トドクロちゃんと山登り

自然が好きで日本アルプスと近郊の山登り。
高山植物や四季折々の花を愛で。
史跡・歴史・ドライブがすきな自由人です。

木地師の里と政所茶(東近江)

2019年05月18日 | データ
 先日、姉の嫁ぎ先へ久し振りに訪問し雑談。
その際にお茶の在来種の話が出た。現在一般的に飲まれているお茶の約80%が「やぶきた茶」で残りの20%が在来種などである、この在来種は飲んだ事が無い。
在来茶とは日本古来より山里に自生する野生種のことで現在では殆んど見ることの出来ない貴重な品種らしい。
 
昨年、鈴鹿山脈の「日本コバ」を登ったがその登山口が在来種の政所茶生産地である事を思い出し訪れる事に。
そこは木地師発祥の場所だったりで歴史的に興味がある。
 
■2019.05.17
まずはいなべ向けて車を走らせる。
いなべ市からは石槫トンネルを抜けると東近江市に入る。
しばし峠を下ると「道の駅 奥永源寺渓流の里」に着く。
そこからしばらく木地師街道をゆくと蛭谷にある筒井神社に到着。
筒井神社の由緒。
木地師の祖とされる惟喬親王とは
惟喬親王
は承和十一年(八四四)、第五十五代文徳天皇(もんとくてんのう)の長子として生まれた。幼いころから聡明で、父・天皇は親王をことのほか愛されていたという。親王が七歳のとき、弟宮・惟仁親王(これひとしんのう)が誕生された。この時点で惟喬親王の運命は暗転した。
 惟喬親王の母・静子は紀氏出身である。紀氏は由緒ある氏族であるが、政界では勢力がなかった。いっぽう、あらたに誕生した惟仁親王の母は、太政大臣・藤原良房の娘、明子である。良房は、外戚の地位を利用し誕生まもない惟仁親王への皇位継承を企てた。その結果、生後九ヶ月の惟仁親王が皇太子に定められた。
 天安二年(八五八)、文徳天皇崩御。良房の敷いたレール通りに皇太子・惟仁親王が即位、清和天皇となられた。(永源寺町史より)

ここでも藤原氏が登場。権力を欲しいままにした一族。

 貞観十四年(八七二)七月、惟喬親王は病をえて出家、比叡山の麓・小野の里に隠棲し「小野宮」と呼ばれた。二十九歳であった。大原三千院に近い大原上野町(京都市左京区)や雲ヶ畑、大森東町(京都市北区)などが隠棲地とつたえられている。
 そして、寛平九年(八九七)二月二十日、親王は五十四歳で亡くなられた。
以上が史料で辿ることのできる親王の生涯。
 平安王朝の華やかな表舞台から退き山深い里に隠棲、病没された悲運の親王は、やがて、木地の良材をもとめ山野を渡り歩いていた山の民により、「木地師の祖」として甦り篤い尊崇をうけることになる。

九輪草が可愛い。

「惟喬親王伝説」は多い。

 ■小椋谷の伝説(今回訪問した蛭谷・君ケ畑の伝説)
愛知川最上流の小椋谷(「六ヶ畑」と呼ばれる君ヶ畑・蛭谷・箕川・黄和田・九居瀬・政所の地域。東近江市)では、戦国時代から木地師(きじし)が活動していたといわれる。
 木地師とは、山中の樹木を伐りだし轆轤(ろくろ)を使って木製の椀や盆など、日常生活品を作り出す職人である。適当な材木がなくなると、山から山へと良材をもとめ各地に移住した。その根元の地ともいうべき小椋谷に、惟喬親王伝説が芽生えたのは近世初頭のことである。
 蛭谷(筒井公文所・筒井神社)や君ヶ畑(高松御所・大皇器地祖神社)につたわる惟喬親王「御縁起」には、およそつぎのような物語が記されている。
 「天皇の位を弟宮に譲られた親王は世の無常を儚み出家されたが、都にとどまることを憚り、大納言・藤原実秀(さねひで,のち小椋実秀)や堀川中納言らわずかな供をしたがえ東路をさして出発された。親王は琵琶湖をわたり、愛知川源流の小椋谷に安住の地を見つけ御所をもうけられた。その後は読経三昧の日々をすごしておられたが、ある日、親王は法華経巻の紐を引くと軸が回ることから轆轤を考案、また、池でくるくる回る樫の殻を見て木椀をつくることを思いつかれた。そして、御所周辺の杣人たちに轆轤の技術を伝授された。これが木地師のはじまりである。」
 他に
■愛知川沿岸の伝説
■大君ヶ畑、笹路、山女原の伝説
■京都大原の惟喬親王伝説
■京北・雲ヶ畑と 大森東の伝説
■三重県と奈良県の伝説
がある。

惟喬親王御陵(近年作らてた御陵)
 木地師は、惟喬親王を祖と仰ぎ、近江国愛知郡小椋庄に住む木地師一門を本家とし、地方に散在する木地師すべてを分家とみる、擬制的同族組織だった。
 ここで昼食。
 二人で使う轆轤(ろくろ)。
君ケ畑にある大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)
中世この大皇器地祖神社と先の筒井神社が木地師たちを統括していた。
 ここは鈴鹿10座の「天狗堂」登山口でもある。
たぶん登りに来ます。
 そして政所茶。
室町時代に永源寺五世管長の越渓秀格禅師が、この地の水質・地質が茶の栽培に適していることを見つけ、村人に栽培を奨励したことに始まる。茶摘み歌でも「宇治は茶所、茶は政所…」と歌われ、宇治茶と並ぶ茶どころとしてその名を全国的に知られた。
石田三成が幼少のころ秀吉に出したとされる三杯の茶【三献茶】としても有名。
農薬未使用の手摘みの在来種。
 王墓。
 高松御所金龍寺(惟喬親王が隠棲されたとされる場所と言われている)
 轆轤を使い木地物をつくる技術は弥生期に存在し、奈良時代にはすでに職業として成立していたという。また、惟喬親王の諸国行脚伝説を立証することは、不可能である。
 惟喬親王を木地師の祖とする伝説は、蛭谷・帰雲庵の住僧や筒井神社の神主を務めていた大岩助左衛門により近世初頭に初めて語られたものらしい。しかし、悲運の皇子、親王への民衆の同情は、伝説・伝承を歴史的事実とする認識を生み信仰にまで高めた。「親王伝説」はまた、全国の木地師に誇りを与え、小椋谷を「わがふるさと」とする強力な木地師グループの絆を形成する原動力ともなった。

木地師の話はこのくらいにして。

政所茶をいただける場所を探し「きの花工房」に辿り着く。
製茶工場を活かしお茶お頂ける工房。
政所茶で作った紅茶もいただく。
風味は川根茶に似ている。
 今日はゆったり散策できた。


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