因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

ゲンパビ ギャラリー公演『トーキョー拾遺』

2013-07-11 | 舞台

*阿部ゆきのぶ脚本・演出 公式サイトはこちら 吉祥寺・百想 15日まで
 前回の企画公演『明け星の頃には~セロ弾きのゴーシュ~』から2カ月と少しで、早くもギャラリー公演と銘打って新作が上演される。吉祥寺駅北口から徒歩10分弱、可愛い小物や食器が並ぶ雑貨店やおいしそうなパンケーキやアイスクリームの店をみながら中道通りをまっすぐ進み、洋服屋さんの白い建物の裏にまわった古民家・百想に到着。入り口で靴を脱ぎ、急な階段を上った二階の部屋が劇場スペースとなる。建物が古く冷房があまり効かないとのことで、観客には扇子や冷却スプレーが(笑)配られる。送風機があるものの、なにしろ表があまりに暑いので、なかなか汗がひかない。客席は座布団を敷いた桟敷、ベンチ、椅子席で、15~20人でいっぱいになるだろうか。

『トーキョー拾遺』。拾遺とは、漏れ落ちたものを拾い補うこと(三省堂新明解国語辞典)である。登場人物は就活中の大学4年生、働きながら小説家や声優を目指していたり、そろそろ結婚を現実的に考えている介護施設員など、いずれも20代前半から後半の男女あわせて6人である。部屋の半分が演技スペースになっており、黒い箱がふたつ置かれているだけだ。あるときは職場の休憩室になり、渋谷のライブハウス、ひとり暮らしの部屋、渋谷から雑司ヶ谷へ向かう深夜の路上にもなる。

 一対一の会話にときおり登場人物それぞれの独白が加わって、彼らの背景や相関関係が知らされる。これほど小さな空間であれば、時空間の変わらないリアルな芝居が展開するかという予想を、作者は軽やかに裏切った。ひとつひとつの場面を丁寧に重ねながら、東京という大都市に生きる若者の心象が描かれてゆくさまは、とくに意表をつく展開があるわけでもなく、どこにでもいそうな若者たちの、いわばありふれた物語であるにもかかわらず、新鮮である。

 あるものはほのかな恋心を告げないまま胸の奥底にしまい込み、あるものはひとときの心の揺れに身を任せ、あるものは迷いながらひたすら歩き続ける。みる者にとっては若い日に味わったほろ苦い思い出に似た物語であり、まさに進行中の現実でもあろう。

 惜しい、もったいないと思うところもある。決して結論を提示してほしいわけではなく、テーマが必要だということでもないのだが、東京に生きる若者たちの点描に終始してしまったと言えなくもない点である。
 作者の阿部ゆきのぶはもっと先へ歩いてゆけるのではないか。
 オムニバス形式の劇や、複数のシーンが少しずつ重なったりずれたりしながらひとつの物語を形成してゆく様相は、観客にとって非常におもしろいものである。まったく無関係と思われた人々、エピソードが最後にパズルのピースがぴたりと収まるようにひとつの劇世界になったとき、まさに演劇の醍醐味を体験することができる。

 だが作者は敢えてそうしなかったとも考えられる。あざとい話にまとめず、若者たちの日々を淡々と描く。作りようによっては二股恋愛や三角関係の果ての修羅場に展開させることも可能であろうが、そういうものはテレビでいくらでもみることができる。
 梅雨明け猛暑の吉祥寺、古民家の二階でみる物語は、多少もどかしくても控えめで余白を残すもののほうがふさわしいのかもしれない。

 上演中に送風機の音がずっと聞こえていたことは残念だ。暑すぎず寒すぎずの季節にまた百想を訪れ、その後の彼らの物語をみたい。しかしまた考え直した。これからの季節、秋風あるいは木枯らしが吹き、やがてジングルベルの聞こえる街で若者たちの恋のゆくえ、歩く速度はどう変わってゆくかを想像するのもまた乙なものではなかろうか。
 今日の『トーキョー拾遺』は、自分の心にも小さな物語を形作ったのである。

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