因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

métro第13回公演『痴人の愛~IDIOTS~』

2020-10-26 | 舞台
*谷崎潤一郎原作 天願大介台本・演出 公式サイトはこちら 下北沢ザ・スズナリ 27日終了 河合譲治役は片岡哲也と若松力のダブルキャスト
 2008年に旗揚げした演劇ユニットmétroは、これまで名作、大作と呼ばれる作品を天願大介が脚色・演出する公演を行ってきた。天願の手による戯曲以外の上演は、今年2月の唐十郎作『少女仮面』のみである。原作者の頭の中に入っていき、記された言葉はもちろん句読点に至るまで、その意味や意図を考え抜き 今度は、それを芸能として舞台に立ちあげるべく自分の言葉に置き換え、かつ演出を担う。気が遠くなるような作業であるが、天願自身は「不思議な作業」と語る(公演パンフレットより)。

 『痴人の愛』は、谷崎が関東大震災後、関西に移住した翌年1924(大正13)年の3月から大阪朝日新聞に始まり、途中数か月の中断を経て、翌年の7月まで雑誌「女性」に連載された小説である。美少女ナオミを見出し、理想の女性に育て上げようとした主人公譲治が、ナオミの肉体の魅力に悩まされ、愛欲の奴隷に落ちてゆく日々を描いた作品は大きな反響を呼んだが、内容や描写が物議をかもしたらしく、発表媒体が変わるという珍しいかたちとなった。ちょうどNHK Eテレ『100分de名著』では谷崎潤一郎特集が放送されており、司会の伊集院光が媒体変更について、「はじめは少年ジャンプに連載してたのが、ビジネスジャンプになるようなもの」との絶妙な例え。

 métroの『痴人の愛』は、物語の時間が逆に流れる。つまり終幕に始まり、ふたりの出会いに終わる。ただし全てがきっちりと逆に展開するわけではなく、若干破調気味なところも(むろんそこにも周到な計算があるはず)ある。ハロルド・ピンターの『背信』や、フランソワ・オゾン監督の映画『ふたりの5つの分かれ路』を想起させる構成だ。

 登場人物はナオミ(月船)と譲治(片岡哲也)に絞られるが、影山翔一が「痩せた男」として登場する。部屋いっぱいに散らかったナオミの衣裳を片付けたり、ナオミと譲治を人形に見立てた人形劇の黒衣役も行う。この人形劇にはサヘル・ローズの語りが入り、舞台空間に奥行きと謎めいた味わいをもたらす。

 『痴人の愛』の地の文は譲治の語りである。この一人称をそのまま用いるのではなく、上記のような大胆な戦略があるところに、本公演が「谷崎潤一郎✕天願大介」と銘打つ由縁がある。

 原作の最後の一文、「これで私たち夫婦の記録は終わりとします。これを読んで、馬鹿々々しいと思う人は笑ってください。教訓になると思う人は、いい見せしめにして下さい。私自身は、ナオミに惚れているのですから、どう思われても仕方がありません。ナオミは今年二十三で私は三十六になります」。
自虐でも開き直りでもなく、淡々と愛を語ることばである。これ以上ないほど完璧な締めくくりの一文が譲治の口から語られたそのあと、métroの『痴人の愛』は、ふたりが出会って間もない雨の日の待ち合わせで幕を閉じる。

 譲治は表情や動作にも、職場で「君子」と呼ばれるほど堅物な性質が表れており、ナオミもまだまだあどけない。ふたりが雨宿りをしているうしろ姿は、愛欲の沼に囚われていく未来を知らない。無防備で不器用で、痛ましいまでに美しい。この終幕の景を見て、劇場の空気は、舞台の演じ手だけでなく、客席の観客もともに生み出してゆくものだと改めて実感した。距離を置いて置かれた座席、会話はできるだけ控え、距離を置いての入退場、ロビーでの歓談もない。確かに淋しい。しかし上演のさなか、舞台と客席の空気が時にはぶつかり合い、やがて溶け合っていくことをよりいっそう肌で感じ取ることができたのだから、その手応えを喜びたい。

 さて自分は谷崎潤一郎の作品では『お国と五平』が好きなのであるが、これが天願大介とmétroの手になると、どんな舞台になるのだろうか。原作小説の脚色ではなく、戯曲への「ガチ勝負」に対しても、天願が「作家の頭の中に入っていく」作業はあるはずで、それがどのように結実するのかを知りたい。
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