マスメディアが展開する雅子様バッシングには、いくつかの定番パターンがあります。ご公務の中で「私的行為」と位置付けらている「祭祀」もその1つで、ご病気療養中の雅子様が祭祀を十分にはできないことをあげつらい、祭祀ができなければ、「税金泥棒」「皇太子妃失格」「皇后失格」「そういう妃を庇う皇太子は即位の資格がない」と、小学生もびっくりの飛躍した言を弄し、日本国の法律に定められた正当な次期天皇ご夫妻を叩き潰そうとしています。そう、恐るべきことに現在進行形です。
その「ご公務」「祭祀」とはいったい何かを、私たちは検証してきました。
■検証:雅子様バッシングの棍棒として使われている「ご公務」とは?
■検証:雅子様バッシングに使われる「皇后・皇太子妃の祭祀の伝統」とは?
「ご公務」検証では、莫大な国税を湯水のように浪費する公務、利権の温床となっている公務が多いいことことがわかってきました。これを見直そうとする東宮ご夫妻を失脚させようとする勢力が東宮バッシングの大元ではないかという見方も出ています。
祭祀については、あくまでも天皇陛下が単独でなさるものであり、「皇后・皇太子妃の伝統としての祭祀」などは存在しないこと、雅子様をバッシングしたいがゆえに大げさに言い立てていることがわかりました。ここにも、東宮ご夫妻を失脚させようとする勢力の存在を疑わせるものがあります。
そこで、もっと突っ込んで「祭祀」というものを知りたい、研究しようということになりました。現在の皇室で行われている祭祀、天皇と神社の関係をたどっていく過程で、現在進行形で行われている異様な雅子様バッシング、東宮バッシングの謎を解くヒントに出会えるのではないかと期待します。
その謎解きのため、このトピックでリサーチしたいものを挙げてみます。
(1) 現在行われている皇室祭祀の全体像(かかわる人や組織、必要経費など)
視点:利権の温床となっている可能性、なりえる可能性はないか。
(2) 明治、大正、昭和の天皇、今上天皇の祭祀への関わり方
視点:祭祀への傾倒は「象徴天皇制を神権天皇制に逆行させるおそれ」はないか。
(3) 戦後の「象徴天皇における祭祀」をめぐる議論のおさらい。
視点:法学者や宗教者は、象徴天皇の祭祀をどう捉え、どう論じてきたか。
(4) 戦後の神社衰退の状況。勢力図。思想的背景など。
視点:男系男子派の神社勢力が東宮バッシングに関与していないか。
タイムリーな話題を扱う時事的トピックではなく、基礎的事項を固めていくお勉強系トピックという位置づけで、ゆっくり、じっくり進めていきたいと思います。ご参加いただける皆様におかれましては、ご自分が興味のあることを調べ、自由にレポートしていく、という形でご協力ください。週1回でも月に1度でもかまいません。関連資料の抜き書き、関連Webサイトの紹介など、いろいろなやり方を試してみたいですね。では、どうぞよろしくお願いします。
その「ご公務」「祭祀」とはいったい何かを、私たちは検証してきました。
■検証:雅子様バッシングの棍棒として使われている「ご公務」とは?
■検証:雅子様バッシングに使われる「皇后・皇太子妃の祭祀の伝統」とは?
「ご公務」検証では、莫大な国税を湯水のように浪費する公務、利権の温床となっている公務が多いいことことがわかってきました。これを見直そうとする東宮ご夫妻を失脚させようとする勢力が東宮バッシングの大元ではないかという見方も出ています。
祭祀については、あくまでも天皇陛下が単独でなさるものであり、「皇后・皇太子妃の伝統としての祭祀」などは存在しないこと、雅子様をバッシングしたいがゆえに大げさに言い立てていることがわかりました。ここにも、東宮ご夫妻を失脚させようとする勢力の存在を疑わせるものがあります。
そこで、もっと突っ込んで「祭祀」というものを知りたい、研究しようということになりました。現在の皇室で行われている祭祀、天皇と神社の関係をたどっていく過程で、現在進行形で行われている異様な雅子様バッシング、東宮バッシングの謎を解くヒントに出会えるのではないかと期待します。
その謎解きのため、このトピックでリサーチしたいものを挙げてみます。
(1) 現在行われている皇室祭祀の全体像(かかわる人や組織、必要経費など)
視点:利権の温床となっている可能性、なりえる可能性はないか。
(2) 明治、大正、昭和の天皇、今上天皇の祭祀への関わり方
視点:祭祀への傾倒は「象徴天皇制を神権天皇制に逆行させるおそれ」はないか。
(3) 戦後の「象徴天皇における祭祀」をめぐる議論のおさらい。
視点:法学者や宗教者は、象徴天皇の祭祀をどう捉え、どう論じてきたか。
(4) 戦後の神社衰退の状況。勢力図。思想的背景など。
視点:男系男子派の神社勢力が東宮バッシングに関与していないか。
タイムリーな話題を扱う時事的トピックではなく、基礎的事項を固めていくお勉強系トピックという位置づけで、ゆっくり、じっくり進めていきたいと思います。ご参加いただける皆様におかれましては、ご自分が興味のあることを調べ、自由にレポートしていく、という形でご協力ください。週1回でも月に1度でもかまいません。関連資料の抜き書き、関連Webサイトの紹介など、いろいろなやり方を試してみたいですね。では、どうぞよろしくお願いします。
■検証:雅子様バッシングに使われる「皇后・皇太子妃の祭祀の伝統」とは?
http://blog.goo.ne.jp/index2013/e/4a70def64487be0c86714b4643ae0f5b
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■宮中祭祀はあくまで天皇の、天皇による祭り
シロキジ様からのご紹介です。
・宗教ジャーナリスト斉藤吉久さんのサイト「斎藤吉久のイザ! ブログ」より引用
http://izasaito.iza.ne.jp/blog/entry/3041796/
皇后陛下も皇太子殿下も、天皇陛下がなさる祭祀にお供をするというお立場なのです。
最近は「陛下が祭祀に出席」と伝える新聞記事などをしばしば見かけますが、これも誤解を招く表現です。「出御(しゅつぎょ)」「お出まし」を平易に言い換えたつもりでしょうが、宮内庁が主催する祭祀に陛下が出席なさる、というのではありません。政府などが主催する戦没者追悼式や全国植樹祭にご臨席になるのとは基本的に異なります。
宮中祭祀はあくまで天皇の、天皇による祭りなのです。蛇足ながら、もうひとつ付け加えます。宮内庁のHPはいま、宮中祭祀について、「両陛下は祭儀を忠実に受け継がれ」と記述しています。官僚たちによる祭祀簡略化の事実が隠蔽されています。現在の宮内庁は天皇陛下の祭祀を正確に伝えていません
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■全国の神社は天皇との関係により序列化され国家神道の柱になっていった
auxilia様からのご紹介です。
・『別冊宝島38 タブーと常識に挑戦する 日本史読本』JICC出版局1983年より引用
>天皇の祭祀をめぐる謎を解明する(97項)
天皇制のキーポイントは、天皇の持つ宗教性の威力にある。世襲祭祀である大嘗祭の夜、そこでは何が行われているのか? 日本王権によるひとつの神秘劇、秘儀中の秘儀の謎にせまり、天皇制のタブーの核心をつく!
大嘗祭とは、新しく天皇位を継ぐ者がとりおこなわなければならない、天皇家のもっとも重要な世襲祭儀である。古代においては、一体だった即位と大嘗が、やがて即位礼と大嘗祭とに分化していき、さらに践祚(先帝の死後または譲位後に時をおかずに位につくための簡単な方式)が新しく始められて、けっきょく新王即位の全過程は、〈践祚ーー即位礼ーー大嘗祭〉という三段構成になるのである。
十世紀の『延喜式』には「凡ソ践祚大嘗ハ、七月以前ニ即位スレバ当年事ヲ行ヒ、八月以降ナラバ明年事ヲ行フ」とある。即位は、先王の死後または譲位の後、時間をおかずにおこなわれるのが恒例だったが、即位が真の正統性をもつのは大嘗祭をふくむ一連の祭儀が終了したあととされたのである。
古代天皇制国家の宗教的性格は、仏教、儒教、陰陽道の影響下にあったが、大宝律令の制定から、『延喜式』の成立にいたる間に、朝廷の祭祀は制度化され、体系化されていったようだ。
>新嘗・大嘗の区別はいつ始まったのか?(98項)
ところで『日本書紀』をみると、天武天皇の二年(六七三)以前には、新嘗と大嘗は区別されていなかったのが、天武天皇の時期から、毎年秋の新嘗祭と区別して、即位にともなう一代一度の新嘗祭を大嘗祭とよぶようになったことがわかる。
(111項)=前略=
ついで、明治五年から十八年にかけて、天皇が日本国中を巡幸する。その地には記念碑がたてられ“聖跡”とされる。この巡幸のたくみな演出で、当時の人びとの生き神信仰と天皇が結びついていく。全国の神社は天皇との関係によって序列化され国家神道の柱になってゆく……。
天皇の宗教的権威を誇示する宮中祭祀でも、古来から連綿と伝えられたものと思いがちだが、明治政府が新たに創設したり、再興したものの方が多いのだ。そして「天皇」ということばさえ、明治十五年頃にようやく定着したものだ。「玉」から「天皇」へ。=後略=
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■明治に「国家神道」になったが、戦後の神社は…?
Dianthus様のコメントです。
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明治以前は、日本人にとっての神道、皇室にとっての神道の位置づけは、かなり曖昧です。「伊勢神宮」は江戸時代、庶民におかげ参りが浸透して尊崇を集めていたけれど、庶民にとっては「天照大神」でなく、別の神様(豊受大神)の御社だった。というのも、中世にはもう「皇祖神天照大神の御社」としての皇室からの保護援助などとうになくて、すっかり荒れ果ててしまったため、生き残りをかけて伊勢神宮の宮司は、皇室とは無関係の別の神道の布教につとめ、それが庶民に浸透しての「お蔭参り」だったから。
(伊勢神道)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E9%81%93
(お蔭参り)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A
ところが明治時代になって、天皇の神格化と深く結び付いて国家神道ができ、伊勢神宮は皇祖神を祀る神社としての、神道の総本山の位置づけとなった。ほかの神社にしても、それ以前の、存亡の危機に直面した神道、神仏習合=仏教と結び付いて生き残ってきた神道とは、一線を画した感があったのではないか。廃仏毀釈なんてのもありましたしね。そしてそのような神道が成り立ったのも、明治という時代が要請した「国家神道」の一時期だけのこと。
一方で戦後、日本国民には全体的に「信仰」意識は薄れてしまいました(一部の新興宗教をのぞく)。観光のついでに由緒ある神社やお寺に参り、お賽銭をあげてお土産を買う、そんなぬるい信仰心しかなくなってしまって、庶民からお蔭参りみたいな熱狂が失われてしまった。そんないま、寺社はどうやって生き残っていくのだろうか。
状況を考えると、明治以前あるいはそれ以下に逆戻りしたくない、「国家神道」時代のような国家からの援助、あるいは後ろ盾のある形で支えられたい、そんな発想が出てきても全然おかしくないと思います。
そういえば、近年神社で「皇祖神が」「皇室が」の張り紙をよく見かける気がしますが、以前からそうだったのでしょうか。敬宮様ご誕生、いやそれ以上に悠仁さまご誕生時に、あちこちの神社に垂れ幕が下がり、とくに悠仁様ご誕生の方は、一般国民の意識とは相当にずれてお祝いしている、いつまでもし続けているという感がありますが、あれって、浩宮さまご誕生のときもそうだったんでしょうかね。
天照大御神の御神鏡をお祭りする賢所、
歴代天皇皇后、皇族の御霊をお祭りする皇霊殿、
八百万神をお祭りする神殿、
いわゆる宮中三殿がございます。
天皇家の私的行為「祭祀」において、この宮中三殿の御用をすることが、最も重要かつ日常的なものです。
終戦時、昭和天皇が三種の神器をお身近く離さずにおかれたこと。
「人間宣言」でも、アメリカ側に関心を持たれぬよう、あえて三種の神器に触れなかったこと。
…からも、その重要性が推察できるのです。
この日々の御祭は、平安時代から途切れることなく、内掌典の手で行われて参りました。
内掌典は、宮中三殿に仕える女性達で、今現在も厳しい戒律に従い暮らしています。
毎月1日には、天皇は賢所に御拝し、元旦の歳旦祭は天皇と皇太子の御拝です。その他、年間20回ばかりの御祭に天皇皇后、皇太子、皇太子妃が御拝なさいます。
少なくとも宮中祭祀に関しては、日常を取り仕切る内掌典、最高位の司祭としての天皇、後継者としての皇太子の世界であり、皇后皇太子妃は添え物でしょう。
マスコミは、雅子妃をそうバッシングします。しかし、皇后の祭祀自体が本来、ないものです。新たに祭祀を作成したいのであれば、それは充分に可能です。けれど、次代に引き継がせる意味はなくなります。新たに作成した祭祀が、祭祀との関わり方は御世と共に変化する証拠となるわけですから。
挙げることができぬ天皇は「半帝」と呼ばれた、大嘗祭ですら行えなかった天皇は仲恭天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇。
新嘗祭はもっと長期途絶し、後花園天皇の1462年を最後にして費用も要員も調達できなくなり、江戸時代中期1688年、東山天皇の御世に復活。もちろん江戸幕府の援助によります。
このような途絶ののち、見事に復活するのが皇室の祭祀です。皇太子妃の数年の療養が祭祀の断絶となるなどとは、歴史ある我が国を馬鹿にするのもいい加減になさい、と言いたくなりますね。
「断然」
ではなく
「断絶」
でございます。
訂正いたします。
これが東宮ご一家バッシング派の決めゼリフです。
ゆえに徳仁皇太子は即位しても、すぐ秋篠宮に譲位し、悠仁親王に皇位を男系男子継承せよ、と。(とにかく悠仁親王即位が最終にして最高の目的のようです。)
しかし、彼らは、祭祀の変遷を知ったうえで騒ぎたてているのでしょうか。
皇室祭祀が明文化されたのは、明治になってのことです。そして、旧皇室典範下での天皇の親祭13のうち、明治になっての創案儀礼が11を占めるのです。
厳密に言えば古制は新嘗祭のみであり、神嘗祭は伊勢神宮の祭典を皇室祭祀に取り入れた祭りです。
1870年代以降に創案された儀礼を「皇室の伝統」とは呼びづらいでしょう。国策としての国家神道が絡みますし。
創案された祭りがあるなら、廃止された祭りもあります。天皇守護の八神奉齋は、天神地祇に組み込まれ春季・秋季神殿祭となりました。
11新祭祀のうち7祭が皇霊(皇室の先祖)に関する祭祀となります。
この天皇家アゲアゲ感は何なのか、次に書きたいと思います。
1868年(明治2年)1月、神祇を掌握する中央官衙として神祇事務課が創設される。
翌月、神祇事務局と改称。3月には神祇官再興と祭政一致の布告。切支丹禁止。神社に奉仕する僧侶の還俗を命ずる。神道と仏教を分離する神仏判然令が出る。
要するに、廃仏毀釈。奈良興福寺五重塔が50円で売り出されたのも、この頃。
明治政府は、徳川幕府を叩き潰して成立しました。幕府は旦那寺と檀家の寺請制度を作り、国民の宗門改をしました。つまり、徳川幕府は仏教と結びついている。
ゆえに、明治政府は神道を唯一国教とし、仏教もキリスト教も追放したかった。
しかし、日本人の宗教観は多神教由来の曖昧なもので、個人の祖先は仏教で祀り、村と言う共同体は鎮守の神様(神道)で祭る。それが身に染みて、檀家を氏子には変えられない。
1871年、神祇官は神祇省に格下げ。
おまけにキリスト教禁止を諸外国に抗議され、ちょうど不平等条約の改正もしたい政府は、1873年、キリスト教禁止も撤回。
1872年、神祇省廃止。
神道を唯一国教とする取組みは、早々に挫折。
で、明治政府は神道を宗教ではなく、国家のシステムとする国民教化運動を展開することにした…。続く。
ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません、INDEXです。澤の鶴さまが書いてくださる皇室祭祀の歴史について、頼もしく拝見しながら、御礼をお伝えする機会を逸してしまいました。今日、ようやく時間を得て、他のトピックに書かれたものも合わせて、まとめて再読させていただきました。改めて澤の鶴さまのご考察の鋭さ、面白さに感動しました。8月から今まで書いてくださった連載の一覧を、私なりのメモとともに書き出してみます。
(1) 天皇家の祭祀。 │2013-08-05 10:41:24│
皇居の奥には宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)があり、天皇は毎月1日、賢所に御拝。元旦の歳旦祭は天皇と皇太子が御拝。年間20回ほどの御祭に天皇皇后、皇太子、皇太子妃が御拝。宮中祭祀については、内掌典(日常を取り仕切る)、天皇(最高位の司祭)、皇太子(後継者)の世界で、皇后皇太子妃は添え物。
(2) 祭祀の断絶? │2013-08-14 15:00:55│
ご病気のため美智子皇后から「皇后の祭祀」を受け継げない雅子妃は皇后失格とマスコミはバッシングするが、「皇后の祭祀」など本来ない。大嘗祭すら行えなかった時代もあり、新嘗祭は後花園天皇の1462年を最後に途絶。江戸時代中期に幕府の援助により復活。こうした長い途絶ののち見事に復活するのが皇室の祭祀であり、皇太子妃の数年の療養が祭祀の断絶となるなどとは、歴史ある我が国を愚弄するもの。
(3) 祭祀の伝統とは。 │2013-09-09 13:07:56│
皇室祭祀が明文化されたのは明治になってからで、旧皇室典範下での天皇の親祭13のうち、明治になっての創案儀礼が11を占める。1870年代以降に創案された儀礼を「皇室の伝統」とは言い難い。国策としての国家神道が絡む。11新祭祀のうち7祭が皇霊(皇室の先祖)に関する祭祀だ。この天皇家アゲアゲ感は何なのかを次回で。
(4) 祭祀の子細。│2013-09-11 20:00:15│
11新祭祀のうち7祭は皇霊(皇室の先祖)に関するもの。日本は大昔から天皇に支配されている国と強調する、明治維新後の近代天皇制と併行して現れた、政治的思想的な役割を持つ新設祭祀である。この140年のうちに私達は、天皇の、皇室の全ての祭祀は古代から連綿として受け継がれた祭典であると錯覚してしまった(維新の重臣達の目論見成功)。むしろ、天皇制は時代に合わせ柔軟に劇的に変化することにより継承されてきた、世界的に見て稀少な制度である。
(5) もっとしらける為に… │2013-09-12 20:08:30│
戦前の天皇の13親祭のうち11は明治生まれ。その定め方に明治政府の宗教改革の七転八倒ぶりがうかがえる。天孫降臨と天津日嗣を祝う「元始祭」は1月3日と定めた。元旦は四方拝と歳旦祭、2日は参賀があるため。神武天皇即位を祝う「紀元節」は2月11日と定めた。旧暦元旦に祝うべきだが、新採用の太陽暦では毎年祝日が動いてしまうため、旧元旦付近で1のつく日を選んだ。「春季・秋季皇霊祭」は、神武~先帝、皇后、皇妃等の鎮魂を春彼岸・秋彼岸に行う。明治以前は宮中の祖先祭祀は仏式の彼岸会だったが、それを神道に直した。
(6) 国家神道は宗教ではない。│2013-09-16 16:36:36│
王政復古の大号令と共に始まった明治宗教改革の朝令暮改ぶりを供覧する。1868年1月、神祇を掌握する中央官衙として神祇事務課を創設。翌月、神祇事務局と改称。3月に神祇官再興と祭政一致の布告。切支丹禁止。神社に奉仕する僧侶の還俗を命ずる。神道と仏教を分離する神仏判然令(廃仏毀釈)。明治政府は徳川幕府と結びついた仏教、異国のキリスト教を追放し、神道を唯一国教としたかった。しかし、日本人は祖先は仏教で祀り、村は鎮守の神様(神道)で祭る。檀家を氏子には変えられない。1871年、神祇官は神祇省に格下げ。1872年、神祇省廃止。1873年、キリスト教禁止も撤回。神道を唯一国教とする取組みは早々に挫折し、明治政府は神道を宗教ではなく、国家のシステムとする国民教化運動を展開することに方向転換した。
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この続きを、ぜひ拝読したいです!
もちろん、お時間があるときで結構ですので、連載の再開をお待ちいたします。
丁寧なご挨拶とわかりやすいまとめ、ありがとうございます。
非インテリジェントな環境に棲息する、非インテリゲンチャ澤の鶴ゆえ、お目まだるいことでしょうが、どうぞお許し下さい。
今上に批判的な意見は一言一句書けない現在の背景は、戦前の国家神道の頂点に立つ天皇=現人神から生じ、国家神道は近代天皇制を国民に浸透させるツールとして明治政府により作成されました。
私の個人的意見ですが、明治政府が初期に仏教キリスト教を完全に排斥し、天皇家の宗教である神道を唯一国教となしていたなら、現人神(天皇は神の子孫)設定はあれほど過激ではなかったのでは、と思うのです。
しかし現実、国民は個人の祀りとしての仏教を離さず、外国からの圧力に屈してキリスト教をも解禁した。
それなら、対抗する神道をいかにしてバージョンアップするか。仏教キリスト教と異なり、創始者のいない自然宗教・神道には現人神天皇を創設する。
そんな体制が終戦まで続きました。
神道は天皇家の宗教と書きました。同時に、日本全土に神道の下地があったのです。
幕末の神道構成要素は以下、
①神社神道
②皇室神道
③学派神道
④教派神道
⑤民間神道
この神道の構成要素の説明は、次回させていただきます。
さっそくに続きをご投稿いただき、ありがとうございます。私のメモは、自分が読解・理解するためにとったメモで、お恥ずかしい限りです。今回のご投稿では、下記の流れが明示され、頭がすっきりとしました。
・国家神道は「近代天皇制を国民に浸透させるツール」として明治政府により作られた。
・今上に批判的な意見は一言一句書けない現在の背景には、国家神道の頂点に立つ天皇=現人神という教えの浸透がある。
また、「明治政府が初期に仏教キリスト教を完全に排斥し、天皇家の宗教である神道を唯一国教となしていたなら、現人神(天皇は神の子孫)設定はあれほど過激ではなかったのでは」という視点、興味深く拝読しました。
次回以降は、「日本全土に神道の下地があった」ということで、幕末の神道構成要素のご説明に入っていくのですね。非常に楽しみです。
ところで、一連のご考察を、できるだけ多くの人に読んでいただきたいという観点から、当ブログのまとめサイト(準備中)に、連載コラムとしての掲載を、お許しいただけないでしょうか。
厚かましいお願いで恐縮ですが、澤の鶴様のメールアドレス(一時の捨てアドでも結構です)をご連絡いただければ、有難いです。より詳しいご説明をさせていただきたく。ご連絡は、コメント欄のタイトルに(私信)と書いていただければ、公開されることなくINDEXに届きます。どうぞよろしく、ご検討くださいませ。
ゆえに「国家神道」と言うツールを持ち出されても、国民はさほどの拒絶をしなかったのです。
以下、幕末までの神道構成要素。
①神社神道 宗教施設を中心に営まれる宗教。日本の原始社会で成立した原始宗教を受け継ぐ。
②皇室神道(天皇家の神道) 祭司王としての天皇の宮中祭祀。
③学派神道 宗教思想としての神道。各派あり。
④教派神道 幕末に出現した神道ベースの新興宗教。
⑤民間神道 中世~近世に形成された民間の神道行事と習俗。
民間神道の一つとして、高知県山間集落に「いざなぎ流」が伝えられています。原始宗教の神道に仏教・陰陽道が混ざりあい、しかも共存している。いざなぎ流を信ずる集落の家の床の間には、天照大御神と弘法大師の軸が並んで掛けられている。また、祭の日の神社では、国が決めた神主が祝詞を唱える脇で「いざなぎ流」の太夫が祭文を唱えている。いざなぎ大王の教えをこの地に広めたのは、天中姫宮だそうです。つまり男女セットの布教です。
実に、日本本来の宗教を現しております。