因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

Runs First vol.1『帰郷/ホームカミング』

2013-06-19 | 舞台

*ハロルド・ピンター作 小川絵梨子翻訳・演出 公式サイトはこちら シアター風姿花伝 30日まで シアター風姿花伝10周年記念プロジェクトのひとつであり、当劇場のレジデントアーティスト小川絵梨子が翻訳と演出をつとめる。
 ピンター作品の観劇記事はこちら→1,2,3,4,5,6,7
 小川絵梨子演出の舞台記事はこちら→1,2
 ずっと強い関心を抱いている劇作家、演出家であり、観劇の必然性が非常に高い組み合わせとなった。なお本作は2010年春に演劇集団円の公演をみている。そのときの印象はある特殊な演出のためであり、作品じたいへの関心や期待はむしろ高まっている。

 今回の劇場のつくり、あれはどのように表現したらよいだろうか。
 劇場にはいって奥に主舞台があり、そこから太い通路が伸び、通路をりょうがわからはさむかたちに客席が作られている。客席前方の椅子は通路に向かって、後方は少し斜め方向に置かれている。場所によってはみづらい席があるかもしれない。

 

 みるものを困惑させるのは、本作の登場人物の言動が理解しにくいところではなかろうか。
 ロンドンの下町に男ばかりが住む労働者一家がいる。そこに哲学者としてアメリカで成功した長男が妻を伴って9年ぶりに帰ってきた。そのことが生む家族の亀裂と結果である。

 冒頭、次男レニー(浅野雅博/文学座)は部屋で新聞を読んでいる。年老いた父親(中嶋しゅう)がやってきて「はさみはないか?」と聞く。レニーははさみのあるなしを答えないばかりか、父親に対して終始乱暴で馬鹿にしたことばを吐く。ハイヤーの運転手をしている叔父のサム(中原和宏)、ボクサー志望の末っ子ジョーイ(小野健太郎)をみても、この家族がふつうではないことが会話のはしばしから伝わってくるのである。
 9年ぶりに帰郷した長男テディ(斉藤直樹)とその妻ルース(那須佐代子)に対する男たちのふるまいも尋常ではない。さらにそのことに対して、テディもルースもとくに反論もせず、なすがままになっていて、ますます「符に落ちない」という感覚を客席に与えるのである。ルースが義理の弟たちを誘惑し、彼らもまた義理の姉をある種の女のように扱う。にもかかわらず、夫のテディはやめさせようともせず。傍観しているのである。

 ただごとではない話だ。ここで「こんなことは現実にあるわけがない」と思ってしまうと、この世界を味わうことはできなくなるだろう。このあたりがピンター作品を「難解だ」「それは不条理劇だから」と決めつけて諦めてしまうかどうかの岐路ではなかろうか。
 あまりあちこちにあるとも思えず、自分にも体験はないが、もしかすると似たようなことはあるかもしれない。人は思ったとおりにふるまうことだけではなく、心で思ったことがそのまま言葉になることもないのだから・・・この程度に頭をゆるやかにできれば、劇世界はぐっとこちらに近づく。

 演出の仕事、役割とは何かと改めて考えた。舞台と客席の位置を変えたり、なぜ?と思うような音楽をつかったり、衣装に凝ったり、舞台に水を張ったり客席をいじったりということではない。戯曲のことばを、台詞もト書きもひとつひとつを丁寧に読み解き、それを俳優の肉体と声をつかって立体化し、客席に示すことを粘りづよく行うことではなかろうか。
 その姿勢が伝わってくれば、戯曲じたいが少々難解であろうと、客席に何らかのものは届くはずだ。少なくとも「わけのわからない話だった」と失望することはない。

 ハロルド・ピンターの作品に対して、わたしたちは必要以上に警戒し、身構えてしまっているのではないだろうか。むろん決してわかりやすい劇作家ではないが、難解なのだと思いこんだり決めつけたり、わからない自分を必要以上に卑下したり、ノーベル賞を受賞した作家なんだから何かあるだろうと、これも必要以上に崇めたり、ずいぶんもったいないことをしている。

 今回の小川絵梨子の翻訳・演出による『帰郷/ホームカミング』が確かな手ごたえを与えたのは、作品をわかりやすく解説したからではない。前述のように戯曲に対する姿勢と、演出家に応えようとする俳優がいて、あの家の人々の息づかいや体温がより身近に感じられたためである。
 謎は謎として残ったままだ。ルースに対する男たちの扱いはとんでもないものであるし、それを受け入れている彼女の気持ちもわからない。また兄がひとりで去るとき、レニーがなぜあのように悲しげな表情をしていたのか。家族のなかではわりあい常識的と思われる叔父のサムも、何の病気かわからないが倒れてしまう。ルースが夫を見つめて「また来てね」ということばの真意は?
 ここはテディの実家なのだから、「来る」のではなく「戻る」であるのに、なぜ妻は「来てね」と言うのか。彼をみつめるときの濃いまなざしには何が込められているのか。また自分の手元にある杉山誠訳では、妻の最後の台詞は「他人にならないでね」であり、原文がどうなっているのか、意訳の余地がある箇所なのか。

 それらが「わからない」からといって、本作が「つまらない」ことにはまったくならない。これは非常に稀な演劇的体験なのだ。
 「この本は本当の意味で戯曲だと思う」とはレニー役の浅野雅博の稽古中のことばだそう(パンフレット掲載の小川絵梨子挨拶文より)。どこがどのように、なぜ?ということは、自分にはわかったようなわからないようなのだが、ピンター作品の捉え方として非常にまっとうなものであろう。
 たとえば前半において、レニーは父親のことを「おやじ」「あんた」「お父さん」と幾通りものことばで呼びかけ、それによってあとにつづく台詞の言い方も変えている。こういうことも「本当の意味で戯曲」という理由のひとつではないかと想像する。
 そこに周到に込められた劇作家の意図をもっと知りたいと思うのである。

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