因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座公演『ウィット』

2021-06-06 | 舞台
*マーガレット・エドソン作 鈴木小百合翻訳 西川信廣演出 公式サイトはこちら 13日まで 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA その後長岡リリックホール・シアター

 17世紀のイギリスの詩人ジョン・ダンの研究に取り組んできた文学者ビビアン・ベアリング(富沢亜古)は、末期癌の宣告を受けた。抗癌剤治療の副作用で髪が抜けたのだろう、劇中ずっとベースボールキャップを被り、ガウンを纏っている。白と薄いグレーの色調で統一された箱のような舞台は、ほとんどが大学病院の病室、診察室だが、ビビアンの思考が過去に遡るほどに、5歳の誕生日に父と語らったこと、学生時代に自分が教鞭をとる大学の教室で学生たちとのやりとりなど、複数の時空間が交錯する。さらにビビアンは自らの最後の日々、来し方が描かれる物語の進行役も担っており、客席に向かって話しかけたり、状況説明をしたりする。

 映像作品であれば、回想場面には子役、少女役の俳優を配し、別のセットで撮影されるところを一杯道具の舞台で描かれるのである。観客は癌治療中のすがたのままのビビアンが5歳の子どもになったり、初々しい女子学生として主任教授から叱責されるところを見ながら想像を広げ、ビビアンという人へ近づいてゆく。演劇的趣向に富み、「英文学史上、最も深く、生と死について執拗に探究した」というジョン・ダンの作品、それについてのビビアンの考察と、彼女自身の最後の日々との関わりが描かれた重層的な作品だ。ビビアンが必ずしも観客の共感を得られる人物ではないところもおもしろい。

 舞台を牽引していたビビアンが、役目を終えて旅立つ終幕は胸に迫る。旧約聖書のヨブ記の「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう」が思い起こされる。カーテンコールではビビアン役を健闘した富沢亜古にひときわ大きな拍手が贈られた。

 まことに残念だったのは、複数の俳優に台詞が入っていないために、舞台の感興が著しく削がれる場面が散見したことである。序盤からひと言ひと言プロンプに頼りながら台詞を発する場があり、滞りながらようよう進む会話からは、やりとりの妙やテンポ、間合いは失われ、物語ぜんたいの印象が損なわれたことは否めない。
 時節柄稽古が十分にできなかったのか、あるいはこちらの想像もできないような事情があったのかもしれない。また生の舞台にはさまざまなアクシデントがつきものだ(1,2)。しかしまずは観客が安心して向き合える舞台であることを願うのである。
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