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井村雅代シンクロ日本代表ヘッドコーチに学ぶ(2)

2014年08月13日 07時02分53秒 | 時事放談: 国内編

今日も、井村コーチから学びます。

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【話の肖像画】シンクロ日本代表ヘッドコーチ・井村雅代(63)(2)
産経新聞 2014.8.13 03:13

 ■続ければいつかは上手に

 シンクロナイズドスイミングの人生を歩むきっかけとなったのは、母からの一言でした。小学生から水泳を習い、一通り泳げるようになったときに自宅へ届いた一枚のはがき。「シンクロクラブへ入りませんか」という文字に、「シンクロはきれいだよ」と。母はバレエやフィギュアスケートなど美しいものが大好きだったので、私は中学1年生からこの世界へ足を踏み入れました。

 実は運動神経が良くありません。泳いでいても、後ろで先輩の泡ばかりを見ていた。でも負けず嫌い途中で投げ出すということを知らず、できなければ、もう少し粘って練習をしよう、続ければいつかは上手になると信じて競技をしていました。私が他のコーチと違うところは、技術力でも指導法でもなく、あきらめないだけ。しつこいだけですね。

 この性格もあって力がつき、大学4年生だった1972年ミュンヘン五輪で、五輪種目入りを目指す競技が参加する公開競技の日本代表として出場。1位米国、2位カナダ、3位日本でした。当時は動きが速く力強いシンクロが主流で、芸術性を武器とする現在の女王ロシアの姿はありません。大学を卒業後、中学校の体育教師になり、夏休みの間、シンクロクラブの手伝いに呼ばれたのが指導者への道の始まりです。

 〈85年、井村シンクロクラブを設立した〉

 シンクロは84年のロサンゼルス五輪で正式競技になりました。その2年前、シンクロクラブから「教師を辞めて専任コーチになってほしい」と依頼され、上級クラスのコーチになり、五輪のソロ、デュエットで銅メダルを胸に帰ってきましたが、当時、クラブの経営状況は厳しく、御役御免に。教え子には「ここで頑張りなさい」と伝えてプールを去りました。すると、指導していなかった中級クラスの選手2人が「先生に見てもらうことが夢だった。見てもらえなければシンクロをやめます」と追ってきたのです。どうにかしなければいけないと考えた結果が、自分でクラブを作ることでした。

 クラブ設立については、御役御免になった事情を知らない人からのバッシングも多かった。「私のスイミングスクールで教室を開けばいい」と言ってくださる方もいましたが、親切な方に迷惑をかけることはできません。またプールの建設を提案してくれる会社経営者の方もいましたが、維持費を稼ぐこと、お金もうけをすることにエネルギーを使いたくなかった

 私は強い選手を育てたい。この気持ちを大事にして、自分のプールは持たず、練習は公共プールを使用するスタイルを今でも続けています。2人の選手を連れてプールを転々としているうちに志の高い仲間が増え、今では約40人が世界のトップを目指して練習に励んでいます。(聞き手 青山綾里)

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今日も胸に応える言葉があります。

 できなければ、もう少し粘って練習をしよう、続ければいつかは上手になる

 私が他のコーチと違うところは、技術力でも指導法でもなく、あきらめないだけ

貧乏英語塾長も、当英語塾INDECの会員を指導するに当たっては、会員にも自分にもあきらめないことだけを念じて行っていますが、井村コーチの足元にも及ばないと反省するしかありません。

しかも、世界のトップをめざす選手が40人も井村コーチについてきているというのですから、華々しい実績の裏にきめ細かい指導法をお持ちなのだと頭が下がります。

あきらめずに、頑張り続けないといけません。


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