*所奏(ところかなで)作 高橋正徳演出 公式サイトはこちら サイスタジオコモネA 15日まで
底冷えのする夜、今年初めてのサイスタジオとなった。
当日リーフレットの配役表には登場人物の名前と演じる俳優名が書かれているだけで、それが案外と珍しいものであることに気づく。その人物の役柄(例:ペンションの経営者)と他の人物との関連が(例:茂の弟)合わせて記してあるのに慣れていて、それが名前だけであると、これから始まる舞台をどう捉えていいのか、手がかりがほとんどないことになる。しかも最後に書かれているのは「男」「女」である。ちょっと別役実風。開演前の舞台に幕はなく、ぼんやりと装置や小道具が見える。上方部に駅員の制服らしきものがあるし、タイトルは「Train coming」だから、電車関連の話だろうか?
《本作はサスペンス&SF&不条理劇的風で、未見の方はここから一切お読みにならないほうが…》
一見駅員の休憩室らしき部屋に、「電車が来ない」と駆込んでくる人がいる。続く質問は「電車はいつ来るんですか?」しかし部屋にいる男にはそれがわからない。ふざけているのではなくて、ほんとうにわからないのである。ここは何らかの原因で現実の世界とは別の時空間らしい。以前からそこにいるものと、新しく迷い込んでくるものたちが、現実世界に戻れるかどうかわからないまま、共に過ごす時間を描いたものである。あとから来たものは、当然のことながらこの現実が理解できず脱出を試み、あるいは脱出のために周囲のものを巻き込もうとしてうまくゆかず、孤立する。敢えてここに留まろうとするもの、現実離れした状況を逆に楽しんでいるものなど、さまざまである。
作者の所奏は俳優の特性をよく掴んでおり、俳優もまたそれにしっかり応えている。それはいわゆる「当て書き」とは少し違った印象があり、ひとりひとりの個性や特質があった上で、俳優が戯曲の人物に自分を自然に寄り添わせているというべきか。従ってよいアンサンブルであるが、そこに安易な予定調和はない。今、この部屋に存在している人々のなかに、過去の人物がやってくる場面がある。それは単なる「回想場面」ではなく、思い出している人物(この場合、依田ちゃん/細貝弘二)にとって苦く強烈な記憶であることを表す。また既に死んでしまったと思われる男(上川路啓志)と女(征矢かおる)が不意に現れて依田ちゃんに語りかけるところなど、その人の心の中でまったく違う時間が流れ、記憶が刻まれていることが伝わってくる。
まったく知らないもの同士がひょんなきっかけで出会い、思いもよらない出来事が続いたり、人一倍誰かに関わりたいという強引な、しかしそこには複雑な事情のある主人公がいたりして、どういうわけか互いに関わり始めてしまうというのは、たとえば山田太一のテレビドラマではよくみられる流れである。今回の舞台ではシチュエーション自体が現実にはあり得ないことなので、その出来事に今まさに出くわした人物と、それを既に体験している人物との最初の出会いの場面に、もう少し現実の日常会話に近いやりとりがあれば。たとえば電車が来ないとして、たった一人で30分も待ち続けはしない。他にも乗客はいるだろうし、駅の構内放送や駅員からの説明もあるはずだ。そのあたりの現実的な細かいところを丁寧に、しかし決して説明台詞ではなくクリアした上で、「現実と異界が交わろうとしている」ことを単純なSFではなく、まさに演劇で可能な表現として見せてほしいのである。
村井まどか(青年団)の演じる山岸さんという女性が2番めに迷い込んでくる。威勢がいいというか話し方も少々乱暴で、部屋にいる人たちをいきなり「あんた」呼ばわりである。そのくせ相手から「おまえ」と言われるとすぐに反論する。知り合ったばかりの相手に対する呼びかけ方や会話に違和感を持った。そのあと山岸さんの意外な面もだんだんわかり、終盤のちょっと切ない場面がとてもいいだけに、出会いの場面にもう少し繊細な印象がほしいと思った。
演出家、俳優、スタッフが戯曲と真剣に取り組み、「いい舞台を作りたい」という思いがまっすぐ伝わってくる。こういう試みをこちらも真剣に、丁寧に見続けていきたい。
底冷えのする夜、今年初めてのサイスタジオとなった。
当日リーフレットの配役表には登場人物の名前と演じる俳優名が書かれているだけで、それが案外と珍しいものであることに気づく。その人物の役柄(例:ペンションの経営者)と他の人物との関連が(例:茂の弟)合わせて記してあるのに慣れていて、それが名前だけであると、これから始まる舞台をどう捉えていいのか、手がかりがほとんどないことになる。しかも最後に書かれているのは「男」「女」である。ちょっと別役実風。開演前の舞台に幕はなく、ぼんやりと装置や小道具が見える。上方部に駅員の制服らしきものがあるし、タイトルは「Train coming」だから、電車関連の話だろうか?
《本作はサスペンス&SF&不条理劇的風で、未見の方はここから一切お読みにならないほうが…》
一見駅員の休憩室らしき部屋に、「電車が来ない」と駆込んでくる人がいる。続く質問は「電車はいつ来るんですか?」しかし部屋にいる男にはそれがわからない。ふざけているのではなくて、ほんとうにわからないのである。ここは何らかの原因で現実の世界とは別の時空間らしい。以前からそこにいるものと、新しく迷い込んでくるものたちが、現実世界に戻れるかどうかわからないまま、共に過ごす時間を描いたものである。あとから来たものは、当然のことながらこの現実が理解できず脱出を試み、あるいは脱出のために周囲のものを巻き込もうとしてうまくゆかず、孤立する。敢えてここに留まろうとするもの、現実離れした状況を逆に楽しんでいるものなど、さまざまである。
作者の所奏は俳優の特性をよく掴んでおり、俳優もまたそれにしっかり応えている。それはいわゆる「当て書き」とは少し違った印象があり、ひとりひとりの個性や特質があった上で、俳優が戯曲の人物に自分を自然に寄り添わせているというべきか。従ってよいアンサンブルであるが、そこに安易な予定調和はない。今、この部屋に存在している人々のなかに、過去の人物がやってくる場面がある。それは単なる「回想場面」ではなく、思い出している人物(この場合、依田ちゃん/細貝弘二)にとって苦く強烈な記憶であることを表す。また既に死んでしまったと思われる男(上川路啓志)と女(征矢かおる)が不意に現れて依田ちゃんに語りかけるところなど、その人の心の中でまったく違う時間が流れ、記憶が刻まれていることが伝わってくる。
まったく知らないもの同士がひょんなきっかけで出会い、思いもよらない出来事が続いたり、人一倍誰かに関わりたいという強引な、しかしそこには複雑な事情のある主人公がいたりして、どういうわけか互いに関わり始めてしまうというのは、たとえば山田太一のテレビドラマではよくみられる流れである。今回の舞台ではシチュエーション自体が現実にはあり得ないことなので、その出来事に今まさに出くわした人物と、それを既に体験している人物との最初の出会いの場面に、もう少し現実の日常会話に近いやりとりがあれば。たとえば電車が来ないとして、たった一人で30分も待ち続けはしない。他にも乗客はいるだろうし、駅の構内放送や駅員からの説明もあるはずだ。そのあたりの現実的な細かいところを丁寧に、しかし決して説明台詞ではなくクリアした上で、「現実と異界が交わろうとしている」ことを単純なSFではなく、まさに演劇で可能な表現として見せてほしいのである。
村井まどか(青年団)の演じる山岸さんという女性が2番めに迷い込んでくる。威勢がいいというか話し方も少々乱暴で、部屋にいる人たちをいきなり「あんた」呼ばわりである。そのくせ相手から「おまえ」と言われるとすぐに反論する。知り合ったばかりの相手に対する呼びかけ方や会話に違和感を持った。そのあと山岸さんの意外な面もだんだんわかり、終盤のちょっと切ない場面がとてもいいだけに、出会いの場面にもう少し繊細な印象がほしいと思った。
演出家、俳優、スタッフが戯曲と真剣に取り組み、「いい舞台を作りたい」という思いがまっすぐ伝わってくる。こういう試みをこちらも真剣に、丁寧に見続けていきたい。
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