今は、神戸を離れ違う土地に住んでいるが、神戸が地元であるため、
年に数回帰省する。
たまたまだけど、昨日も神戸に帰っていた。
12年前は、神戸を離れ加古川に住んでいたが、神戸とはすぐ近く。
朝のあの揺れも、すごかった。
寝ていたため一体何が起きたのか、地震だと言う事だけはわかったが。
まだ新築1年の家が、ミシミシ音を立てて揺れた。
家は大丈夫、揺れが大きかったな、くらいにしか思わずに、
いつもの出勤準備をし、テレビをつけるがその時はまだ、
阪神高速が落ちているなんて知らなかった。
電気もついたし、ガスも出たし、水道も出た。
JRの駅に向かうと、駅は人であふれてた。
「ああ、地震あったから電車止まってるんや。」くらいにしか思わなかった。
電車が動かないと、仕事に行けないので自宅に戻り職場の友人に電話して、
「地震あったからJR止まってるけど、午後には動くやろなぁ。
そしたら出勤するわ。」
と、7時半の時点でもこんな感じであった。
その後、この友人とは3ヶ月以上会う事ができなかったし、
電話すら出来ない状況だった。
そして、テレビをつけるとそこには、阪神高速が落ちている映像が。
やっとその時点で、事の重大さが判った。
それからは、家族の安全を確かめるため電話しまくる。
さっき友人宅に電話した時には、通じたのにもう電話回線が不通状態。
ともかく親が心配だったので親の家に急ぐ。
近くに住んでいたので、家は大丈夫だったが、本棚が倒れ、
ガラスが散乱していた。
それを片付け、また自宅に戻る。
その後、どうしていたのか、今は記憶ない。
夜になり、職場の上司から連絡が入る。
公衆電話からであった。
会社や家の電話は、電話が殺到しているので不通状態なので、
公衆電話は、唯一回線が優先されるからと。
その時は、ライフラインの大手ガス会社に勤めていたので、
会社自体もそれこそ大変であっただろうに、社員と社員の家族の安否確認。
家で過ごせていた、私はなんという奴だろうと思った。
神戸市内の職場には通えないので、翌日からは車で行ける、
近場の職場に出勤するようにとの事だった。
そこは、神戸市内の職場に転勤する前に働いていた所だったので、
みんな知った人ばかりだったが、その時に出勤しても仕事は無い。
そこでじっとしているのも嫌だったので、本社の上司に掛け合い、
以前バイトに行ってた所に、ボランティアとして行かせて欲しいと。
神戸にある血液センターもダメになっているのに、
血液が必要となっている今、それくらいしか出来ない。
上司からは、すぐに許可が出てボランティアで一ヶ月いた。
その後は、ガスの復旧隊に参加し、西側から神戸市内に向かって動いたな。
JRが、神戸駅まで復旧した時、神戸の職場が気になり電車で行った。
その時、長田あたりに電車が来ると、辺りは一面焼け野原。
自宅跡で何か残っていないかと、捜し求めている人々。
その姿を見て、涙があふれてきた。
自分は、家も体も身内も大丈夫。
でも、同じ神戸の人たちは・・・・。
その光景が、未だに忘れられない。
復旧隊では、日本全国からガス会社の人たちが来てくれてた。
もちろん泊まりがけ、朝早くから暗くなるまで一生懸命頑張ってくれた。
今住んでいる地域の、東邦ガスの方々も来てくれていたのを覚えている。
寒い時期であり、風邪引きながらも頑張ってくれてた。
そう言う人達の健康管理も私の役目だった。
作業中の怪我で、病院に行かないといけない場合も、ついていってた。
本当に、あの時は、皆が一生懸命で、一日も早く神戸を復旧させようと、
頑張ってくれてた。
そう言う人たちと関われた事は、今でも私の自慢である。
でも、地震は、大嫌い。
東海大地震がくる。
なんて事も、よく耳にするが。
天災だから自分では、防ぎようが無いが、でも、もし今、
東海地震があったら・・・・。
きっと、またボランティアに行ってしまうだろうな。
阪神大震災のときの、沢山お世話になった方々に少しでも、
お礼したいという気持ちが、あるからね。
この先、何年経っても、神戸に戻って住む事無くても、
阪神大震災の事は忘れない。
何かあれば、こんな自分でもできる事があれば、やりたいと思っている。
年に数回帰省する。
たまたまだけど、昨日も神戸に帰っていた。
12年前は、神戸を離れ加古川に住んでいたが、神戸とはすぐ近く。
朝のあの揺れも、すごかった。
寝ていたため一体何が起きたのか、地震だと言う事だけはわかったが。
まだ新築1年の家が、ミシミシ音を立てて揺れた。
家は大丈夫、揺れが大きかったな、くらいにしか思わずに、
いつもの出勤準備をし、テレビをつけるがその時はまだ、
阪神高速が落ちているなんて知らなかった。
電気もついたし、ガスも出たし、水道も出た。
JRの駅に向かうと、駅は人であふれてた。
「ああ、地震あったから電車止まってるんや。」くらいにしか思わなかった。
電車が動かないと、仕事に行けないので自宅に戻り職場の友人に電話して、
「地震あったからJR止まってるけど、午後には動くやろなぁ。
そしたら出勤するわ。」
と、7時半の時点でもこんな感じであった。
その後、この友人とは3ヶ月以上会う事ができなかったし、
電話すら出来ない状況だった。
そして、テレビをつけるとそこには、阪神高速が落ちている映像が。
やっとその時点で、事の重大さが判った。
それからは、家族の安全を確かめるため電話しまくる。
さっき友人宅に電話した時には、通じたのにもう電話回線が不通状態。
ともかく親が心配だったので親の家に急ぐ。
近くに住んでいたので、家は大丈夫だったが、本棚が倒れ、
ガラスが散乱していた。
それを片付け、また自宅に戻る。
その後、どうしていたのか、今は記憶ない。
夜になり、職場の上司から連絡が入る。
公衆電話からであった。
会社や家の電話は、電話が殺到しているので不通状態なので、
公衆電話は、唯一回線が優先されるからと。
その時は、ライフラインの大手ガス会社に勤めていたので、
会社自体もそれこそ大変であっただろうに、社員と社員の家族の安否確認。
家で過ごせていた、私はなんという奴だろうと思った。
神戸市内の職場には通えないので、翌日からは車で行ける、
近場の職場に出勤するようにとの事だった。
そこは、神戸市内の職場に転勤する前に働いていた所だったので、
みんな知った人ばかりだったが、その時に出勤しても仕事は無い。
そこでじっとしているのも嫌だったので、本社の上司に掛け合い、
以前バイトに行ってた所に、ボランティアとして行かせて欲しいと。
神戸にある血液センターもダメになっているのに、
血液が必要となっている今、それくらいしか出来ない。
上司からは、すぐに許可が出てボランティアで一ヶ月いた。
その後は、ガスの復旧隊に参加し、西側から神戸市内に向かって動いたな。
JRが、神戸駅まで復旧した時、神戸の職場が気になり電車で行った。
その時、長田あたりに電車が来ると、辺りは一面焼け野原。
自宅跡で何か残っていないかと、捜し求めている人々。
その姿を見て、涙があふれてきた。
自分は、家も体も身内も大丈夫。
でも、同じ神戸の人たちは・・・・。
その光景が、未だに忘れられない。
復旧隊では、日本全国からガス会社の人たちが来てくれてた。
もちろん泊まりがけ、朝早くから暗くなるまで一生懸命頑張ってくれた。
今住んでいる地域の、東邦ガスの方々も来てくれていたのを覚えている。
寒い時期であり、風邪引きながらも頑張ってくれてた。
そう言う人達の健康管理も私の役目だった。
作業中の怪我で、病院に行かないといけない場合も、ついていってた。
本当に、あの時は、皆が一生懸命で、一日も早く神戸を復旧させようと、
頑張ってくれてた。
そう言う人たちと関われた事は、今でも私の自慢である。
でも、地震は、大嫌い。
東海大地震がくる。
なんて事も、よく耳にするが。
天災だから自分では、防ぎようが無いが、でも、もし今、
東海地震があったら・・・・。
きっと、またボランティアに行ってしまうだろうな。
阪神大震災のときの、沢山お世話になった方々に少しでも、
お礼したいという気持ちが、あるからね。
この先、何年経っても、神戸に戻って住む事無くても、
阪神大震災の事は忘れない。
何かあれば、こんな自分でもできる事があれば、やりたいと思っている。