秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

大隅邪馬台国と知々夫彦との関係(3)

2018-06-27 | 秩父の祭りと信仰
重さん(畠山重忠)は、秩父彦を大塚神社に祀った話し。
秩父権現とも言うのですが、秩父彦という具体的?な人物を示していることには
何か意味があると思いますが、よくわかりません。
思金命は秩父神社にも祀られているので、それで良いと思うのですが、
秩父彦=ワカヒコ=ワカミコ?。彦と姫制度→道祖神。
道祖神は猿田彦神にされている。
ニニギの道案内の神話。

ということを考えると、大隅がヤマタイ(耶馬台国)の舞台になったことはあると思う。

鹿児島県霧島市福山町に宮浦宮(みやうらぐう)という龍宮城のような
名前のお社があります。
神武天皇と、天神七代12柱、地神五代5柱の計18柱を祀り、

由来には、『延喜式神名帳』大隅国囎唹郡に載せる「宮浦神社」に比定されるが、
宝暦2年(1752年)以前の様子は一切不明である。
当宮から北北西3キロ弱に若尊鼻(わかみこのはな)という岬があり、
神武天皇が幼少期を当地で過ごした故事から「若皇子鼻(わかみこのはな)」

と名付けられた事に始まるとの伝承がある。

う~ん、宮城県の鼻節神社(サルタヒコ)を想像してしまう。
鼻ねえ。

この宮浦宮に2本の銀杏があり、それには
「神武天皇が東征に出発するときに記念として自ら植樹した」と伝わる。
実際に神武天皇が植えたとは信じられませんが、
銀杏が神武天皇を象徴としている事はあるでしょう。


※鹿児島観光サイトより

秩父の皆野町に、国神と言う地名があり、そこには県指定天然記念物の大銀杏があります。
この銀杏の周囲には、数基の古墳があったと伝えられ、
この所に秩父神社に祀られている知々夫彦命、知々夫姫命の墳墓があったといわれています。



彦と姫・・・。
今は、墳形はなく知々夫彦命の墓のほとりに植えられた木と伝わる。

秩父の地名由来が銀杏でした。
「チチフ」と呼んでいたと。
乳イチョウの事なので、秩父は地母神がルーツにあった。
秩父神社境内にも乳銀杏があります。

神武天皇が幼少期を当地で過ごした故事の「若皇子鼻(わかみこのはな)」。
について、秩父にも「若御子」があります。
若御子皇子を祀る若御子神社があり、洞窟が上の方にあります。
以前、「ぶらタモリ」の番組でタモリさんが絶賛したチャートのある洞窟。





大隅古墳の水銀が石室にあったことを考えると、秩父と深い関係があります。
それが土蜘蛛といわれた人たちだと思う由縁です。
入れ墨をしていたか定かではないが、奈良の卑弥呼とは違うでしょう。
ヤマトタケルも神武天皇の土蜘蛛退治伝承があります。


若御子洞窟

具体的にその人たちは、彦・姫制度をもっていた話しはトベの本にもあり、
後に「鬼」といわれてしまいます。

宮廷に仕えていた九州の久米氏と神武天皇が対立していた話がある。
大伴氏と共に宮廷に仕えていた久米氏は、軍事権力をもっていた。
また久米氏は、光る井戸からやってきた「ヰヒカ(井氷鹿)」である。
このヰヒカは、丹生郡比売命(にふつひめのみこと)を祀る神社が奈良県吉野にある。

もちろん、秩父も丹党一族がいたので丹生郡比売命を祀る社が多い。

奈良県御所市「柏原」に鎮座する神武天皇社は、葛城氏がいたところで、
葛城系の神社が集中している。特に高鴨神社。なので、奈良のヤマタイは、
葛城一族によって築かれたと考えるのです。

その御所市に神武天皇社があり「神倭伊波礼毘古命」を祀る。
初代神武天皇の即位した場所であると伝わり、
享保21年(1736年)の大和誌には「橿原宮。柏原村に在り」と記し、
本居宣長も明和9年(1772年)の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、
一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記しています。

一説にはこの神社が宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなるので、
明治のはじめに証拠書類を全て焼いてしまったと言われています。(神武天皇社より)

「大隅耶馬台国」の中に、
「丹」が大隅でもとれ、丹を取るために大隅の人が奈良へ行っていた。
彼らは丹を輸送すると同時に奈良の様子を大隅に伝えていた。
奈良にはすでに二ギハヤヒがおり、その土地の新交を深め、
二ギハヤヒも大隅の人の話を聞き、九州南部にヤマタイがあり、(呼称は違っていたかもしれない)
奈良のヤマタイと共に積極的に支持するようになったと。

そうなると、神武東征は、二ギハヤヒが神武天皇側についた話しと繋がるし、
土蜘蛛と言われたナガスネヒコ、またトベ一族(母系社会)たちは、
九州から奈良へ神倭伊波礼毘古と一緒にきていたでしょう。
しかし、二ギハヤヒ側についた為、神倭伊波礼毘古は九州から一緒にきていた
入れ墨をもっていた一族(巫女)を排除した。
二ギハヤヒ側は、入れ墨のない方の巫女の方だと考える。

なので二ギハヤヒは渡来人であり、外国人と考えてしまう。
二ギハヤヒの妻は瀬織津姫といわれるが、歴史的に考えれば、
二ギハヤヒは先住民と政略結婚したことになる。
もし、セオリツヒメが妻であるならば、セオリツヒメは先住民族なわけで。
ただ、これはちょっと遠い話だな~。
入れ墨はわからんけど。

秩父もそのような国神の土地であったが、後に、和銅がとれるようになると、
積極的に和人や朝鮮半島から渡ってきた人が居住するようになる。
畠山重忠は、母系社会をルーツとする日置部一族だったとすれば、
九州から発祥した神倭伊波礼毘古(若御子)を崇拝するのは当然のことでしょう。
その故郷に秩父彦を祀ったわけだ。

若御子とは、イタコさんのような巫女のことをさします。
神武天皇のことではないのです。
「若巫女」ともいい、神に仕える人のこと言うのです。

意外なところで、九州と秩父は深い関係があります。
秩父は海民の故郷なのですが、それを繋げているのが神武天皇とは意外でした。
謎がありすぎですけど。
とりあえず、入れ墨の巫女さんとそうでない巫女さんがいたという事で。

どっちがどっちということではないのですが、
太陽信仰といえば、太陽が今どうなっているんだろう?という事が気がかりです。
トランプがアメリカの大統領になってから世の中の天変地異が大きくなっていることに対し、
日本は天皇陛下の退位という時期になる。
良くないことがあると天皇が退くという神道は、今も健在で、
アメリカの荒魂に対し、日本の和魂を感じてしまうほど、対照的なのです。
もしかしたら、その働きも陰陽のバランス?であると綺麗ごとを言うならば、
その影に、巫女が働いていると言えます。
今でも世界中に、巫女の力が宿っていることを実感した話しでした。

何かあるから、日巫女が登場するのであり、
これからの地球の未来はどうなっていくんでしょうかね~。

畠山重忠は、かなりシャーマンな人だった。
なので、白い氣のお守りが、いかがなものか~と思っていたんでしょうね。
それより、大隅に来い!って話しだよな。
遠い~。
でも、いつか行ってみたい。
コメント

大隅邪馬台国と知々夫彦との関係(2)

2018-06-26 | 秩父の祭りと信仰
こういう話しは、一気に書きます。
まず、畠山重忠についてですが、
・・・親しみを込めて重さんと呼ばせて頂く。笑
重さんがなぜ九州なのかは、もうそれは故郷に思いをのせているからでしょう。

桓武天皇の子孫で秩父平氏と呼ばれる名門の出。
源頼朝を支えて鎌倉幕府の基礎を築いた人物として有名。

埼玉県の比企郡に重さんは居城してました。
もうブイブイ言ってたと思いますが、私は良いイメージがありますけど。
比企の地名由来にグっとくる。

「比企は埼玉県の中央部に位置し、山地から丘陵、そして沖積地へと変化に
富んだ地形が特徴です。
平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場しますが、
「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという
説が有力です。ちなみに、鹿児島県には薩摩半島西部に日置郡があります。」






日置といったらトベですよ。
神武天皇に殺された熊野にいた女性酋長。
頭、胴体、足と3つに体をわけて埋めたハイヌベレ信仰がある。

だから、GWに九州のイネハポがトベの分厚い本を持ってきていた。
それが「トベたちの悲歌」という本。
その本が秩父のヒントにもなっており、太陽信仰のトベたちの貴重な話しが、
たくさん書いてあります。
トミナガスネヒコの妹のことも。

ところで本を読まない人が増えているから、とうとう青山ブックセンターが閉店した。
なので、私はこれからどんどん本を買う。
読みたい本をいっぱい買って、闇の図書館にする。(←ウソ)

さて、トベを妄想していたら、最近、こんなマンガに繋がった。
今度は武蔵のイネハポが教えてくれた。
さすがイネハポ。半端ないって。



「闇の考証」というちょっと怖いけど、なかなか興味深くて面白いマンガです。
詳しく話せませんが(興味ある人は読んでね)
このマンガも、耶馬台国のことを書いているんです。
卑弥呼の墓なのかどうか、歴代の古墳を霊査する話しがありまして、
興味深いのが、奈良のある古墳に埋葬されている巫女は、額から目に入れ墨をしていると。
和人は刺青をしていないと言われ、もうひとつ近くにある古墳の方は、入れ墨をしていない女性。
そのふたつの巫女との対立があったと思われ、それに崇神天皇が関係している話しでした。

このマンガを読んで、2人の卑弥呼(日巫女)がいたと思ったわけです。

ここからがまた不思議なのですが、「大隅耶馬台国」の本は、GW後に読んでいたので、
もちろん、マンガより前に読んでました。
いつか九州と秩父のことを書こうと思っていましたが、放置してたわけで・・・・。
それでしびれ切らせたのかどうか、友達を使って私のところにマンガがやってきた。

「卑弥呼」から改めて、「大隅耶馬台国」の本を読んでみたら、
なんと、この本にも入れ墨のことが書いてあった!
そこは全然頭に入っていなかった。
「闇の考証」を読んでいなかったら、このことはずっと知らないままだった。

ということで、「入れ墨のある巫女」が鍵らしい。
ちょっと難しいので簡潔にしたいのですが、いろいろ繋がりすぎて困った。

卑弥呼が九州と奈良説と両方あるのは、「引越し」があるという。
耶馬台国が九州から奈良へ引越ししたという意味。

「大隅耶馬台国」から、「奈良にいる元耶馬台国の人と「魏志」などの
内容の一致」として次の文を現代語訳(次田真幸訳)に引用します。
(古事記中巻「神武天皇」の項)

この文に入れ墨が書いてある。

「さて、イハレビコ命が日向におられたときに、阿多の小椅君の妹の
アヒラメという名の女性と結婚して生まれた子供にタギシミミノ命と
キスミミノ命の二柱がおられた(中略)七人の少女が高佐士野に出て
野遊びをしていた。イケスヨリヒメもその中に加わっていた。
するとオホクメノ命はイケスヨリヒメの姿を見て、歌で天皇に申し上げた。
「大和の高佐士野を七人行く少女たちよ。その中の誰を妻としようか」
(天皇)が歌を以ってお答えになるには、
「ともかく一番先に立っている年上の少女を妻としよう」
そこでオホクメノ命が、天皇のおことばをそのイスケヨリヒメに告げ明かしたとき、
姫はそのオホクメノ命の入れ墨をした鋭い目をみて、ふしぎに思って歌っていうには、
「あま鳥・つつ・千鳥・しととのように、どうして目尻に入れ墨をして、
鋭い目をしているのですか」


著者の解釈より、イスケヨリヒメは奈良の人間なので、
「奈良には入れ墨の習慣がなかったから妙に思えた」ことを示す。
一方、オホクメノ命は日向(大隅)の人だから、「入れ墨の習慣があったので、
その習慣を奈良でも実行していた」ことを示す。
これは、「魏志」の「耶馬台国では男も大人も子供も皆、入れ墨をしている。」
内容と一致すると。※オホクメノ命は男性。

目尻の入れ墨は、「鋭い目にするため」のもの。
「鯨」という漢字が入っているのが入れ墨と解釈できる。
神武東征では、女性は一切同行しなかったと。
奈良入りの成功の後も妻を故郷から呼び寄せるようなことはしなかったようである。
天皇は現地で妻を捜した話であるという。

入れ墨をしている巫女は九州の卑弥呼で、
入れ墨をしていない方が奈良の卑弥呼。という妄想。

鋭い目にするのは、目で倒す呪詛があると思います。
イタコさんの祈祷の中に目をかいた道具がありました。
目はカカという赤い目をする蛇につながるのですが、このカカというヘビから、
大物主の三輪信仰に繋がります。
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さて、秩父権現の前に、この巫女をチェンジしたのは崇神天皇である。
「三輪山の大物主神さま」(大神神社監修)という素敵な本もゲット。
これは単に、地元の歴史をまとめるので必要だったため購入したが、参考に。

(入れ墨をしてない)イスケヨリヒメは、三輪の大物主の妻になる。
イスケヨリヒメは狭井川のほとりに住んでいた。
丹塗りの伝説になっているものですが、
オホクメノ命は、神武天皇とイスケヨリヒメの仲人になっている。
神武天皇の話と三輪の大物主が一致しているということは、
天皇家が大物主神の祭祀を受け継いだことになっていると。

しかし、崇神天皇の時代(神武天皇から数えて十代目)になると、
大物主の神をおろそかにしていた為、疫病が流行る。
それが大物主の祟りとされ、天皇の夢枕にあらわれる。

天皇家の神話によく登場する言葉。
「我を祀れよ」
大物主は、「大田田根子」に祀ってほしいという。(祭事をしてほしい)
そうすれば安泰になるという。

神武天皇が九州出身であれば、大隅の卑弥呼で祈祷していたけど、
大和に移動し奈良の卑弥呼を受け入れれば、安泰になるという意味ではないかね?
政権交代は、巫女を交代することになる。
だから、九州と大和の卑弥呼は違う人種。

トベという人たちは、入れ墨をしていた巫女?

なので、崇神天皇が、入れ墨のある巫女を封じたという話に繋がってしまうのだ。
崇神天皇が大和の初代天皇という説あり、神武天皇とは同一とされている。
そうであれば、卑弥呼が殺されたという話は、この話から繋がる。
入れ墨文化をもっていた大隅の神武天皇から、入れ墨文化を排除した奈良の崇神天皇という切り替え方。

入れ墨の巫女と入れ墨なしの巫女との対立はあったんでしょうね。
ということで、こっから先は、深いところに入ってしまいそうなので、やめとく。

こういう話を聞くと、名取老女と玉藻前(たまものまえ)=九尾の狐を思う。
名取老女の他の伝承に、鳥羽天皇の皇女(鳥羽天皇本人説もある)が原因不明の病気になる。
それが天皇の寵姫だった玉藻前のせいではないか、と思い、鳥羽天皇は名取老女を都に呼ぶ。
名取老女は祈祷で玉藻前を追いだしたと考える。
そのお礼をしようとしたが、老女は断ったという。
それがきっかけで熊野信仰を開いた話もあるのです。

その九尾の狐(玉藻前)が、中国大陸からやってきた白人の女性という話があった。
おそらくギリシャ人とかあっちの人で、美人だったから天皇が受け入れてしまった。
が、それから良くないことが続いたと。
日本の風習や神格的なことを、西洋人により阻害される恐れがあり、
それを阻止するために、名取老女のような巫女が呼ばれたという解釈です。

なぜ、ギリシャかというのは、ギリシャ神話が秩父にも伝わっていて、
それが平家(平将門)の桔梗姫になっているからです。
ある説では、九尾の狐が楊貴妃だそうです。
あり得るかも。
入れ墨なしの文化は白人だと思うから。

さて、ようやく、ここで秩父権現が登場。
そしてそして、なぜ、重さんは大隅の卑弥呼の場所を秩父権現で祀ったか。
それが~イチョウの木と関係しているようなのです。
なんか泣けてくる~。

つづく。
コメント

大隅邪馬台国と知々夫彦との関係(1)

2018-06-26 | 秩父の祭りと信仰
あまりにも興味深い出来事のシンクロ嵐が起こっていても、
最初は何のことかわからないからそのままにする。

シンクロはいろんな媒体を使って自分で引き寄せる働きだと思っているので、
なぜいま卑弥呼を引き寄せてるのかわからない。。。
もう結論(持論ですけど)卑弥呼は2人いたんだとわかった。(それを知るため?)
ここでいう卑弥呼とは、歴史の教科書に出てくる卑弥呼とは違います。
太陽信仰をしてきた女性の巫女のことを「卑弥呼(日巫女)」と称している。

大和の卑弥呼と九州の卑弥呼。
その違いは、刺青をしている巫女か、刺青をしてない巫女の違い。(この話しは後で)
女が女を封じてきたから、いまだって女同士の派閥がある。
世の中を上手く回していかないとならないのは、女だってことはわかってる。

混乱しないように、女がしっかり国を見据えていた時代があった。
けれど、崇神天皇が巫女をチェンジした。
だから崇神天皇はうらまれたんだと思う。
宮城県ではその崇神天皇を密かに祀っているんだよね・・・。

そのルーツをたどっていたわけでも何でもないんだけど、
きっかけがGWの時で、三峰神社の白い氣のお守り配布の話から始まった。
そこから九州の卑弥呼がずっと何か言っていたのだろうけど、
その時は、意味がわからなかった。

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三峰神社の白い氣のお守りの配布を中止したそうだ。
配布の時に大渋滞になり迷惑になるからという理由だそう。
お守りがどうかというより、気になったのは三峰のご神杉。
白い氣のお守りは、三峰神社境内か裏山かどこだかの杉のエネルギーを
お守りの中に入れているというのだが、有名なのは、三峰神社本殿の前にある
樹齢800年といわれるご神杉。
これは、畠山重忠が奉納したという。
この杉のエネルギーがほしいとかで、列に並んで氣をもらう女子が多いという。

それから「畠山重忠は九州だった」ことを思いだした。
それは、畠山重忠が九州に思いを馳せている意味にある。
ただ、それが白い氣のお守りと、どう関係するのかわかりません。

鹿児島県のとある古墳に、畠山重忠の家臣が知々夫彦(秩父権現)を祀った神社がある。
畠山重忠は高千穂神社にも杉を奉納している。
なぜ、畠山重忠は秩父を敬うのか、という疑問。
それがなぜ九州で秩父なんだろう?

で、その畠山重忠のことが気になった後、私にとっては衝撃的な本に出会った。
ネットで見つけたのだけど、こういうシンクロがもう普通ではないと思った。
その本は「予言大隅邪馬台国」(河野俊章著)という。
だから購入しましたよ。
ただ、「予言」」ですからね。
こういう予言は夢があって素敵です。



大隅半島(鹿児島県)にある県内最大級の唐仁(とうじん)古墳群、塚崎古墳、横瀬古墳を初め
とした古墳の中で、唐仁古墳は県内最大の前方後円墳です。
これが卑弥呼の墓ではないか、と推論してます。

「中心となる1号墳は大塚古墳と呼ばれ、大塚古墳(一号墳)を中心とした
前方後円墳と円墳合計約140余基の古墳群で、
1934年(昭和9年)1月22日、国の史跡名勝天然記念物の指定をうける。
古墳群の中心に位置する大塚古墳は県内で最大級の前方後円墳で、
直径185m、高さ11m前後ある。」
※大隅地方の文化財より

この本を読んで、皆がよく知っている卑弥呼ではなく、「もう一人の卑弥呼」がいたのではないか、
とそんな風に思ったのです。(あくまで私の妄想です)
どっちがどっちの卑弥呼なんだろー。


舞台はここ。(赤いマーク)



唐仁古墳に大塚神社があり、その神社の下に石室がある。
あきらかに石室に触れさせないためとわかる。(本の表紙の写真がそれ)
神社下なので調査が難しい。(神社の一部を壊さないとならないから)
しかし、過去にこの石室を調査したことがあったそうだ。
昭和39年の石室調査で、こんなことがわかった。

①被埋葬者は女性である。但し、高温多湿で遺骨は消滅している可能性大。
②棺内部には水銀朱(丹)が十分に使われている。腐敗防止のため。
(水銀を使うのは、中国の秦の始皇帝の墓もそうだ。)
重要な位置にあった人に使う可能性有。
③三角縁神獣鏡がある。著者はこれが卑弥呼の墓有力候補とみている。
大隅では、この墓以外に鏡は出土していない。
④中国からもらった金印がある(に違いない・・・これは著者の夢)
ただし、副装品が何もないという謎。副装の習慣は3世紀までなかったという説。


という事で非常に興味のある石室なのですが、
この神社については言及していなので、詳しいことはわからず。
しかし、石室に神社を置くのはよほどだな、と思った。
それで大塚神社がまさか、あの神社じゃないよね~と思って調べてみた。
ネットだけど。(現地に行けないから)

ががーん、やっぱりそうだった。
「隼人と秩父」で妄想していたあの神社だった・・・。
大塚神社=史跡唐仁古墳群第一号


※神宮巡々2より
https://www2.jingu125.info/2016/12/30/post-53333/

祭神:大国主、スサノオ、思兼命。知々夫彦命、
御神:鏡三面
創建:島津忠久入国の際、先見を命じられた本田次郎貞親が島津家の
守護神として1191年頃創建したものと言われている。」


鹿児島県の神社庁によると、
「下向した本田次郎貞親が武蔵国の秩父権現を勧請し、
島津家の守護神として建立したものである。
この辺りは前方後円墳・円墳などの古墳が分布し、
塚崎古墳群として国の史跡になっており、東串良に渡る大小無数の古墳は、
天孫降臨の際付き従われた神々の御墓所と言われる。
当社地も、天太玉命の御墓所との言い伝えがある。」


本田次郎貞親は、畠山重忠の家臣だったので、重忠の命で秩父権現を祀ったと。

ですが、神社庁のサイトの住所が、「肝属郡肝付町野崎」
になっていて、ここは塚崎古墳がある地区でそばに大きな楠の木がある。
写真で見れるので、チェックしてみてください。
大きな穴があいている不思議な木です。
たぶん、住所は間違っているのでは?・・・。(ちと混乱)

唐仁古墳の場所は、「東串良町新川西」にある。
クシフルの串なんだな。
櫛のシンクロはここだったか~。

海の近くにあるので、著者は、邪馬台国の港として肝属川河口の
近くにあるのが唐仁古墳なので、中国(唐仁)に由来すると。
この付近の古墳は、男女ともに被葬者としている古墳があるようです。

ということで、これがまた面白いシンクロになるわけです。
友人に教えてもらったマンガに繋がる。
なんか、すごいな~、と思ってブログに書いてしまいました。
書いたら、九州にいるイネハポにバトンたっち。ww

つづく
コメント (2)

都波岐の椿森稲荷神社(影森)

2018-05-05 | 秩父の祭りと信仰
久しぶりに影森の椿森稲荷神社へいきました。
この時期は、神社の例大祭が多いですね。



屋台ばやしをやっていたのですが、秩父の地区でお祭りとなると、
まず、太鼓のお囃子になる。
女性が祭りに参加して太鼓をたたくのは当たり前なんですが、
子供たちが一生懸命、お囃子をしているのが良い。
私も子供の頃お祭りで太鼓してたな~。懐かしい。
気がついたら太鼓たたていた。そんなもんで。
相撲も神事ですが、女性が相撲をとっていた時代もありましたから、
女とか男とか、そういうのは関係ない。



すると、ここで久々に、中津のくまさん!いや、永越さんにばったり!(自然ガイドさん)
今回、ばったり偶然会う人が多かったな~。
おにぎり屋では、Garさん(秩父の古代史に詳しい)とも会ったし。
すごく久々だったし。

椿森稲荷神社は、以前、産廃処分地にされそうになり、
稲荷神社が無くなる危機があったそうです。
地元の人たちが阻止して、稲荷神社は守られました。
日本全体に言えることですが、処分場についていろいろ揉めますけど、
廃棄する側の業者は、地元ではないから、当然、そこに棄てることに何も感じないですね。

自分たちのゴミなのだから、自分たちで後始末をするしかないよね?
ということを行政は言うのですが、驚いたのは、福島県の原発の放射能の処分についても、
地元の人たちとディスカッションする場で、子供たちに対して、
自分がよごしたごみ(廃棄物)は、捨てるでしょ?といって、
説得させていた役人がいたことを知人から聞いて、すえ恐ろしい日本の社会と思いました。

子供たちに放射能汚染の処分を背負わせるために、そういう言い方をするんだそうです。
廃棄物と放射能は全く別もの。
自分たちの手は汚さない徹底ぶり。
自分が巻いた種は自分で埋めなければならないといった洗脳をさせるために、
放射能汚染の処分場を理解してもらうために、自分たちが出したゴミであるという認識をさせる。
そうすると子供たちは、まあそうか。という風に思ってしまうのだそうです。
武甲山の破壊をみて育った私としては、同じようなやり方で子供たちが大人になった時に、
どうやってそれを修復するかを考えた時に、とっても深い傷を負っていることに気づく。
そうして葛藤する自分と戦うことになる。



そんなことを考えると、ここの椿森稲荷神社が守られたのも良かったのですが、
裏話しでは、その廃棄物処分をしようとした人に祟り的なことがあったという。
そういう結果になったことを聞くと、
土地神は、それだけ強い怨霊を発するわけで・・・。特にお稲荷さんは。
ということは、あれだけ破壊されている武甲山なのだから、
横瀬町がいろいろあるのは、そういうことなのか、とも思ってしまう・・・。

要は、武甲山のおかげで豊になっていることに、ちゃんと返すことをしないと、
稲荷神社は特に、キツネですから見返りを求めると言いますね。
武甲山は稲荷神ではないので、ちょっと違うかもしれないけど。
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ところで、「椿」の名前の由来は、自然に棲息する椿の最北地からです。
ツバキの分布は青森県までありますが、昔はここが椿の最北と考えられていたようです。
ただ、それだけではなく、椿は、ツハキという「都波岐」が由来としてあり「岐神」である。
「ちまた」という境(別れ)であるから、ここも境として置かれたお社なので、強い印象があります。

漢字は後から中国から渡ってきたものなので、
古い言葉の和語でいうと脛は、波岐(はき)とよぶ。
荒巾脛と書いて、「アラハバキ」と読む。
波岐は、アラハバキとも言える。

三重県鈴鹿市に都波岐神社(つはき神社)がある。
つはき=つばき=椿という流れ。
そこに猿田彦神が深く関係している。

都波岐神社は伊勢国一宮とされる。
明治時代に都波岐神社と奈加等神社を合併したもので、都波岐奈加等神社とも称される。

都波岐神社猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)
奈加等神社天椹野命 (あまのくののみこと) - 中跡直(なかとのあたい)の先祖中筒之男命 (なかつつおのみこと)を祀る。
中筒之男命 は住吉大社の3神の一人。
星信仰でいうならば、オリオン座の三つ星にあたる。
水底で生まれた神様なので、3つという数字から、これらも創造神のことを表している。

「椿神社の由縁によると、伊勢平野を見下ろす鈴鹿山系の中央に位置する高山(入道ヶ嶽)
短山(椿ヶ嶽)を天然の社として、太古の神代より祭祀されていた「猿田彦大神」の御神霊を、
人皇第11代垂仁天皇の御代27年秋8月(西暦紀元前3年)に、
「倭姫命」の御神託により、大神御陵の前方「御船磐座」付近に瓊々杵尊・栲幡千々姫命を
相殿として社殿を造営し奉斎された日本最古の神社であります。」


あの世とこの世の境から神道になると、天皇家にその神託が移されるので、
だんだん違う解釈として受け取ってしまう。
しかし、元来は、宇宙信仰といえる、もっと深い思想だろう。


左:とがった山が武甲山。

武甲山は、あの世とこの世の境界のために、猿田彦神を置いている。
影森も「影」にあったから。
塞神(岐神)として。
亡くなった魂は武甲山に還ります。
漢字は「帰還」の「還る」方です。
霊は、元の場所に再び戻るためです。

椿森稲荷神社で、ナグサトベ談話になった。
あっちゃんが教えてくれた本がすごい。
ナグサトベ・・・。




(比企郡は日置部からの地名由来。太陽信仰のこと)

これは、後ほどいった神社でなんかわかった気がする。
確証はないが。
その話しは、次回に。

改めて、武甲山の祖霊を思い出した帰省でした。
ということで、ミッション終了~。

おまけ--------------------------------------

西武線は、なぜか賑やかな列車が多い。
ミーハーなんだな。ま、GWだし。
「ぐでたま」・・・乗る気しね~。笑





でも写真をとる。
これに乗って通勤は嫌だな・・・。



こっちは、ピンクだよ!
いいかも~。ピンク~♪
父いわく、ずっとここに停まっていると。
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未来へ繋ぐ武甲山考(2)

2018-05-03 | 秩父の祭りと信仰
横瀬に帰省する前から、何度か青々とした武甲山の夢をみてました。
なんで武甲山の夢をみるのかな~、と思い、度々夢で武甲山は登場してきましたが、
今のような武甲山ではなく、緑生い茂る青々としている武甲山だった。
でも場所は秩父ではなく、どの場所も知らない土地なのですが、
山だけは武甲山とわかるのです。

うまく説明できないんだけど、山じゃないような何か生きている霊なんですね。
生き物なんですよ。武甲山は。言葉で説明できない感覚。
目の前でそびえたっている大きな存在みたいな。



「祖霊信仰or祖先崇拝とは、既に死んだ祖先が、 生きている者の生活に影響を与えている、
あるいは与えることができる、という信仰である。」


武甲山が祖霊だから、夢の中で影響を与えていること。
夢の中で武甲山は生きているということ。

ある夢で、武甲山山頂に大きな3つの板碑がモノリスみたいに並んで建っていて、
その下には神社の社務所がありました。
武甲山のすぐ下に神社はありませんが、板碑があるということは、
武甲山の霊を弔うことであり、供養している夢なのです。
そうすると、武甲山は死んでしまったのかもしれない。
でも夢の中では青々して立派な山に変身している。


※お天狗さまと武甲山

そのことをイネハポあっちゃんに話したら、あっちゃんが武甲山の測量をしていた時に、
「かつて山頂には、三尊石があってそれを破壊した」と言うのだ。
むむ~、それかぁ。
三尊石は自然石なのですが、中世の遺跡群が山頂にあったのですが、破壊されているのです。
その夢は霊場らしく、他にもたくさんの人が参拝に訪れていました。

過去の武甲山の夢なのか、別次元で生きている武甲山をみているのか、
またはこれからの未来をみている夢なのか・・・。
いずれにしても、武甲山が祖霊である証なのですが、
あんな風に破壊されていても、武甲山の霊力は、健在なのです。
だから昔の人たちは武甲山の霊力にあやかりたいとなって、
その能力(未来を通す)を手に入れたいと思っていたでしょう。
また亡くなった霊を弔う山として位置づけられていた里山信仰も重要だったと思います。


すこ~し緑が増えてきたような・・・・
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遠野の山には、三峰講の石碑が点々と残されている。
遠野も狼を「山神様」として崇めている風習が残されている。
武甲山にも狼がいた。でも今はいない。
なぜ、石碑として残すのか。
それは、狼を弔うためです。
しかし、「武甲山」と書かれた石碑をまず見たことがない。
参道の道しるべとして残すのみ。

霊性な山だけに、そこまでして武甲山が破壊される運命にあるのは、
「鉱物資源と水銀」にあり、水銀がいろいろからんでいると感じます。
人間が物質社会に目覚めてから破壊が始まった。


※写真:よこぜ合併20周年記念誌


※よこぜ合併20周年記念誌

良質の和銅がとれてお金として流通させたきっかけから、
秩父が聖地となった。
秩父は「金ができる土地」と見られていたわけです。
「金になる」ではなくて「金がつくれる」という方で。
なので、石灰に目をつけた人が、和銅と同じように開発することは、
国に対する献上であると考えているのだろう。

その思想は、丹党一族から由来するものだと思います。
丹は水銀(辰砂)ですが、秩父神社に天之御中主神を祀り、武甲山を神体山とした。
それ以前の古い武甲山信仰は、山神である。
山の神とは、動物や植物、鉱石などの自然崇拝である。

つまり、新しく入植してきた人の開拓が、今の秩父の歴史になっている。
それが武甲山の破壊に繋がっている。

秩父が集団で入ってきた古くは、吉田町といわれ秩父固有の椋神社がある。
猿田彦神を多く祀り、平野におりてきて横瀬に住んだと考えられるが、
横瀬町、特に宇根でも猿田彦神を祀るようになっている。


※よこぜ合併20周年記念誌(横瀬川と武甲山)

猿田彦神は、天狗ですが山神であり、里山信仰が根本にあります。
神社が神格化する霊体というのは、「豊饒」の意味があり、
豊かな食をもたらすために国が、村に米を作ることを奨励し、
税金を納めてもらう事が目的とあった。そのためには、山からの水が必要だから、
武蔵国の秩父は、都会を潤す豊饒として位置づけるために秩父神社が昇格しているわけです。
特に、徳川家が秩父をバックアップしてました。
その時代から、秩父は江戸に豊饒をもたらしてきたのですが、
今の東京が、それを知らない。
それは秩父も悪い。

しかし、武甲山信仰は秩父と横瀬では異なります。
国家の鎮守としてある秩父神社がみる武甲山と、
山神の鎮守としてある横瀬がみる武甲山との認識にズレがあるように感じる。

私は、そのことについて常に違和感があった。
武甲山=秩父神社ではない。それに、天王様があるのだから武甲山が疫病封じになっている。
それが元で秩父夜祭になっているのですが。
それについては、いつか、横瀬町の郷土史として、形に残さねばならないと思っています。


※よこぜ合併20周年記念誌(大野峠?)

要するに、武甲山ひとつとってみても、住んでいる地区によって、
武甲山に対する信仰は異なるのです。


※よこぜ合併20周年記念誌(奉仕作業のおとしより)
昔の高齢者は元気だった!

後から秩父市内にきた丹党一族は、東北地方まで継承し、水銀をみつけ、金採掘に徹することになる。
丹生は辰砂という赤い石があるのですが、水銀は毒だけど、
水銀を解毒することができ、それを薬として飲んでいた。
即身仏は、最後に水銀を飲むといわれ、湯殿山のお湯に多く水銀が含まれているため、
即身仏が広まったとされる。

武甲山の持山廃寺にも、修験者がたくさんきており、
穴にこもるお坊さんがいた。
「武甲山のかきっと」の伝説に登場するのですが、即身仏だったとも伝わる。


※よこぜ合併20周年記念誌
すげっ!
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さて、そんな武甲山信仰の深い話しは、ここでは書ききれないので、
また面白い話しがあれば書いてみようと思います。

武甲山の破壊について興味がある方は、
「POSSE」というNPO法人が発行している雑誌に、
笹久保さんが書いた「秩父・武甲山」(産業によって破壊される文化・信仰)が
掲載されていますので、読んでみて下さい。





POSSE vol.38
http://www.npoposse.jp/magazine/index.html

私は誰かが悪いという問題ではないと思っていますし、
神社関係者も自分たちの生活があるから、それは仕方のない事だと思います。
みんな、武甲山をみて葛藤しているのだから。
確かに昔の秩父は貧しかったけど、今も貧しい。
武甲山があれだけ体はって稼いでくれているのに、地元に還元されていない。

地元の葛藤の痛みも知らずコントロールしているのが、
「地元の人ではない」ことは、肝に銘じるべきである。



※よこぜ合併20周年記念誌

そういうところで、私も少しづつ、横瀬の郷土史を記録し、
形に残すことをはじめていこうと考えられるようになりました。
もちろん、これからの女性に向けての武甲山ですよ~。

ということで、笹久保さん、イネハポ、再び当選した清野さん、酒好き出版者と小林さん、
深い時間をありがとうございました。
また機会があれば、じっくり武甲山談話を。


※武甲山によく似ているカイラス。(撮影者:加藤忠一)

さて、話しはがらっと変わり、久しぶりに影森の椿森稲荷神社へ行ってきました!
つづく
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未来へ繋ぐ武甲山考(1)

2018-05-02 | 秩父の祭りと信仰
GW前半は、秩父へ帰省してました。
連休前から久々に風邪をひきまして、しぶとい鼻風邪ですが、
あんなに鼻ずるずるは、初めて。笑
花粉症だと思いこんでいたが、耳鼻科では鼻風邪だという。
いや、そんなことはない・・・横瀬についたとたんに、鼻水攻撃が!!
きっと花粉症が入っている。(違うし)
みんなと会った時に、鼻がずるずるで申し訳なかったです。

でも、とっても濃い時間を過ごし、今回の秩父が「真剣勝負」というくらい、
「あなたはどっちを選択しますか?」と、武甲山に問われた出来事だった。

今回、帰省した目的は、ようやく笹久保さんとお会いできて、
いろいろと気づかされたことがたくさんあって良い機会を得られました。
やっぱ、若い人が動いてくれるのが有難い。

もうずっと仙台だし、秩父のこと書くのはやめようと思っていたのですが、
「そうはさせないよ」と言われているようで・・・。笑

このブログは「秩父」と書いてある通り、
秩父の武甲山の信仰を知りたくて書いたものがきっかけでもあり、
また東北地方には秩父修験や三峰講などがたくさんこちらへ来ており、
秩父人(秩父平家)とは何か、という興味がありました。
でも秩父より、仙台の方が長くなっているから、秩父が遠くなっていった。
まあ、何度も以前からブログで武甲山のことを書いていましたが、
再び、耳にたこができる話しになりますかねぇ。


影森から浦山へ。


影森からセメント開発が始まった。



2010年から書き初めて、長くブログを書きすぎたせいもあって、
せっかくの貴重な伝説や民話を集めても、自分がそれを放置して覚えていないというのは、
いかがなものか、と最近、思ってました。
元々、記録に残すつもりもなかったし、手放す目的で書いていたので、
何でもよかったのです。読む方の受け止め方は様々ですから、
読み手に委ねており、きっかけの一つとしてブログを利用してほしいと思っていました。

しかし、いろいろな人と繋がりをもつようになると、
世の中の不都合な出来事は、過去の歴史とリンクしている事に気づき、
また歴史は何度も繰り返すことも知った。

そうなると、私がコツコツと勉強してきた情報が生かされるのではないか、と思い、
今までの古代史や信仰を通じて、これから「本当に必要な方に」お伝えする事が、
今後、増えてくるだろうと思うようになりました。
それならそうと、やったるかっ!というタイミングで、風邪をひくのだな~・・・。

その第一歩として、今回、武甲山が大変なことになっているのは、言うまでもなく、
改めて、笹久保さんから、遠くなっていた秩父だったのを、
引き戻してもらったような感じがあり、少し前を向けるようになったかもしれない。
しかし、重すぎる。
問題がありすぎる。

今回、笹久保さんと、イネハポ、秩父をよくしていこう!としている2名の方とお会いして、
みんなの武甲山に対する深い思いと涙をみたら、魂を揺さぶられた。
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まずは、笹久保さんについての紹介を。
笹久保伸さんは、音楽家(ギタリスト)であり、「秩父前衛派」として、
アート活動をされています。
現代音楽と、アンデス音楽を演奏するギタリストとして世界各地で公演。
2017年までにCD27枚ペルーと日本のレーベル各社からリリース。
2008年から郷土をテーマとしたアート運動「秩父前衛派」を始め、
音楽、映画、美術、演劇、写真、文筆、講演など、幅広く活動されています。

笹久保さんのサイト
http://shin-sasakubo.com/



以前、笹久保さんの写真集「武甲山ー未来の子供たちへ」を買いました。
自分でも驚いたのですが、ページをめくったら、すぐ涙があふれて、
泣かずにはいられなかった。
笹久保さんの写真集は、ふたつに分かれると思う。
不快になるか、深いことになるか・・・。

あれが私の知っている武甲山の記憶です。
緑生い茂る山ではない。
廃墟な建物。
岩場にピンと刺さったままの鉄筋の棒。

「こんな武甲山をみたくなかった」
それが私の率直な感想ですが、最初、みんなそこに葛藤して、
罪悪感を持って泣く。それが武甲山の通過儀礼。
笹久保さんは、武甲山の鏡になっていると思います。

笹久保さんは、歌で武甲山の破壊に疑問をもったそうです。
雨乞い歌というのがあるのですが、武甲山に雨乞い岩がある。
その歌に興味をみち、雨乞い岩まで登ろうとしたら、
石灰開発で発破し、すでに雨乞い岩は無くなっていた。

それがきっかけで、なぜ、貴重な遺跡が破壊されるのか、と思うようになり、
武甲山の破壊について調べるようになったそうです。

『雨乞踊歌』
♪武甲の神の大前に 雨だんべえ龍王なあ
長の日照りのそのために、五穀の種子も尽きる故
武甲山の神々へ氏子が集まり御願ひ♪

※平安時代の歌合戦は、宗教的に意味があり、男性が女性に歌を送る時、
それに女性が唄い返さないと、男性の強力な魂のもとに女性は屈服されると言われた。

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多くの秩父人は、それに気づいてしまうと、武甲山に対する罪悪感に悩まされ、
苦しむことになる。それが嫌だから、見ないようにしているわけです。
武甲山を知る入口が破壊なのだから、誰も入口に入ろうとしないのです。
また、そのような活動をしている人に対して意見を述べることもしない。
それは、自分を守りたいからです。

破壊とは、人々の精神を無力にさせ、発言を持たせないようにする働きがあり、
世間体を気にしながら嘘をついて生きていくことになる。
そんな自分に気づきたくないから、みんな、武甲山について真剣に考えない。

笹久保さんとの共通点は、同じ横瀬町出身で、武甲山の破壊をみて育ちました。
なぜ、武甲山があんな風に破壊されるのかという葛藤から、
民俗考古や歴史の視点から、武甲山についていろいろ調べてきました。

しかも、通学路でよく通っていたお家に住んでいたことに驚き!
近所やん。
それが一番、驚いたな~。
よ~く通っていた道だったのに。
面白いんだよね~。だからか、と思ったのは、よく古い時代の横瀬の夢をみる事があって、
時代は昭和初期みたいですが、笹久保さんの住んでいるあたりの場所。
大きい工場などがあったりして、なぜか、あの付近の古い時代の夢をみていた。
ただ、迷子になったみたいで歩いているだけなんだけど。
不思議だよね~。
そこには、武甲山登山入口の碑があるんですよ。


橋立鍾乳洞




カフェの看板。



ま、そんな経緯があり、イネハポ集合だ!となり、久々にイネハポ3名と笹久保さんと計4人で、
橋立鍾乳洞のカフェで、また~り話しをしてました。







ここからの話は、まった~りな女子会で、ときどきDeepな話しもありましたが、
面白い所も案内してくれたので、一応、写真のせておきます。




あっちゃんと笹久保さんは、親子みたいだね。


参道みたいになっている。


イワクラみたいな。




熊野修験の護符と祠。


この上に洞窟みたいのが見えたので、笹久保さんに近くまで行ってもらう。
けど、洞窟ではなかった・・・。


この道の先に、火葬場があったそうです。
病気や障がいなどを持った方の火葬場らしい。
武甲山は、そんな人たちの救いを引き受けてくれる。
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要するに、「秩父が変われば世界が変わる」
これは秩父だけの問題ではない!という認識がみんなにある。

イネハポのみよさん(川越です)は、秩父出身ではないのですが、
みよさんは、この大きな問題を秩父に背負わせようとしているから、
皆が苦しむ。それが問題だと言っていた。

その通りだと思う。
これは、すべて人類の問題であり、みんなの問題である。
個々の人間が、あの巨大な黒幕を相手に立ち向かうような話ではないので、
それを「秩父人だけに背負わせようとしている」事に問題があると。
武甲山の破壊は、どの地域でも行われている問題です。
その象徴としてそびえる武甲山が、私たちを動かしていることは確かです。
何もおかしな話をしているのではなく、武甲山が霊体であるからこそ、
なせる神技なのですが、人類は、これからその上をいく精神レベルを上げなければならない。
なにせ、私は女なので、そういう観点からどうしても武甲山をみてしまう。
仕方ない、女の性なんだ。笑。

武甲山の大蛇窪も、橋立鍾乳洞にも大蛇がいたと言われるが、
手(ヒレ)のような蛇みたいのがいたと言うのは、
おそらく、太古の魚類ではないか、と。

ここが数千年以上も前の地層とあれば、十分考えられる。







本当は、東京都民が武甲山について考えねばならないのだが、
武甲山のセメントで都市が成り立っていることを一番知らないのは東京だ。
それでも、三峰神社の白い氣のお守りがほしいと都会人は列に並ぶ。
神社も食べていけないので、商売になっています。
三峰神社は株式だから。うまいことやったな。
一個2000円。
畠山重忠が九州で泣いている。

お守りを買う人は、自分に御利益があると思うのでしょうが、
その分、多くの物を失うことを知ってもらいたい。

そんな時代で、神格の力も失っているからこそ、
武甲山が人々を試そうとしているように感じています。
「あなたはどちらを選択しますか?」と。

それに宣る(ノル)しかないわけで・・・。
なので、今までの「破壊」という言葉から、ようやく「未来」という言葉が使えるようになりました。

しかし、私は過去の歴史を見ないと、未来がみえない人です。
なぜ、人が何度も同じ歴史を繰り返すのかは、みな、一人一人が、
被害者でもあり加害者でもあるからです。
秩父は武甲山があるだけに、被害者意識が非常に強い。
そこが問題だと思う。その認識を捨てねば。

先祖は、私たちをいざなうために、あえて破壊という土地を選んだ。
秩父に生まれた人は、その宿命を受ける運命でもある。
その苦しみに葛藤したくない人は、秩父を離れる。
しかし、先祖は、私たちを苦しめるためにそんな事をさせているのではないのです。

おまけ---------------------------------

しし飯、しし汁、しし・・・・





秩父探訪へつづく。
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日和山と秩父氏一門の葛西氏(3)

2018-04-15 | 秩父の祭りと信仰
一気に書きます。
結論、ヤマタノオロチですな。

栄存法印の伝承で、出身地が大阪とあった。
河内ということですかね。
息長氏は河内難波にいた説もあり、河内国の娘が息長氏に関与すると。
古事記では、意富富杼王(オオオド)(別名:大郎子)が息長氏祖とされているのですが、
いろんな説があって、よくわかりません。
息長氏は彦坐王の子孫といわれ、神功皇后は彦坐王の曾孫にあたる。

息長氏が意富比古(おおひこ)であるというのは、
埼玉県稲荷山古墳で見つかった鉄剣が、「意富(おお)~」という名前で、
大彦命ではないか、とされている事です。
雄略天皇に仕えていたという。
私は多氏に興味があるので、大彦命も興味があります。
それが多氏となり、大伴氏の系譜や古事記編纂の太安麻呂も多氏系譜といわれる。
その人たちのルーツが熊本県の海民で、横穴石室を残した産鉄族。
相馬地方に集中しています。

多氏も物部氏のように祝詞をあげていました。
でも物部氏は多氏を排除したのだから、古事記の編纂で、
太安麻呂が言霊でそれを記録しようとしたのではないか、と思います。

また、滋賀県の琵琶湖とは深い関わりがあるのは確かで、
福島県の信夫山には、出羽三山信仰や、多数の修験者が訪れている。
そこには「黒沼神社」があり、古来、「ミツハノメ」を祀っていたという。
なぜなら、湖があって沼地だったからなのですが、家紋が菊。
また、信夫は、「忍」であり、滋賀県の琵琶湖に拠点をもっていた
息長氏の説もあり、継体天皇と婚姻関係を結んでいた忍坂大中姫がいる。
後の刑部造となり、宮城県北部の大和町に刑部氏由来の墓があるなど、
忍坂皇子(大阪の地名由来)になっているわけです。


信夫山の烏ヶ崎。



そうなると、信夫山に多くの修験者が集まるのは
天皇家一族に由来するからですが、その近くに「丸子」という地名も残されている。



丸子氏は、大伴氏流と武蔵江戸氏流と2つあります。
紀伊・信濃・大伴糖手の子である丸子頬垂が初代であり大和の和邇(ワニ)の事だとする。
ワニ氏は「丸(マル)」ともいったそうだ。(おそらく丸が象徴)
これが、日本海側の太陽信仰をもたらした朝鮮系鍛冶集団だといわれる。


丸子氏の家紋

王仁は、帰化人の西漢氏の支族で物部氏の祖といわれている。
そういう点で、アテルイが百済由来のような気がして、
また物部氏のもののふの祈祷から、アテルイという人物を作りだしたような気もするのです。
どこかでアテルイが王仁と繋がっているのだから、
大阪の牧方に石碑が置かれるのだと思います。


信夫山:古峯神社の巨岩

反対に、東漢氏も同様だが、異なる氏族と伝わる。
東漢氏は崇俊天皇を暗殺した氏族だと歴史では伝えられており、
大伴氏をサポートしていたようです。
丸子氏の系譜に、その大伴氏がおり小手姫(父は大伴糖手と伝わる)がいた。

秦氏と組んで養蚕を伝えた方が東漢氏で、崇俊天皇(物部側?)を排除した?
後に息子が、出羽三山を開山すると伝わるのですが、
そのことがあって、逃れた小手姫がいたという説。
またその一族(大伴氏)が、宮城県の宮床にもきています。

反対に、西漢氏は河内国(現:大阪)を本拠地としていたので、
河内氏(日本の氏族)は西漢氏の一族であり、武蔵河内氏など信濃、甲斐など含め
関東地方を中心に支配していた。
その武蔵河内氏は、武蔵郡児玉郡。
金鑚神社がある児玉。

東VS西という関係があるのですが、これがまた複雑です。
西側にいた人が、東側についたりいろいろで、ごっちゃ。
もうなんだっていいっす。
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もうひとつ、丸子氏のルーツである武蔵江戸氏の本姓は、平氏。
畠山重保の孫、家重が丸子と称したのが始まりとされる。

東京の多摩川や玉川上水は、山梨・埼玉県堺の「笠取山」を水源とする。
元は多摩川は「丹波川」とよんだのです。
多摩の「タマ」は、元は、丹波(たんば)だった。
それが転じてタマになったのです。
その多摩川流域に羽村という地名があり、縄文中期の遺跡がある。

なぜ、多摩川を丹波川とよんだのかは、山城国の人たちが地形が似ているから、
そうしたのだろうと思います。
桓武天皇が「平安京を遷してから」としたら、それがきっかけで武蔵に移動してきた貴族がいたわけで。
国府は、大和に近い現相楽(そうらく)郡山城町にあったとされる。
平安京遷都の後、葛野郡(右京区),長岡旧京の南(長岡京市),さらに河陽(かや)
(乙訓郡大山崎町)へと三転しているのだそうです。

河陽は、萱のカヤですかね?
それで病気になったというのも、葛野川に関係しているような。
5世紀後半には葛野大堰と称される取水堰が作られたと。

また、「円子氏」も同族で、秋田県鹿角市花輪町の在名により花輪氏(はなわし)と称していたそうだ。
円子氏は関東武士団の成田氏の一族であり、出羽へ向かった。
よほど関東には産鉄族が集まるにふさわしい土地だったわけで、
出雲族や物部氏たちがいた場所にもなっている。
武蔵は、西漢氏の物部氏系や葛城氏などの豪族によって成り立っていたと思うのです。
その人たちが、東北へ逃れてエミシになったといった話しに流れているわけですね。




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葛西氏が石巻など宮城県北部の太平洋側を占拠していたのは、
武蔵の丸子氏がいたからでしょう。
坂東一門でもあったから。
板碑を残した最強?武蔵の武士集団。

エミシ征伐が活発になった時代が、桓武天皇の時代ですが、
平を名のったのは、平高望で桓武天皇の出なので、桓武平家ともいう。
桓武天皇は異常に占いなど祈祷に熱心で、怨霊を恐れていたと言われます。
エミシ征伐を活発にしたのは、桓武天皇が怨霊を恐れていたからですが、
その方法を祈祷でもって桓武平家の系譜となる秩父平家や武蔵平家に、
鎮魂をお願いしていたのかもしれない。

何を恐れていたのかは、こんな話しがあります。
桓武天皇の時代、石上神宮の神宝が桓武天皇に祟ったことがあると。
「日本後記」によれば、平安京遷都後の桓武天皇は、都の守りのために
石上神宮の総ての神宝(剣)を葛野郡(山城国)に移動した。
すると桓武天皇は病に倒れ、石上大神(フツヌシ大神)の祟りと判明したとある。


・・・フツヌシと相性が悪かったとしか読めない。
ニニギではない別の天孫降臨。
石上神宮は、高倉下という剣がありますが、
高倉下という人がいて、『古事記』、『日本書紀』によれば、
神武天皇とその軍は東征中、熊野で悪神の毒気により倒れた。
しかし、高倉下が剣をもたらすと覚醒したという神話。

この剣が、「天羽々斬(あめのはばきり)」です。
スサノオがヤマタノオロチで退治した剣。
その剣は、十束剣や十拳剣(とくさのつるぎ)と呼んでいます。

妄想するに、牧山に金と銀の剣を奉納したのは、天羽々斬ではないかと思う。
神様を生む時に「斬る」のですけど、
黄金トライアングルの、坂上田村麻呂のハイヌヴェレも斬る意味がある。
悪路王(魔鬼女)を追い詰めて三か所にわけて斬るという行為は、
古事記では、スサノオが持っていた十拳剣を物実として、
アマテラスが口に含みかみ砕き、息から3柱の女神(宗像三女神)を産んでいると。

三か所に斬ってうめた。という話しが、十拳剣によって斬られて産まれた
宗像三女神をもたらしたと読める。
安曇氏やいろんな海民から、宗像系の海民が占拠したことを物語ると。

その剣を牧山に奉納する意図は、ヤマタノオロチで龍を退治したから、
竜巻山だったのを、竜を取って巻山→牧山にしたのかもしれない。
魔鬼女は龍を司る。

高倉下の剣の、「熊野の悪神により倒れた」という悪神が名草戸部みたいだ。
神武天皇の熊野の道をふさぎ、反抗して殺されたと伝わるナグサトベ。
で、ナグサトベもハイヌベレになっている。
のの岳にいた魔鬼女もナグサトベのようだ。
卑弥呼の力を利用して?悪路王を退治したような。
しかし、その毒気とは水銀鉱毒の説もある。
古来のタタラは危険ではあった。

「羽」を2つつけて、「ハハ」とよみ、牧山が龍であったことから、「カカ」となる。
カカセオ(香香背尾)にも似てますが、星神は、古代産鉄族でその人たちを鎮魂する意味で、
牧山にいた悪神を高倉下の神宝により丹生を鎮魂したとよめる。
またそれは蛇でもあるので、高倉下の剣により古来の巫女の力を封印したと。

牧山に葛西清重が銀竜(たぶん月読の陰)や神剣など、葛西清経と葛西清宗からは太刀を寄進されている。
という話しからも、鎮魂の意味があったと思います。
金竜も奉納していますが、金は日の陽でしょう。
ですから、零羊崎神社のある牧山は、縄文由来の女性酋長がいたのですが、
卑弥呼のような祈祷により、魔鬼女を鎮魂してきたのでしょう。

アテルイが悪路王と重ねられるのは、そのような先住民が迫害されきた歴史を、
払拭するために戦ってきたと思います。
その背後にはいろんな海民や、物部氏の祈祷、十種神宝などがあったわけです。

古来の麻から後にニニギの天孫降臨として絹や機織り、養蚕の技術をもたらした。
それは古来の産鉄族の終焉を伝えているものです。
そのやり方が残酷だったのは、アテルイとモレやエミシたちの処刑をみてもわかりますが、
桓武天皇はその怨霊を恐れて、秩父平家や武蔵平家にその鎮魂をさせたのでしょう。
それだけ、東北地方は天変地異が多かったのだと思います。


チリ地震の津波の教訓を伝えている碑。



狼で以て狼で征す。
土蜘蛛で以て土蜘蛛で征す。
蝦夷で以て蝦夷で征す。
自分たち(朝廷)は手を汚さないで、片付けようとしている意味です。
だから、三峰神社が鬼門に置かれる由縁なのです。


クジラ

でも、今、三峰神社は関東地方では一番のパワースポットといわれる。
白いお守りが欲しいと長蛇の列。
私は東北から、しろ~い目でみてますけどね。
東北地方の三峰神社は、精気がないよ~。

金とは何か。
こんな話をのせておきます。
「日本書紀纂疏」より。
「然らば則ち石の星たるは何ぞや。
曰く、春秋に曰く、星隕ちて石と為ると「史記」に曰く、
星は金の精気なり、その本を人と曰うと、孟康曰く、
星は石なりと。金石相生ず。

人と星と相応ず、春秋説題辞に曰く、星の言たる精なり。陽の栄えなり。
陽を日と為す。日分かれて星となる。
故に其の字を日生を星と為すなりと。
諸説を案ずるに星の石たること明らけし。
また十拳剣を以てカグツチを斬るは、是れ金の精気なり。」


ちなみに、仙台の愛宕神社(伊達さんゆかりの)は、
太白山と同じ緯度にあります。
太白山は金星の山です。

まだまだ書きたいことはあるのですが、なんとなくわかったので終了~。
とりあえず、牧山の妄想がいっぱいできて感無量です!
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日和山と秩父氏一門の葛西氏(2)

2018-04-15 | 秩父の祭りと信仰
葛西氏が海側を占拠していたのは、水軍を使った経営をし、
全国から多くの物資が運ばれていた場所を確保していたからです。

栄存法印の伝説から、「笹町但馬(たじま)」とありますが、
現在の兵庫県にあたります。山陰地方。
但馬国の人物が牧山の領主で、栄存法印の力を認めていたのですが、
その息子が栄存法印をねたみ、追い出した話しになっています。

栄存法印が大事にしていた「かえで」ですが、
天狗が持っている羽団扇のような神宝だったと思います。
但馬国には、「アメノヒボコ」という神がいました。
渡来してきた神なのですが、新羅王子の天日槍(アメノヒボコ)が渡来したと記されている。
その際に7つの神宝があり、但馬国は神宝として納めたといわれる。
これらの神宝を、天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に
天日槍の居住を許したとされる。

栄存法印のもっていた神宝は、牧山に置かれる神宝ではないと判断した但馬の息子が、
それを天皇に奉還するよう命じたのかもしれません。

その「アメノヒボコ」が、神功皇后の母で、天日矛(あめのひぼこ)裔にあたる。
葛城高ぬか媛(かずらきのたかぬかひめ)といい、
応神天皇の母であり、聖母(しょうも)とも呼ばれている。

アメノヒボコの子孫だから、新羅人となる。
興味深いのは、神功皇后は「息長」の名前になっている。
息長氏の豪族の出とされ、「息が長い」というのは、潜水術のことをさしていると。
それが忍術なんだそうです。
古代の漁師の方法ですね。
海女さんに伝わっている潜水なのです。
また、事故も多かったので、セーマン・ドーマン「☆」の呪術があり、
その由来は、大陸からもたらされた陰陽師なのです。
それはまた鬼道に通じる。

他に「手長」の意味は、手が長い、盗癖のある人、島に手の長い人が住んでいた
宮中で酒宴など膳をを運び取り次ぐ人などありますが、
手長には、手長蝦、猿、島、蛸といった生き物の言葉としての呼び名があるため、
海民のことを伝えているのです。

「長」という漢字を用いる名前では、天手長男や手長・足長の巨人説がある。
おそらく、土蜘蛛、葛、国栖のクズに由来するでしょう。
茨城県にいたカカセオの星神に関係すると思います。

ななさんのコメントから、
古代は犬を連れているのが国栖のステータスシンボルだったそうです。
手力男の娘とされる丹生都姫の息子、大名草彦も犬を連れた姿で描かれていますが、
国栖の長の持ち物で身分を表すために描かれていると考えられると。
仏像の持ち物の同じ意味で、

私が夢でみた天河弁才天と、老犬神社とは、
犬飼氏だろうと考えいたのですが、犬飼氏の租が手力男となっている。
そのおじいさんが、武蔵御嶽のご祭神で犬信仰。
武蔵一宮の小野神社は、瀬織津姫を祀っていますが、
元の祭神は、櫛真智命(くしなちのみこと)だったそうです。
天香山坐櫛眞命神社と同じ神とされる。





また、その神は「ワタシ」の神とされていたそうです。
秩父の諏訪神の八坂刀売命も手力男の子孫だそう。

ワタシは、和多志神といわれる大山積見神。

虎捕山(福島)の大山積見神の墨虎は、墨=黒=闇=星となる。
これも大山積見神と関係する一族と言えるかもしれない。

栄存法印もその一族かもしれないわけです。
天狗というキーワードは、福島県双葉町の標葉(しねは・しめは)にもつながる。
地名由来は「染羽」が元で、浪江町に「くさ野神社」が氏神としてあり、
貞観地震から何度も津波の被害を受けている神様。
この神社のけん族が烏天狗で「阿波さま」=「あんばさま」と呼んでいたそうです。
くさ野神社は、茨城県の大杉神と関係しており、航海目印に杉を利用していたそうです。

大杉神社は、常陸坊海存!です。
大杉の化身は常陸坊海存。
天狗なのです。
そして、やっぱり「三輪神」なのです。
三輪→深山のミワ。
ですから、あんばさま=大神神社。


※大杉神社
http://oosugi-jinja.or.jp/?page_id=10

そして夢を唯一叶えてくれる神だと。
やっぱり、大師堂へよった時に、願いを叶えてくれそうだと思ったんだ~。

福島県の荒川沿いにあった大山積神が「阿奈波神」だった。
阿奈波→アナバ→阿波さま、となる。
なるほど~。

またこの標葉を志波の「しは」と訓読みしたといわれますが、
染羽になっていたのは、染羽天石勝神からでしょう。
春日神が関係していることと、大山積見神の発祥が愛媛県とされますが、
今治市に、野間神社があります。
祀られているのが、「飽速玉男命」といい、この方は双葉町の国造であったとされるのです。
野間神社は鹿児島にもあります。
また、「染羽」は、染羽天石勝神社の創建由来と関係し、
伝承が「天手力男」なのです。
天手力男が祀られている神社は、壱岐島の天手長男神社。(あまのたながおじんじゃ)
壱岐は、息と同じ。
壱岐の海民は、宗像大社なので、宗像系の海民。

二つの大きな海族は、
志賀の安曇氏、住吉大社の海民と、宗像の海民。

染羽天石勝神社に伝わる伝承では、天手力男が大きな石を取り除いて
住めるようにしたとあります。
その恩を忘れないために、村の名前を「尊場」→「そめば」となり、
染羽になったと伝わります。
ソメバ→サバ=サメやワニ(和邇)となる?
「大きな石をとりのぞく」意味はよくわかりませんが、
灌漑・治水工事のことをさしていると思われます。

ということを考えれば、和邇氏は百済からきた渡来人で、
いろんな技術をもたらした人物として村人から尊敬されていたのではないでしょうか。

その百済人は、奈良の東大寺大仏建立や仏教をすすめます。
そのために金が必要なのですが、「金をもっている国」を海外に示す目的もあったと思います。
ある説では、東北の人たちアイヌや先住民、修験者は、金に対する概念が、
外国人と違っていたといわれます。
大量に金がある東北地方だったのですが、金が高値で売れる物としてみていないので、
砂金採りの伝説があるように、裏山に砂金がたくさんあるのに放置している。
そこで貴族出身の女性がそんな山にすむ炭焼き職人に近づき結婚し、その金を海外に売り、
大金持ちになるという話しが、東北各地にあるわけです。

その金をカネではなく「価値のある金」として広めたのが百済人で、
宮城県の涌谷町で見つかった金を宗教目的で使用することにしたわけです。
しかし、金は不老不死や薬といった呪術的な物としてみていたのが新羅人だったのでしょう。
涌谷町も金華山も黄金山神社として祀られていますが、のの岳、富山、牧山は黄金トライアングルなのです。

それを見張っているのが、金華山の弁才天。
なので、弁才天の才が、財の弁財天に変わってしまった。

元々、新羅と百済は違う民族だったのですが、
金の流通や海民の交易、多種多様な人種が共生していくと、価値観も変わります。
金は錬金術のようなモノとして守る側(受信)と、交易の目的として使う者(発信)
の価値観の違いがあったと考える方が自然です。
奪いあうものではなく。

新羅人が百済人と共生しながら、東北地方に黄金文化を拡大していったと考えられるので、
古代は、比較的平穏な共生があったと思います。
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さて、その息長氏ですが、秩父の長瀞も鉱石がたくさんあった所です。
有名な板碑は、東北地方でも長瀞産を使っているのが多いものです。
日本海の地域(県名忘れた)でも長瀞産の板碑が見つかっています。
東北地方で最も板碑が多いのが石巻で、次に名取なのです。
その長瀞には、「天手長男命」の石碑があります。




石室もあり。


※壱岐島の鉢形山

北条氏が住んでいた城は、鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)といい、
壱岐島にも鉢形という地名があります。
埼玉の寄居町の山には、狼がたくさん生息していた事がわかっており、
そこに鎮座する神は、狼さまの釜伏の釜山神社です。(埼玉県大里郡寄居町風布)
子供の頃、風布(ふっぷ)のみかん狩りによくでかけてました。

お炊き上げ神事をやっていますが、
ここは、古来から五色の祭りをしていたとも伝わります。


詳細は、こちら。
http://kagura.wa-syo-ku.com/%E5%AF%84%E5%B1%85%E7%94%BA%E3%81%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE/%E9%87%9C%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE


※本丸跡から見た荒川と寄居町

ということで、何かと深い武蔵。
埼玉に巨大古墳がありますが、丸子氏と関係する話しを。

つづく
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日和山と秩父氏一門の葛西氏(1)

2018-04-14 | 秩父の祭りと信仰
もう2週間もたってますが、石巻探訪の続き。
日和山は今は桜が満開のようです。
とうとう、石巻の日和山へ来てしまった・・・という感想。
ちょっと避けてはいました。
葛西氏がいた所だし。何かと秩父だし。





一関博物館に、葛西氏が掲げていた大きな(畳一畳くらい)
「卍」の旗が展示されています。
どんな想いで、その旗を掲げて戦っていたのか・・・。

秩父市の議員になって頑張っている若い方がおりまして、
何度か秩父でお会いしていたのですが、
その方は、議員になる前は、石巻で支援団体を立ち上げ、
震災ボランティアをずっとやっていました。
それから、故郷に恩返しをしたい気持になり今は秩父市議会議員に。


(モニュメント)

また、ある時ニュースをみていた時ですが、
秩父出身の落語家、林家たい平さんが石巻の日和山に登って被災地をみた時に、
「被災地のためにマラソンをする」と決意したことを話していました。
それが復興マラソンで走ることになったわけですが。



秩父出身の有名人はたくさんいますが、
俳優では、藤原竜也さん、芸人ではバナナマンの設楽さんもそうで、
ゴルゴ松本さんも秩父出身。
「命」のネタで、流行ったよね。
「命」のあれは、駅のホームから秩父連山をみた時に、生み出したというのよ。
それが武甲山だったって。
今は、辛いもの食べる芸人で通じているみたいだけど、
漢字の歴史にとても詳しく、今では少年院にひっぱりだこで、熱い魂の授業もしている。
ゴルゴ松本さんの漢字の由来の話は、感動します。

う~ん、なにかと熱い秩父人。
この濃い芸人を生みだす秩父人の遺伝子はどこからきているのでしょうね…。ワラ
秩父人は、石巻で何かを感じとってしまうのか。
と、思った時に、葛西氏がどうしてもちらつきます。

ある人がどこかで何かを感じ、人生観を変えるほどの出来事だったら、
その地にいた過去の先祖たちが、自分たちと「関わりたい」と思っているはずです。
歴史は続いていますから、「良い」関わり方をしたいと思っているはずです。
それは、みなどこかで繋がる先祖なのですが、「破壊」してきたからです。
その修復を、私たち後裔がすることになるのだ。

私も水の大切さに気づいた時に、石巻の巻き石由来の神社へ来ていました。
でも、秩父人は、山に囲まれているのに、武甲山をみればわかりますが、
全く山をみていない。
秩父の祖は海民だから、山を見れないのだろう。
秩父は山に囲まれているけど、海なのです。
先祖が海の人たちだったからです。

葛西氏は、海をみようとしたけど、山はみていなかった。
それが石巻は海をみて山をみない。という事だった。( ̄▽ ̄;)がーん。

さて、秩父平家の一門といわれる葛西氏ですが、
どんな人だったのか、その実態は、よくわかっていません。
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石巻城跡
「1189年奥州合戦の恩賞として、
源頼朝の家人葛西清重は、牡鹿郡ほか数か所の所領を給付されました。
以後、1590年に豊臣秀吉によって滅されるまで約400年の間、
牡鹿郡は葛西氏の重要な所領であり、なかでも石巻の日和山は、
その居城があったところという伝承が残っています。

しかし、葛西氏の奥州における所領支配の実態は明らかではなく、
その居城についてもはっきりしたことがわかっていませんでしたが、
1983年の発掘調査により、日和山に大規模な中世城館があったことが確認されました。
この城跡が、葛西氏にかかわる有力な城館であることは間違いなく、
石巻市のシンボルな城跡として長く保存されることになりました。」



葛西清重とその妻の肖像。



この日和山周辺に山名がついていました。
「鰐山(わにやま)は、石巻湾の北側、旧北上川右岸(西岸)、
JR石巻駅の南側にある孤立性の丘陵。
「鰐陵」「日和山丘陵」「日和丘陵」とも呼ばれる。」


もう、「わにやま」ってところで、和邇氏でそ?王仁でそ?
仏教の鰐口よりかは、和邇氏が濃い。
大阪の牧方のアテルイとモレの碑があったところで繋がってた。
王仁の墓もあるところで、フツフツと思う。




震災前

日和山に鹿島御児神社が祀られています。
武甕槌命、鹿島天足別命(かしまあまたりわけのみこと:武甕槌命の御子神)の親子二神を祀る。
ということで、タケミカヅチではなく、その子供を祀る。





「足」のタリやタラは、真野の牧山で妄想してましたが、
タラやタリとつけるのは、王仁の祖であることの証拠ではないか、と。
名前にその一族を記すことでは、秩父平家もそうです。
日和山にいた葛西清重は、秩父氏・豊島氏の庶流で、武蔵一帯を治めていました。
平姓秩父氏は、畠山重忠や河越重頼のように、秩父氏一門には「重」をつける決まりがある。
河越氏の「越」は越王の系譜から繋がる名前にしていると思います。
よって、越は、越智氏にもつながる。

で、鹿島「天足別」神社は、宮城県では亘理町(鹿島天和気神社)と大和町大亀にあります。
滋賀県の琵琶湖に春日古墳があり、その墓が王仁一族の墓であったことから、
春日氏は、孝昭天皇の皇子「天足彦国押人命」を祖としている。
この「天足彦国押人命」というのが、和邇氏の一族とされる。

また、「たらし」の「足」を、古事記では、「天押帯日子命」と「帯(たらし)」と書く。
古事記では、神功皇后のことを「足」ではなく、「息長帯比売」と書く。
つまり、「帯」という漢字を用いるのが古事記式で、
この帯とは、神功皇后の「腹帯」に関係すると思った。

神功皇后が妊娠したまま戦った話があり、お腹に石を当ててさらしを巻き、
冷やすことで出産を遅らせた。
その意味があって丸い石を置いているのは、秋田唐松神社です。
秋田物部氏と神功皇后の腹帯が関係しているからです。
しかし、秋田物部文書では、神功皇后と共に三韓征伐をしたのは、「うましまじ」という人で、
武内宿禰とは記されてない。

この「出産を遅らせる」意味は、蘇民将来のことにあると考えます。
悪い星巡りに出産しないよう、遅らせる占い。
「その場を何事もなく過ごす」のが、「過ぎ越」のユダヤの祭りと同じ意味がある。
腹帯→妊娠→聖杯。

やはり、真野の牧山の鬼道というのは、神功皇后に関係していると思うのです。
日和山に祀られている神が、その租であると言われれば、
鬼が王仁氏であった説も納得できます。
なので、天足彦国押人命を祖とするのは、春日氏の他に小野氏であり、
東京の多摩川のそばに小野神社(武蔵一宮)がありました。
これもまた繋がっているのでした。(後ほど)

ということで、日和山に祀られている祖は、真野の零羊崎神社にも深く繋がることで、
はるか昔、石巻に上陸した一族は神功皇后に関係し、天足彦国押人命を祖とするのでは?





また、なぜ亘理町に「鳥の海」があり、山形県の鳥海山と同じ古代の治水工事の伝承があるのか。
それは、和邇氏は「丸子氏」でもある。
丸子氏などの海民が、治水工事の技術をもっていたからです。
なので、空海が登場するのですね。
空海は、中国で治水工事や灌漑設備の技術を学んでいました。

以前、出羽三山のマルコで妄想してました。
即身仏は空海が編み出した話があるが、丸子氏ではないか、と。

丸子という集落が鳥海山麓にあるが、鳥肉を食べないタブーがある。
それが鶏なんです。
ニワタリ権現ですな。。。

和邇氏と丸子氏の共通点は、古代の太陽信仰にあり、
葛西氏が石巻を占拠した理由は、先祖のルーツが丸子氏にあったからでしょう。
埼玉の大豪族なんだなぁ。

つづく。
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秩父の虎と二十三夜寺

2017-12-10 | 秩父の祭りと信仰
恒持神社付近をマップで調べていると、
富士仙元神社とその先山中にある二十三夜寺というのを見つけた。
十八夜や二十三夜とか、月待講に関係するのですが、
皆野町三沢に月待講があることは知りませんでした。


三沢:二十三夜寺から秩父方面

ところで、秩父神社で寅の秘法を信仰した徳川家康がいた。
という話は、鬼門を開いた意味になるのかね?
「寅の秘法」が何のことやらわかりませんが。

信貴山というのが、奈良県生駒山にあります。
生駒といえば、あの車輪の家紋ですね。天使ケルビムです。



※生駒氏の家紋

生駒氏の車輪の象徴は、波を切ってすすむ波切車という。(なぜか半分)
また、生駒氏の「駒」の意味に、回転する光のほか(隕石説も)、
駒は、高麗、狛、独楽・・・といろいろある。
狛犬は高麗の犬。独楽は、回るものだが古代にあったものか不明。

生駒は、元は二ギハヤヒ降臨の鳥見白庭山という所を占拠していた氏族。
これは、秋田の鳥海山と同じ二ギハヤヒ降臨地やエミシの地周辺に駒形を祀る
のと同じ意味があると思った。

駒形神社は東北地方に多く、エミシ征伐に必ず祀られるといわれ、
それが私が勘違いしていた千葉県市川市大野に駒形大神社があったのです。
平将門を祀る神社でした。大町のとなり町。
父の平高望王が上総に任じられ坂東に下向けした。

駒形を祀るのを嫌がるエミシとは、大国主を祀る(ミワ信仰)ことを排除されたから?
それを物部氏が嫌がったということもあり得ます。
そこに何かありそうで、物部氏が嫌がった理由に、寅が関係していた・・・。

信貴山の縁起に、
「毘沙門天に援(助)けられたのが寅年、寅日、寅刻だったので、
これに因んで「虎」が神使としての扱いを受けている。
しかし、毘沙門天の本来の神使は百足(ムカデ)とされる。」


ここでムカデが登場。
ムカデといえば、秩父和銅黒谷に聖神社がありますが、
百足を奉納しています。
聖神社は二十三夜寺のすぐ西側にある。


信貴山の絵馬
毘沙門天の神使である百足と虎の絵が入った絵馬。
毘沙門天=百足=和銅黒谷=聖神社(大国主)=二十三夜の月=聖徳太子。

信貴山朝護孫子寺は、奈良県生駒山にあります。
全国の毘沙門天を祀る社の総本山とされる。
「縁起」の概要は、
「聖徳太子が、朝敵物部守屋を討伐しようとこの山に来て、
戦勝の祈願をすると、天空遙かに毘沙門天が出現して、必勝の秘法を授けてくれた。
その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻であった。

聖徳太子は、そのご加護で敵を滅ぼすことが出来た。用命天皇2年(587)。
世が治まって後、聖徳太子自ら、毘沙門天の尊像を刻み、
伽藍を創建して、信ずべき山尊ぶべき山「信貴山」と名づけた。
延喜2年(902)、醍醐天皇から病気快癒に謝して、「朝護孫子寺」の勅号が贈られた。
以来、信貴山の毘沙門天は虎に縁のある神として信仰されている。


※毘沙門天の百足より
http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/fukuda/tora/tora-1-1-1.html
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偶然なのかわかりませんが、皆野町三沢の二十三夜寺に12月3日に参拝しました。
後で調べてみると、興味深い伝承のお寺でした。
二十三夜といえば、月待講です。
しかも、なぜかここに聖徳太子が開山しているお寺と伝わる。
このお寺の由来がなかなかです。





「その昔、聖徳太子がこの地を巡訪された際、諏訪明神から夢の中でお告げを受けた。
ここは仏法隆盛の地であると奇異な思いを感じた太子は、自ら薬師如来の像を彫刻して
 草庵に安置、医王善逝の寺とした。これが今の奥の院である。
聖武天皇の時代には行基菩薩が巡訪され、勢至菩薩を安置し、師慶山観音院と名付けられた。」




まだ伝承はある。

「弘仁元年(810年)に弘法大師が訪れ、この地が往古の霊場との念から坊舎仏閣を建立、
大師が自ら馬鳴菩薩を彫刻し、これを安置した。
また、境内地に井戸を掘った際に不思議な球体の石を得た。これを「月輪石」と名付け、
火防の象徴として祈念した。」





勢至菩薩とは、先月、名取の高舘山に登った時のキリークの石碑が勢至菩薩で、
あまりお目にかからないな~と思っていた菩薩様でした。



「聖徳太子開山の祈願寺」
詳細は、こちらのサイトへ。
http://nijusanyaji.com/





このお寺には、不思議な月輪石というのがあります。
通常、開放していないようです。
古来より雨乞いの儀式(雨乞い祈願)の際に逗子の扉を開いて
祈願する霊験の石と伝えられているそうです。

こんな話がサイトにありますので紹介します。
平成25年秩父に例のない大雪をもたらした日。
平成25年1月27日は、初護摩の縁日だったのですが、その矢先の大雪。
天気予報は午後10時~翌朝9時まで雪だったため、
「月輪石」の御宝前で「降雪伏せ」の祈願を厳修したところ、
雪はおろか小雨さえも降らない天候に落ち着くという、不思議な体験をしたそうです。

他にも、平成25年10月27日、大型の台風が関東地方に接近しており、
台風の影響で二十三夜の月見ができないと思っていた。
しかし、午後になると雨はすっかりあがり、晴天になったという。
27日午後11時半からの少しの間だけ、晴れて月観ができたので喚声があがったそうです。
翌28日午後には曇りはじめ、29日は雨。天気予報では台風が去った後は晴れると
いう予報でしたが、それとは逆の天気になったそうだ。
その日は、月観の午後に、参拝者から月輪石を見せてほしいとの要望があり、
ほんの数分だけ扉を開けたそうです。


お産の石仏と如意輪観音

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月輪石は、扉を開けると晴れになり天候が変わることがありそうです。
雨乞いにふさわしい石なんですね。
私の父が、子供の頃、三沢まで歩いて参詣したそうです。
父は祖母と一緒に二十三夜寺の下に小さいお社があるのですが、
金比羅さんで、そこまで来たそうです。





・・・だから私もここまで参拝してしまうのかなぁ。
でもこの場所までは車で来ましたけど…。
さすがに横瀬から歩きはきついね~。



でも、なぜ毘沙門天と寅なんでしょう?
方角に意味もありそうなのですが、
物部氏と聖徳太子の話は、八尾市の歴史に物部氏と蘇我氏の仏教をめぐる
争いで古戦場になった場所です。
聖徳太子は、戦勝祈願のため四天王を祀り、その加護によって
物部守屋を打ち破ることができたとして、その地に大聖勝軍寺八尾市太子堂3丁目)
を建立したといわれています。

その話の中に、神妙椋(しんみょうむく)というのがあり、
物部守屋に攻め込まれて聖徳太子が危険な状態にあったとき、
椋の木に寄り添うとその幹が割れて開き、聖徳太子はその割れた幹に身を隠して
難を逃れたという伝承がある。

椋神社は秩父固有の神様です。
猿田彦神、天児屋根、経津主神(ふつぬし)、応神天皇を祀る。
景行天皇御字の創建にして、もと猿田彦大神一柱を祀ったと伝わる。

聖徳太子が助かった椋の神が、高麗ならば納得できます。
椋は「モグ」の高麗語で村という意味。
もぐ→むくになった説があります。
高麗神社は猿田彦命と高麗王若光を祀っています。
つまり、椋は高麗の人たちと考えると聖徳太子は高麗人に助けられたと。
信貴山でも聖徳太子が秘法により助かったのは、
生駒の駒→高麗であると考えられます。

祖母の実家は吉田町で近くに椋神社があったので、小さい頃、よく獅子舞をみにいってました。
その神社は、秩父事件でみんなが結集した場所です・・・
かなり前ですが「草の乱」という秩父事件の映画があり、なんと両親と仙台でその映画をみたのよ。
夜、椋神社に集まって反旗を翻しているのをみて、あそこかっ!!ってなるさね~。
そんなところで遊んでいた私・・・。

県外の方が言っておりました。
秩父人が本気になったらすごいでしょうね。って。
・・・でしょうね。笑
でも、ばあちゃん家は、秩父事件には一切関与してませんでした。
曽祖父は、屋根裏に隠れていたそうです。(捕まると困るから)

といった歴史があるならば、椋というのは深い意味があり、
何か過去のいろんなわだかまりを清算するために秩父事件になったと感じます。
民族の誇りをもちつつも、先祖への恩返しができない怒りが爆発。
そういう遺伝はもっているでしょう。

そんな秩父では、高麗人は赤平川~蒔田地区に住んでいたそうです。
高麗と対立していた新羅は、先に和銅黒谷を占拠していたのですが、
後に高麗人によって政権が変わったのでしょう。
和銅黒谷は新羅系の金上元→金山洞窟にシャングリ様の小社があり、養蚕の神である。

なので、新羅人は養蚕を伝えた秦氏系であり道教も伝えた。
でも、秦氏・物部氏VS蘇我氏とは単純に言えません。
ここは難しいところなのですが、縄文遺跡も多く見つかっている秩父なので、
先住民族が崇拝していた土地に開拓してきた渡来人が入植してきた。
新羅や高句麗・百済などの帰化人が多い。
もともと日本人だった人が多いのですが、
戻ってきてから互いの権力争いに巻き込まれたでしょう。
元あった諏訪神の信仰を、上書きされて新羅由来の養蚕・妙見信仰、
高麗由来の椋の神という宗教に変わった。

九州では豪族(先住民)と手を組んだのが新羅。
大和朝廷(渡来人)と手を組んだのが高句麗。
その対立が、そのまま東北へ流れているようなんですね。

しかし、新羅のほうが縄文の精神を継ぐ意識があったのか、
北斗七星や北極星などの星信仰はそのまま継承したのだと思います。
それが平家集団として形成されたわけです。
天の岩戸開きは、秦氏はユダヤ人が定説なので、
ユダヤと日本の融合を考えていた場所のひとつに、秩父があり、
思兼命を崇拝したのだと思います。
それが艮の金神、国常立命なんだと思います。
この存在の働きを知っていたというか、縄文回帰という言葉がありますけど。



なので、ひっそりと武甲山麓に、国常立命をおいたのは、
御嶽講と富士講の人たちだったわけです。
あぁ、そうだった。
元々この妄想は、富士塚の「ひふみ」国常立命でした。
武甲山麓に「神様の墓場」と勝手に命名したくなる古御嶽城跡にたくさん石碑があります。
ずっと前にみよさんと探検してきましたけど。
国常立命の石碑と氷川大神、春日大神が中心にある。


(中央に三創世神の国常立命、右:三大神社の春日大社、左:氷川太神)

コノハナサクヤヒメの産泰神社や、「岩戸神社」と刻まれた石碑も。




岩戸神社

だから、武甲山麓にも誰かが国常立命を降ろしたわけでしょう?
それで武甲山が破壊されたというのは、シバ神みたいですが、
その代わり、何かが潤っているわけです。
それは東京でしょうね。。。
トーゼン、首都東京が潤っているから、武甲山が破壊される。
しかーし、日月神示のように、もうそれが厳しい状態になっている暗示ですね。

その潤いが単なるお金という経済であり、それが正当に潤っているならばよいが、
間違った方向へ行っていたら大惨事になる。
それこそ後の祭りじゃ。
そうならないように、秩父夜祭が武甲神にご機嫌をうかがっている。
機嫌を損ねないように?





長瀞にも、石上神社、光玉稲荷神社があります。
国常立命を中心に、氷川太神、春日神社の他の神々が連なるのは、
魂を天へ上昇させることができるように氷川と春日の神々を祀ったと考える。
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最後に、面白い話を。
1万5000年前にモンゴルとシベリア境界付近に衝突した隕石とみられる仏像があった。
なんで毘沙門天なの?という疑問があって調べたら、デタ。
その隕石で作られた毘沙門像があったというのだから。
ホントカ?

チベット仏教が盛んになる11世紀より前に、ナチス親衛隊が見つけた仏像。
ヒトラーはアーリア人が最も優秀であるということを言い張っていた。
「仏像は高さ24センチ、重さ10.6キロの毘沙門天の座像で、
開いた右手を下に向けている。
化学分析の結果、鉄とニッケルを多く含むアタキサイトという極めて
珍しい隕石を彫ったものであることが分かった。」
だそうです。

像はこちらで。
http://www.afpbb.com/articles/-/2904113
しかも卍のマークだ・・・。


シャンバラ王のヤシャスみたいで。
時論のタントラ。
やっぱり地球の時間が変わってきている。

で、このポーズがどこかでみたことあるような。
思いだせないけど、踊るシバ神にも似てますね。
足が踊っているみたいな。
右手を下にしているのは、教えを受けるポーズ。
日本の大黒天は、シバ神と大国主が融合している。


いい笑顔だね~!(Wikipedia)
笑みしだね~。

シバ神は、破壊と再生の神。
シバ神は虎柄のパンツをはいているね~。
シバのリンガは蛇で、クンダリニー。
光の結合の意味があるそうです。


(Wikipedia)

過去に無理やり抑えてきたことが爆発してきてるのかも。
みんなストレスや怒りで蔓延してるし。
でも、ナチスが見つけた毘沙門天が、あんまりイメージないですけど。
毘沙門天というよりは、聖者みたいですねえ、宇宙人の。

岩手の成島毘沙門堂を想う。
まだ行ったことないけど。
なんかね~、フツウツと思うね。
成島毘沙門天は、坂上田村マロでしたか?
聖徳太子が毘沙門天と一緒に物部守屋を倒したというのなら、
エミシの地に毘沙門天を祀ったマロは、物部守屋のことを考えて?
悪路王の主は、物部氏=もののふだったとも言えますね。。。

言霊入門「ひつく神示」によると、
ヤマトタケルの唄にもある
「八雲立つ、出雲八垣 妻篭みに 八重垣つくる その八重垣を」
これを言霊で解釈すると、八を4回言っているのは、
四方八方のこの世を越えた次元の法則があり、ヤマトタケルは魂の目覚めの
唄を言っていると解釈される。
八は空間の広がりであり、妻篭みの「篭」は、かごのことだが、子宮を現す。

三柱の神は、神と天と地を表し、天と地の橋渡しをする役目は国常立神。
言霊のいのちは「ヒ」「ミ」の火と水の意味がある。
いのちのヒミを司る国常立神に、地の世界がオトヒメ(龍神)とされる。


かご・・・籠神社・・・。
三柱は、シバ神の三頭と同じです。
シバ神は日本でいう国常立神なのかもしれません。

ということで、どうなることやら。
日本から始まる=日本がますます厳しくなる。
世の中のいろんな仕組みを知りたければ、
まずは、先祖参りが欠かせません。
そうすれば、この先の道筋を照らしてくれます。
しばらく物部氏のことを忘れてましたが、
私はもののふ(武士)の鎮魂が意味あることだと思えてなりません。

秩父妙見と狼の話をしようと思ったら、
こっちの妄想が強すぎて書けませんでした。
また後で何か出てきたら秩父妙見の妄想してみます。

ということで、ひふみ探訪は終了~。
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