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『路上』シリーズは、2007年の新宿三丁目の劇場「雑遊」のオープンを機に、文学座の俳優・演出家の小林勝也と川村が「あまりシャカリキにならずに遊ぼうといったコンセプト」(当日リーフレット掲載の川村の挨拶文より)で始まった企画で、上演時間は1時間以内、稽古も10日間を超えないように、「身体表現重視、歌中心とその都度テーマを設けてひらひらと作り上げて」(同出)、2007年、2008年、2009年、2011年に上演されている。このたび、9月に配信予定の第5作の関係者プレヴューを観劇する機会があり、自分にはこれが初『路上』となった。2011年12月上演の『路上3.11』(路上4)の情報記事には出演俳優の本シリーズ出演歴も明記されており、不定期に物語を重ねていく企画のおもしろさや奥行きなどが伝わる。
『路上』シリーズは、2007年の新宿三丁目の劇場「雑遊」のオープンを機に、文学座の俳優・演出家の小林勝也と川村が「あまりシャカリキにならずに遊ぼうといったコンセプト」(当日リーフレット掲載の川村の挨拶文より)で始まった企画で、上演時間は1時間以内、稽古も10日間を超えないように、「身体表現重視、歌中心とその都度テーマを設けてひらひらと作り上げて」(同出)、2007年、2008年、2009年、2011年に上演されている。このたび、9月に配信予定の第5作の関係者プレヴューを観劇する機会があり、自分にはこれが初『路上』となった。2011年12月上演の『路上3.11』(路上4)の情報記事には出演俳優の本シリーズ出演歴も明記されており、不定期に物語を重ねていく企画のおもしろさや奥行きなどが伝わる。
1作めに登場した村上、田宮、セシルの3人は以後も主要な人物であるが、作品ごとに違う人物として登場するとのこと。東日本大震災後の『路上3.11』(路上4)において、新宿の路上で震災に遭った男、被災地で風俗ボランティアをしようとする風俗店員と風俗嬢を描いてから9年後の2020年夏、世界的パンデミックとなった新型コロナウィルス感染拡大、外出自粛の数か月を経て、終息の出口の見えない混乱の今、新宿の路上で浮き草のように生きている3人が再び登場する。
ウィルスに感染し、2か月の入院生活からやっと解放された田宮(笠木誠)が村上(小林勝也)を訪ねるところにはじまる。村上はホストになった自分を「小池薔薇子」が指名する夢を見たそうで、目を覚ましてからも夢と現実がごっちゃになっているらしい。やがてセシル(占部房子)や、テレワーク中のサラリーマンと見せて謎の男ジョニー(久保井研)も登場し、外出や営業自粛要請のために鎮まりかえった新宿の町の様相が炙り出されてくる。
本作は東京アラート発令時(6月はじめ)に書かれたとのこと。重苦しい自粛の日々が過ぎ、緊急事態宣言が解除された解放感もつかのま、感染者数の増加にあたって都知事が出したものだ。「夜の街」が名指しされ、新宿のホストクラブがやり玉にあがった。そして7月、「Go To」キャンペーンを巡る右往左往のなか、感染者数は増加の一途をたどり、今は8月。来月のことすらわからない。まったく先の見えない状況にある。
『路上5 -東京自粛』の魅力は、まず第一にこの混乱した世情、演劇制作の現場、観客含めた人々の日常、揺れ動く心情を冷静に捉えていること。第二に、現在進行中の時事が取り上げられているが、いわゆる「時事ネタ」としてではなく、これまでとこれからを見据える普遍性があることだ。
そしてもっとも大切な第三の魅力は、この世に対する作家というものの在り様が示されていることである。前述の当日リーフレットのタイトルは、「生声を書き残す」とである。マスクが手に入りにくくなったという冬のころ、2月末から3月にかけて演劇公演が次々に中止や延期に追い込まれていたとき、「夏には収まるかもしれない」とぼんやり予想していたことなど、もはや幻想であった。そもそも東京アラートも意味がないものとして忘れ去られていくだろう。劇作家は、こうした忘却に抗い、埋もれてしまうであろう人々の、「生声を残したい」と決意した。「創作意欲を掻き立てられる」といったことばには収まり切らない希求であり、祈りに近い心持である。
喜ばしいことをより明るく幸せに書いた作品がある。「こんなときだからこそ、舞台をみて現実をしばし忘れ、笑って楽しんでほしい」という願いに溢れた舞台は、観客の心を慰め、元気づける。しかし、不安や焦燥、怒りや悲しみなどから生まれ、それを描いた舞台は観客に現実を容赦なく突きつけ、打ちのめすことすらある。なのに、何のために演劇があり、わたしたちは演劇を観に劇場へ行くのか。
素と演技の境界がわからないほど、村上その人に見える小林勝也の浮遊感(まさに浮き草)はじめ、田宮とセシルのやりとりや、「テレワークあるある」の奇妙な服装や居酒屋店主などが意外にも似合っており、そこから期待通り豹変する久保井研など、笑いの要素もたくさんある楽しいものであった。しかし夢と現実が混在している村上の様子を観ていると、「今のコロナ禍がすべて夢だったら」と、つい思ってしまうのである。
芝居が終わると、おもてはまだ明るく、容赦ない猛暑の日差しのなか、感染終息の兆しも見えない現実に否応なく引き戻される。現実は変わらない。しかし観客の心には、『路上』の人々と、彼らの物語がもうひとつの現実のごとく、新しい存在として呼吸を始めたのではないだろうか。美しいこと、楽しいこと、喜ばしいことばかりではないこの世、そこに暮らす人々の「生声」である『路上』は、東日本大震災、ウィルス災禍という不測の事態が、物語を書き残すという重大な役割を劇作家に与えて生まれたものだ。為政者への批判や演劇の窮状を声高に訴えるものではない。しかし歴史のなかに埋もれてしまうであろう小さな声を丁寧に掬い取り、劇作家・演出家としてのしたたかな手腕を以て提示した作品である。天災人災ともに起こらないこと、不幸にして起きてしまったら、その災禍ができるだけ小さく留まるように努め、願うことが社会の在り方である。だが芸術の作り手は、そうでないところにむしろ物語の光明を見出す。閉塞的な状況や募るばかりの不安が消えることはない。今見ているのはいつか覚める悪い夢ではなく、まぎれもない現実だ。しかし「元気をもらった、勇気が出た」とは違う方向へ視点を向け、そこから新しい「夢」のかたちを描くことを、劇作家に負けぬしたたかさで可能にできないかと思うのである。
本作に合わせて、これまでの『路上』シリーズの記録映像も配信予定とのこと。まことに遅れてきた『路上』の観客であるが、村上、田宮、セシルのあとを、少し後ろからこわごわ歩むように、最新作から過去を観る味わいを楽しみにしている。
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