因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

二兎社公演42『ザ・空気ver.2 誰も書いてはならぬ』

2018-07-06 | 舞台

*永井愛作・演出1,2,3,4,5,6,7,8公式サイトはこちら 先月富士見市民文化会館キラリ☆ふじみで開幕し、7月6日まで東京芸術劇場シアターイースト その後9月2日まで全国を巡演 
 昨年冬上演の『ザ・空気』に続く「メディアをめぐるシリーズ」第2弾。志と信念をもって報道番組を制作していた人々が、政界からの圧力に苦悩し、挫折する様相を描いた『ザ・空気』終演後の寒々とした感覚は忘れがたい。

 ver.2は、国会記者会館の屋上で展開する。開幕して無味乾燥な屋上の風景を見ると、前作の終幕が放送局の屋上であったことがどうしても思い出される。あのやりきれなさを、また味わうのだろうか。

 冒頭の不安は半分は杞憂であった。ネットメディア記者(安田成美)は、デモの撮影をしようと本来は入れない記者会館に忍び込み、屋上にカメラを備えた。そこにやってくるリベラル系全国紙の記者(眞島秀和)、公共放送局の記者(馬渕英里何)は、記者会館のコピー機に残されていた1枚の紙を前に喧々諤々を始める。首相が会見を無難に乗り切るためのQ&Aが記されたその紙を見つけてしまった保守系大手新聞社の若手記者(柳下大)、そしてQ&Aを書いた張本人と思われる論説主幹(松尾貴史)もやってきて、報道各社の思惑、ジャーナリストとしての葛藤が、政界とメディアの癒着を巡って迷走する1時間45分である。

 前作に比べると笑いの要素がふんだんに盛り込まれ、客席は大いに沸く。台詞の随所に、不利と思われる証拠が出てきて会見をしなくてはならなくなったが、これを乗り切れば国民は忘れる、首相は副総理より漢字を読める、機械を通した声だから自分のものとは思われないなど、現在の政権の混迷「あるある」がこれでもかと出てくる。どの人物も、それぞれの立場で崖っぷちにおり、真剣そのものなだけに余計におかしい。杞憂だった理由は、この点である。

 松尾貴史は立ち姿も台詞まわしも堂々たるものだ。現首相のものまねをする場面など、松尾ならではの見せ場なのだが、この舞台におけるものまねは、バラエティなどで見せる本気のそれとは違う造形であったと自分は捉える。たしかに似ているが、本来の松尾貴史であれは、対象にもっと肉薄し、そこに毒や針を仕込んで、嫌味なほど技巧的にできるはず。そこを敢えて抑制し、「下手なものまね」、あるいは日ごろからあまりに首相べったりなために「無意識に口調が似てしまった」態のレベルに造形し、結果、この吐き気がするほど小狡い論説主幹の性根を炙りだすことに成功したのではないか。

 安田成美のネットメディア記者は、前作で若村麻由美が演じた報道番組キャスターを、夫と子どもを持つ点でもより庶民的で身近な存在にスライドした印象の女性である。『かたりの椅子』で竹下景子が演じたイベントプロデューサーに似ているところもあり、沢口靖子主演の『シングルマザーズ』での懸命な母たちに似た気質を持つ。ただこれだけ美しい人が娘からの電話に「母ちゃんは忙しいんだ」といった言葉づかいをするのは、声質の点からも少々無理があり(男言葉を使わせるのは、永井愛ならではの主張であるのかも)、オーバーアクションにならない演出のつけ方が必要では?

 目の前の様相はまさに茶番であり、それは取りも直さず、今わたしたちが生きているこの国の政治が茶番状態にあることの証左なのではないか。そう思うと、舞台の右往左往を暢気に笑っているわたしたちは、別のところから笑われているのではないか、笑っている場合ではない、でも何をどうすれば、と次第に心が波立ちはじめる。冒頭の杞憂の残り半分は、やはりやりきれない無力感であり、「おもしろかった」と言い切れない歯切れの悪さであり、持ち帰る課題の重たさであった。しかしそれこそが作者が伝えたかったことではないかと思うのである。

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