因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

風琴工房『hg』

2008-05-11 | 舞台
*詩森ろば作・演出 公式サイトはこちら 下北沢 ザ・スズナリ 18日まで
 水俣病と水俣の人々を描いた詩森ろばの新作である。昨年の『紅の舞う丘』をみたときは、綿密な取材を行ったという印象が強かったが、今回はかの地を訪れ、多くの人々と接し水俣を舞台として描くことに悩み苦しんだこと、描かれる側もまた複雑な思いでこの舞台を見守っていることを感じさせた。

 ☆ここから舞台の様子を少し詳しく書きます。未見の方はご注意くださいますよう☆

 物語は2部構成になっている。第一話は「猫の庭」と題し、1959年チッソの会議室が舞台である。工場長や技師、女性事務員、チッソ附属病院の医師などがそれぞれの立場からそれぞれの思いを持って、恐ろしい病いを生んでしまった自分の職場、仕事を憂える。チッソを誇りに思い、そこで働けることを喜べるからこそ、苦悩は深い。この場面はあたかも燐光群を思わせるほどで、ドキュメンタリードラマは、ともすれば専門用語が飛び交い、説明的なやりとりを理解するのに終始することがあるが、この「猫の庭」の場は取材で得たことが台詞になり、それを俳優が話しているレベルを越え、当時の人々の気持ちがきちんと俳優の肉声として客席に伝わっていることを感じた。思わずからだが前のめりになる。

 第一話が終わり、第二話で劇作家を演じる女優が登場して、第一話の人々がそれからどうなったかが話される。罪を負ってしまった人生の、何という重さよ。

 第二話「温もりの家」は現在の水俣で、水俣病はじめ障害を持つ人々が暮らすグループホームの賑やかな一日を描く。水俣を演劇にしたいという劇作家が取材に来ており、これは詩森ろば自身を投影させたものであろう。ホームの理事長は、なぜ水俣を演劇にしたいのかと問いかける。すぐれたドキュメンタリーがたくさんある。俳優が患者を演じる、物まねをされることでもっとも傷つくのは患者自身であると激しく主張する。

 第一話で前のめりになったからだと心が次第に引いていくのがわかった。第一話と第二話は同じ俳優によって演じられる。あらゆることに意味や意図を求める必要はないが、有機的な繋がりがあっただろうか。また風琴工房の舞台をみてよく感じるいささか強すぎる熱の入り方に、今回も同じように違和感を覚えるのである。

 終演後のポストパフォーマンストークには、モデルとなった「ほっとはうす」の館長、胎児性患者の方々が舞台にあがり、いつものトークとはまったく違った厳かな雰囲気になった。作り手の熱意、真摯で謙虚な姿勢が嫌が応にも伝わってくる。二つの物語を演じ抜いた俳優陣、特に篠原祥司と佐藤誓は素晴らしかった。力作、労作であることは間違いがない。しかし、なぜ水俣を演劇にしたのか、そのしっかりした手応えを掴むことはできなかった。この舞台について考えること、それを言葉にすることは難しい。充実した時間を過ごせたことに感謝しながら、同時に課題も多く与えられていることに身の引き締まる思い。

 

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