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知多四国巡礼 No10 源義朝と織田信孝の終焉の地 48番〜57番まで

2020年10月03日 | データ

今回は平安時代末期に源義朝(頼朝の父)が謀反で終焉の地となったり、織田信長の三男、織田信孝自刃の地なった地域のお寺を巡る。その前にチョットその史実を・・・

源義朝
源頼朝・源義経の実父。
源義朝の最期は平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた義朝は、随行していた鎌田政清の舅・長田忠致の許に身を寄せるが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿(野間駅の東にある法山寺にあったとされる)で入浴中の義朝を欺し討つ。この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。

織田信孝
織田信長の三男。
四国攻めの総司令官に抜擢され軍備を整えていざ就航という時、本能寺の変が勃発。

最期は秀吉との対立があり、信孝は長良川を下って尾張国知多郡に奔り、野間(愛知県美浜町)の内海大御堂寺(野間大坊)に退いた。ここの安養院で、信雄の命令によって信孝は自害させられた。これには秀吉の内意があったとも言われている。
信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれる。享年26。安養院には短刀とその血の跡が残る掛け軸が伝来している。

信孝の辞世は二つ
「たらちねの 名をばくださじ 梓弓 いなばの山の 露と消ゆとも」
「昔より 主(しゅう)を内海(うつみ)の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

■48番 良参寺 (曹洞宗、聖観世音菩薩)

「御助大師」にすがる善男善女

■49番 吉祥寺 (曹洞宗、釈迦牟尼仏)

地名の由来にもなった「細目の毘沙門さん」

■50番 大御堂寺 (真言宗豊山派、阿弥陀如来)

謀反に斃れた源義朝の無念を偲ぶ

ここには、源義朝、織田信孝の墓と池禅尼の塚がある。

■51番 野間大坊 (真言宗豊山派、開運延命地蔵)

戦国武将も崇拝した開運延命地蔵

移動の道中に、源義朝を謀反で討った長田父子をはりつけた松が史跡として残っている。

■55番 法山寺 (臨済宗天龍寺派、御湯殿薬師如来)

源義朝が討たれたという御湯殿跡

伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。その湯殿跡が残っている。

■53番 安養院 (真言宗豊山派、阿弥陀如来)

織田信孝自刃の再期を見とどけた寺

■52番 密蔵院 (真言宗豊山派、不動明王)

昼夜の別なく参拝者を受け入れた赤門

■56番 瑞境寺 (曹洞宗、白衣観世音菩薩)

村外れに佇む慈愛の白衣観世音菩薩

■57番 報恩寺 (曹洞宗、西方如来)

悲運の武将を弔う乳母の思い

同族間での殺し合いや騙まし討ちを好んだ源氏一族。源氏でも木曽義仲だけは好きですね。

平清盛一族は強い団結力があり雅ですがそれでもおごれるもの久しからずで・・・・

平家物語「祇園精舎」
祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

となる。

知多四国も残す所1/4となりました。目標は年内です。

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