因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

現代劇作家シリーズ⑧「ハムレットマシーンフェスティバル」よりサイマル演劇団&隣屋

2018-04-04 | 舞台

*公式サイトはこちら 日暮里・d-倉庫 22日まで
 現代の著名な劇作家の作品を1本取り上げ、複数の劇団がそれぞれの視点、手法で連続上演する「現代劇作家シリーズ」の第8弾は、ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』に10の劇団が挑戦する。連携企画であるOM-2の同作観劇から10日あまり、桜はすっかり散ってしまった。まずはシリーズのスタートを切る次の2劇団の舞台に足を運んだ。

サイマル演劇団1,2 赤井康弘構成・演出
 中央の椅子に男性が腰かけ、小説を朗読している(本作とは別の作品で、アフタートークで作品名を聞いたが失念した)。ピンクの模様の可愛いビニール傘をさした女性が特異な足取りで周辺を歩きながら、本作の台詞を発する。一組の男女が終始性行為を思わせる動きで、舞台上を縦横に移動する。彼らから聞こえる台詞から、男性がハムレット、女性はその母親のガートルードであることがわかる。

隣屋 三浦雨林演出
 舞台右上のエリアに二人の楽隊が位置し、リコーダーやバイオリン、ドラムやトライアングルなどの打楽器を奏でる。軽快で楽し気な音楽にのって、男性ひとりと女性ふたりが演技者として舞台に登場した。舞台には電飾によるサークルが作られ、中に赤い紙吹雪らしきものが入った風船がいくつも浮かぶ。サークルの内と外では人物の感覚、劇世界の概念が異なることが示される。「あっちむいてホイ」や「だるまさんがころんだ」などの遊びを取り入れながら台詞が発せられたり、途中「ドラえもん」の話になったり、張りつめた空気のサイマル演劇団から一転、ぐっとくだけたコミカルな雰囲気になる。

  2本は休憩なしで続けて上演され、合わせて2時間弱である。決して長くはないはずだが、自分にはいずれも集中を保つことはむずかしく、冗長な印象をもった。前者について、ハムレットとガートルードの近親相姦的な関係性を示すことは理解できる。ふたりの俳優の柔軟かつ強靭な身体能力には感嘆する。しかし途中からレスリング風になるなどの変化はあるものの、例の行為を延々見せられるのは辛い。椅子にかけた男性による小説の朗読と、傘の女性による台詞は同時に発せられるため、内容を聞き取ることは非常に困難である。それが作り手の意図であり、何らかの効果を目指したものであるとは察せられるが、時計の秒針の音がずっと聞こえ続けることも含めて、ひとつの趣向としてかろうじて受け止めるにとどまった。

 隣屋の場合も、時おり挟まれるさまざまなものは一瞬観客の感覚を解放するが、「見せ方」「聞かせ方」が前面に出ているように思われ、前者同様俳優陣は台詞も明瞭で、しなやかで自在なからだの動きは素晴らしかったものの、肝心の『ハムレットマシーン』を作り手がどうとらえたのかということを感じ取るには至らなかった。

 もちろん理解や把握が作品へのアプローチのすべてではない。とくに本作の場合はそうであろう。しかしならばいっそう、「自分たちの『ハムレットマシーン』はここだ!」という主張を知りたいのである。

  従来のドラマ形式を解体し、作者のミューラー自身が上演不可能とさえ言っていた作品である。本作について「戯曲」という概念は当てはまらず、上演台本でもなく、「テクスト」と呼ばれるとき、何やら前衛的で難解なものであり、作り手はもちろん観客も容易に近づけない高い壁が感じられる。しかしながら、上演が不可能ということを逆手に取れば、どんな作り方も可能であるとは言えまいか。これが『ハムレットマシーン』の正しい上演だ、王道だというものは存在せず、イマジネーションを自由に広げることができるのである。

 90年代の終わりに出会ってから、もう見ることはないだろうと思っていた本作に、なかば強制的に向き合わざるを得なくなったのは、自分にとって幸運であった。もう以前のような拒否反応はなく、苦手意識はあるものの、だいぶ変容してきた。本作のもっともありがたい点は、理解や解釈を強要しない点である。いやされても無理だが。自分もまたようようの歩みながら本作の呪縛から解放され、まずは自分の足元から舞台に向き合うことを学習した。次は2週間後、7度1,2,3,4,5風蝕異人街1である。

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