさ。
「頂に三尺の牛頭あり、又三尺のあかき角あり」と言われていた。
※三尺=114cm

パリ公主とは、薬水を求めて旅にでる娘の話がある。
薬師様のような話。
王に棄てられた王の末娘がいた。
娘は、地獄に住む無長神仙のもとへ行き、水を手に入れる。
王の夫妻に飲ませて蘇られせた話。
これは沖縄にも月の水が薬水で、蘇り(若返り)の水とされる。
ハリサイニョは、イナンナのようでもあり、イワナガヒメでもあり、
ミズハノメだったり、いろんな姿に変わる女神だと思います。

なので、スサノオの奥さんは、薬水をもっていた人で、
あの世とこの世の世界を繋げる役目をしていた。

蘇るから、蘇民という漢字になったんでしょうか?
角は、動物などの角や精霊の象徴だと思います。
アイヌ人が神宝とした角がそれで、鬼も角があるからそれが強い霊力として恐れた。
その霊力を失くすには、角を切るしかなく。
なので、角塚古墳は、角をとられてしまった。

でも角はまた生えてくる。
蛇の脱皮も同じで、これが永遠の象徴とされたのです。

なのに、そういう力を封じた巫女もいる。(呪詛みたいな)
これもスサノオのヤマタノオロチのように、自ら持つ霊力を捨てたのかもしれない。
悪=闇は、必要なものだから消すことはできない。
本当の悪というのは、自分で行っていることが悪いことだとわかっている人を差す。
精神病などでは無罪になるというのは、そういうことで、
理解していなくて悪業をするのは、本当の悪ではない。という認識。

さて、黒石寺がなぜ、蘇民将来なのか。
なして、黒なのか。

玄武は太陰である。
北方を守護する水神であり、玄は、黒のこと。
長寿と不死の意味がある。
また、黒石寺は、古くは妙見信仰でした。

魏志倭人伝には、倭国の北限は、狗邪韓国(くやかんこく)であった。
岩手県では、狼信仰は邪教だった。
狗邪韓国は、3世紀頃にあった朝鮮半島南部の国なのですが、
東北地方が北で黒。また玄武とされ、鬼がいて・・・ということを
妄想するに、インドでいうダキニのような信仰も。
この頃の東北地方は、多民族国家だと思うので。

それは夜叉ですが、白狐に乗る天女だというのですが、女の鬼です。
白狐といって浮かぶのは、九尾の狐。
時に、シバ神と一緒にお供し、強風を起すという荒神。

東北地方は、自然環境の厳しい土地であり、
津波などの自然災害が非常に多い所でした。
西に比べたらはるかに多くの自然の猛威を受けていたわけです。
十二支に辰がいますが、中国では竜の骨がみつかり雨や洪水を司ることをしていた為、
実際にいたと信じられているそうです。
が、これが恐竜説というのもあります。
竜魚のようなものだと思いますが。

竜は何かと悪とされます。
ギリシャではミノタウルスが有名。
ミノア文明ですが青銅器がさかんに作られていました。
アトランティスとも深い関係がある土地ですが。

ここにも、牛飛びの儀式をしています。
伝説では、顔が牛、身体は人間というミノタウルスを産んでしまうので、
迷宮をつくって閉じ込めてしまう話。
ラビリントスの話は有名ですが、人とは違う子を産む話は、日本の伝承でも
とても多いものなので、(馬とかワニとか)これも人とは異なるものは、
神のような存在として崇められているのは世界共通なのですが、大体、封じられます。

五角と六角------------------------------------------------------------

蘇民将来には、蘇民将来護符があります。


※神戸・祇園神社

五芒星から六芒星への変化の話もあります。
鶴が五芒星、亀が六芒星といった説もあり、興味深いシンボルです。
これは「統べる(すべる)」の統一といった意味があり、
五芒星は縄文時代頃からあったシンボルといわれ、
六芒星はユダヤのシンボルといわれます。
妄想するに、日本のDNAにある特殊?な人類とユダヤ人の融合ともいえるようです。
分断されたのを、一つにするという話で、世界神話で兄弟といっているのは、
日本人とユダヤ人なのかもしれません。

牛を飛ぶギリシャの話からも、たまたまその牛宿に出会った時に、
飛び越える術(呪い)をしていたと思うのです。
そのような時に巡りあわないように、祈祷をしたことがあり、
また多種多様な民族の増加で、病気(ウィルス)が蔓延したこともありました。
海側で、結界(アイヌのイナウなど)を置いていたのはそのためで、
このような形も呪い(まじない)だったようです。



以前書いた内容ですが、再度、引用します。
川村 湊:牛頭天王と蘇民将来伝説より

牛頭天王伝説の中に、出産の不浄がある。
出産時の星めぐり(天刑星=病魔)と考えられていたので、祈祷師は、
早くに本来の場所へ帰るよう促すことで退散させることをした。
強い疫神を滅亡させるのではなく、本来元の場へ還すことを祈るだけであった。
「箒(ほうき)信仰」は、丸い石をオブの石といって拾い神棚に祀る風習があるとの事。
かつては座産が多く、助産婦を「トリアゲバアサン」と言って村の器用な
女性がこれに当たった。(これは土佐地方:物部村の特徴)このオブ石は姥石の事だろうと、
著者は伝えています。

また、悪運に巡りあわせたために、「こたん一族」が滅亡したことになったのは、
「呪詛(すそ)」と考え、因果応報として神罰を受けた結果と考察している。
たまたま出産という場に立ち会うことになってしまった。
(血のケガレに恐れ、断っただけのことである。)

疫病神として天刑星に呪詛をかけられた「こたん長者」は、坊主千人、太夫千人、
出家千人を雇って呪詛返しの祈祷を始めるが、愚かな坊主の一人が、
楊枝として使おうとしめ縄の注連の足を千切った為に、
そこから「獅子蜂」に変身した天刑星によって侵入されてしまう。


これには、私も納得できます。
縄文時代、出産の時に火をたいていた事がわかっています。



釣手土器(香炉)は、その時に用いていた土器であると考えられており、
「火は生命の光をともす力」として命の息吹を司ると考えられた。
出産の苦しみ、痛みからの解放です。
その祈りから、蘇民将来が生まれたと考えるのが自然だと思います。

古代、人が生まれる時の星宿の知識がありました。
その星の生まれからその人の人生が決まるからです。
それがユダヤのルーツだと思うのですが、そのような星の運行から
蘇民将来が生まれたわけです。

-----------------------------------------------
最後に、宮城県涌谷町に金がとれた、箟峯寺(のの岳)があります。
マロ伝承がある有名な所ですが、ここにハイヌヴェレ神話があり、
女神をおいつめた話がある。
伝説では坂上田村麻呂が退治した鬼の体を分けて埋葬したと。
悪路王を追いつめ、互いの戦死者の塚をたてたのが観音堂無夷山箟峯寺と伝わる。
松島にある富山に大竹丸、箟岳には高丸、石巻の牧山には魔鬼女(まきめ)と伝わる。

何かよくわからないが、出雲からの貢物である「礪(といし)」砥石?
と同じようなものらしい、貴重なものがあると伝わる。

これが五角形の蘇民将来にある疱瘡石に関係している。
無夷山箟峯寺には、ここだけにしかない五芒星(五角形)の疱瘡除け守りなどがある。
岩手県の黒石寺に伝わるものでは、六角形の小間木で六芒星である。
黒石寺のサイトによると、材質はヌルデ。
蘇民祭の中でも、五角形は箟峯寺 (宮城県) と黒石寺のみであり、
五角形は陰陽道の「五芒星」を意味しており、陰陽道に用いる代表的呪術図形である。

平泉にも箟岳山というのがあり大六天と疱瘡の版木がある。
白山信仰、八幡信仰、五大種子(五大原素)を祀り、
疫病を流行らせた恐怖に対し聖水をもたらしたといわれる。

ヌルデは治療薬ですが、このような治療をもたらしたのに、錬金術師がいます。
修験者のルーツというか。
黒石寺ではヌルデをお守りにするそうです。
虫よけみたいなものですね。

そういう知識をもっていた人たちの多くが、ユダヤ人で、
どうやっても、何を調べても、行きつく先はユダヤなんです・・・。
こればかりは、私も深いところまでは追求できません。
ユダヤの融合があるとはいろいろ聞きますが、縄文人は何だろう?と思います。
ユダヤと縄文の関係とは?

それがこれからのテーマなような気がします。
角は、アンテナともいえる。
宇宙のアンテナをはっているといろんなモノが降りてきますが、
これからは、個々に降りてくるというか、もうそうなっています。

大地母神を封じた男神が強すぎて、今は出る幕なし。ってことのようですが、
五芒星は星の形は、陰陽師やケルトの世界では、一文字で書けることから、
エンドレス(終わりがない)な意味で、永遠の意味があります。
六芒星は、上と下に向く三角形が重なるので、男女の統合の意味があります。
永遠であり全てであった星から、イエスキリストの自我が芽生え、男と女が生まれた。

人は男女神を祀り、夫婦神を敬うことをしてきた。
当たり前ですけど、自分に感謝し、家族に感謝できる人、
奉仕できる人、仕事や日常の中でそれができる人が、自然と浄化に至っているわけです。
問題は、自らの行いでそれをすることができるか。
他者を媒体にした受け取りは、何の効果もないってことです。
自ら脱皮できなければ、意味がないってことです。

で、何が蘇民将来なのか、全然まとめられませんでしたけど、
角をもっているものは、精霊の力なのだと思います。
それが強すぎることを恐れたこともあり、また、その力を封じるという意味は、
自分たちがそのような力をもっていることを、どうしても、嘘くさい感じがして
受け止められない。いまだに。そう思っている人は多数。
実は私もそういうふしがある。でも本当は、すごいパワーを持っている。

だから、アイヌの神宝がでてくるんですね。
何の目的かわからなくても、角とはそういう力を持っている。
そういうアンテナを人間も見えないだけで持っている。
だから、兎の耳は長いんですね。
兎=月神=セオリツヒメ・・・でた。
あえてここで、それがでた。

実は、昨日、ブログを更新しようと思っていたのですが、時間がなくてやめました。
そしたら、その日は、歴史クラブの集まりで、椿大社から頂いたお守り(なんというものか忘れた)
を見せて頂いた。それは、絵馬に「瀬織津姫」と書かれたお守りでした。
それが、なんと牛頭天王と一緒に祀られている瀬織津姫だったんです。
写真をみせて頂いたのですが、確か、小さいお社?で牛頭天王の前か後ろに
瀬織津姫が祀ってあったんですね。
なので、「蘇民将来子孫~」の言葉が書かれた護符もついていた。

わ~、蘇民将来を書いている時にー。タイミングよすぎでしょっ。
でも説明できない。瀬織津姫は謎すぎる。

椿大社は猿田彦命。
「みざる、いわざる、きかざる」の三猿があったね。
これは、水沢宇宙科学館の門にあった石碑がそれでした。
そこで、猿田彦命を妄想してました。こういう所で繋がるから不思議~。
ブログにも「ミロク」なんでしょうね。とか言ってる感じからして、もうそういうことで。
・・・どういうこと?

はい、水沢はおしま~い。

次は、久々にお山の話~♪
コメント (2)

水沢の角塚古墳とアイヌ

2017-03-11 | 東北地方の伝説(岩手県)
ミサの水沢へ。
3月11日の震災から6年。
あ~、もうそんなに経つんですね。
昨日のことのように今だに、長かった地震の揺れが体に染みついています。

なぜか、3月11日に水沢にいくという流れ。
介護生活が終わったら水沢に行こうと思ってましたが、
平日に動きたかったけど仕事が忙しく休めそうにない。
別に急いでいくこともないのだが、
むしょうに行きたくなってしょうがなくなった。
そうすると、11日しか動けない。。。

ん~、震災から6年という月日。
閖上の方に向かって遠くの目をしてしまうと、林先生の「今でしょ」
が飛蚊症のようにしつこく浮かんできた・・・。笑

今でしょ?
何が??

昨年10月に鳥海山大物忌神社へ精麻を奉納してきたのですが、
その帰り、なぜか水沢に宇宙天文台があり、z項を発見した木村さんというすごい人がいる
話になって。知人がそれを教えてくれたのですが、
リニアコライダーがあの地に選ばれたのは、世界中の物理学者が木村さんの故郷を求めて
いたからと・・・。

・・・・忘れてた。リニアコライダーの存在。
花崗岩という地層の環境で選ばれた他に理由があるはず、と思っていたのですが、
水沢にそんな木村先生の宇宙があったとはっ!納得!!
それを聞いて、行ってみないことには妄想できんっ。
と思っていたところ、義母に続き義父の介護生活になり、今まですっかり忘れてました。

以前、安部氏探訪で胆沢へ行った時に、いろいろと妄想してましたが、
やっぱり水沢も胆沢も安部氏の存在がとっても大きいと感じます。

木村先生の話は、後ほど、書きまくります。

最北の前方後円墳-----------------------------------------



ということで、3月11日に水沢行脚へ。
震災の6年というのが、私にとって大きな節目にあたるようです。
でも、なぜ水沢なんでしょう?
・・・わからんねえ。

とりあえず、岩手といったらお供はママチャリ。デタ。
レンタルサイクル~♪エコだね~。



※「観光物産センターZプラザアテルイ」でレンタルできます。
名前がアテルイ。。。Zは、ももいろクローバー。。。でなくて、
Z項の木村先生のことです。タブン

また、水沢といったらアテルイの故郷となってます。
山はまだ雪が多いですが、そんなに寒くはないです。
もうすぐ春ですね。

宇宙へ行く前に、行ってみたかった角塚古墳へ!
水という地名には、宇宙と深い関係のある土地だったことに気づく。
古墳に一本杉が立っているのはとても珍しいです。
一柱に神が降りてきそうな、そんな古墳なので、
この古墳の主はどんな人だったんだろうと思います。



以前にも書いた伝説ですが、もう一度、角塚古墳の伝説について、ざっくりと。

「当地には高山掃部という長者がおり、その妻は強欲であったがために大蛇に変身した。
大蛇は農民を苦しめ、里人は松浦の国から小夜姫という娘を買って
生け贄として差し出すことにした。
大蛇が現れた時、小夜姫がお経を読み経文を投げつけると、
大蛇は元の長者の妻に戻ったといい、大蛇の角を埋めたところがこの角塚古墳であるという。」


「里を救った如来さま」と題した看板では、もう少し具体的で、
大蛇は、8月15日の夜に、15歳の娘を差しだせという。
なんだか、仙台の広瀬川に伝わる橋姫伝承と似てます。
川の氾濫を鎮めるのに人柱をしたという伝承は、たくさんあります。
このあたりは、小夜姫にまつわる話が残っているのですが、
化粧坂というのがあり、小夜姫が持ってきたと伝わる高さ5センチの
小さな如来様が薬師堂に祀られているそうです。



化粧というのは、宮城県北部にも悪玉姫伝承で化粧池(沼)があります。
悪路王と関係しているのでしょうか?

東北の古代史では、悪路王といってアクリかアクロという地名が由来し、
アクリ(阿久利)という地名にいた長という意味がある。
大高丸がそうだと言われますが、アテルイと同一とは言えない。
なので、アテルイという人が突如現れたのには、何か理由があるはずです。
もしかしたら、アテルイは大和朝廷に仕組まれたこともあったかもしれない。

妄想するに、大和のことをよく知っていて、エミシの言葉も理解していた人
を起用したのは、古くから来ていた安部氏や大伴氏、物部氏、秦氏などが、
朝廷から離れ、東北へ逃れ、左遷された屈辱的な精神をもつ氏族を
利用してきた大和朝廷=藤原政権があったと思うのです。
その悔しさというか無念さ、いろんな感情が伝わってくる。


---------------------------------------------------
ちょっと話が脱線しますが、前世の話です。
数年前に友人のヒーリングを受けた時、
時代は不明ですが、小さい円墳の上で白い服をきた少年らしき人が、
地面に伏して泣いているビジョンが浮かんできました。
そのことを友人に話すことはしませんでしたが、
なんとなく、私の中であれがエミシなのか、と思ったのです。

すると、セッションが終った後、友人が、私は東北地方に縁があり、
昔、村を壊滅させてしまうような出来事があり、その時、私は若くして
長だった前世があったそうです。
未熟だったからか、自身の決断不足が原因で、村を失ってしまった悲劇がありました。
その頃、私は転換期があって、決断に迷っていた時期でもありました。
核となる前世の記憶は残るもので。
その決断力のなさから今の自分に到る、と思ったわけです。

円墳で泣いている姿と一致したので、
きっと、あの円墳は少年の父親だったと思うのです。
エミシというのは、先住民とひとくくりに言われますが、
普通に東北地方で暮らしていただけです。
主に、稲作などの農業はせず、漁や狩りを中心として暮らしていました。
特に、八幡平が好きなのですが、
悲劇がたくさんあった時代に生きていた前世が、蘇りました。
でも、こうやって東北を行脚していることがとても楽しくて、
ワクワクしてきて、幸福感があるんですね。
それは不思議です。

前世は誰でもありますが、核となるものは、魂に受け継がれ記憶され、
シュタイナーでいう前世のカルマというのがそれなんですが、
私は過去に生きるタイプなので、こういう生き方を選んできたのだな、と思ってます。
なので、古墳萌え~になるわけですけど、笑
ただ、雷神山古墳、角塚古墳、天栄村の龍ヶ塚古墳しか興味がない。
何か共通するものがあると思うのですが、そこは、はっきりしてるんです。

たぶん、ルーツは九州の豪族ってことなんでしょう。
そこに物部氏が入ってくるのは、彼らは北方の人たちなので、
南と北の先住民が入り混じっている歴史が、たまらないわけです。笑
--------------------------------------------------
さて、歴史に戻りまして、
日本の古代は、東日本の日高見国と大和朝廷が中心にあった大和国と大きく2つに
わけられると考えられている。
国境におかれている塞神や道祖神も、日高見国の境を印すためとも考えられる。

栃木県から福島へ入る時、高速を走ってみるとわかるけれど、
那須高原のある那珂川を渡り、箒川を渡って、白河関に入る。
昔は、大きな大河だったと思うけれど、今は水の流れは乏しい。
大きな川が国境になっていた。
阿武隈川、名取川、北上川・・・。

岩手県内の古墳群は、ほとんど北上川流域の平野、水田地帯に集中している。
角塚古墳は、仙台の雷神山古墳、遠見塚古墳と形状がよく似ているので、
専門家の話では、同じ系譜の墓であるという。
ということは、奥州街道を通って名取~多賀城あたり~水沢へ北上した豪族の墓となる。

5~6世紀始めに造られたとされ、農耕社会とそこでの政治的諸関係を示すもので
東北地方における古墳時代を解明するうえで重要な前方後円墳としては、
岩手県唯一の古墳です。



アテルイが亡くなった年は、802年くらいだったと思う。
なので、角塚古墳はすでにあったわけです。
アテルイとモレの碑がある田茂山に行った時、「角塚古墳」の看板があった。





あの場所から角塚古墳はほぼ一直線にならぶ。
古墳がよく見えていたわけですね。



この古墳の主はわかりませんが、大和朝廷から位と姓を与えられた長であったことは確かです。
埴輪が見つかっているのはここが最北だそうですが、続縄文文化と大和朝廷の関係があったそうです。

このあたりの古墳群の特徴として、農具を副葬とする古墳と、
武器を副葬とする古墳の2つのタイプがあり、農具を副葬とする古墳の方が上回っている。
農民が主体で、戦士は客体であると。
-------------------------------------------------------------
エミシについていろんな諸説がありますが、
北方系ツングースが代表的な人種であるといわれています。
シベリアの方ですね。
アニミズム、シャーマニズム、トーテミズムの世界観があるからですが、
続縄文文化とアイヌの文化にエミシも共存していて、
金属を使用し、稲作は伴わない狩猟などの生活をしていた。
7世紀頃まで続いており、擦文文化がアイヌの担手となったそうです。
熊おくりの儀礼などもそれで、北方の影響を受けている。



エミシの遊戯という点では、柳田国男の「山人」にも書かれています。
「農耕をしなかった先住民が山人になった。
隔絶した山中に住む異民といわれたが、毎年の定めの時期に、
京都の朝廷へ出てくることがあり、主として神事と関係しており、
延喜式をみると、祭の儀式の中に山人が出て来て庭火を焚いたり、
舞を舞ったり、歌を歌ったりしたことが分かる。
後に山人が来なくなったので、朝廷の役人を山人に擬してその役を
勤めさせたものである。」


柳田国男は、山人とは、日高見国の国神のことを差し、大和とは区別されていたと。
日高見国にいた国神が、朝廷に舞を披露していたのでしょう。
その頃は、まだ激しい争いがあったわけではなかった。

また、土地を個人が所有する概念もなかったので、
大和朝廷による律令制などは、理解しがたいものだったのです。
エミシには国家というものはなく、自由だったといわれます。
おそらく、アテルイという人は、他民族国家だった東北を
一つにする連合国みたいなことを考えていた為に、大和朝廷から迫害されたと思います。


※公園にある埴輪の像。
----------------------------------------------------
なぜか、角塚古墳の妄想をしていると、
むしょうにアイヌの歌を聞きたくなりました。
安東ウメ子さんの歌です。
以前から安東ウメ子さんの歌は好きだったのですが。



アイヌと何か繋がりがあるのでしょうか。
安東ウメ子さんは、もう御亡くなりになりましたが、
あの安東水軍の末裔ではないか、といった話も聞きます。


※角塚古墳を見守る埴輪たち。

なんとなく、角塚古墳は和人だったと思うのですが、
後に一族は、先住民と婚姻を結び、混血してアイヌ人となったような気がするのです。
安部氏がそんな感じで。
続縄文文化とは、オホーツク文化が樺太から千島列島に広がった文化なのですが、
アイヌの文化や縄文文化とは違うものだそうです。
オホーツク文化は、主にクジラ漁やアザラシなど海の漁をしていた人たちです。

その同じ頃に、本州の文化が入り北海道特有の「擦文文化」が成立。
北海道と東北との交流が、南下し本州との交易がまじりあう。
鉄製品が使われたのもこの頃で、エミシは本州から東北へやってきて、
北の文化を吸収し、独自の文化を育んだものと考えられます。



アイヌの文化は、擦文文化から変わったといわれ、
角塚古墳などの水沢の古墳群は、北海道文化からの流入による影響を受けていたと
考えられるのです。

だからアイヌの歌が響くのかもしれない。
角塚古墳の伝承で、なぜか、アイヌと繋がる部分では、
北海道日高という地名にある沙流川(さるがわ)が繋がる。
日高の沙流川は、オキクルミの妹の伝承があります。
これも震災の津波と関連しているのでしょうか?

「サル」という川名は、遠野にもあります。
猿ケ石川ですが、北上川水系北上川支流の一級河川。
遠野物語の舞台となった河童の川です。

アイヌでも津波除けの呪いがありました。
「津波は、心をもつ悪い波で、古道具や穀物のヒエなどを海岸へ並べ、
ホーイ、ホーイと言いながら道具などを蹴飛ばして海に入れ、
先に物を渡すからコタン(集落)まで来なくていいと頼む」

※1943年胆振管内むかわ町より。

日高の沙流川がある平取町に過去、60mを超える巨大津波があったことがわかりました。
亡くなった方もその時は多く、陸地に駆け上がった高さは63mにも達していたそうです。

二風谷というアイヌのコタンがありますが、平取町だったと思います。
風の谷のナウシカ、みたいな。
そうそう、ジブリといえば、角塚古墳の帰り、なぜか米良さんのもののけ姫の歌が
頭の中で流れ始め、なんでジブリだろう?と思っていたんだけど。
面白いことに、この後、お腹すいたのでカフェに入ったら、
そのお店でも、クラシックでジブリの音楽が流れてました。

とりあえず~、角塚古墳に行けて良かった~。
小川が流れていて、近くまで行けない感じでしたので、
遠くで拝観する感じです。
向かいが広場になっているので駐車OKです。

で、やっぱり、水沢といったらアテルイの故郷ですね。
水沢市民がいかにアテルイをこよなく愛しているのか、よくわかりました。
ですが、個人的に、私は紀古佐美も気になっている人です。
続く~。
--------------------------------------

最後に、なぜアイヌだったのか。
なんだか、この日、私はとても癒されています。

妄想中、素敵なアイヌの歌をみつけました。
やっぱり、私はこういう歌に惹かれます。
アイヌの歌は好きです。
こんな眠りの中で生きていきたい。

60のゆりかご アイヌ音声 日本語字幕
公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構


アイヌモシリ
人間の静かな大地。

3月11日。震災から6年。
この歌が少しでも慰めになりますように。
再び、新しい眠りに目覚めて。
コメント