秩父・仙台まほろばの道

秩父と東北地方の伝説・神話を探訪。

縄文展と蝦夷柵の関係

2018-08-19 | 日記・エッセイ・コラム
鳥海山の話はまだ続くのですが、その前に縄文展の話と、
その後、舞いこんできた気になる柵の話を。
結局、古代史に繋がってしまうのですが、
ま、せっかくなので東北の古代史と縄文を繋げてもいいのかな、と。

9月2日で終わってしまうので、早く書いておきたいな、と思いました。
上野:国立博物館で特別展の「JOMON縄文」を見に行ってきました。
「わざわざ」行ってみる価値あります!



たぶん、全国の縄文遺物を一同にみられるのは、今回で最初で最後かもしれない。
この展覧会が終わったら、さ~と土偶さんたちはそれぞれの故郷に戻るか、
博物館内でそれぞれの立ち位置に戻るわけですね。



それまで、こんなにたくさんの人たちに見つめられているわけで。
埼玉にしか見つからない「みみずく土偶」もみれたし、石棒も石巻の骨の装飾品も凄かった!
宮城県北部の恵比須田遺跡(36センチもある遮光器土偶)にも会えたし。
なんか、この子に魅かれる。


山形の縄文の女神が好きで、山形で見てきたモノが、
上野の博物館でたくさんの人に囲まれている絵図もまた面白い。
なんだこの光景は!と思う。
きっと、縄文ビーナスも「恥っ」て思っているかも。
それにしても後ろ姿の曲線美がいいね。(おっさん目線)

しっかし~、縄文展はすごい人で、みんな好きなんじゃ~ん。
お盆休みにいったせいもあるけど、老若男女の縄文熱はすごかった。
こんなに人がたくさんいるとは思わなんだー。

今回、柴谷さん(青森の土偶制作者)の土偶作りの時の縄文女子と、再会して行ってきました。
新しい再会もあり、遠くからも参加してくれて、みんなが上野に集結。
結局、12人も集まり、イスラエルの十二支族もびっくり。笑。
大人の遠足みたいで楽しかった~。
そんな濃ゆい仲間たちと縄文展で楽しんできたのですが、
展覧会をみた後、記念写真をとろうとワイワイしていたら、
朝日テレビのカメラがやってきてしばらく私たちの写真撮影を映してました。
明日の朝、テレビ(情報番組)で放送すると。
とうとう電波にのっかるのか。。。と思ったけど、
みごとにカットされてた~。ワラ



それで次の日、情報番組をみていたら、
今「縄文女子」といわれ、縄文がブームなんだそうです。
縄文土偶がゆるキャラみたいに可愛いいと。(わかるなぁ)
映画「縄文にハマる人々」が公開されるなど、何かと「縄文」の言葉を
よく目にするようになりました。


公式サイト
http://www.jomon-hamaru.com/

今は、興味がない人でも、「ちょっと気になる」「行ってみたい」という人が
増えているのは確かです。
嬉しいことですね。

私は、縄文遺物に触れると母性が芽生える(高まる)と感じます。
それもそのはず。
図録の解説に「縄文土器は女性がつくっていた」と。
え、意外。
男性だと思っていた。
縄文の女神の場合、それをつくる専門の技術者がいたらしい。
ものづくり集団は、やっぱり女性だった。

研究者の多くの説では、男性は狩猟のため外出が多い。
生業活動は男性で、女性は採集する役目があったので、集落に留まることが多い。
家にいることが多い女性だから、土偶や土器製作は「ものづくり」という点で、
女性が作っていたことは十分、あり得ます。
縄文土偶の多くが妊婦さんで、渦巻のような模様も妊娠線を表していると
いわれるので、当時、出産後に亡くなる母子が多かったことがあり、
祈りが縄文土偶や土器にあらされています。

なので、女性が縄文にハマるのは自然なことでしょう。
私は、縄文土偶はそんな悲しい現実もあると思っていて、
どちらかというと、生きることの大変さや命の尊さを知るために、
作り続けていた気がします。
遺骨をいれてた土器もあるし。
そういう認識がまだ明らかでなかった人類が、意識しはじめたきっかけが、
縄文土偶の製作だったと思います。

土器や土偶は「土」なので、宇宙へ還ることは土に戻ることでもあった。
それには水が必要。
その思想がある縄文土器だから、よく意味はわからないけど、やっぱり魅かれます。
神話、伝説なども原点は、縄文精神にある女性の智慧でしょう。
昔話も女性が語り継いできました。



柴谷さんの土偶作りで、女子が集まったのもそれで、
過去にみんなで作っていた記憶があって、それを再び「縄文回帰」しよう。
というところにきているのだな、と改めて感じた縄文女子会なのでした。

ただ、私は相変わらず、ものづくりが苦手なので落ちこぼれだった…。
新しい最先端の技術にあこがれるタイプ。
周りの人たちは、ものづくりが得意な人が多いので縄文時代は優等生だったな~って。
たぶん、私は縄文時代、UFOばっかり想像していたので、空ばっかり見てた。
今もUFO妄想を続けている。笑
妄想癖が変わってない。

ということで、ハイヌベレ神話があるように、縄文ビーナスも女性がつくっていたわけで、
神話に登場する女神たちやトベたちも、ナガスネヒコや阿部氏といった
まつろわぬ民といわれてしまう人たちは、母系社会があり、忠実に縄文精神を
受け継いでいた人たちとわかった。
土の神といえば、オウゲツヒメ。
オウゲツヒメは縄文の女神だった。
これからも女性たちが継承する役目なんだな、と改めて思うのでした。


東日本で栄えた縄文文化。(近畿・九州は弥生時代から発展する)

払田柵--------------------------------------------

話し変わりまして、東京から帰って来て次の日、主人がバイクで大曲に
遊びに行ってました。
秋田県大曲も縄文遺跡が多いところなのですが、「払田柵」に行ったよ。
と写真を送ってくれた。それにビビッときた。
なにかある!と思って調べてみたのですが、どうもこの柵が気になった。



それにしても美しい所。
主人がいうには、払田柵の由来がわからないと。
文献資料がないのです。でも国の史跡。
縄文遺跡(中期~後期)の上に柵が建てられていることはわかっています。





年輪年代法による年代測定が行われ、801年に伐採された材木と判明し、
坂上田村麻呂の征伐事業で行われたことがわかった。
それは胆沢城跡や志波城と一連している。
払田柵は秋田城と関係しているという。(出土の漆紙文書に「秋田城」とあった。)
なので線をつなぐと胆沢にも繋がる。


※秋田城ー払田柵ー胆沢城跡ー広田半島(貝塚)

この線に共通するのは、「海の交易拠点」だったところです。
気仙沼は貝塚が多く出土し、小泉遺跡(気仙沼)も有名な縄文遺跡ですが、
弓矢状配石遺構が見つかっており、「弓に矢をつがえた形」といわれ、
意図的に矢の先には、広田湾に向けられていると。
その意味は魔物がやってこないようにという意味ですが不明。
(現在は埋めもどされているのでみられません)

線で結んだ気仙沼の貝塚のそばに、大森山の名前がありました。
前に大森貝塚のことを書いていて、大森とつく山名は東北地方に多く、
縄文聖地と関係していました。


写真は復元。
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/monzen.html

また、秋田城もそうです。日本海の交易拠点。
秋田市にも宇宙人みたいな土偶があります。
胆沢は内陸の交易拠点。アテルイが活躍していたところ。
外敵から阻止するための蝦夷柵なのですが、
朝廷に対して柵を設けたのは、特に坂上田村麻呂からです。
アテルイが処刑されてから、活発に柵を設けるようにしたといわれます。



その3つの交易を拠点として制圧していたのが、悪路王といわれた人物で、
八幡平にいた蝦夷が酋長(松尾)だったらしい。(アイヌ人説もあり)
八幡平は、蝦夷と朝廷のゲリラ戦があったところですが、海側(気仙沼方面)
と鹿角の内陸、秋田方面と活動していたと言われ、アテルイとも結びつけられている。

八幡平はマロの下臣が活躍し、八幡神を祀っていた。
そのため、八幡神はユダヤのヤハウェで、縄文人との関わりを持とうとしてました。
そのために八幡神社を置いた話しもある。
確かに縄文遺跡のあるところに八幡神を置いていることは結構あります。

蝦夷にとっての外敵は朝廷でした。
それは縄文との境界の意味もあるでしょう。
朝廷の及ばない範囲との線引きに柵を設けたと思う。
平安時代まで縄文集落が残り、渡来人はそのまま住んでいたのだろうと。
もしかしたら、朝廷側ではなく、蝦夷の方から柵を設けたかったのかもしれない。
それなら、蝦夷柵をつくりはじめた坂上田村麻呂の意図もみえる。

当時、渤海国との交易はさかんでした。
数々の品を多く輸入しており、悪路王といわれた人たちは交易の力はありました。
塩釜神社もそうですね。

縄文と関係すると思うのは、払田柵の東西南北四方に「掘立柱」を使っていることでした。
この柱の用途は、主に祭祀に使われる柱です。



有名な三内丸山遺跡や真脇遺跡がそうです。
主に竪穴式住居なのですが、掘立柱は穴をほって柱を建てるのですが、
大きい集落に限られるという。
諏訪大社の御柱もそうですが、やはり四方に用いるので四本ある。
それぞれに置くので、4×4で16本の柱があるそうです。


※三内丸山遺跡の柱跡

元は北海道や青森など北から暖かい気候を求めて、南下しているので、
柱の祭祀は、青森の縄文集落からもたらされたのかもしれません。
青森弁と出雲弁がよく似ているので、出雲族は青森にいたといわれますが、
興味深いのはどういうことなのか、陸続き(出雲と青森が?)だった話しもある。
何かがあって山陰地方と東北地方の陸が離れた?

胆沢城跡なども、柵をつくるのに、掘立柱の使い方をしているのは、
縄文から続く建築様式を起用しているわけです。

蝦夷柵を置く場所は、縄文祭祀をしていた所と思うのです。
縄文集落があったところは、あちらこちらにありますけど、
特別な場所だったのではないかな。それを線引きしているような。
胆沢の場合、縄文後期(4000~3000年前)から土偶が頻繁に作られてます。

坂上田村麻呂は、縄文をよく知っていたのだから、
そのような柵を置くのは、縄文人の知恵を生かしているような気もするのです。
本当に征伐するつもりで柵を置いていない説が有力です。
「とりあえず形だけつくっておく」程度のものだったそうです。

本気で作るなら、万里の長城が日本にもできていたのですから。
それほど本気の征伐ではなかったという意味で、
じゃ、何のために「わざわざ」柵を設けたのかは、謎です。
ただ、蝦夷の交易拠点と、縄文集落の跡地に置くことは共通していると。
外敵を防ぐための「縄文の祈祷」を柵に利用していたと思います。

どこまでを蝦夷征伐といい、どこまでが縄文や先住民、アイヌ人たちの
境界があったか、というのもとても曖昧。
ホピの人たちが、地球の鉱物は掘り起こしてはならないと。
地球の母が死んでしまうといったことを言っておりました。
縄文土偶もその土地にいたことに意味があるので、
学術研究とはいえ、本来の場所に戻すのが正しいと思います。

次は、鳥海山へGO、
やっぱりこのお山は素晴らしい。
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龍神さまの善宝寺(2)

2018-08-18 | 東北地方の伝説(山形県)
本堂の奥に、「龍王殿」がありました。



「1446年、善宝寺開山太年浄椿禅師が創建すると伝わります。
現在は1833年に二十九世中興大令和尚の代にて再建されました。
堂山守護両大龍王尊を祭祀すると共に、開山堂も併せております。
亀甲葺と称する八棟造形式の銅板屋根は海の波「うねり」を型どり、
又、軒組には波に鯉、鯱(しゃち)、雲と草花といった彫り物が多様に配され、
荘厳な建築美を誇っております。」





うねりのある屋根が素晴らしい。





この上に御堂があり、マップでみると「秋葉堂」でした。
秋葉信仰は、火の神様。
なんだか、女性的な雰囲気がありました。
紫色の光が入っているし。





ところで、「新庄まつり」というのがあります。
「飢饉で心身ともに疲弊した領民たちを鼓舞し、五穀豊穣を願うために、
約260年前に始まった祭り。
今では山車づくり、囃子、ひき手などと、その全てに市民が関わる
地域あげてのまつりになっているそうです。
http://shinjo-matsuri.jp/db/kigen/history


※新庄まつりの歴史(善宝寺の龍神)

そのサイトに善宝寺の龍神のことがありました。

「今から六百年程前、太年浄椿禅師の前に二人の絶世の美男美女が現れる。
二人は龍に姿を変え「我は八大龍王の一人なり。ともなえるは第三の龍女なり。
さきに妙達上人の妙典を聞、太年浄椿禅師の徳風で不退転の法楽を得た。
この山の守護神にならん。」
の言葉に禅師は感服し「龍道(大龍王)」と「戒道(大龍女)」の法号を授ける。
ある日、海で遭難しかけた漁師・源四郎は巨大な火柱の中に長大な二龍神の姿を見た
そして助かる。その後、二龍神は迅雷烈風天地震動、貝喰の池に身を蔵した。」






ということで、とても立派なお寺でした。
私はこのお寺について知らなかったので、参拝できてよかったです。
ただ、私のダメなところは、地図をよく見ないこと…。(いつも後でチェックする)
写真を撮って後でみると、ちゃんと地図にのっていたよ。貝喰の池が…。
ここが重要なのね~。
お不動さんもあったし。
そーいうところ、全然みてない。
反省・・・。

新庄は戸澤家が有名なのですが、家紋が九曜紋なのです。
戸沢家の家祖とされる平衡盛の「衡」という漢字から、奥州藤原氏の郎党だったと言う説がある。
むむ~。奥州藤原氏ね~…。
伊勢平氏なので、秩父の私としては、どこかで繋がっているんでしょうね。

新庄まつりは、国重要無形民俗文化財に指定されています。
タイミングよく、8月24、25、26日あります!

サイトの「図録」をチェックしてみてください。
これを見ると行きたくなってしまいます~。
興味ある方は、あわせて善宝寺の参拝をおすすめします♪

※現代に甦る歴史絵巻
http://shinjo-matsuri.jp/db/

まだ山形探訪はつづくよ~。
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龍神さまの善宝寺(1)

2018-08-17 | 東北地方の伝説(山形県)
今朝の太白山。
まるで太白山から虹がでているような。



ユルルングルという虹の蛇がいる。
「龍を否定することなかれ」
龍は虹蛇のkul(権現)だ。
まだ何も知らない人に、進歩を望め。
と言っているような虹だった。


※オーストラリア・アボリジニのアート『虹蛇』

さて、注連寺から次へ向かう道は酒田へ。
月山、湯殿山と奥深い山を超える道は、トンネルが多い。
月山トンネルはまっすぐなトンネルで長いのです。
眠ってしまいそうなトンネル・・・。
トンネルを抜けると、どしゃぶりの大雨・・・。
あんなに晴れてたのに~。
やっぱり山深いなあ。
でも山を降りるとカラっと晴れる。
今年は猛暑続きで、夕立も多いですね。
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鳥海山へ行く道途中の鶴岡市に「善宝寺」というお寺があります。
五百羅漢のあるお寺なのですが、龍神伝承がある。




昔の善宝寺

「龍澤山善寳寺は海の守護・龍神様のお寺として北海道、東北、北陸をはじめ
全国に多くの信者を有し、特に漁業関係者より絶大な信頼を頂いている
大祈祷道場です。山門、五重塔、龍王殿などの壮大な伽藍は、
1200年の信仰の歴史を物語っています。」
(庄内観光ナビ)



お寺の由来は、妙達上人という高僧で、草庵を結び名付けて「龍華寺」としたのが、
善寳寺の始めと伝わる。


龍華庵


観音堂

室町時代に曹洞宗の太年浄椿(たいねんじょうちん)禅師に至り、
寺屋を建立、山号を龍澤山、寺号を善寳寺と改められました。





その後、歴代住職は寺門の興隆に尽力し、江戸時代中期、
第20世霊感応伝(れいかんおうでん)大和尚の代には本堂庫裡等の整備がなされ
今日の基礎が築かれました。


漁業関係者の発願による唯一の「魚鱗一切の供養」の五重塔が建立。

後で調べてわかったのですが、
龍神伝承の池とは、「貝喰 (かいばみ) の池」といい、お寺から離れた所に
あったらしい。そんなことは全く知らず。
そのまま帰ってきてしまったので池にはいけませんでした。
この池で有名なのは、「人面魚」です。(1990年)
流行ったよね~。その池が貝喰の池だそうです。


この池は違います。境内の池。
ウシガエルが大きい声で鳴いてた~、
機械音みたいだった。


石にじっとして動かない亀がいた~。


五百羅漢のお堂の中には入れませんが、扉は空いてますので、見られます。
内陣正面には、「釈迦如来」向かって右に「文殊菩薩」左に「普賢菩薩」を配した「釈迦三尊」を安置。
その前には十大弟子のお佛像と、他に六人の弟子を加えて「十六羅漢」と呼び、
更に四百八十四人を加えて、古来より亡き人を偲ぶ「五百羅漢さま」と言われる。


1855年、北海道松前郡の豪商より寄進されたという!
当時、北前船航路による交流があったのだ。
コシャマイン(アイヌとの対戦)があった所です。




ここにも三つ巴が。





さて、龍神と妙達上人とは一体・・・?

「和尚(妙達上人)は、天暦9年(955)のころ、病で痛むこともなかったものの、
手に経巻を持って、突然入滅しようとしたが、その間に、閻魔王の宮殿に行った。
王は座から降りて、妙達を礼拝した。
そして言うには「(妙達の)命が尽きるから、ここに来たのではない。
私は和尚(=妙達)を見るに付け、偏に『法華経』を持して、
内外ともに明らかに清らかであり、これは、この汚れた世にあって、
正法を護持する人だと思ったのだ。

だからこそ、私は今、聖(=妙達)を請して、日本国中の善悪の衆生が
それぞれどのような行いをしているのかを説こうと思った。
聖人(=妙達)は、良く憶えてもらい、国に帰ったならば、善を勧めて悪をいさめて、
衆生に利益を施すのだ」と言った。


なお、この善悪の人のありようについては、別の伝に記されている。
妙達和尚は、死んで7日を経て蘇ってきて、それから冥途での作法や、
閻魔王の説いたことを語ったのであった。
聞く者は信じ伏して、多くが悪の心を止めて、出家して仏道に入った。
そして、善根を積む行いへ向かい、仏を作り経を書写して、
塔を建ててお堂を造るようになった。
その数は無量である。

それは、妙達和尚が禅定に入って、閻魔王の説法を聞いたことを驚いて、
信じるようになったためである。
妙達和尚は、一生『法華経』を受持して、自らの悟りのための修行はすでに熟していた。
最期の時にいたって、手に香炉を取り、三宝の周りを回って、
一心に諸仏の妙法を頂礼すること、108度であった。
最後の礼拝で、頭を地に付けたまま、合掌を頭のてっぺんに捧げるようにすると、
息が絶えて入滅された。

『日本思想大系』「往生伝・法華験記」63頁、拙僧ヘタレ訳

この妙達上人は『法華経』を唱えていたところ、
龍が寄り添うように聴いていたとされ、そこで龍神信仰が生まれるのですが、
そのような話はこの『法華験記』には出てきません。
ただ、単純に『法華経』という観点からすると、
以下のような龍にまつわる話も「観世音菩薩普門品」にあります。

応に天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦樓羅・緊那羅・摩睺羅伽・人・非人等の
身を以て度うことを得べき者には、即ち皆、これを現して、為に法を説くなり。」

岩波文庫『法華経(下)』256頁

「つらつら日暮らし」より
※https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/3b3d25073d2cfd9a3e5b29e49f9dac59

貝貝喰には龍神になった妙達上人が顕れるという。
峨山禅師が妙達上人の坐禅石で坐禅をしていると、龍神様が現れたといいます。
禅師が「三帰戒」を授けると貝喰の池に消えていったと。




強そうなので、お願いごとしてきました。

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弥勒尊像

宝暦年中(1751年~1764)に疫病が大流行したので、当時の住職が、
これを嘆き、病気祈願を巨大な弥勒菩薩を建立した。
この弥勒菩薩は大阪で完成し、海上を船で輸送されたが、
陸揚げの際に、誤って首を海中に落としてしまった。
機械がない時代だったので、引き上げることができず、
「海の鎮魂ならん」と願い、胴体のみを運び、
庄内に到着した後に首を造作されたそうです。




どうも首と胴体が不自然な気がしましたが、
今でも海中に弥勒菩薩の頭だけが沈んでいるのでしょかね。。。



ここから階段をあがっていくと本堂があります。
その奥が「龍王殿」になっていますが、素晴らしい建て物でした。

つづく
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即身仏の鉄門海上人

2018-08-15 | 東北地方の伝説(山形県)
お盆前に1泊して鳥海山麓へ行ってみました。
48号線から月山へ向かう道からの~ぉ・・・即身仏!



即身仏はいくつかありますが、注連寺というお寺はミシュランガイドにのってます。
即身仏だけではなく、お寺の天井画も素晴らしいからでしょう。
出羽三山の即身仏といわれてよく写真など資料として使用されているのが、
注連寺の鉄門海上人の即身仏です。
一度でいいから拝観してみたいと思っていたので、ちょっと不思議な感じでした。

なぜ、この方は即身仏になろうとしたのだろう…
そんな素朴な疑問が浮かんでしまいますが。


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注連寺の縁起
「825年弘法大師空海の開基であり、その後、大師が開創した霊場を慕い、
京都よりたずねて来た弟子の真然大徳が835年、湯殿山権現堂を建立し、
真然大徳を第一世とするお寺です。湯殿山の表口別当であり、
月山、湯殿山の遥拝所として湯殿山信仰の中心寺院となり、
江戸時代には多くの参拝者でにぎわい、繁栄を極めました。
また湯殿山行者の根本修行道場にて衆生救済に務めた多くの即身仏を
輩出しております。」



※日本最大級の大鰐口。



空海が即身仏を広めたいわれ、即身仏になるための「マニュアル」
を作成していた話しがあります。
ただ、前にも書きましたが、ディスカバリーチャンネルという番組で、
湯殿山の即身仏のことを特集していたのをみたまでですので。



「木食(もくじき)」というのは、即身仏になるために修行している
人をさすのですが、木の皮をはいで食べるものです。
湯殿山の水には水銀が含まれているといわれ、このあたり一帯は、
水銀鉱脈があったので、金が多くとれた場所です。

水銀は毒ですが、体内の水分を出すには「薬水」といわれた、
おそらく水銀(丹生といった)ものを飲んでいたと考えられるそうです。
そうすると毒ですから、体内の水分を出してしまいます。
水分をすべて体内から排出すれば、腐敗しないからです。
ちなみに、ミイラとは違う意味での即身仏ですが、
ミイラの語源由来は、「ミルラ」といい、薬の意味があります。
漆も飲んでいた可能性があります。

漆といえば、南陽市の熊野大社の記事で書いた漆と聖徳太子です。
棺桶を漆にぬっていたのは、聖徳太子の一族だったと言われています。
即身仏に塗るものとして、不老不死の思想が出羽三山の修験には
よく知られていたものでした。

地元の伝説で、出羽三山を開山した蜂子皇子は、聖徳太子にとって甥にあたる。
聖徳太子は、父(崇峻天皇暗殺)により、息子の蜂子皇子をかくまるため、
出羽三山のある方(由利本庄)へ行くようにすすめます。
そこにはすでに即身仏を目指していた修験者がいたからです。
特に賀茂家。(賀茂坂というのがあります)

という事は、蜂子皇子も即身仏と関係すると思います。
即身仏になったかどうか不明ですが。
なぜ、この一帯で即身仏がたくさん生まれたのかは、鳥海山に関係すると思います。
これは後で書きます。


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鉄門海上人について。
「1759年鶴岡市に生まれ、赤川の川人足や木流しを生業としていたが、
25歳の時に、注連寺に入門し、「鉄門海」という名で湯殿行者となられました。
湯殿山で厳しい修行に励み、湯殿山大権現と一体となり、霊力を得て
湯殿山信仰並びに即身仏信仰の布教につとめました。

上人は、疫病退散や酒乱治療を始め多くの人々の病を治し、
困窮者には金銭を施し、子供たちには手習いの為に硯を配布し、
多くの寺院再建に尽力し、庶民に尊敬されました。」


このお寺を拝観する時、ガイドの方がいらっしゃるので有難いです♪
その話しから、廃仏毀釈があった時、即身仏は墓ではないのですが、
墓(遺体扱い)とされてしまったので、千日修行の後に掘り起こすはずが、
それがずっとできないまま、上人は土中にあったそうです。
昭和39年になってようやく学術調査という目的で掘りだすことが許可され、
今に至るわけです。

上人の即身仏は、体に漆がぬられ、目(左目)がなかったそうです。
左目がないことについては、こんな話しがあります。

「江戸時代では眼病が流行し、自らの左目を隅田川の龍神に投じ、
祈願した事から京都の御室御所より「恵眼院」の院号が授けられました。
上人は、1829年12月8日に71歳で即身仏となられました。
石碑は、庄内地方を中心に北海道から関東にまでおよび、当時の上人の活動範囲や
信仰状況が偲ばれます。」


なぜ左目をとってしまったのか?
それは、松果体が関係するようです。
右目は右脳を活発化させるので、第三の目といわれる松果体を活性化させ、
高い波動を得られるそうです。
左目があると考えすぎる(理論)ため、修行には邪魔だと?
潜在的に超人的な能力を授かりたいために、左目をとったと考えられる。(妄想)


片目の伝承は、松果体のことを伝えている。(目と松果体はよく似ている)

もうひとつ、上人の逸話があるのですが、
これについては、ちと、女子にはかけない話~。
「みうらじゅんに訊け!」のサイトに書いてあるので、
みうらじゅんのセンスいい話を読んでみてください。(面白いよ)

「即身仏、青春の光と影」
https://www.1101.com/shimaguni/jun/2007-09-23.html





もうひとつ興味深いのが「御香仏 樒葉(しぎみ)聖観音」という
秘仏を拝観できました。
御水尾天皇の第八皇女(朱宮光子)の内親王様が、両親御尊霊供養のため、
樒葉を一枚ずつに名号をかき、その灰を練り固めて作られた観音菩薩像です。
(どのくらいかかったのだろう?)


※樒葉

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天井画も素晴らしいものでした。
アートな画がたくさんで、美術館にきているような感覚です。
部屋からは月山が見えるとの事でしたが、残念ながら雲の中。

寺内には空海像の絵もあり、龍の天井絵、白馬、飛天、世界中の権現(神)の曼陀羅。
など、とにかく見ごたえがあります。
曼荼羅は「聖俗百華面相図」といい、久保俊寛氏の絵です。
とってもユニークで、ビートルズの絵もありました。
この曼荼羅は、世界に伝わるものとしてのアピールがいい!
隣の部屋は、海の曼荼羅~(涼しい~)






街道への道。(涼しくなったら歩いてみたいな~)

さて、どこかで世の悪事と縁を切る働きはあるのだな、と思います。
このような日本の深い信仰心があるから、バランスをとっているのだと。



実際、ご対面して、私は上人の目がないのに、魅力的な目をしていると…。
そんな風に見えてしまった。
おかしな現象ですが、この方は、次の生まれ変わりを選ばず、
この肉体に宿ることを選んだのですね。
ずっとここで、第三の目で拝観する人たちを見つめているわけです。

即身仏は、自分のために行っているわけではなく、
世の苦しみを自身の体に受け、そのままの姿をみせ、即身仏になっている。
素晴らしいとか、すごいとか、そんな言葉にはならない。
生きたまま仏になった人だから。

そのまんま上人の姿をみせられて、なんとも言えない。
へ~、は~、ほ~というハ行の連鎖・・・なんだな。
その深さは、私には当然、理解できるような世界ではないのだ。
そこに至りたいと思った修験者はたくさんいて、湯殿山の湯を目指したのです。



他にも大日堂の即身仏などもあります。(近くです)
あわせて参拝してみてはいかがでしょうか。
おすすめです。

次もお寺の話。
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登米の柳津虚空蔵菩薩と横山不動尊

2018-08-09 | 日記・エッセイ・コラム
久しぶりに登米の虚空蔵菩薩堂と横山不動尊に行ってきました。
夏なので、いろいろイベントを行っている寺社が多く、
横山不動尊は、流しそうめんの準備中でした~。


※みやぎ北上連峰







詳細は、以前のブログを参考にしてください。

※柳津虚空蔵菩薩
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/36a5f8603052da4ddb154ca48cd443ac

※横山不動尊
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/b983f1128bf6c426e4b902c78ac8aea4

写真だけのせます。


暑いから鯉も清水に群がる。(弁天池)






新しく弘法大師堂ができていました。

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横山不動尊





金剛童子は毎回、興味が湧く像です。
手に車輪(九曜紋)を持っているのが珍しいのです。




鉄の五重塔


見づらいですが、よく見ると剣が彫ってあります。

長沼の蓮沼
めちゃくちゃ暑かったので、乗りませんでした。。。





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赤頭大明神の益子神社(2)

2018-08-06 | 東北地方の伝説(福島県)
広島原爆投下の日。
静かな雨あがり。

さて、半田沼の赤べこ伝承は、土砂災害のことを伝えている。

「病気の娘がおり半田沼の水が飲みたいというので、看病人に半田沼の水を飲ませた。
すると必ず病が治るので、娘は半田沼の水をよく飲んでいた。
ところがある朝、娘の姿がみえず探していると、半田沼のそばに草履が置いてあった。
水もぐりの人に頼んで湖をみてもらうと、奇妙な話しをする。
沼をもぐると機織りの音がする。
それを頼りに泳いでいくと立派な屋敷あり、入ってみると、
娘が機織りをしていた。娘は涙を浮かべて
「私はもう帰れません。沼の主に見込まれて妻になりました」と言った。
すると昼寝をしている主人の姿がある。
よくよくみると、それは大きな赤牛が寝ているのだった。」


半田沼の地滑り災害について、明治時代に地滑りが始まり、
特に大規模な地滑りが明治34年~36年にかけて始まったといわれています。
ここでは土石流がおこり、
明治43年全国の浸水家屋51万8千戸という最大の被害があったといわれています。

赤牛は、伊豆半島の噴火により消滅した小川沢という話しも同様にある。
「岡村の小川沢にある池に、神通力をもった赤牛が住んでいた。
この池が年々浅くなり住みにくくなったので、
赤牛は新しい住みかを求めてある夜池を抜け出し、吉田の大池にやってきた。
赤牛はそのまま大池に住みつき、
村人たちが大池を船で通ると、これをひっくり返し、
さらに池に落ちた村人を食い殺すようになった。
光栄寺の日広上人は赤牛の悪さを見過ごすことができないとして、
赤牛の魔力を封じ込めようと決心した。
そこで上人は十二島のうち一つである小島に渡り、七日七晩お経
をあげ、赤牛の魔力封じを行い、ついに成功した。
日広上人は二度と赤牛の魔力が現われないようにと、この小島に
御堂を建て、自ら書き写した経文数巻を納め供養した。
そこでこの小島をお経島と呼ぶようになった。」


※噴火とともに消滅した伊東市小川沢の化石湖の謎と「赤牛」伝説
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/etc/Abstracts/130521JPGU.pdf

伊豆半島の赤牛意外にも各地にある。
伊豆半島北西部地:赤牛は大蛇と同じで、退治したら池がなくなった。
長野県:角一本の赤牛が度びこんだ沼を牛厩という。
山梨県:投身した老婆の化身である赤牛が飛び出して大笹池に走った。


半田沼と半田山
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赤なのは、五行説によれば、火は赤で水に対して火にしていると思いますが、
赤色の土なので、赤にしている説もあります。
また、ワッカという水の語源から、ワッカ→アカになったこともあると。

もうひとつ半田沼の場合、付け加えるならば、
益子神社のハイヌベレを考えて、トベの一族がきていたと思う感じがあり、
ウシは、牛ではなく、ウシのことをトベでは首長の意味がある。
主=ウシなのだ。ということで、赤頭はトベの主だと思う。

他にも半田沼には、「巨人が作った沼」「水蜘蛛の住む沼」の話もある。

もうひとつ、桔梗姫の話がありました。
「ムカデ退治をした藤原秀郷(俵藤太)は、
瀬田(滋賀県)のたもとに住む大蛇の美女に頼まれて三上山のムカデを退治した。
秀郷と美女の間に子供ができ、その娘を桔梗姫と呼んだ。
秀郷と平将門は敵同志であったが、桔梗姫は自分の出生を知らず。
その後、平将門の妾となった。

ある時、藤原秀郷は平将門討伐に軍を向かわせたが、
将門は影武者を置いていたので、本物が見分けられなかった。
そこで秀郷は身を偽り、将門の家来となることでその秘密を探ろうとした。
こうして桔梗姫と秀郷は出会い、桔梗姫は秀郷が自分の父であることも
知らずに心を惹かれてしまう。
姫が秀郷に名をたずねると「私は半田の半七です」と秀郷は答えたという。
そして、ついに桔梗姫は将門の秘密を秀郷に教えてしまった。

秘密を聞き出した秀郷は将門のもとを去り、敵将として将門を討ち果たすことになった。
一方、桔梗姫は秀郷を恋慕すること止み難く、半田を訪ねて半七なる人を探し歩いた。
しかしそのような人がいるわけもなく、尋ねる村人も戸を閉めて会ってくれなくなる。
喉が痛みだしたので、姫は半田沼へ降り水をすくおうとした。
すると、水に映る自分の姿が大蛇となっていることに気がつく。
姫はもはや自分は魔神に変わった、と思い、半田沼は小さかったので、
山ひとつ向こうにある菅沼へ行き、ヌシとなった。 」


豊玉姫と同じ異類姻の伝説です。
秩父に伝わる平将門と桔梗姫は、桔梗姫が裏切ったため、将門は殺害し、
その首飾りを天に投げて首飾り座という星になったという。
桔梗姫は将門の妹という説もあり、このへんいろいろですが、
その話しはギリシャ神話のかんむり座と同じ話しである。

奥州藤原氏が阿津賀志山を占拠していたこと。
たった4日の大敗でしたが、そこまでして防塁を設けていたことなど。
それには藤原秀郷のことがあったと思う。
奥州藤原氏の祖は、藤原秀郷であるから。(藤原北家秀郷流を称した)

関東から東北北部へ流れた装飾古墳をもつ産鉄族は相馬地方には、
6,7世紀ごろとされ、小手姫がやってきたのも、6世紀ごろなので、
中央から鉄族がやってきて福島県に住み、農耕・養蚕などを行っていた人々と、
相馬地方あたりを治めていた別の鉄族もいて、
それぞれの生活の違いから、この頃から争いが活発になってきた歴史背景があったと思われます。

たぶん、藤原秀郷の子孫が住んでいたと思います。
秀郷は、下野国(現:栃木県)の生まれです。
また、伝説の大蛇は滋賀県琵琶湖の大蛇と結婚した話しになっている。
志賀という地名に、名取老女生誕地が伝わり、
奥州藤原氏と阿部氏がいた高舘山と熊野信仰とも関わりをもつ。

赤頭も猿ではないかとも思う。
猿顔は赤いというように。
ショウジョウバカマという花も、猩々という猿の生き物のことをさす。
差別用語ともいわれますが、禹の治水神の話で
治水工事をする時に、猿が登場する話しが多いこともからむ。(猿岩や猿石、猿山など)
山寺にいたのも元は猿が住んで地元の娘と結婚し、悪いことをしていたというので、
栃木県壬生出身の円仁が宗教の場所として山寺を譲ってほしいと懇願した。
その猿とは、マタギの盤司、盤三郎だった。
猿と云う風にいわれてしまうのは、自分とは異なる文明をもった先住民族に対して
いう言葉なのかもしれない。それはマタギの文化として継承されている。

マタギも「又鬼」とかく。
なぜ、鬼なのか。鬼になって肉を食すからだと。
それって、ちょっと生贄を思うなぁ・・・。
いや、これは諏訪大社の鹿(シシ)の肉のことであって、
肉体を魂に宿すネイティブな儀式なんだ。

単純に肉を食べる人を猿といったわけではない。
動物の肉を食べることで、動物の霊と一体になることが由来にある。
邪気を食べるとはよくいう。それが餅になっているのも同じ。
剣を飲み込むお不動さんもいる。
悪いものでも何でも体内にいれて消化し、良いものに吐き出す。
便として。
それが土になる。

動物的に生きることが人間は理想とした。
現代になると野蛮だと草食系たちに言われるはめに…。

中国では、桃の木に鬼がいたとある。
仙人のいる場所を「桃源郷」と言うように、百はモモのことを意味しますが、
毛のモモから由来している説もある。(猿は毛深いという由来から)

「邪気を圧伏し、百鬼を制する」とあるように、百の方の「もも」が関係している。
益子神社がなぜ桑折町に来ているのかは、「百目鬼川(どどめきがわ)」が関係しているでしょう。
栃木県益子町に百目鬼という地名がある。
そこから鬼伝承がずっと阿武隈川をつたって来ているような気がする。

地名由来によれば、
ドウメキは、地域によってトドメキ・ドドメキ、
あるいはトドメク・ドドメクと読んでいるところがある。
トドメキ・ドドメキは、動詞トドメク・ドドメクの連用形で、
水音の響く所とか、河川・堀などが合流して音をたてて流れ落ちる所の意であり、
『俚言集覧』(江戸時代の国語辞書)に、「渠(みぞ)の落合で鳴る所をトドメキという」とある。
※「とちぎの地名由来を探る」

そして、そのトドメキやトドというのは、十十=百と表したものだった。
九十九ではなく、百にした目ってことか。
石燕の妖怪解説では、手に百の目をかいた(百鳥の目を生ず)手長の女とある。



が、百目木や百目鬼というのは、「川の音」から由来するようです。
半田銀山の開拓を考えれば、土砂災害や水の災害も多くあったと想像されます。
人災ということになるか、と。
昔の人は、機織り姫は、かつて沼によって生贄にされたと考えた。
災害にあったか、人柱になったか。
半田銀山は平安初期からすでにみつかっていた。
石見、但馬の生野と並ぶ日本三大銀山の一つと称されていたほど。
またこの道は(東街道)は、平泉と京都の間を往き来して、
金銀を運んでいた道だった。
栗原にある金売吉次も、この道を通ったという。
なので、源義経伝承もある。

ということで、土砂災害に巻き込まれて、池や沼に入水した話しは全国各地にある。
「赤」から連想されるのは、水と土の関連で、五行説がからんでいるのでした。
なので鬼だから悪い!とか怖い!とかいう世界ではないことを、ご理解頂きたい。

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最後に、日本ではほとんど西日本の豪雨で報道されていませんが、
ラオスのダムが決壊し、多数の死者を出しています。
主に建築したのは韓国の企業。

「約50億立方メートルの水が流出。周辺の六つの村を襲って住宅をのみ込み、
約6600人が家を失った。
ラオス国営通信などによると、人的被害は死者27人で、百数十人が行方不明になった。」
行方不明者の数は、百人以上はいるそうだ。
欠陥工事だったらしい。
人災ということで、韓国とラオスの関係が悪化している。
BBCニュースによれば、公式発表より死者数は300人を超えるという。
韓国側では豪雨による決壊だと言っていますが、100%韓国が悪いとは言えません。
日本の企業も建築に関わっています。(だから報道しない?)



BBCニュース
https://www.bbc.com/japanese/44977502

これは日本だけではなく、世界中であり得ることだから、
麻痺していると不思議なことではなく、どこかで「やっぱり」と。
地元の人にとっては、たまったものじゃありません。
冗談じゃない、と言いたいところですが、命を他人や他国に預けている社会だとこうなる。
責任は誰ともいえない。悲しい現実です。

益子神社の家紋が三つ巴でしたが、やはりこのマークは水の力があるんですね。
昨日の晩から山形県、宮城県で大雨と落雷でした。
仙台は平野なのでほとんど落雷がない。珍しく仙台でも雷がずっと鳴っていて、
朝方も雷がなってて珍しいなあと思っていました。

友達から教えてもらった情報です。
8月2日寒河江八幡宮で6年ぶりに雨乞いをしたそうです。



農家にとっては、今、一番雨がほしい時なんだそうです。
今年は梅雨開けが早く、猛暑続きだったので稲の水が非常に少なく、このままだと
厳しい状態だったので、(ひび割れの田んぼもあった)
山形県寒河江で雨乞いを行ったそうです。
集まった数は、80人!も。

やっぱりあるんだな。雨乞いの威力。
米沢がとくに水不足だったという。



すると、「米沢付近で1時間に約110ミリの雨」
「山形県記録的短期大雨情報」が。
すごいなあ、寒河江八幡宮。


(昨日)

おかげで宮城県も大雨と龍神が賑やかな空に。
水不足が心配だったので、ちょっとほっとしました。
また台風くるけどね・・・。
ただ、「雨乞いなんてするから・・・」と、思う方もいるかと。
関係する人たちは避難しなければならないね。
ちょっと困りますが。ただ、恵みの雨と考えたら・・・。
被害がない程度なら、雨乞いは良いかと。
ただ、難しいね~。
雨がほしいと思っても大雨で洪水になると困るし、
かといって旱魃も困るし。

三つ巴の威力は、雲を作り雨を呼ぶのですね。


※世界の「トリスケル」風車紋様は太陽紋様だそう。いっぱいあるね~。
車輪ですね。
右周りだと月の陰です。



益子神社は右なので、月です。
藤原北家秀郷流の佐野氏も栃木県で右三つ巴。
主人が栃木県なので、私より主人に縁がある?



それに対し雨乞いをした寒河江八幡宮は、左なので太陽です。
繋がっている陰陽の巴。
しかも、寒河江の方は、源氏系(鎌倉八幡)の神様。

そんな水ばっかりの情報でしたが、仙台は今日から七夕祭りです。
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赤頭大明神の益子神社(1)

2018-08-04 | 東北地方の伝説(福島県)
自民党のクセが強い~。
「生産性がない」という発言でおなじみの、
自民党の杉田水脈の名前が半端ない。
読み方を調べたら「みお」と読む。

珍しい名前ですが、水脈からの濁流だな、と思った。
ここんとこ、水害や洪水の話が続いていたから、
なるほど。
こーいうことか、と妙に納得してしまった。
これから書く内容も、何かがこの話しと共通しているような感じがするのです。
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鬼や赤とつくものは、大体、血を表します。
民族学では月経が定説ですが、宗教で言えば、赤はキリストのカラーです。

半田山の麓に、益子神社がありました。
イザナギ・イザナミをお祀りしています。



由来によれば、
「信達平野に鎮座する神社の中でもその歴史は古く、
奈良時代の後期、782年には創建されていたと伝わる。
その始まりは、自然の脅威(雨、風、雷など)を神として恐れ、
崇め奉り鎮めるために、また山の恵みに感謝して、
地元の人々にとって神聖な場所であったこの地に建てられた石の祠だった
のではないかと思います。

半田銀山の鉱脈は、807年(大同2年)に発見される以前から
金・銀などの鉱物資源の恵みをこの地では授かっていた。
其の名残は、本殿の裏の三体の石宮なのではないか、と考えられます。」






ちなみに、この説明が本殿の横に小さく書かれていて、非常に読みづらかったので、
写真にとってあまり説明を読んでいなかった。
なので、裏手の三体の石宮を知らなかった!

でも、三体の石宮は、半田山山頂にも鎮座していた。
なぜ三体の石宮だったのか謎だったので、益子神社からとは思わなかった。


半田山山頂の三体の石宮

古文書などの資料は火事にあって焼失したため、
詳しいことまでわかっていないそうです。
しかし、いくつかの伝承があるので、それらを紹介。

「益子神社の由来」
・現在のひらがな表記で「ましこ」には、古代日本において
「おさるさん」を表す意味もあるので、山の神として「猿」をお祭り
しているので、「ましこじんじゃ」となった説

・奈良時代後期~平安時代にかけて、坂上田村麻呂などの蝦夷征伐で、
この地に打ち取られた大竹丸(アテルイ)の仲間で、
この地域に有力な豪族であった「赤頭太郎」を鎮めるために「赤神大明神」
または、「赤瀬大明神」を建立し、この地に合祀したのが始まり。

・福島市茂庭地域に残る「茂庭伝説」の「大蛇伝説」には、
平将門に仕えた桔梗御前が「俵藤田(藤原秀衡)への恨み辛みから
大蛇と成り茂庭の菅沼に住みついた後、半田沼へ移りすむ途中で、
茂庭周防・阿部道学等に退治され、藤田村の人々がその祟りを鎮めるために、
半田山の麓に「増子大明神」を祀ったという伝承がある。
※益子=増子(口承なので当て字による)


この土地の氏神が、益子神社とは知りませんでした。
まず、この名前の神社を目にすることがない。
益子は栃木県に益子町があります。
益子焼で有名ですが、そこからやってきた一族が追われて半田山麓へ逃れてきたという。

茂庭地域(福島県の北端、宮城・山形両県との境界近くに位置する山村)
に残されている大蛇伝説は、栃木県の桔梗伝説がそのまま伝わり、
益子地域からきた来訪者が福島県北方地域にいたと考えられるそうです。
益子大明神といわれるようになったのは、1589年頃だそうです。



益子神社の家紋が、三つ鱗と右巴でした。
水と深い関係のあるマークです。
行事をみる限り、海から渡ってきた人たちが先祖のような気がします。





羽州街道沿いに神社がある。


街道にあった立派なお屋敷の松。

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ところで、益子神社はアテルイの仲間が関係しているという情報を知って、行ってみたのですが、
なんとなく女性だと感じるのです。
ある特定の女性というよりは、やはり赤というところが気になります。



ある説では、赤頭太郎は、阿武隈鍾乳洞のある鬼穴付近にいたといわれ、
阿武隈(大滝根山)から逃れてきた鬼だともいう。

また、791年に高丸の郎党であったのが、
半田山の麓にて射殺され、祟りを恐れた人達により、「赤頭大明神」として
祀られた伝承があります。(信達二郡村史)

益子の地名由来は、「子供が増える」から増す子が益子になったという話しも。
だから・・・杉田水脈の発言とかぶる。
その発言で、逆に子供を減らしているが・・・。

土砂災害や洪水などの災害によって被害が蔓延したのが、伝染病でした。
衛生状態の悪い環境が続くと、また夏のような暑い日を想像すれば、よくわかると思います。
そのような疫病を「赤」として伝承していることは多い。
稲荷神社の鳥居の赤もそのような天然痘などを防ぐ目的であり、
それが女性から引き起こされると考えられていたようなのです。
悪路王がいつも鬼といわれ、退治されるのは、そんな女性の霊的な力を
恐れていたのだと思います(アテルイが悪路王と同一とは言えないが)
水の災害は、祟りとみていたわけです。

山形県の若木神社(おさなごじんじゃ)の話です。(以前の記事ですが)
若木神社は日本唯一の疱瘡守護神であり、神町の氏神様であると共に
若木大権現として東北一円の信仰を集め、東北の人々の加護した神様です。

縁起によれば、桓武天皇のとき、782年最澄が廻國救済の折、この山の麓に
来ると全山が真っ赤に輝きその赤気が山頂にかかる雲に映して怪しげな状景を目にし、
不思議に思いおそるおそる遙拝したと。


若木神社

それは、大師の前に一本の若木あり、その下に一つの紅赤石あり石理光沢して拾氣を発するのだと。
その紅赤石を岩屈に紀て神秘となし、
この前で十七日間の修行を重ね、下に霊石を踏えて上は赤氣の乗ずるは陽徳の
神の垂跡にして赤気は疱瘡の兆し也り、とここに一社を創して、
疱瘡守護神日本一社若木大権現と尊崇すれば疱瘡湿疹を始め、
諸病を治するいこと疑いなしと、村人に教論し立ち去りました。




という事で、若木山の山頂には丸い形の大きな石が。
また、伝染病は平安時代の続日本記によれば、朝鮮半島の新羅から伝わったと。
当時は外交を司る大宰府が九州の筑前国(現・福岡県)筑紫郡に置かれたため、
外国人との接触が多いこの地が疱瘡の流行源となることが多く、
大宰府に左遷された菅原道真や藤原広嗣らの御霊信仰とも関連づけられ、
疱瘡は怨霊の祟りとも考えられたそうです。

半田山は秦氏と深い関係があり、秦氏が新羅由来だからでしょう。
そのため、古くから福島県には養蚕が伝わり、宮城県南部にわたっている。
疱瘡神は赤を嫌う。
稲荷神社の鳥居を異常な赤で並べているのは、秦氏の稲荷ということで納得。
お地蔵様に赤い頭巾をかぶせたりするのも疱瘡神を防ぐ意図があるそうです。
若木権現というのは、福島県相馬地方や岩手県にもある。

しかし、伝染病という病をもたらす疱瘡は、悪いものではなく「神」とする。
あえて神にすることで、疱瘡神と女神を重複するような意図があると思う。
なので、赤の疱瘡神は水の女神であると考えるのです。

また、イザベラバードの奥地紀行(明治時代)の本の中に、
山形県のある地域を歩いていると、小川に布がはっているのがあった。
小川に四本の棒でさした布が張ってあり、その布の色は赤色だった。
出産後すぐに亡くなった母親の霊を供養しているのだという。
その布には水がはってある。
そこを通る人は、その布に水をかけるという。

なぜなら、その女性は、前世のカルマがあると信じられた人たちにより、
現世に叶えられない(母になれなかった)悲しい運命にあったのだという。
そのため、村人たちは、来世は幸せを願うため、また村人たちの供養により、
カルマを解消させるといったような話になっていた。
そのため、皆で水をかけるのだという。

さて、やはり益子には、「猿」が登場している。
そして人柱伝承から、蛇を三つに切りわけて埋めた茂庭大蛇のハイヌベレ信仰。
赤頭という赤の色をもつ豪族の名など、共通するのは「洪水」です。
いかに、日本の地形が洪水をもたらしてきたか。
半田山の洪水伝承について。
次回に。


山頂からみえる半田沼
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萬蔵楽山の秘蹟とアルナーチャラとは(2)

2018-08-01 | 東北地方の伝説(福島県)
暑い~。
仙台が史上最高気温を記録と・・・。
37.3度。先月も37度の時があったな~。
仙台は猛暑日なんてほとんどなかったのに。
東京より暑いなんて!何があったのー。(暑いの苦手)

さて~アルナーチャラですが、インドに詳しい友人に聞いたら、
「ラマナ・マハリシ」という方によれば、
アルナは曙光(あけぼの)、太陽信仰ぽい。
「チャラ」は動きまわるという意味。

車輪じゃないですか~?!
歩きまわる太陽は、トンパ文字にもあった~。

太陽とは、あの光輝く太陽の意味よりは、
「真我」=アートマンで、日本語では「自我」と認識される。
太陽信仰は、明るい光というよりは、もっと深い意味での自我の芽生え。
難しい~インド哲学。

「ウパニシャド」については、姥神がその由来をもっていることを
書いたことがありましたが、山に姥が祀られるのは、
山は宇宙と繋がっているので、宇宙原理を知るブラフマンとの繋がり
をもつ、という意味なのかもしれません。
その働きをもっている山が、桑折町の萬蔵楽山なのだ、という話しです。
日本でいえば須弥山。

そのウパニシャッドを、漢字で「優婆尼沙曇」と書く。
優婆=姥は、元はウパニシャッドのウパが由来だった。
カルマの法則を知っていた知識のある人々が、全世界に広め、姥神が信仰となった。
それを、男性の在家は優婆塞(うばそく)。
女性の在家は、優婆夷(うばい)と呼ぶ。
蝦夷の夷は、女性のシャーマンの意味もあり、もっと突っ込めば、
夷に女偏をつけると、「姨」になり、これも姥と同じ。

しかし、この意味は、妾(めかけ)や姉妹という意味もある。
古代では正妻ではない女性の意味があったと思います。
なので蝦夷の地に姥神が多いと思うのは、そのような思想から基づいているのだけれど、
ルーツはインドにあるわけですし、インド人が迫害された歴史にも繋がる。

そんな東北地方の蝦夷を考えると、県堺にある国見町や桑折町は、
奥州藤原氏や阿部氏など豪族たちが治めていた土地の影響があり、
そのような土地に、何かがあると感じてしまうのです。

さて、素敵なアルナーチャラを。

「アルナーチャラはインドの最も古く、最も神聖な聖地の一つである。
それは地球のハートであり、世界の霊的中心である。
『スカンダ・プラーナ』は、「聖地の中でも最も神聖な地がアルナーチャラである。
それは世界のハートであり、シヴァ神の聖なる神秘のハート・センターである」と
宣言している。

多くの聖者たちがそこに暮らし、彼らの神聖をその丘に融合させてきた。
今日でも、聖者たちは丘の洞窟に住み、ある者たちは夜になると光となって
丘の上を動き回ると言われる。」

※シュリ・バガヴァン・ラマナ・マハルシ

【第1部・聖アルナーチャラ山とは?】から引用。
http://www.geocities.jp/ramana_mahaananda/giripradakshina-folder/sriarunachala.htm

アルナーチャラの「ア」は「それ」を意味し、
「ル」は「あなた」を、「ナ」は「である」を意味する。
ア、ル、ナは、それぞれ、真我、個我、そして二つの合一をあらわす。
それゆえ、「アルナ」とは「汝それなり」を意味し、「アチャラ」は「不動」を意味する。


※「静寂の瞬間:ラマナ・マハルシとともに」より

また、タルミ語で「アンナマライ」は、シバ神とされ、
破壊神のシバ神と同一ともいわれます。
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なぜ、歓喜寺でアルナーチャラなのかは、歓喜寺の出来事ではなく、
このお寺から南へ3Kmほど先に「法圓寺」というお寺があります。

法圓寺
https://www.town.koori.fukushima.jp/kankou/sightseeing/4/2037.html

平成20年2月の早朝、境内のツクバイ(手水鉢)に、
不思議な氷ができていたことに始まります。
単に氷がはっているだけなのに、氷が観音様のような形でスクっと立ちあがっている。
その他にも、丸く持ちあがった氷や不思議な形の氷の現象が続き、
最も興味深いのは、どうやってその形になったのか、
アルナーチャラ山にそっくりな氷ができていたことです。

もし、人が作ったとしても、アルナーチャラに似せた氷を作るには、
塊から割って作るしかないのだから、それを似せて作るには至難の業になるでしょう。
その氷からその山の形につくることは、まず不可能だと思います。
それに薄い氷みたいだし。
桑折町だけに氷なんだわ。


「萬蔵楽山の秘蹟」より


※アルナーチャラ

萬蔵楽山の秘蹟の一部をご紹介。

「萬蔵楽山はかなり不思議な山であることは間違いない。
ところがこれまで人の入山を許さない深いわけがあって、
この度のように、急に山が開かれて、入ってみても、人が歓ぶようなものは
何もない山なのである。
おそらく、一度入ればたくさんと思える山であろう。
つまり、一見すると、架空の話以外は何もなく、単にマグマが
冷えてできた古い山で見るべきものは何もないからだ。

ここが実は、世界的な霊峰、霊山だということはよほどの霊能者でないと
理解できないことになっている。
しかしそんな優れた霊能者はいまだに現れてれていないとなると、
萬蔵楽山はどんな霊山だと吹聴してみたところで、外見的には何の取り柄もない
平凡な山にしか見えないのだ。」


聖なる山というのは、人がその山を神格化して霊場とした場合を言うのであって、
山そのものが霊となって、最初から存在しているのではないのだろう。
聖者がそれを「霊体の一部」として山と同化する。山はそれに応える。
そして霊山として働きはじめる。

なぜ法圓寺に氷の現象がおこったのかは、
信仰深い檀家のおばあさんが亡くなられたお葬式の日だったそうです。
「信じる者は救われる」とも言いますが、名取老女みたいだ。

「ブラフマーはしばしば宇宙と様々な生物の創造主であると語られる。
しかし一方で、いくつかのプラーナではヴィシュヌの臍(へそ)から生える蓮から生まれたとされている。」

※ブラフマーはインドの創世神


※知識と宇宙の創造者、ブラフマー(Wikipedia)

今回、アルナーチャラを知るきっかけになったのは、
蓮からスタートしていたことだった。
中尊寺より国見町の方が、浄土に近い地になりつつあると?(奥州藤原氏にとっては)

私は山好きですが、富士山に登りたいとは思わない。
富士山は眺めるだけで十分であり、萬蔵楽山も同じく。
本当の霊山こそ、遠くから崇めるので十分だ。
富士山が宇宙の臍だというのなら、萬蔵楽山も富士山のエネルギーをもっていると。
それはピラミッドだ。

ちなみに、折町の由来は、
①「郡(こおり)」に由来し、郡衙が置かれていたことに由来する。
②「郡(こおり)」に由来し、この地は養蚕が盛んだったので、この字をあてたと言われる。
③「くわおり」ともいった。
中通り北部、福島盆地北部、西根台地上に位置する。
古くは上郡山・下郡山と合わせて1つで郡山と称していたものと思われる。
郡山は郡衙の在所にちなむ地名で、古代に駅馬が置かれていた伊達駅(郷)の中心で
もあったと推定される。また一説にはかつて当地を桑島(くわしま)と称したが、
阿武隈(あぶくま)川の氾濫を避けるため、
諏訪明神の神託によって桑折と改めたともいう。【角川日本地名大辞典】

どれもあてはまる地名由来です。
さて、この話しを聞いたら、ますます半田山に登りたくなった。

興味ある方は、桑折町を探索してみてください。
面白いものが見つかりますよ!

次は、悪路王の仲間?といわれた人のお社へ。
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萬蔵楽山の秘蹟とアルナーチャラとは(1)

2018-07-30 | 東北地方の伝説(福島県)
またまた不思議なシンクロになってしまい、感慨深い体験をしました。
フツフツと桑折町の歴史の余韻をいまだに感じてます。
やっぱ、県境には宇宙がある~。

今回の桑折町の辿り方が、出来すぎているような気がした・・・。
先にこの話から書きたいと思いますぅ。(長いので…)

今回の桑折町の目的は資料館と奥州札所13番、悪路王関連の神社参拝でした。
札所13番はネット情報で名取老女生誕地とあったのですが、
詳細な資料がなく実際はわかりませんが、行ってみました。


(保原歴史文化資料館)


(旧亀岡家住宅:住みたくなった・・・)

最初の中尊寺蓮から浄土信仰があって、資料館の霊山神社の歴史、
それから札所13番、悪路王伝承の神社(後で書きます)の流れだった。
台風の影響で雨が心配だったので帰ろうと思っていたのですが、神社へ行く途中に
「歓喜寺」の看板を発見。主人が「歓喜」という言葉にグっときたらしく、
行きたいと言う。なので、最後に寄ろうとなった。

歓喜寺は、歓喜天の関係?とは思うのですが、ご本尊は大日如来です。
行ってみたら、このお寺がなかなかすごいのです。
宇宙観をもった内容に、興味深々な私でした。

普通、神社参拝はよくあってもお寺は檀家ではない限り、
また札所観音巡りでもない限りは、立ちよることはないと思います。
しかし、お寺は神社より案外自由に迎えてくれます。
教会もそうですけど、人は誰もおりませんでしたが、
本堂の扉が少し空いていて、自由に参拝くださいとあった。



まずこのお寺の仁王像の由来について。
「補陀洛山仁王勧請の由来」
この二体の仁王像は、補陀洛山信仰熊野古道で名高い奈良県十津川村に
あった寺に納められていたものです。
明治のはじめ、激しい廃仏毀釈に遭い、この村内五十数ヶ寺すべての寺が
破壊され、焼失しました。
そのなかで、奇跡的に残っていた仁王像です。
この廃寺跡に残った山門の仁王は、その後、幾多の災害に見舞われながら
も今日まで逗まっていました。
しかし、平成二十三年九月。台風による土石流が発生し村落ごと飲み込まれ、
さすがの仁王門も跡形もなく流されてしまいました。
この時は数十名もの尊い命が失われる大惨事でありました。」

(紀伊半島大災害(台風12号)

「懸命な救出活動のさなか、ドロの中からなんとこの仁王像が無事に
掘り出されたのです。けれども被災した村落では、この仁王像を
お祀り申し上げるだけの力はすでになく、犠牲者供養の慰霊碑建立も
ままならない状況でした。
この話を聞きつけた東大寺所縁の僧が「それではこの仁王を引き取り供養
してくれる寺を探しましょう。その浄財で慰霊碑を建てることにしましょう」
ということになりました。
更に、華厳宗の所縁の僧がこれを申し受け、その縁で法圓寺好久が、
歓喜寺大旦那横山氏ご夫妻に、この仁王像勧請供養をお願い申し上げた
ところ、お心よくご寄進をお引き受け賜わりました。」




という話です。まだ説明は続くのですが、
表の仁王像が紀州熊野信仰で有名な玉置神社がある十津川村であり、
災害があったお寺の仁王様だったのです。
そんな話なのに、私は仁王様をあんまりよく見てなかった。。。
それにしても災害続き!

さて、ここから宇宙な話。
「奇しくも、補陀洛山歓喜寺本尊阿弥陀如来・大光山正徳寺本尊阿弥陀如来、
朝日山法圓寺本尊大日如来の三尊一体の「紅瑠璃色阿弥陀如来」顕現の
奇瑞に遭遇しておりました折も折のことでした。
東日本大震災以降、半田山、萬蔵楽山、朝日山(アルナーチャラ山)
を浄土とする三身仏出現の秘儀に遭遇していたのです。
その秘儀は、まさしく、天地創造開闢に関わるもので、大宇宙は
那羅延堅固王の「ア」なる口から創出され(大宇宙の始まりビッグバン)
やがて、大宇宙は密迹金剛力士「ウン」なる口の中にすべて
飲み込まれる(大宇宙の終わりブラックホール)という仁王そのものの
秘儀でもありました。
天地創造を統治する「紅瑠璃色阿弥陀如来」が大宇宙に浮かぶ、
麗しき瑠璃色の地球を抱き、無量光により包みこまれて「いま、ここ」に、
われわれや天地自然を擁護しお導きくださっておられるのです。」


という宇宙観が語られた深いお話でした。(看板の説明より)
熊野信仰とのご縁と、古来から補陀洛山の縁があることで、
仁王像がこの地にやってきたことへの繋がりには、
半田山と聖山といわれる萬蔵楽山にあると言えるわけです。

さて、この話から「県境には何かある」という確信じみたものは、
県境の峠には「エネルギーがたらふく眠っている」と思った。
それが開くとどうなるか・・・。

萬蔵楽山は宮城県と福島県堺にあたる。
国見町はいつも謎だった。
大体、雨が多いと思う。雨にあたる確立は高いです。
だからといって雨乞いをやっていた話しは聞かないけれど、
十津川村も三重県、和歌山県、奈良県の境にあたる。
そこで土石流が発生してしまったのですが、
そのような場所は、霊場になる。


萬蔵楽山の方(たぶん)

萬蔵楽山では古来から「要石」といわれる巨岩があった。
地震があると「萬蔵楽」と何度も声を出して唱えると鎮まるといった
由来がある。萬蔵楽山の「萬蔵楽」は、実は、曼荼羅のマンダラから
転じて萬蔵楽になったという話も冊子にのっていた。

もしかしたら、要石の由来から、ここに悪路王がいた話もあるので、
巨石と萬蔵楽山の関係、秦氏の半田山や養蚕、赤牛伝承(半田沼)などから、
いろいろと闇にされた桑折町の古代史が眠っているような気がします。

そうそう、冊子というのは、本堂に本や仏教のお話などの冊子が
よく置いてありますね。「必要な方はお持ちください」とあったので頂きました。
その冊子にいろいろと不思議現象や宇宙な話がたくさん書かれてました。
もう私はお腹いっぱいです。笑

ネットでも見られるのですが、実際、本堂に足を運んで参拝して頂いた方が、
萬蔵楽山のご縁と結ばれると思います。
興味ある方は、冊子を頂いてみるとよいと思います。

歓喜寺にくるまで、萬蔵楽山のことを忘れてました。
本堂をあがってすぐ左に大仏様がおりまして、人間に近いお顔で好きでした。
じっとみていたら、柱のお札の文字に目がいった。
「萬・蔵・楽・山」・・・デタっ!!
で、冊子を発見する。



県境の堺とは、端の文化がある。
それは霊をあの世へ導く働きがある。
そのため、サエの神などを置いたりするのですが、斎川のサイもそうだと思います。
その働きは「猿」とよばれる事が多い。
また、雄大な阿武隈川があったこともある。

萬蔵楽山については、岩淵遺跡で書いてますので割愛します。
以前から半田山は、萬蔵楽山の盾になっているような気はしていた。
萬蔵楽山を保護するために、半田山が目立っている。
半田銀山として有名でしたが、なぜここで源氏と阿部氏、奥州藤原氏が
関係していて合戦場になっていたのかも、関係するかもしれない。


桃の木~(桃は百というね。これもシンクロしてます)
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ところで、この冊子に書かれている「アルナーチャラ」を初めて知りました。
インドにある聖なる山ですが、この山がけっこう深いのです。
なぜ、大日如来は最高の太陽神として座すのか。
太陽とは何か。
私のハートチャクラのパカパカ現象の答えを教えてもらったようだ。

また貝田巫とよばれた名取老女と同じ巫女がいたと考えられる由縁は、
独眼竜の伊達政宗初陣の梁川八幡宮で口承される。ただ史書としての記録はない。
(岩手県川崎村の大和宗聖徳山大乗寺に「教祖貝田大法尼 旭大法尼精霊塔」が
建てられている。(名取老女和讃がある)

名取老女も「旭(朝日)」とよばれ、大日如来になった。
「九」をシンボルとする。
奥州藤原氏の蓮から札所観音霊場にいき、まつろわぬ民の神社へと
導かれたような気もする。やっぱし札所13番は名取老女と関係するのでしょう。
だから、奈良県吉野の十津川村にリンクするのだと思った。
ということは、名取老女は紀州からこの国見町の街道を通っていることは間違いないのです。

最後に立ち寄った歓喜寺というのも非常に興味がある。
と言いつつ、いつも旦那がみつけるが。
あの歓喜天だと思うから、ガネーシャでありインドがルーツだから。
そんな補陀洛山へ訪れ宇宙観にひたる。
それがアルナーチャラという山に意識をもたせる内容というのは、
何かの霊がここまで来たかったようだ。
宇宙へ逝ってくれたなら、それはそれで有難い。

さて、そんな宇宙なアルナーチャラについて妄想は広がる~。
つづく。
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奇跡の中尊寺蓮(泰衡蓮)

2018-07-29 | 東北地方の伝説(福島県)
久しぶりに昨日、福島県国見町へいった時の話です。
台風の影響は受けず、雨もあまり降らず晴れてました。
山を超える時は雨でしたが、平野部は曇り、時々晴れ。
やはり、国見町も福島県と宮城県の県境になり、やっぱりここも何かあって魅かれます。

以前、「イベント」で紹介していた保原歴史文化資料館へ行きたくて
主人と行って来たのですが、第二期は霊山神社の歴史についてです。
霊山はかなり気に入っている山で何度か登山をしていましたが、
紅葉の秋は素晴らしいです。
関東でも人気のある山で、多くの人が訪れる霊場です。

『南北朝時代の武将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の生誕700年を記念した
企画展「北畠顕家と霊山」が7日、伊達市の保原歴史文化資料館で始まった。』
・第2期 霊山神社創建の歴史 7月7日~9月30日



さて、資料館へ行く前に、いつもの4号から貝田の交差点を左折し、
福島盆地がよくみえる果樹園の道を通る。
この道がお気に入り。
水神を祀る神社の先を右折し以前行った岩淵遺跡のそばを通る。

保原へ向かう途中、しばらく走ると、「中尊寺蓮」の旗を発見。
なぜ中尊寺なんだろう?
導かれたように、蓮池に向かう。


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国見町のサイトより、

「平泉中尊寺・金色堂に伝わる藤原泰衡(第4代当主)の首桶に納められていた
蓮の種から開花した「中尊寺ハス」。
平成21年(2009)に株を譲り受け、地域の方々により大切に栽培されています。」




中尊寺ハス(中尊寺蓮)は別名を、泰衡蓮とも言う古代のハス。
この古代蓮は800年もの時を経て蘇ったもので、
中尊寺蓮は奇跡の蓮と称される。
奇跡といわれた蓮の発芽経緯について。



「それまでこのような蓮の存在は誰も知らなかった。
昭和二五年(1950)、植物学者の大賀一郎博 士(東大農学部教授: 1883-1965) は、
中尊寺金色堂御遺体調査に参加し、泰衡の首桶(くびおけ)の中から数個の蓮の種子を
発見した。更に博士は昭和二六年(1951)千葉検見川の古い土壌 からも
三個の古代蓮の種子を発見し、そのうちの一個が発芽し、大賀蓮と名付けられた。



しかし泰衡の首桶の種子の方は、発芽しないまま博士没後、中尊寺に返還され、
そのまま宝物とし て讃衡蔵(さんこうぞう)に眠っていた。
その後、数十年を経て中尊寺では、種子の発芽を大賀博士門下の長島時子教授に依頼した。
すると平成五年、見事発芽 に成功。
そして平成十年、およそ810年振りに薄紅色の大輪の花を結んだ。
しかもその蓮は誰もが驚くような美しい花だった。
蓮は、中尊寺蓮と名付けられ た。
その花の直径は約二十センチもある大輪で、花弁は十八枚。
咲き誇る時期は四日間余りと、実に儚い。」

※義経伝説(中 尊寺蓮は泰衡が蓮)より。
http://www.st.rim.or.jp/~success/yasuhirahasu.html


この青紫色の種が入っていたそうです。

国見町の中尊寺蓮は、中尊寺の蓮から株を譲り受けたそうだ。
蓮が咲くそばに、阿津賀志山防塁(あつがしやまぼうるい)がある。
平安時代末期の防塁。
阿津賀志山から約4キロメートル南下して阿武隈川に近い地点までの田園地帯に所在する。


阿津賀志山防塁


阿津賀志山

阿津賀志山の戦いは、文治5年(1189年)に鎌倉幕府創設期の源頼朝軍と、
迎え撃つ奥州藤原氏の軍が陸奥国阿津賀志山(厚樫山、現福島県伊達郡国見町辺り)
で戦った合戦である。

奥州藤原氏が滅亡したのは、4代目の藤原泰衡の時だった。
最後は首をとられて頼朝の前に差し出された。
誰かが、極楽浄土を望んで蓮の実を入れた。
殺害したのは、源氏ではなく泰衡が逃れた秋田県比内にいた河田次郎という人だった。



この合戦場で蓮が咲くようになったのも、地元の方の計らいですが、
こういう形で浄土が再び復活したことに、感慨深い思いがある。



貝田の伝承には、このあたりに大きな鷲が住んでいたという。
大きく翼を広げる鳥だが、魚をとって暮らしていた先住民のことをさす。
鷲や鷹などをトーテムとするのは、霊鳥がある。

火と太陽を崇拝する人々は、ワシを王者の魂の持ち主と考えられた。
北方シャーマンのブリヤート族は、人間の言葉を知らない鷲がいる。
東は邪悪な天神、西は善良な天神がいたと。

貝田の伝説では、その鷲は相馬の方まで餌を探しにいっていたが、
悪さをするようになったので撃ち殺したという。
しかし、疫病などが流行り悪いことが起こった。
村の人たちはその話しをきいて、これはきっと大ワシのたたりに違いない、
巣を探さがして霊をまつろうと、はるばる貝田まで尋て来きたのだそうです。

ブリヤート族では、最初に鷲と交わった人間が、最初のシャーマンだとされる。
鳥は「大鳥」や「鷲」「鷹」など、鳥に関係する神社はとても多い。
福島県の鷲宮がどこかわかりませんが、埼玉県に関東最古の鷲宮神社がある。
出雲族の創世に関わる神だといわれる。

その鷲の正体は、「アメノホヒ」という神ですが、
「ホヒ」が「ホピ」みたいだ。
ホヒとは、「穂霊」の意味として稲穂の神とする説と、
「火日」の意味として太陽神とする説があると。

なぜ、阿津賀志山付近で合戦場になったのか、以前から気になっている。
福島盆地の美しい風景があり、環境もよかっただろうし、丘陵地のように
なだらかな盆地であり美しい場所であることは確か。
今は桃の季節で、いたるところで桃の木をみかけた。

背後の山は、半田山の霊山があり半田銀山としても注目された。
その半田沼には、蜘蛛や赤牛、桔梗伝説もある。
何か他に理由があるはずだが、それがよく見えない。
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また、平安時代から最大炉の岩淵遺跡として阿津賀志山麓は、縄文から
続く大集落があった。
これらの住居跡の特徴に、最大級の複式炉があったことがわかっている。





その炉はそのまま時代を経ても利用され、鎌倉時代に足鍋という3本の足がついた
土製の鍋が発掘されるようになる。
三本足の足鍋は、上海ツアーへ行った時にみかけました。

それは土製の鼎(かなえ)というもので、元は中国の青銅器でつくられた
煮たきに使用する鍋である。
想像するに、先住民が使っていた炉を、源氏が後から征服して炉を使用し、
ここで鼎をたくさん作っていたのだろう。
この道具、元の使い方は、怖いもので、生贄用に煮るものだというのだ。
それが権力の象徴だったと。




トラの顔が彫刻されているとの事。


無錫にて。



後に仏教で使用する香炉として用いられ、現在では、宗教用の道具になっている。
道教では、禹が作らせるように指示したと伝わっている。
また、禹だね~。
禹の時は、3ではなく9鼎だったという。
それは9つの州(中国全土)を統治する意味があったそうだ。

中尊寺蓮があるように、福島県の国見町、貝田も奥州藤原氏が関係している。
なるほどっ。
だから、貝田和巫という名取老女と同じように語られた巫女がいるのだね。

ということで、どこか巫女の存在を感じつつ、次は資料館へGO~。
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