因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

tpt 78th 『恋人』

2011-05-10 | 舞台

*ハロルド・ピンター 作 広田敦郎 翻訳 岡本健一 演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋ホール 10日まで
 tptがスタートしたのは1993年だ。『テレ―ズ・ラカン』初演の衝撃は今でも忘れられない。それから早くも十数年が過ぎた。当時自分がtptに、明確に言えば演出家ディヴィッド・ルヴォ―の舞台に夢中になったのはなぜかを考えると、日本のいわゆる新劇の老舗劇団の舞台に対して満たされない思いがあって、ルヴォ―の舞台がその気持ちにすべてではないにしても相当部分に応えてくれたからではないかと思う。自分は演劇を作る側ではないが、客席に身を置くものとして90年代に最も影響を受けた演劇人の筆頭にルヴォ―の名を挙げることにためらいはない。
 ルヴォ―の舞台が日本であまり上演されなくなったのと同じく、自分もtptから次第に足が遠のいているが、いたずらに過去のノスタルジアに浸るのではなく、tptが今後どのような舞台をつくっていくのかを見極めたいと思う。
 新劇の象徴のような新宿・紀伊國屋ホールでtptの舞台をみることにはとまどいがあったが、緋色の幕が引かれたロビーや開演前まで流れる謎めいた音楽などが、いつもと違う雰囲気を醸し出している。

 本作の戯曲は未読だが、喜志哲雄の『劇作家ハロルド・ピンター』を読んで、話の内容は知っていた。1963年にテレビ映画として放映され、同年にピンター自身の演出で舞台初演の運びになったこと、テレビ版は2幕構成になっているが、舞台版ははいくつかの場面が削除されて1幕になっている。tptは2010年に本作を横浜のBank ARTにおいて広田敦郎の翻訳、岡本健一の演出で、リハーサルを公開しつつ上演する実験的な試みを行い(自分は未見)、今回は妻サラ役に中嶋朋子、岡本健一はみずからが夫リチャード役を演じ、本格的な演出家デヴューとなったとのことである。

 物質的には何不自由ない暮らしぶりと思われる夫婦が冒頭から奇妙な会話をかわす。彼らはお互いに愛人がいることを了解している、と思いきやその愛人というのが実は・・・という構造である。ほとんど黒一色の舞台美術(朝倉摂)のなかで、俳優ふたりの衣装は白。美しいコントラストだ。多少の小道具は出てくるが、舞台に生活実感はほとんどなく、抽象的な雰囲気のなかで夫婦のパワーゲームをみつめる80分である。

 かりに自分が本作の内容をまったく知らずに観劇したら、いったいどのような印象を持つだろうか。たとえば夫のリチャードが、妻の愛人マックスを「ふた役」で演じている、つまりリチャードとマックスはまったく別の人格であるが、敢えて同じ俳優に演じさせる趣向と捉えた可能性がある。あるいは恋人のマックスは、いやことによると夫のリチャードすらほんとうは存在せず、すべてはサラという女性の脳内のできごと、妄想だと思うかもしれない。

 舞台そのものはもちろんのこと、前述のようにロビーのこしらえから開演前の音楽まで細部にこだわり、神経を張りめぐらせたことが伝わる公演であった。ただ趣向を凝らしたことがピンターの作品を示すに効果的であったかどうか、たとえば開演前に4人の男性が舞台を何度も行き来して椅子にかけ、声を出さずに口を動かしていること(この4人が開演前の注意事項アナウンスを割り台詞のように行う)や、夫婦が結ばれるまでを象徴的にみせる場面があることなど、どう受けとめてよいものかわからない。
 たとえば、本作をみて「このご夫婦はほかに考えることがないのだろうか」という、ある意味身も蓋もない、しかし現実を生きる生活人の視点からすれば非常にごもっともな感想、特に震災後のこの非常事態なら尚更・・・とみる人もあるのではないか。それを「見当はずれだ」とばっさり除外するのも自分には抵抗がある。

 もしかしたら自身のなかにも倒錯した性的意識、顕在化しない歪んだ性的欲望が潜んでいるのはないかと感じさせるピンターの舞台をみたいと思う。常軌を逸した男女の妄想劇でもセレブな夫婦の愛人ごっこでもなく、どうして彼らがこういうことをしているのか、これから彼らがどうなっていくのかが、日常生活のふとしたはずみに頭をよぎるような、帰りの電車に乗り合わせた人々に、別の時間が存在するように思えるような、そんな舞台がみたいのである。

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