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「暖段はこベッド」を開発したJパックス社長水谷嘉浩さんに、拍手!

2019年03月12日 05時22分22秒 | 時事放談: 国内編

Jパックスのような会社に、大儲けしてもらいたいものです。

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段ボールベッドで避難所革命 東日本大震災がきっかけで開発、下町企業が利益より優先するものとは

段ボールベッドで避難所革命 東日本大震災がきっかけで開発、下町企業が利益より優先するものとは

段ボールの簡易ベッドに腰掛ける、Jパックス水谷嘉浩社長=大阪府八尾市、伊藤弘毅撮影

(withnews)

 東日本大震災の発生から、今日で8年。地震や大雨といった自然災害が起きるたび、いまも全国各地で避難所が設営されます。そこで最近、段ボール製の簡易ベッドをよく見かけるようになりました。固い床に寝るよりも疲れがとれて暖かく、心身の負担を和らげられるといいます。他人の視線を遮る仕切りもつけられます。雑魚寝が当たり前だった空間を変えたのは、小さな段ボールメーカーの社長でした。(朝日新聞経済部記者・伊藤弘毅)

西日本豪雨の避難所にもずらり

 広範囲で被害を出した、昨年夏の西日本豪雨。避難所になった広島市の小学校体育館には、段ボール製の簡易ベッドが並んでいました。大阪府八尾市の「Jパックス」が開発したもので、水谷嘉浩社長(48)が自ら組み立て方を教えてまわっていました。

 Jパックスは1951年の創業で、大阪府内や京都府、奈良県などの企業向けに段ボールをつくり、売っています。従業員数35人、売上高約5億円の中小企業です。

3・11後、試作品完成「拡散希望!」

 段ボールベッド開発のきっかけは、2011年3月11日に起きた東日本大震災でした。自身も東京出張中に強烈な揺れを経験した水谷さん。東北地方の底冷えのする避難所では、雑魚寝で体調を崩す人が多いと知りました。

 保温性のある段ボールでベッドを作れば、床に寝るより確実に温かい。足も伸ばせるため、エコノミークラス症候群にもなりにくいのでは。そう思いついた水谷さんは、さっそく会社にある資材でベッドを組み立て、画像を添えてツイッターに投稿しました。

 「拡散希望! 段ボール製簡易ベッドの試作品完成。たくさん作って被災地に寄付します。少しでもお役に立てれば。このツイートが被災地の方に届け!

被災地へ7往復のトラック便

 それを見た宮城県石巻市の医師が反応し、まず200床分を用意。自らトラックを運転し、避難所に届けました。大阪と被災地のトラックでの往復は、通算7回におよびました。

 ある避難所では、最初の訪問時に寝たきりだった高齢の女性が、1カ月後に再訪すると手押し車を頼って歩けるまで回復していたといいます。「ベッドのおかげだと感謝された。必ず役に立つと確信した」。水谷さんが段ボールベッドの普及を目指そうと決めた瞬間でした。

 最初の試作品は200床分を組み立てるのに、約30人の従業員が総出で3日かかったといいます。もっと簡単に組み立てられないか。そこで、大きな箱のなかに小さな箱を入れて強度を増し、それを六つ並べてベッドにする方法にたどりつきました。カッターを使わずに1台15分で作れて、大人が20人乗っても壊れません。これを「暖段はこベッド」と名付け、意匠・商標登録を取得しました。

設計図を無償提供「普段はライバルだけど」

 水谷さんはその設計図を、業界団体の全国段ボール工業組合連合会に無償で提供することに決めました。災害時に全国にある段ボールメーカーが避難所に届けるベッドの材料を作り、すぐに直接届ける体制をつくるためです。水谷さんは「他のメーカーは普段はライバルだけど、いざという時にはすごく役に立つインフラになる」と話します。

 受け入れ先の開拓にも取り組みました。東日本大震災では、多くの自治体が「前例にない」との理由で、避難所での段ボールベッドの利用に難色を示したといいます。水谷さんは仲間の医師らと協力し、避難生活が健康に及ぼすデータを集め、業界団体を通じて段ボールベッドの普及を行政に働きかけ続けました。そして16年、政府の避難所運営ガイドラインに段ボールベッドが盛り込まれました。いまでは32道府県、300以上の市町村と、災害時にベッドを供給する協定を結んでいます。

 自らの会社を経営しつつ、避難所の環境改善のために「無理解」と闘った水谷さん。「正直に言ってしんどかったけど、必死で作った実績がいまにつながった」と話します。 

8年間の普及活動、熱意どこから

 売上高に占める段ボールベッドの割合は、現時点で会社全体の2%ほどに過ぎません。それにも関わらず、水谷さんは東日本大震災の発生直後から8年間、手弁当でベッドの普及活動を続けてきました。仲間と立ち上げた「避難所・避難生活学会」では、理事と事務局も務めます。その熱意は、一体どこからくるのでしょうか。

Jパックスは水谷さんの祖父が創業しました。3代目の水谷さんは03年に父から経営を引き継ぎました。大手段ボールメーカーを辞めて戻ってきた会社は「ほぼ倒産状態だった」(水谷さん)といいます。

 ある月、ついに資金繰りに行き詰まりました。「もう無理や。銀行さんに手、挙げよう」。父の言葉に、水谷さんも倒産を覚悟したそうです。しかし、そのすぐ後。祖母が積み立てていた「結構な額」の郵便貯金の通帳が偶然見つかり、難を逃れたそうです。「自分は世の中から生かされた、と感じた」。水谷さんは当時を振り返り、そう話します。この時から抱くようになった「いつか、社会に恩返しせなあかん」という思いが、水谷さんをベッドの普及活動へと駆り立てているそうです。いまでは社名を見た客から「ああ、段ボールベッドの」と言われるほど、世間に浸透しました。

「数字に表れない価値がある」

 ただ、本業はいまも厳しいといいます。ネット通販の普及で段ボールの市場は拡大しているものの、原料となる古紙の価格も上がっています。その分を商品価格に転嫁するのは、中小企業にとって簡単ではありません。

 そこで、ベッドの売り上げを増やそうと、ホームページを整備して個人や企業でも買えるようにしました。価格は1台7980円(税別)から。粘着テープも使わず組み立てられるよう改良し、設営時間を約4分まで縮めました。備蓄時は高さ60センチ、幅108センチ、奥行き27センチの箱に収まります。

 水谷さんは、段ボールベッド事業に強い思いを持っています。「数字に表れない価値がある。被災者のために長く続けていきたい」

「被災地のため」 社長の純粋な思い

 水谷さんに話を聞くまで、段ボールベッド事業は収益面でもっと会社に貢献しているものだと思っていました。だからこそ、大企業と違って人手や予算に余裕のない中小企業経営のかたわら、自然災害が起きるたびに現地へと支援活動に出向くのだろう、と。実際に水谷さんを動かしてきたのは、「被災者のために」という純粋な思いでした。12年にイタリア北部で起きた大地震の際には、支援活動を学ぼうと現地まで飛んだといいます。

 社会を変えようと「前例の壁」に挑み続けた日々を、水谷さんは「無理解との戦いだった」と振り返ります。そんな活動を支えた熱意の源泉には、死者1万5千人超、行方不明者2千人以上という甚大な被害を出した、あの震災がありました。

 立っていられないほどの突き上げるような縦揺れ、長く大きな横揺れ。刻々と伝えられる原発の危機、放射性物質汚染、食料や燃料不足、計画停電。当時群馬県の総局に勤め、震度5強の揺れを経験した私は、何度も「日本はどうなってしまうのだろう」と感じたことを思い出します。防災やエネルギーの問題など、その後に日本社会が大きく変わるきっかけにもなりました。しかしその記憶も、時間とともに薄れつつあるように感じます。

 たとえ小さな動きでも、長く続けることで大きな結果が得られる。「私もかすみを食べて生きているわけじゃないんだけど」と苦笑しながら、段ボールベッド事業のもつ価値について語る水谷さんの姿は、大切なことを思い起こしてくれました。
 
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暖段はこベッド」にいつお世話にならんとも限らないのが、全国の日本国民です。日本政府・自治体は、水谷さんのような社会貢献をしている人をきちんと形(金)で報いるべきではないでしょうか。
 
水谷さんのような熱いおもいをする人がいて、多くの人が苦痛を和らげることができるのです。東日本大震災の惨事を忘れることなく、今日の防災に活かさないといけません。とはいえ、満足な備蓄食料も用意していない貧乏英語塾長なのですが(反省)。

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