因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

組曲 二十世紀の孤独 第一章『蝶のやうな私の郷愁』

2006-08-08 | 舞台
*燐光群+グッドフェローズプロデュース SPACE雑遊オープニング企画 松田正隆作(改訂版 東京初演) 鈴木裕美演出
 以前からこの戯曲をやりたいと思っていた女優の占部房子が相手役に坂手洋二を指名した。演出には鈴木裕美に白羽の矢が立ち、新宿三丁目のビルの地下の小劇場「SPACE雑遊」のこけら落としとして実現したという、プロデュース性?に富んだ舞台。戯曲も改訂版の東京初演となる。文学座有志のユニット、HHGによる同作品の上演から一週間後の観劇。
 
 アパートの一室にはテレビも電話もない。上手奥の台所や洗濯物が干されている様子、ガラス窓の外の木々など相当リアルに作り込んである。変わっているのは床面で、俳優は畳敷きの台の上で演技をするのだが、その下に空間があって(その使い道は終幕でわかる)、いかにも古ぼけたアパートなのに、どこか浮遊しているかのような不思議な雰囲気がある。

 戯曲の大筋は同じだが、妻(占部)の姉と夫(坂手)の過去にまつわる記憶が、この夫婦の現在を支配しているという点が舞台の印象を大きく変えている。夫が過去に妻の姉と云々という話は特に目新しくもなく、その話のために妻が手術(おそらく妊娠中絶)をしていたときに、夫がラーメンを食べに行っていたというエピソードの味わいが薄れてしまったし、話が妙におどろおどろしくホラーじみて、自分としては好みではなかった。

 さらに俳優の資質と戯曲との関係について考えた。占部房子と坂手洋二があの装置の中に座っているだけで、必要以上に「わけあり」に見えてしまうのである。この2人には何かあるに違いない、何か思いも寄らないことが起こるに決まっていると、始まった途端に読めてしまう。そのせいか、冒頭の駅前でマンションの工事をしている話や、食事の場面の日常的なあれこれがとってつけたような印象なのである。作り込んだ舞台装置、本水の使用、照明や音響(終幕、ちょっと恐いところがあった。夢に出そう)など、贅沢で凝った作りである。しかし、ここまですることが果たしてどうなんでしょうか?と思うのである。

 もし燐光群バージョンを先にみていたら、ここまで疑問を感じることはなかったかもしれない。わりあいさらっと見終わったHHG版が、違った印象をもって思い起こされる。貴重で刺激的な演劇体験が与えられたことに感謝。
 

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