秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

鶴と亀が統べる梵天

2018-10-20 | 日記・エッセイ・コラム
出羽三山がある山形は、すでに鶴と亀が統べったのだろう。
という妄想。
かごめかごめの唄。
出羽三山はすごいから。

だから山形は完璧なモノがあるんだな、と妙に納得しました。
深い話になっていきますが、精神世界のような話なので、
興味がない人はスル―して下さい~。
相変わらず妄想が広すぎて私の頭では解読できず。
イネハポみよさんに助けを求めて、なるほど~な話。

源頼朝に共感したのも剣にあった。
頼朝は、安徳天皇がもっていた剣を探していた。
草薙剣といわれる。
その失敗から義経が追われる。

それで、面白い話になってきました。

夢の鯖のメッセージが伊雑宮なのも、鶴でした。
いつも忘れてしまうのだけど、前にも鶴のことを書いてまして、
そーだったな、と思い出しました。



『倭姫命(やまとひめのみこと)が志摩の国を巡られた時、
伊雑宮のあるこの地に、一株(一基)で千穂にもなる稲が生えて、
傍でこの稲穂をくわえてきた鶴が鳴き飛んでいた、と伝わります。
なお、この鶴は大歳神の化身だったともされます。』


鶴と伊雑宮のことは、山形の越王の古墳で妄想していたのだから、
山形に鶴をもたらしたのは、越王(古四王)だと思うのです。
逆に山形で「亀」を探すのは難しい。
それは、先に「亀」がいたのを後に「鶴」をもってきて統合した。
どういう意味かというと・・・。(ちょっと難しいかも)

この話に展開する前は、武甲山の猿田彦信仰でした。
これがずっと鶴まで続いていたことに気づき、
結局は、「アルファでありオメガである」というメッセージに至る。

山を神格化するのは、人間が山をそのように見てきた結果であり、
武甲山の場合、その思想は、1000年以上続いている。
武甲山を単なる鉱物の塊ではなく、霊体にしたのは秩父にきた先祖です。
その山を生かすも殺すも人間次第ということになります。

以前、武甲山山頂に板碑が3つ置かれた夢をみて、
武甲山は死んだと思った。


※夢の想像図

でもその後、伊雑宮の夢を見て、最後は、青々としている雄大な武甲山で終わっていました。
このような世界は私だけではなく、武甲山麓に住んでいるSさんも同じ姿を感じていました。
それだけ影響がある山であることを知ってほしい。
何も感じていない人は、単なる山であったとしても。
あんな姿でも呼吸をしている山なのです。

そしてこの意味が、「死と再生」のことと知って驚いた。
それが「鶴と亀の統べる」だったことも驚いた。
全て、武甲山が教えてくれたことに、もっと驚いた。
その正体は、猿田彦である白鬚のおじいさんだった。
私はいつもこの人に教えて、教えてと言っていたからです。

イネハポみよさんの話によれば、
『梵天あげの祭りは、猿田彦が「心御柱」になる。→八尋殿の柱。』

そうか、「八尋(やひろ)」とは、なんとなく
「夢のサバは、八尋鰐(やひろわに)のことかもしれない。」
と、思ったのはそういうことでした。
それに「心の御柱を降ろせ」と、何度も言われたのも梵天のことだった…。

古事記にも八尋殿というのがでてきますが、言霊の世界では、
『柱の周りを父韻がぐるりと取り巻く』意味がある。
※イサナキ・イサナミはうきはしに得るオノコロに八紘殿を建て、
その中柱を巡ることで、衰退した葦原中国を復興させて行く。
八紘の殿はオキツ宮にあったと思われる。

『ユダヤの時代は、6で世界を動かしていたけども、
それを8にすると国常立の図形(アダムの肋骨ともいうらしい)がある』

※アダムの肋骨を一本とり、そこを肉でふさぎ、
神はアダムからとった骨でイブを作った。(聖書)

古御嶽城跡に国常立命の石碑があり、その両端に春日神と氷川大神がある。
武甲山麓で御嶽講の人がそれをやっていた事があったのでしょうか?
あの石碑群は普通ではないので。神々の墓場。

ひふみ神事みたいな。
「八」の数字が隠されていることは、
猿田彦神も「八」がからみ、武甲山を囲んで八坂神社も一緒にお祭りしている。
国常立命は堕天使とも言われるが、闇を知っているから光を生みだすことができる。
ダークマター?
ヤマタノオロチ(八又)なり「八方向の広がり」は、猿田彦が先導する時にも使われた。
それがダークマターからの光。ビッグバン。

『6は、争いとか競争、8が安定や平安だったかな。
亀から鶴に変換すると、つまり、世界が変わる。
それが武甲山と関わるとなると、私見では「天のうけひ」が行われる場所が武甲山?』

『ユダヤはその役割を終えて、というか、
エホバ神が元々の慈悲と愛の神に戻るというか、縄文の精神文化に戻ること。
縄文の精神文化と物質文明が融合して、第三文明が起こるのかもしれない?!
言霊の世界では』


※イネハポvol.3

秩父の水分祭が、どうみても失われたアークなんですけど・・・。
祇園祭りがそうであるように、武甲山の伏流水を願う祈りでもあるのですが、
この水とは武甲山に関わる水で、秩父神社と今宮神社の春に行われる神事となる。
秩父神社の禊川の側に祀られているのが、瀬織津姫といわれる禍津日神です。

秩父夜祭に降りてくる神は、「大蛇窪」からです。
それは「亀」に乗ってくる妙見様なのですが、
大蛇窪が真名井の泉(籠神社の奥の院)に見立てて亀となる。



籠神社も元伊勢で亀なのです。
武甲山を「統べる」には、「鶴」=8の世界が必要と。
それは「創造する力」のことではないか、と。
なので、今、秩父では創造する力が働きはじめているのです!



※天津太祝詞(音図)を、創造意思の働きである8つの父韻を
中心に並べ変えて八角形の構造に収めたものがあります。
それを八咫鏡と呼ばれるもので、これがその図です。
(コトダマ学入門:島田正路著)



武甲山の山頂がピラミッドの姿に見えるのは、
クシルフダケであるとも言える。
そのような姿を表象するのが信仰であり、「権現」といわれた力となり働く。
人が山をそのように見るから、そのような働きになる。

鹿児島県の大塚古墳に秩父権現を祀った畠山重忠は、
武甲山のクシフルダケを想像していたのかもしれない。
役小角もそれをみて蔵王権現とした。
弱い母たちの姿をみて、もっと強い神がほしいと望んだ。
クシフルダケはピラミッドです。



武甲山の人工な震えが、「フルフル」になったりして。
そういう受け止め方もいいと思うー。
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氏神の猿田彦(お天狗様のお祭り)では、梵天をあげます。
鯖の夢で、鯖が「佐波」だったと思い、調べてみると、
級長津彦命 級長津姫命が祀られていた。

『梵天は天御柱(主体)/国御柱(客体)が一つになった『心柱』
(伊勢に祀られる御神体)で、それを男根で表した。』



奈良県の龍田神社(風の神)に祀られる、級長津彦命 級長津姫命を、
「天御柱命」、「国御柱命」として祀っている。
これは、言霊の主体(天御柱)と客体(国御柱)と同じだった。
なので、秩父神社は、天柱と国柱を一緒に祀っているのです。

言霊では、
『その周りを八父韻(八尋殿やひろどの)が動くことで、
子音が生まれる=現象が起きる。
インドでは、リンガヨーニの器物があります。コレが、そっくり。
男根信仰になったのも同じで、梵天もリンガを表す。
『リンガヨーニ』のメタファーは、意識(リンガ男根)と物質(ヨーニ女陰)の合体。』

つまり、日本語の言葉自体が「カミ」である音の意味がある。
暗黒の無音の世界から、この世に光の「音」を生みだした神であるという事なのです。
赤ちゃんの産声、「あ」の言葉=始まり。

陰と陽は、太陽と月ですが、太陽ばかりが出てきてしまったので、
太陽を弱くして月を強くする時にあると=「ん」の終わり。

それだから、意識と物質から、「アルファでありオメガである」
AtoZになる。

バラバラになっていたものが一つになる。
ハイヌベレの大蛇がバラバラにされたのをひとつにできるという意味でしょう。
まほろばの解釈では。

男女の融合とは、▽△。六芒星。
東北地方に男女神(夫婦神)をバラバラにしていると思ったのもそれ。
もしくは一柱しか祀られていないのは、融合できなくしている。
唯一、泉区の二柱神社が陰陽として融合されているから、
あの場所はすごいのです。
おかげで霊感?がパワーアップした。

二柱神社が縁結びの神として県外でも有名になっているのは、
融合の力がすでに出来上がっているからで、それは山形県一帯もそうなのです。
出羽三山は、過去・現在・未来と三位一体としているので、もっとすごい。

『梵天は、「ホデ」と言い、依り代とか神座の意味がある。
この現世世界は、移り変わりの無常の世界。
意識と物質の合体により、顕現する世界が神の依り代である』

依り代は雷の形。
梵天は雷をおろす柱。
鹿島大社にあった直刀は、雷を模したものだった。

鶴の伊雑宮から武甲山の亀に繋がる意味がわかった。
かつて、秩父にきたユダヤも縄文と融合しようと試みた。
猿田彦は、ユダヤを先導したわけだ。
今、物質文明ばかりを作り続けてきたので、
縄文がブームなのは、縄文精神と融合しないとならないと。

『ユダヤは、さまよえるユダヤだけど、戻る場所を探している。
ユダヤは、失われた支族を探し続けてるという話。』

ユダヤが探している元は、日本語。
彼らが祀る言霊=日本語は、天孫系民族(ニニギ?)
天皇家は、代々、言霊を祀る神官として存在している。

「さまよえる場所を探している」が、まさに松平長七郎伝承と重なる。
かつて松平家の誰かが終焉地を求めて、遠くから峠を越えてやってきたのが
武甲山だったことを考えると、武甲山には、鶴と亀が統べる場所である
ことを考えてきた修験者がたくさんいたと思うのです。

そんな夢の内容が、全部、シンクロしてしまった。

ヤマトタケルが兜を置いた岩に、神代文字を印し、
その上の山頂でモガリ(殯)の儀式をした。
誰のモガリか?
失われた十支族の系譜をもつ一人が、武甲山に至ったという妄想。
ないこともない。
霊は武甲山に集まる。

また夢の話なのですが、かなり前に、一人の山伏の姿をみてました。
大きな武甲山を目前にして、「この山を超えるのは厳しいなあ」と言って
そのまま立ち止まっている自分らしき人。
右にお寺、左に神社。
モノクロの夢ですが、大きな武甲山だった。
本当は、その山伏は山梨県まで行くつもりだったと思う。
でもそこで武甲山をみた。
その山の霊力を知ってしまったから、武甲山に隠居した。

もうひとつ、山伏をみていて、畑が広がる田園風景。
その中に一軒の藁家がある。
その光景を見ている山伏の後姿をみている夢。
あれが、松平長七郎なのかもしれない、とふと思った。

ということで、これ以上ひっぱるのはやめよう。笑
武甲山信仰はもういいや、と思っていると、
結局、武甲山に至る。
松平家に振り向いたからだー。

こんな妄想ですが、結果、どうなるか。
まずは、コツコツとやれることをやる。
その時が来たら、私は喜んで迎えたいと思う。
チマタでは、イエスキリストの再臨とか言っている。
それも非常に興味深い話。
ならば、マリアさまも再臨して。

めずらしく雷がなってる。
これで終わりますが、次は岩手がキタ。
も~なんて日だ!

つづくらしいよ~。
コメント

チャクラがパカパカ縄文芸術館

2018-10-13 | 日記・エッセイ・コラム
武甲山妄想から剣がほしいな~と思って。
もちろん、心の剣。
これ以上強くなってどうすんだろう。笑~。

久々の仙台イネハポ探訪。
Nさんが富谷の大亀森へ行きたいとの事で、
縄文の森を眺め、その後、中新田の縄文芸術館へ行きました。
縄文芸術館は10年以上前?に行った記憶がありますが、
しばらく行ってませんでした。



まず、大亀森ですが、奇石を祀る神社(鹿島天足神社)です。
よく行っているので割愛しますが、
ここにある展望台について、Nさんのご主人の話によれば、
上にあがると次元が違うような感覚があると。
これを作った人は、それを知っていたのか、と思うくらいだと。



「138m」の高さなので展望はいいのですが(風が強い)、
確かに、ここの展望台の頂点に立つと大きな木々と同じくらいの目線になる。
鳥の目線で森を眺めるのは、登山に登ったくらいの感覚しかないですが、
こんなに高いところから七つ森や大和町の森を眺められるところは、山意外ないです。

以前、ある人も同じようなことを言っていて、
展望台がここに立つ意味とは、昔も、この高さから何か眺めていた
ことがあったから(見張り台のようなもの)、展望台ができてしまうと言っていた。
その世界は、縄文の森とほぼ変わらない風景なんだと思う。
この日は朝、雨が降っていたのですが、到着する頃に雨がやみ、
青空がみえてきた。


※台風で倒れてしまった杉。

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さて、次は、伊達神社へ寄りました。
いつも神社を通り過ぎてしまうのですが、なんとなく寄りたくなって。
考えてみれば、伊達神社は、フツヌシをお祀りしている。



剣がほしい~。
元はフツヌシ一柱だったので、香取宮とよんでいた。
古墳の上に立つ神社で、坂上田村麻呂の東征の折に勧請された伝承がある。


大きなイチョウ。

一説には、この地にやってきた播磨国飾磨郡付近に住んでいた人々が、
飾磨郡伊達の射楯兵主神社から射楯大神(五十孟神)を勧請したともいう。
こっちの説が有力と思う。

伊達神社は、赤塚鹿島神社と宇伎須神社(うきす)を鳴瀬川をはさんで三角形になって
置いているのは、東国三社を模している。
宇伎須神社は、岐神とあり、久那斗神を祀る。
五社宮、六所明神、浮州明神などとも称した。



三社って宇伎須?だったのか。
お河童様だと思ってた。

ちなみに、坂上田村麻呂について色麻町郷土本によれば、
「丈夫で勇ましいが優しい子供もなつく。
エミシを討ち平げると供養されたという。
念南寺はそのひとつ。」

※念南寺(ねやじ)とは古墳のこと。
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中新田の縄文芸術館へ。



縄文芸術館は、縄文人の心と造形に深く傾倒する詩人宗左近氏から縄文土器、
土偶約200点の寄贈を受けて、1988年に開館しました。



詩などの文学的表現のあるタイトルが素敵です。
ここはおすすめ。
宗左近氏の言葉から。

『ルーツとは、タマシイの始原のことです。そして同時に、タマシイの未来のことです。
本来の日本人のタマシイは、激しい祈りと熱い愛の複合体です。
壮麗な宇宙性をもつ有機体です。
雄渾な生命です。

縄文人の遺品が、その何よりもの具現です。
そこには火の激しさと火の優しさが共存しています。
動力学と静力学が綜合されています。
そのため、天空への螺旋上昇吊りあげられ運動が起こっています。

これは、人類の歴史のなかで他にはみられない、全くの独自です。
世界に向けて誇るに足る、傑れた特質です。
縄文人の遺品を、単に考古学の資料として眺めてはならないのです。
これは、世にもまれな芸術なのです。
ですから、あなたのタマシイで受けとめて頂きたいのです。

縄文人と現代人の二つのタマシイが向かいあう。
すると、強い真空放電が起こり、閃光が走ります。
そしてそこから、今まで思いもよらなかったエネルギーが噴き出るのです。
つまり、未来の光がきらめき出るのです。(以下省略)』



photo:inehapo

最後に、
『中新田のあなたは、まぎれもない縄文人の直系の子孫ではありませんか。』
と言ってます。
うらやましい。
太鼓判おされてますよ~。中新田の方々~。
が、宗左近氏が中新田に寄贈した理由を、忘れてしまった・・・。

最近、ハートチャクラパカパカ現象が多々あり。
いつどこでどのように、パカパカするのか予測できず。
今回は、縄文のお面みたいな小さい顔たちをみていたら、
パカパカしていとおしくなった。
すっごくかわいい子供たちにみえ、お母さんのようにHUGしたくなった。
そしたら、Nさんが、子供たちに作ってあげた遊び道具として
お面を作っていたと思うと。
小さい土偶や面白い顔のものたちは、子供たちの遊び人形として作っているのでは?と。



確かに。
2階にあったいろんな顔のお面たちをみて、遊びたくなった。
宇宙人みたいな顔もいるから、宇宙人ごっこ。
小さいお面は、赤ちゃんや子供が手にとっていたわけか~。
私も縄文時代の子供の時、遊んでいたかも。
縄文土器や土偶に愛情深いものを感じるのは、そういう事なんですね。
「母なる大地」とは、「土から愛をこねている」
ジョーモンのお母さんたちが作ってきたモノ。

※縄文芸術館(どんな縄文土器があるかこちらに一部のってます)
http://www.town.kami.miyagi.jp/index.cfm/11,599,70,168,html


芸術館隣にある庚申塔

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ランチは、大崎市にある「ウラバタケcafe」
畑でつくっている野菜が新鮮。
素敵なカフェでした~♪







さて、次は、エミシの地へ。
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海と森の滝尾神社

2018-10-02 | 日記・エッセイ・コラム
参道の杉は、「昌源杉(しょうげんすぎ)」といい、
500年以上の老杉群です。
1476年に日光山第四十四別当になった昌源が、
山中に数万本の松と杉を植えたもので、中世繁栄期の遺産です。





そんな森の中の奥の院なのに、ここも海の影がある。
田心姫は、多紀理毘賣(たぎりひめ)ともいい、
鹿児島県の加紫久利神社(かしくりじんじゃ)に祀られています。
由来では、天照大神の娘。





タギリは、霧の神。
野の神と霧の神を想像すると、とても神秘的。

どうやら隼人が気になっていたのですが、阿多隼人などと
よばれる人がいるように、宗像三女神の田心姫のルーツは、
鹿児島県に深い縁があるようです。

ところで、鹿児島県出水市は、ツルの飛来地で有名なんだとか。
鶴か~。そうなのか~。

日光は、「樹木」の「木」が重要なことがあると思っていて、
なぜ、郡山の土蜘蛛はヤマトタケルによって
退治された後、槻木(つきのき)を植えられたのか。



また、宗像大社のご神木は、楢(ナラ)の木である。
先住民を退治して木を埋めるというのは、度々、伝説で聞くのですが、
熊野大社も梛(なぎ)の葉であるように。
植物や木を神とすることに、何か深い意味があるような気がする。


宗像大社の家紋



でもなぜ日光に海民なのかわからない。
ホツマツタエによれば、ルール違反?をしたモチコ・ハヤコ
という女性だと解釈される。(違う解釈もある)
天照大神の側室にいた女性(巫女?)が宗像三神になっている説がある。





スサノオと関係をもち、遠い島に流されたと。
しかし、罪を軽くしてもらったのだが(瀬織津姫により)、
女性(巫女同志)の恨みが悪い念となって蔓延したと。
それが「ハタレ」の正体だと説明されるのだという。
ハタレというのは、ズル賢いというのか、女性特有の性格的なものともいえる?
ハタレを退治したのは鹿島神なんだけど。





そーいえば、瀬織津姫に夢中になると、人が分断するんだな。
誰かがおかしくなる。
それは瀬織津姫の働きではなく・・・。
だからといって宗像三女神が、ハタレというわけではない。
大蛇がいろいろからむけれども、そういう世界にいたら、そうなってしまう。
私は愛情が憎しみに変わり、それを女神信仰としてみてしまっている、
おじさんたちの目の方が問題がありすぎる。

弱い女性というのも問題なのかもしれない。
逆に、プライドが高い、自己中、自分だけ美しくあればいいというのは、
男性よりも女性がもつものであり、そんな女性に翻弄された男性も多く。
今も昔も変わらないのだから。

スサノオはハタレな女性に権威を落とされ、蛇はその女性たちのことをさす。
それを退治したと。(あり得るかも)
スサノオのトラウマは、ハタレの女性だった・・・?(昼ドラみたいな)
それがヤマタノオロチ説もあるのだから、それはそれで興味深い話。
あくまでもスサノオが神ではなく人間だったとしての話。
上司は大変なのです。。。



※影向石:影向とは神仏の仮の姿をとって、この世にあらわれること。
空海が820年この地にきて、奥の大岩のあたりで神霊の降下を祈願したところ、
美しい女神が現れたと伝えられる。(看板より)

「影向とは、神や仏が借りの姿で現れる権現と同じ意味があるが、
縄文語やアイヌ語を源とするクル(kur)は、影や霊、人の状況と関わる言葉である。
空の影は雲。「nis-kur」、隣人は「aw-un-kur」、内陸の人「ya-un-kur」という
ふうに「なになにの人」と接尾語的にも使われる。
アイヌ(aynu)とは、肉体をもった現身の人間という語を意味する。」

※日本国つ神情念史「トベ達の悲歌」津名道代著より

奥の院が聖なる地になっているのは、影にあるから。
影は見えない世界で、それが霊なのだから、「クル」と言った。
奥にあるお社は暗いけど、必要な場所。

アイヌ語で小人のことを「ニンクル」という。
森の妖精みたいな。
アイヌ語では「ニン」は「消える」という意味らしい。
ニンクルとは、消える人?
目に見えない人ということ?
小人は、やっぱり妖精。
なぜか、ニンクルが出てきてしまった。

あ、だから苔をみて、「小人だったら苔を布団にして寝ていた」
と想像したのは、実際、あそこに小人が寝ていたかもしれない。笑
私に驚いて、ほんとに川に落ちてしまったりして。
あんれ~って流されていたら、ごめんなさい。笑
でも大丈夫、桃太郎がいるから。(奴隷にされるっちゅー話やん)



※三本杉と無念橋:三本杉を通りすぎてご神体の女峯山を遥拝するため、
自分の身を清め俗界と縁を切ることを意味する橋であったがいつの頃か、
己の歳の歩数で渡ると女峯山山頂上奥宮まで健脚で登ったことに
なり願がかなえられると言われるようになり、「願い橋」とよばれる。
江戸時代では日光修験の中心地であったところから修験者たちの
足腰の鍛錬のための修行が原因で伝承が生まれたのであろう。(看板より)







大きな切り株がすごかった。





※酒の泉:本宮の清水(昭和24年の地震で消失)、
薬師の霊水とともに日光の三霊水のひとつ。
空海がこの泉の水を汲んで神に捧げたと伝わる。
この泉には酒の味があるといわれ、道帰って元水として酒を造ると良酒ができるという。
栃木県内に酒造講というのがあり、春秋に祭りがおこなわれる。


酒の泉




ここのお稲荷さんは素敵です。

空海伝承が多いですが、実際、空海がここにきた痕跡はありません。

滝尾神社の入り口となりに、高徳水神社。
兎と亀・・・と思っていたら、兎ではなく蛙らしい。
水神なので、爬虫類ってことだ。(両性類)
以前、兎だと思って妄想しまくってましたが、違うみたい。
でも同じ水神としては兎も蛙も同じです。

それでこちらは、ミズハノメなのですよ~。
吉野の丹生川上神社のご分霊。
なぜここに移されたのかわかりません。前は別の場所にあったそうです。







帰る時に、繋ぎトンボというのですか?
仲良しトンボが飛んできた。近くの垣根にとまる。
これって交尾するところだったりして!?
尾がくっついて飛んでいたので、トンボは交尾中になるとハート型になるんですよ。



秋津島といわれたトンボ。
邪魔をしないように、その場をサ~と去りました。(そのくせ写真はしっかり)


気になった山。

今回の滝尾神社は、精霊に囲まれていた感じで平和でした。
おすすめです。
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滝尾神社までの参拝路

2018-10-01 | 日記・エッセイ・コラム
前回は上まで(高徳水神社)車で行ってしまったのですが、
今回は、ちょっと下の方に車を駐車できるスペースがあり、
そこから参拝路を歩いて滝尾神社へ行くことにしました。
東照宮から歩いていくことも可能ですが、時間がかかります。
といっても1時間はかからない距離なのでさほど大変ではありません。
でも、戻ってくることを考えたらちょっと遠いかなあ。





まず、ここからの参道がすごかった。
苔が素敵な森。
私が小人だったらここを布団にして寝ていたな。
でも寝がえりして川に落ちてしまい、なぜか待ち構えていた桃太郎にひろわれ、
鬼退治に働かされる。
そんなの嫌だ、というauのコマーシャルばりの妄想をしながらお参り。





「香車(きょしゃ)」という将棋の駒がたくさんあった。
英語では槍を意味すると。
「きょうす」と呼ばれることもある。
通称は「香」、俗に「槍」とも言われる。
これは、香車の駒の効きが前方に離れたところまで及ぶため、
長い突き武器である槍をイメージさせるからであろう。(
Wikipedia)



将棋はわからないので、香車がなんだかわからない。
調べてもよくわからない。
ここの御堂は、安産のご加護があるという。



「妊娠した女性は香車堂に詣で安産を祈願し、
安置されている香車駒を借りて持ち帰る。
そして無事出産した際、新しい香車駒を作って香車堂に詣で奉納し、
借りていた香車駒も返納して、安産御礼をする。
また産道を真っ直ぐ進み、将来は金となるようにという思いからの民間信仰ともいう」


安産のお礼に駒を返納するため、たくさんあるわけです。
ということは女性の講ですね。
「香」が「カグ」と呼び、
「香島」とか、鹿児島の由来になっている「カグシマ」なんだろうか。
鹿島もそうで。香が鹿とリンクしているのだったら・・・。
香りの島というのは、草をいぶした匂いを想像してしまう。
そのような島は墓場だったのか・・・。
ここで鹿屋野姫と会ってみたいと思った。



そばに、陰陽石というのがあり、うっそうとした森の中に静かな池。
触れてはいけないような池。





その奥にも何かあるので行ってみたら、
勝道上人のお墓だった。



なぜかスル―。
ほとんど人が参拝にこない所にひっそりとお墓が。
下の東照宮には人がた~くさんいて賑やかなのに。
徳川家康の力を改めて知る。
でも勝道上人は、忘れられた寂しさがある。







私は寂しい人が好きなんだな。
だから奥の院が好き。
みんながあまり参拝しないような暗い所が好き。





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そのまま滝尾神社へ進むと、また出会った菅原道真。
また見かけた梅の家紋。
ん~。日光だからあの伝承の藤原秀郷かな。



秀郷は下野(しもつけ)栃木県の官人でした。
俵藤太ともいわれ、藤原秀郷は下野国(栃木県)と武蔵国の鎮守府将軍として
任命されていた。
平将門の乱で平家を倒した人ですが、秋田物部氏(秋田へ逃れた物部氏)
の子孫も、関東の物部氏(千葉県付近にいた物部氏)を援助しながら平将門の乱に参戦していた。



奥州藤原氏の話になりますが、藤原経清(藤原秀郷6代)の父、
頼遠は坂東の武人だったそうです。
板東の武士から受け継いだ藤原経清の子が、初代奥州藤原清衡になる。
奥さんは、安倍頼時の娘。

なんだかやたら「旭」が登場するんですけど、
ネットで調べたら、平将門は「旭将軍」と名乗っていたと。
太陽信仰のこと?
平将門が新しい王朝を建てることを考えていたのは有名です。

平泉の建国に、板東の武士団と平将門の王国が関与しているのなら興味深い。
平将門の方が古いから。
ならば、源頼朝が奥州藤原氏を討伐し、平泉を鎌倉に持ってきたかった理由が、
なんとなくわかったような、わからんような。笑



藤原経清は、宮城県亘理町へいき、亘理権太夫と名乗り、
エミシではないのだが公平な判断をする(客観的)ことができたので、
源氏のやり方が良くないと安倍氏に加担したといわれている。

名取老女と繋がる話になるねえ。
その子孫の守家は関東の武士がルーツにあったかもしれない。
武士の家紋なので。
名取老女は旭とよばれた。
平将門の旭将軍と考えれば。

それを討伐したのが藤原秀郷です。
祟り神にされた平将門ですが、私は秩父人だからなのかわかりませんが、
平将門は平和な人だったので、残念だったなあ、と思うだけです。
部下が悪いことをした。男も嫉妬があるんだ…。

菅原道真で藤原秀郷がなぜか出てきたので、何か祟り神として
祀られている気はしますが。
そうすると、鹿屋野姫のたばこ神で妄想した話のように、
菅原道真がいるところに、鹿屋野姫の「野の精霊」がいたのではないか、と考える。
また鹿屋野姫は大地震や大洪水などを起したのかもしれない。
それを祟りのせいにしたのだろう。

だから、何かに恐れていた藤原秀郷。
そうそう、思いだした。
岩仏をお参りした時に、手を合わせたら「恐れるな」と3回も聞こえた。
聞こえたというより、頭にその文字が何度もよぎったのです。
戦乱の出来事なのでしょうか。
3回もその言葉があるというのは、この先、滝尾神社へお参りした時もそうでした。
なんで3回なんだろう。

恐れるな。というのは、藤原秀郷が何かに恐れていたから、
それが言葉になって響いた感じもします。
やっぱ、私は関東の武将を背負って巡礼しているのだ。
いや、武甲山だな。笑
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またこの先を歩いて、なるほど~と思った。
徳川家康の神馬の石碑があった。





徳川家康も恐れていたのだ。
だから菅原道真の霊力を利用して怨霊を封じていたような気がする。
徳川家康も怨霊を恐れていた。(平将門について?)
だから、「恐れるな」という言葉があったわけですね。
妄想するに、これは勝道上人の言葉だったかもしれない。

恐れは信仰の対極とされ、聖書によく登場する。
主が述べる言葉で、「恐れるな」は、「信じなさい」なのです。
最初に「信じなさい」と言われると、何を?と迷いが起きる。
でも、恐れるな、は迷いがないから真っ直ぐ響く。



勝道上人は強いお坊さんというイメージです。
上人は水にこだわっていた気もします。
そんな水神を望んでいたと思うので、栃木県の多気山不動尊などもそれで、
(勝道上人の弟子が建てた)
瀧神を意識していたことは確かでしょう。

世の中は、目に見えないモノがいろいろ働いています。
今でもそうです。



それだけ多くのものを破壊してきたから、こんなことになる。
子孫がそれを償わなければならないから、できるだけ悪いことは起こってほしくない。
そう考えて、言葉悪いけど面倒な配置で神社を祀ってきたのだと思う。
今はその意味もわからず参拝しているが、巨木をみると癒される。
やっぱり森に帰りたい。

それに徳川家康は秩父神社が火災にあった時に、秩父神社の再建に支援したといわれる。
関ヶ原の戦いの時も武甲山に刀を奉納した話もある。(日下部という人だったかな?)
なぜ、武甲山に?というのは、松平家に関係するからと思う。
私の先祖も松平家の家臣として武甲山が隠居の山になっていたことがあった。
そのため、江戸幕府は武甲山を神格化し、秩父地方を保護していた話がある。
税金を納めなくていいとか、銃をもつことを許されたとか。
日光に来ていろいろと先祖が浮かぶ。

この参道は、大きな杉があって不思議な参道です。
木々がすごいな~と思って歩いていると、巨石もある。
田心姫が触れた石といわれています。





田心姫の文字にほっとした。
癒される。
けど、菅原道真と田心姫が何かある。



そんなこんなで、いろいろ妄想してしまう参道を20分くらい歩いて、
滝尾神社の入口に到着。





あ~、やっぱり良い!
滝がいい!

つづく。
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中禅寺と源頼朝

2018-09-29 | 日記・エッセイ・コラム
中禅寺(ちゅうぜんじ)は、栃木県日光市の中禅寺湖畔・歌ヶ浜にある天台宗の寺院。
世界遺産に登録された日光山輪王寺の別院であり、
坂東三十三観音霊場の第18番に位置付けられている。



「寺伝によれば784年(延暦3年)、日光山の開祖である勝道上人が船で湖を
遊覧していた際に、湖上に千手観音の姿を感得し、
桂の木に立木のまま千手観音像を刻んだ。
この「立木千手観世音菩薩」を本尊として、中禅寺が開かれた。」


ということで、中禅寺では館内を拝観する時は、説明を受けて
拝観することができます。(有料500円)
千手観音像は、敦煌のようなシルクロードの方のお顔をしているようで、
優しいお顔の観音様でした。
あんなに大きな木を一本で観音像を彫るとは素晴らしい。
日光彫りとか有名ですよね。



さて、「源頼朝」の名前を聞いて、まさか、涙がでてくるとは思わなんだ~。
情緒不安定。
私は源頼朝の何に共鳴したのだろう・・・。



脇侍の四天王像は、源頼朝が戦勝祈願に寄進したものといわれている。
その四天王像(右側)の目の前に立って説明を聞いていたのですが、
「源頼朝」の名前を聞いて、なぜか涙が。
たぶん、お願い事かもしれない。

日光は秩父と霊的な場で繋がっている感じがします。
説明はできませんが、似ている空気。
ここまで秩父は賑やかではありませんが、日光の神々なら聞いてくれると。
そんなことを思った。
最後に訪れたのが中禅寺だったのですが、その前に、日光二荒神社と滝尾神社に
参拝して、祈願をしてみた。
私はお願いごとはいつもしないのですが、今回は、ちょっと聞いてみようと思った。

それは、武甲山のこと。
ますます傷だらけになっていくご神体の姿。
どうしたらよいものか。
だれがあの状態で止めることができようか。
武甲山が自ら犠牲になろうとしているのだから。
そういうやり方しか知らないから、白い山なのだ。

でも、最後に訪れた中禅寺で空しさを感じた。
ガイドの説明で、梵字が書かれたお守りを説明していた。
そのお守りに書かれた梵字に触れながら願い事を言い、
願い事が叶うと、文字の色が変わるという。
安産祈願、就職内定、縁談など。
みな、当たり前だけど自分のこと。

それに比べて、私の願い事がとてつもないものを背負っている大きなお山。
どうすることもできない無力さが悲しい。
それに源頼朝がなぜ共感したんだろう?



源頼朝が人気がないのは身内を殺してきたこともありますが、
板東というのは、何か、たくさんのものを破壊してきたようで、
ようやく今になってその失った悲しみを知った。みたいな感じ。
武甲山の状況と、当時の源頼朝の破壊的な力が、
利益のため、戦勝のためであったが何も得るものがなかった?

武甲山を願う祈りに源頼朝が寄進したという四天王像を通じて、
無念さみたいなものがリンクしてしまったようで。
「どうすることもできないのだよ」と言われているような気がした。

源頼朝は、不人気。
名取老女伝承で、度々登場する人ですが、みな興味ないから、
え~、頼朝~?みたいな扱い。(私も)
地元では、安倍家、奥州藤原氏派。
名取では、勝った側の栗の木(源氏)と、
負けた側のカヤの木(安倍氏)が伝わっているくらい。
私はカヤの木が好き。
熊野新宮では、源頼朝の腰掛石があるが、遠目にみて通るくらい。
大体、スル―。


ふんばってますっ!
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源頼朝は奥州藤原氏を倒してきた。
この時代はあまり詳しくわからないのですが、調べると。。。
秩父武常(ちちぶたけつね)の長子の
豊島近義(としまちかよし)は八幡太郎(源義家)に仕えていた。
後三年の役に随陣などして豊島の地に館を構えたといわれる。

源頼朝にとって目の上のたんこぶみたいに、秩父一族が厄介だったように思う。
荒川から江戸湾にかけて秩父一族が大きな勢力として存在していたといわれ、
その中でも頼朝が下総から武蔵へ進入する際に、江戸氏と共に
豊島・葛西両氏が大きな障害であったと。
そのため、頼朝は、庶流の豊島・葛西氏の懐柔をはかる為、
豊島清光及び葛西清重に書状を送り「参向すべし」と命じた。

また、秩父一族の長老と言われた江戸重長に帰伏するよう求める。
しかし、それに反対した為か何も気配がなかったので、江戸重長に誅殺を命じる。
頼朝は、力のあった秩父氏たちを説得させて源氏側につくように命じた。
※旅行のクチコミと比較サイト フォートラベルより
https://4travel.jp/travelogue/10865497

葛西清重という人は、紳士だけど堅気なイメージ。
がんとして頼朝の考え方には応じない。
葛西清重のWikipediaを読んでみるとわかりますが、頼朝のやり方には
強引さを感じてしまう。





後に、福島県の阿津賀志山で葛西清重は源氏側について対戦。
石巻に居城していた葛西清重は結局、源頼朝側につき、
豊島清光、江戸重長までも源氏側について奥州征伐へ向かう。
要するに、源氏の御家人たち(秩父一族)は、奥州征伐にやってきて、
東北地方の地で戦いを起してきた。彼らも破壊をしてきた。
源頼朝と共に。
それから葛西清重は石巻に城を構える。

そんなことで、秩父の武甲山のお願い事をしているのだから、
そりゃ、源頼朝も「どーしようもねーだんべぇ」と、秩父弁で答える。
わけないよね~。ま、そんなことを妄想してしまった。


※桂

「板東平氏」は、桓武天皇の血をひく一族で、
千葉家は、源頼朝による奥州藤原氏の攻撃に参加し、東北地方に
多くの領土を持つようになった。
特に千葉家の妙見信仰は有名で、秩父、相馬、千葉家と信仰が厚い。
北斗七星が破壊の星にみえる日光なのでした。



次は、日光二荒神社と滝尾神社の妄想~。
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青い中禅寺湖

2018-09-25 | 日記・エッセイ・コラム
お彼岸ですからヒガンバナが見られるようになりましたね。
実家の庭にも彼岸花がよく咲いているのですが、
小学生の時に、彼岸花に歯をみせると歯が抜けるという噂話があり、
みんなで彼岸花をみたら、ぐっと口をつぼめる子供の純粋さを思い出す。
今は歯なんて年とればいつか無くなるんだい!てことで、
歯があるうちに何でも好きな物食べておけ。
という、ぐうたらな理由になっていくのが、切ない秋の空。(なんだそれ)



さて、宇都宮のお墓参りによって、せっかくなので3連休だし、
日光へ行ってみようとなりました。
日光は久しぶり。
今回も滝尾神社へ寄ったのですが、後でお話します。
翌日に天気が良かったので中禅寺湖へ。


男体山



久しぶりの日光は、町がもっときれいになっていて観光客も外国人ばかり。
中禅寺湖に行き、たっぷり男体山を見つめてきました。



別荘から。マダム気分で。笑
イタリア大使館とイギリス大使館を散策。
どちらかといえば、私はイギリスが好きなので、
イギリス大使館の中は、記念館のようになっていて面白かったです。
やっぱりイギリスの文化が好きだな~と思いました。


イギリス大使館



明治中期~昭和初期にかけて各国の大使館が別荘として建てられました。
イタリア大使館は、ほぼ当時のままになっているみたいです。





イギリス大使館は、改築されとてもきれいになっていてハイティーなどもできます。
イケメンのアーネスト・サトウの個人別荘として明治29年に建てられ、
交流のあった人たちの写真があった。
みんな、歴史の教科書にのっている人たち。
やっぱ、木戸孝允が一番いい顔している。(そーいう目線かよ~)



この時代、どんな感じだったんだろうなあ。
みんな、今より必死に生きて、未来の日本を考えていたと思う。



それにしてもイギリス大使館の展示写真をみて、イギリスの文化の大胆さに驚く。
霧降滝のそばでハイティーとはっ!
ぜいたくっ。



避暑地として日光は涼しいこともありますけど、
日本の滝のそばで、紅茶が飲めるとはねぇ・・・。
今は下まで降りることができないので、高い展望台から見るしかできません。









中禅寺湖にくると、男体山が際立って美しい。
こんなに美しい山でしたっけ?
宇都宮へ行く時いつもみていた山なのに。

もう名前からして男の体ってとこがね。
でも女の山らしい・・・。
別荘からは白根山がよく見えました。

日光を開山した勝道上人は、男体山に登って湖を発見したと。
修験者は山に登りますが、単に「そこに山があるから」という理由だけなんだと思います。
こんなきれいな山だったら登りたくなる。
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戦場ヶ原(男体山VS赤城山)の話は、猿麻呂(猿丸)というマタギのような人が登場します。
「猿」という名前からして、猿岩を想像してしまう。
噴火の話だと思いますが、天の破壊的な働きに対して鎮魂してみせようとする
呪術的な戦いです。
東北地方に多い灌漑、治水工事の神の話と猿岩の関係。
噴火であれば、水で鎮めようと考えて、大蛇が登場した?

猿麻呂は、石巻北村にも伝わっているのです。
石巻北村には、大蛇側について応戦した猿麻呂伝承があるのです。
日光の本家が北村だった!?と。
しかも名前が小野猿麻呂。小野家というか、小野郷です。

北村の伝承では、
「この戦いにより、二荒の神の領土を授けられた猿麻呂は、鎮護の神となった。
瀧尾女体の中の宮は、朝日姫を祀ったもので、太郎明神は馬主を祀り、
宇都宮明神は猿麻呂を祀ったものだという。」


え?改めて驚き。朝日姫とは。名取老女の旭(朝日)と同じだわ。
葛西氏の娘が盲人の巫女さんで、朝日姫とよんだ話が宮城県北部に伝わる。
どう考えても、葛西氏一族がもたらした話にしか・・・。
そうすると坂東一族が絡んでるでしょう。
まじまじとみた中禅寺の「板東三十三か所」。
デタ!・・・。
花山法皇が巡った地に札所を指定されたようです。
詳しいことはわからないのですが、板東はちょっと強いイメージがします。
源頼朝が関係しているからかもしれない。
苦手・・・。でもこの後ちょっと不思議なことがありました。
後でお伝えします。


明治時代の中禅寺湖

大津(滋賀県)に伝わるムカデ伝承では、日吉大社が関係していそうです。
日吉大社は、平安京の鬼門に置かれ、琵琶湖の側に建てられています。
この神社では、猿が神の使いとされ猿を眷族とする。
猿麻呂に声をかけた鹿島神は、治水工事の技術をもっている蛇族(海民)
だったから猿麻呂を選んだとか?
そうすっと九州の人?

「秀郷が退治した大蛇は、琵琶湖の話ですと、
近江・瀬田(勢多)の唐橋に60メートルもあろうかという大蛇が横たわり、
みんな渡れず困っていた。
そこに現れた俵藤太(とうた)。
臆せず、ゆうゆうと大蛇を踏みつけて渡っていった。
その晩、藤太の宿を若い女が訪ねて来て、
「あなたのような勇敢な武将を待っていた」。
女は琵琶湖に住む竜神の一族で、大蛇に化けていたといい、
三上山の大ムカデ退治を依頼する。」


大ムカデは、穴にいた(タタラ)先住民説が有力です。
土蜘蛛かもしれないねえ。

それは、日光の伝承と同じです。
蛇は三輪信仰と関係していると思うので、秀郷は蛇の一族としている。

秩父もムカデと蛇がある。
それが日光と似ているのですが、蛇とムカデが敵だった話などはないのです。
水と土の五行説に、蛇とムカデとしているので、
やっぱり水に勝つのは土なはず。
だけど、水が勝った。
噴火によりできた大きな湖ということで、男体山の一部が沈んだからだと思います。
巨大な土の塊が湖になったからです。

土砂災害などの水の氾濫による土の崩壊とは、
赤城山も「赤」であるように、やはり赤なんですね。
赤は土の百足となるようです。
赤頭の悪路王と重なり、福島県半田山の赤牛伝承も同じ。
あの山も鉱物資源があります。
そういう場所は、赤が特徴。
白は赤を倒す。みたいな。だから、源氏色が強い。
水と土の関係。それを一緒にするのは治水工事で、荒れ狂う氾濫を治めるために、
今は機械でなんでもできますが、当時は、人の手で行われたのだから、
災害が多い日本をコントロールするのはとても難しかったのです。

湖の底をのぞくと、噴火によって落下した岩石が埋まっている。
水をみて記憶をたどる。
男体山の噴火の威力は、水の底に消えた。



崩壊のことを、薙と呼んだ。
まるで、イザナギのようだ。

『崩壊には色々な形があるだろうが,その土地土地でそこの崩れの姿に,
きっと最も適した言葉を選んで,呼びならしてきたのだろう。
先般読者のある方から、山崩れと地名について、ご親切なお教えを頂いたが、
崩れの呼び方もたくさんあるのに感嘆する。
ろくな機械も道具もなかった昔の人達が大自然の力にひしがれながらも、
泣き泣きじいっとその災害の状況をみつめ、
特徴をつかんだ言葉でいっているのである。

そう言いはじめた人たちの心中を思いやると、
その惨状、その悲しさが今の私にも伝ってくる気がする。
薙と呼ぶには、おそらく薙ぎ崩され、薙ぎ払われ、薙ぎ切られた、
辛い事変の故のことだろう。
どんな勾配で崩れたのか、崩れの速度はどんなだったか、
崩れたあとがどんな様子だったか、
男体山の山容の上に、薙という字を重ねて、あれこれ思ってみる。』
※幸田 文『崩れ』



この日は、美しい湖でした。
こんなに美しい中禅寺湖は、始めてでした。


ゆばそば(*^_^*)

日光はつづく。
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縄文展と蝦夷柵の関係

2018-08-19 | 日記・エッセイ・コラム
鳥海山の話はまだ続くのですが、その前に縄文展の話と、
その後、舞いこんできた気になる柵の話を。
結局、古代史に繋がってしまうのですが、
ま、せっかくなので東北の古代史と縄文を繋げてもいいのかな、と。

9月2日で終わってしまうので、早く書いておきたいな、と思いました。
上野:国立博物館で特別展の「JOMON縄文」を見に行ってきました。
「わざわざ」行ってみる価値あります!



たぶん、全国の縄文遺物を一同にみられるのは、今回で最初で最後かもしれない。
この展覧会が終わったら、さ~と土偶さんたちはそれぞれの故郷に戻るか、
博物館内でそれぞれの立ち位置に戻るわけですね。



それまで、こんなにたくさんの人たちに見つめられているわけで。
埼玉にしか見つからない「みみずく土偶」もみれたし、石棒も石巻の骨の装飾品も凄かった!
宮城県北部の恵比須田遺跡(36センチもある遮光器土偶)にも会えたし。
なんか、この子に魅かれる。


山形の縄文の女神が好きで、山形で見てきたモノが、
上野の博物館でたくさんの人に囲まれている絵図もまた面白い。
なんだこの光景は!と思う。
きっと、縄文ビーナスも「恥っ」て思っているかも。
それにしても後ろ姿の曲線美がいいね。(おっさん目線)

しっかし~、縄文展はすごい人で、みんな好きなんじゃ~ん。
お盆休みにいったせいもあるけど、老若男女の縄文熱はすごかった。
こんなに人がたくさんいるとは思わなんだー。

今回、柴谷さん(青森の土偶制作者)の土偶作りの時の縄文女子と、再会して行ってきました。
新しい再会もあり、遠くからも参加してくれて、みんなが上野に集結。
結局、12人も集まり、イスラエルの十二支族もびっくり。笑。
大人の遠足みたいで楽しかった~。
そんな濃ゆい仲間たちと縄文展で楽しんできたのですが、
展覧会をみた後、記念写真をとろうとワイワイしていたら、
朝日テレビのカメラがやってきてしばらく私たちの写真撮影を映してました。
明日の朝、テレビ(情報番組)で放送すると。
とうとう電波にのっかるのか。。。と思ったけど、
みごとにカットされてた~。ワラ



それで次の日、情報番組をみていたら、
今「縄文女子」といわれ、縄文がブームなんだそうです。
縄文土偶がゆるキャラみたいに可愛いいと。(わかるなぁ)
映画「縄文にハマる人々」が公開されるなど、何かと「縄文」の言葉を
よく目にするようになりました。


公式サイト
http://www.jomon-hamaru.com/

今は、興味がない人でも、「ちょっと気になる」「行ってみたい」という人が
増えているのは確かです。
嬉しいことですね。

私は、縄文遺物に触れると母性が芽生える(高まる)と感じます。
それもそのはず。
図録の解説に「縄文土器は女性がつくっていた」と。
え、意外。
男性だと思っていた。
縄文の女神の場合、それをつくる専門の技術者がいたらしい。
ものづくり集団は、やっぱり女性だった。

研究者の多くの説では、男性は狩猟のため外出が多い。
生業活動は男性で、女性は採集する役目があったので、集落に留まることが多い。
家にいることが多い女性だから、土偶や土器製作は「ものづくり」という点で、
女性が作っていたことは十分、あり得ます。
縄文土偶の多くが妊婦さんで、渦巻のような模様も妊娠線を表していると
いわれるので、当時、出産後に亡くなる母子が多かったことがあり、
祈りが縄文土偶や土器にあらされています。

なので、女性が縄文にハマるのは自然なことでしょう。
私は、縄文土偶はそんな悲しい現実もあると思っていて、
どちらかというと、生きることの大変さや命の尊さを知るために、
作り続けていた気がします。
遺骨をいれてた土器もあるし。
そういう認識がまだ明らかでなかった人類が、意識しはじめたきっかけが、
縄文土偶の製作だったと思います。

土器や土偶は「土」なので、宇宙へ還ることは土に戻ることでもあった。
それには水が必要。
その思想がある縄文土器だから、よく意味はわからないけど、やっぱり魅かれます。
神話、伝説なども原点は、縄文精神にある女性の智慧でしょう。
昔話も女性が語り継いできました。



柴谷さんの土偶作りで、女子が集まったのもそれで、
過去にみんなで作っていた記憶があって、それを再び「縄文回帰」しよう。
というところにきているのだな、と改めて感じた縄文女子会なのでした。

ただ、私は相変わらず、ものづくりが苦手なので落ちこぼれだった…。
新しい最先端の技術にあこがれるタイプ。
周りの人たちは、ものづくりが得意な人が多いので縄文時代は優等生だったな~って。
たぶん、私は縄文時代、UFOばっかり想像していたので、空ばっかり見てた。
今もUFO妄想を続けている。笑
妄想癖が変わってない。

ということで、ハイヌベレ神話があるように、縄文ビーナスも女性がつくっていたわけで、
神話に登場する女神たちやトベたちも、ナガスネヒコや阿部氏といった
まつろわぬ民といわれてしまう人たちは、母系社会があり、忠実に縄文精神を
受け継いでいた人たちとわかった。
土の神といえば、オウゲツヒメ。
オウゲツヒメは縄文の女神だった。
これからも女性たちが継承する役目なんだな、と改めて思うのでした。


東日本で栄えた縄文文化。(近畿・九州は弥生時代から発展する)

払田柵--------------------------------------------

話し変わりまして、東京から帰って来て次の日、主人がバイクで大曲に
遊びに行ってました。
秋田県大曲も縄文遺跡が多いところなのですが、「払田柵」に行ったよ。
と写真を送ってくれた。それにビビッときた。
なにかある!と思って調べてみたのですが、どうもこの柵が気になった。



それにしても美しい所。
主人がいうには、払田柵の由来がわからないと。
文献資料がないのです。でも国の史跡。
縄文遺跡(中期~後期)の上に柵が建てられていることはわかっています。





年輪年代法による年代測定が行われ、801年に伐採された材木と判明し、
坂上田村麻呂の征伐事業で行われたことがわかった。
それは胆沢城跡や志波城と一連している。
払田柵は秋田城と関係しているという。(出土の漆紙文書に「秋田城」とあった。)
なので線をつなぐと胆沢にも繋がる。


※秋田城ー払田柵ー胆沢城跡ー広田半島(貝塚)

この線に共通するのは、「海の交易拠点」だったところです。
気仙沼は貝塚が多く出土し、小泉遺跡(気仙沼)も有名な縄文遺跡ですが、
弓矢状配石遺構が見つかっており、「弓に矢をつがえた形」といわれ、
意図的に矢の先には、広田湾に向けられていると。
その意味は魔物がやってこないようにという意味ですが不明。
(現在は埋めもどされているのでみられません)

線で結んだ気仙沼の貝塚のそばに、大森山の名前がありました。
前に大森貝塚のことを書いていて、大森とつく山名は東北地方に多く、
縄文聖地と関係していました。


写真は復元。
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/monzen.html

また、秋田城もそうです。日本海の交易拠点。
秋田市にも宇宙人みたいな土偶があります。
胆沢は内陸の交易拠点。アテルイが活躍していたところ。
外敵から阻止するための蝦夷柵なのですが、
朝廷に対して柵を設けたのは、特に坂上田村麻呂からです。
アテルイが処刑されてから、活発に柵を設けるようにしたといわれます。



その3つの交易を拠点として制圧していたのが、悪路王といわれた人物で、
八幡平にいた蝦夷が酋長(松尾)だったらしい。(アイヌ人説もあり)
八幡平は、蝦夷と朝廷のゲリラ戦があったところですが、海側(気仙沼方面)
と鹿角の内陸、秋田方面と活動していたと言われ、アテルイとも結びつけられている。

八幡平はマロの下臣が活躍し、八幡神を祀っていた。
そのため、八幡神はユダヤのヤハウェで、縄文人との関わりを持とうとしてました。
そのために八幡神社を置いた話しもある。
確かに縄文遺跡のあるところに八幡神を置いていることは結構あります。

蝦夷にとっての外敵は朝廷でした。
それは縄文との境界の意味もあるでしょう。
朝廷の及ばない範囲との線引きに柵を設けたと思う。
平安時代まで縄文集落が残り、渡来人はそのまま住んでいたのだろうと。
もしかしたら、朝廷側ではなく、蝦夷の方から柵を設けたかったのかもしれない。
それなら、蝦夷柵をつくりはじめた坂上田村麻呂の意図もみえる。

当時、渤海国との交易はさかんでした。
数々の品を多く輸入しており、悪路王といわれた人たちは交易の力はありました。
塩釜神社もそうですね。

縄文と関係すると思うのは、払田柵の東西南北四方に「掘立柱」を使っていることでした。
この柱の用途は、主に祭祀に使われる柱です。



有名な三内丸山遺跡や真脇遺跡がそうです。
主に竪穴式住居なのですが、掘立柱は穴をほって柱を建てるのですが、
大きい集落に限られるという。
諏訪大社の御柱もそうですが、やはり四方に用いるので四本ある。
それぞれに置くので、4×4で16本の柱があるそうです。


※三内丸山遺跡の柱跡

元は北海道や青森など北から暖かい気候を求めて、南下しているので、
柱の祭祀は、青森の縄文集落からもたらされたのかもしれません。
青森弁と出雲弁がよく似ているので、出雲族は青森にいたといわれますが、
興味深いのはどういうことなのか、陸続き(出雲と青森が?)だった話しもある。
何かがあって山陰地方と東北地方の陸が離れた?

胆沢城跡なども、柵をつくるのに、掘立柱の使い方をしているのは、
縄文から続く建築様式を起用しているわけです。

蝦夷柵を置く場所は、縄文祭祀をしていた所と思うのです。
縄文集落があったところは、あちらこちらにありますけど、
特別な場所だったのではないかな。それを線引きしているような。
胆沢の場合、縄文後期(4000~3000年前)から土偶が頻繁に作られてます。

坂上田村麻呂は、縄文をよく知っていたのだから、
そのような柵を置くのは、縄文人の知恵を生かしているような気もするのです。
本当に征伐するつもりで柵を置いていない説が有力です。
「とりあえず形だけつくっておく」程度のものだったそうです。

本気で作るなら、万里の長城が日本にもできていたのですから。
それほど本気の征伐ではなかったという意味で、
じゃ、何のために「わざわざ」柵を設けたのかは、謎です。
ただ、蝦夷の交易拠点と、縄文集落の跡地に置くことは共通していると。
外敵を防ぐための「縄文の祈祷」を柵に利用していたと思います。

どこまでを蝦夷征伐といい、どこまでが縄文や先住民、アイヌ人たちの
境界があったか、というのもとても曖昧。
ホピの人たちが、地球の鉱物は掘り起こしてはならないと。
地球の母が死んでしまうといったことを言っておりました。
縄文土偶もその土地にいたことに意味があるので、
学術研究とはいえ、本来の場所に戻すのが正しいと思います。

次は、鳥海山へGO、
やっぱりこのお山は素晴らしい。
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登米の柳津虚空蔵菩薩と横山不動尊

2018-08-09 | 日記・エッセイ・コラム
久しぶりに登米の虚空蔵菩薩堂と横山不動尊に行ってきました。
夏なので、いろいろイベントを行っている寺社が多く、
横山不動尊は、流しそうめんの準備中でした~。


※みやぎ北上連峰







詳細は、以前のブログを参考にしてください。

※柳津虚空蔵菩薩
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/36a5f8603052da4ddb154ca48cd443ac

※横山不動尊
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/b983f1128bf6c426e4b902c78ac8aea4

写真だけのせます。


暑いから鯉も清水に群がる。(弁天池)






新しく弘法大師堂ができていました。

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横山不動尊





金剛童子は毎回、興味が湧く像です。
手に車輪(九曜紋)を持っているのが珍しいのです。




鉄の五重塔


見づらいですが、よく見ると剣が彫ってあります。

長沼の蓮沼
めちゃくちゃ暑かったので、乗りませんでした。。。





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再び上海へ

2018-07-11 | 日記・エッセイ・コラム
しばらく中国の話が続きます。
日本では西日本の豪雨、麻原彰晃の処刑、水道水の民営化可決、など
大変な時に日本を脱出し、上海・無錫(むしゃく)の観光へ行ってました。(主人の希望)
七夕をはさんでの再び上海。まさか、また行くことになるとは!
15年ぶり!で、すっかり中国は変わってしまい、私も変わってしまい、
別の都市にきたような変わり方。
全然、あの頃の面影もない上海の変貌ぶりにちょっと寂しさがつのる。



トイレもまあまあきれいになっていて、車社会になっているからタクシーをみることも
ほとんどなく。自転車族も今や電動に。
乞食もいない。(公安が見張っている)
ただ、運転は相変わらず危険で雑。
でも交通事故がまずない。
日本で連日ニュースになる「踏み間違え」なんてものは、
中国では起こらないでしょうね。
あの運転さばきは、雑技団並みです。。。


上海へ行く道は渋滞です。


路上に止まっている自転車はレンタル。(無錫にて)
レンタルサイクルは、どこにおいてもOK。
1日1元で利用。

15年前は観光名所には、たくさん子供たちの物乞いがいた。
今は、そんな姿をみせてはいけないと、中国政府が目を光らせているので、
全く物乞いはいなくなった。



しかし、「新天地」という外国人が多いバーのあるおしゃれな所では、
好青年な物乞い?はまだいる。
でも、本当に貧しい感じではない。



「日本人か」と声をかけられて、久々に中国語を話したくなった私は、
彼と少し話しをしていたが、公安局の人が彼を注意しにやってきて、あっけなく再見。
まだまだ貧富の差が多いというのかどうか。
それとも貧しいわけではないのに、
単なるこづかい稼ぎと思って外国人に、なんだかわからない物を売り歩いているのか。
だとしたら、中国の若い青年たちには、外国人に物を売ることはある種アルバイト的な感覚なのか。
ただ、怪しいものは誰も買わないのだから、売れると思えないが・・・。



車も軽自動車は売れない。金持ちは軽自動車には乗らないからという理由で。
FITも売れないそうだよ。小さいからだって。
中国人のほんの1割のプライドの高さ。
でもその1割とは、1億人に達する。
中国の現在の人口は、13億~14億だそうです。
道が狭い日本では軽自動車が重宝するのにな。
軽自動車はいいよ。
ま、価値観の違い。。。

一人っ子政策をしていた為、高齢者が増えすぎたことを反省し、
2人まで子供はOK.しかし、3人目は罰金になる。
上海の人口は2000万人以上いる。

1966年~1976年まで文化大革命がありました。
名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」
という政治・社会・思想・文化の改革運動だった。
しかし実際は、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った
毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、
紅衛兵と呼ばれた学生運動を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための、
中国共産党の権力闘争であった。」 (Wikipedia)


社会新矛盾?

留学前に中国映画「活きる」(チャンイーモウ)の映画をみたのですが、中国政治事情がよくわかります。
文化大革命の様子が描かれたものがあり、(3つの時代が描かれている)
教授や文学者など知識人の多くが拘束され、殺害もされ、
気の毒なのは、宗教の僧侶たちが最も多く弾圧されたと。
特にチベット僧侶の多くが殺害されたそうです。

文化大革命の犠牲者は1000人とも言われますが、不明です。
映画の中に、出産時に母子ともに亡くなるシーンがあるのですが、
医者も拘束されているので、医師もだれもおらず助かる命が亡くなります。
あの状況の中での出産というのが残酷でした。
チャンイーモウは、そういう時代を生き抜いてきた女性をよく描きますね。
それをコンリー(中国女優)の演技が、リアルでまたすごいのです。

日本では高度成長期でオイルショックなどもあった時代ですが、
その頃の中国は大変でした。
農村の人たちが都市部へきて、都市部にいた人が遠く農村へ移住させられる、
ということがあったそうで、交換する意味がよくわからないけど。
でも、文化大革命があったのは、そんなに古いことではないのです。


島(人工島)に浮かんでいるような高級住宅が並ぶ。中国では一軒家はまず持てません。

そんな中国情勢を映画でみるしか方法がなく、またそんな歴史を知ったうえで
中国留学とは、今考えてみてもよく行ったな・・・なんて思うのでした。



ですから、今、ようやく中国が豊かになりそんな時代を生き抜いてきた高齢者が、
自由に旅行ができるようになった。
日本で爆買いをすることについて、いろいろと考えることはありますが、
そんな歴史の反動もあるのではないのかな、とも思う。
やっぱり海外へ旅行をするのは、楽しいですし、好奇心がわきます。



中国共産党上海支部。
留学時、このあたりをよく散歩してました。
この向かいに、上海博物館があったので、毎月行ってました。

あえて上海博物館の向かいに共産党の建物があります。
国宝級の文化財と向き合うことで、中国の長い歴史・文化の原動力を、
政治の力へ促す目的です。

当時は、道がぼこぼこで広い道だけだったのが、ちゃんと中央分離帯の柵できて綺麗になってた。




こちらは、新天地にある共産党発祥地。

なので、そういう時代があった中国を考えたうえで、中国人と接してみると、
親しみを感じるもので、みんな、同じです。
留学時の話もいっぱいあるのですが、きりがないので割愛。

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高速道路の入口もこんな感じで、日本の倍の光景。
仙台じゃあり得ない。



そんなこんなの中国ですが、私は中国の方が合っている。
浙江省という上海を中心とした場所が、特に縁があるのです。
それは、私の先祖が300年以上前に、浙江省に来ていたかもしれないのです。

違和感がないのは、そういう繋がりもあるのです。
15年前のトイレ事情はひどかったが、そういうものだと案外受け入れられた。
日本はマスコミの報道にもよるけど、中国嫌いが多いね。
汚い、怖い、信用しない。と言う人多いが、まず、行ってみそ。

なにが感動したかって、観光地へいっても、ちゃんとトイレに扉があって和式だけど、
まあまあきれいになってる~。洋式もあるんだよ~。
水が流れないことが一回だけあった。一回だけってすごい。

溝だけのトイレとか、扉が半分で前の人が見えることもないっ。
また、後ろの人から見られることがないっ。
全然OK。(やっぱトイレネタになるな)




上海中心(上海タワー)高速エレベータは日本の技術、(632m)

ということで、急激に発展した中国。
今回は、純粋に観光を楽しんできました。
中国は興味ないな~と思われる方は、日本の歴史と繋がっていることに、
少しでも親近感を覚えて下されば、幸いです。


ぶれてしまったが、タワーがゆがんでる。

さて、観光名所を書くだけでは面白くないので、
マニアックなネタを書きます。(いつもか)

今回のツアーで楽しみにしていたのが、太湖でした。
留学時、蘇州でバスから通過しただけだった。
でも、あの時は1泊、湖の中にある島に泊まったのだが、覚えていない。
西湖ではなかった。
たぶん、あれは太湖のホテルだったかもしれない。
当時は、デジカメなんて持ってきていないし、ほとんど写真が残っていない。
なので思い出そうとしても、思い出せない。

でも龍気というのか、霧の世界は本当に不思議な世界でした。
以前から、「禹」のことについて書いてましたが、
今回、太湖へいくことができたので(といってもほんのちょっと)
もう少し知られざる禹について妄想したい!と思った。


太湖

それで、いろいろと調べてみたら、面白いことがわかったのです。
日本にも禹の痕跡はあるのですが、日本では「禹」という言葉が史書に
のっていることがまずない。
中国ではとても有名で、日本にも伝わっているのに、なぜでしょう?
妄想するに、日本では禹と言わず、ある水神の名前に変換していると思った。
その名は・・・・?

ということで、しばらく禹についてディープな中国を妄想す。
つづく
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金蛇水神社の弁財天例祭

2018-07-01 | 日記・エッセイ・コラム
初めて弁天様のご開帳へ行ってきました。
毎年7月1日に、弁天様がお開きします。



白いお顔で人間ぽくて伏し目がちな目が、強そうな。
目が合いそうな感じだったので、お願いごとを。





しかし~、暑い。
仙台も30度超え~。







暑いなか、巫女さんも大変です。
ちょっとだけ舞をみてきました。きれいでしたよ~。
弁天様に向かって舞をするんです。

剣に鈴がついているのが良かったな~。
この神社は、ご神池があり、三条小鍛冶宗近が刀を作った霊水が伝わってます。


※金蛇水神社

蛙が関係しているので、詳細はこちら。

金蛇水神社と蛙
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/80ee184ac981217aecdea12b20f88795

このあたりは、沼鉄鉱がとれたと考えられており、
タタラ場は見当たらないが、中世の遺跡が残ってます。


中ノ原遺跡



この付近まで紀州熊野から名取老女と共に、
ヤタガラス(賀茂家)がついてきて休憩したという地元の言い伝えがあるが、
ここで帰らせたことから「カラスガエリ」と言う。
その数は一人ではなく複数名いたらしい。

賀茂家が修験場を求めて熊野信仰を広めることができたのは、
金蛇水のご神水、鉄、財力の環境があったわけで。
竹駒神社がその財力をもっていたのではないかな~。


※『月耕随筆 稲葉山小鍛治』尾形月耕。

後冷泉天皇の時代に、藤原道長が政治と財力に力をいれて、
荘園を広めていたことは、名取熊野でもそうです。
熊野は荘園をもって貴族の味方となり、金の信仰を広めていったのだと思います。

ただ、弁財天は金ではなく芸術なので、そこが残念。



※すげ~バス。「飛龍」だって。中国か台湾の観光客もきていた。
「モバイルドラゴン」
弁天様が龍を連れてきた?笑
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