*井上ひさし作 栗山民也演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター公演は5日で終了 その後兵庫、仙台、山形を巡演
たしか1987年に観劇したはずなのだが、記憶がはっきりしない。今回が初観劇のつもりでと意気込んだところ、開幕して評判上々のさいちゅう、正一役の田代万里生が急病で降板した。数日間休演のあと、代役に峰崎亮介を起用して公演が再開される。
まず緊急登板となった正一役の峰﨑亮介のこと。
脱走兵の正一は登場のしかたがいつも神出鬼没で周囲の注意を一気にひきつけ、オデオン堂レコード店のなかを走りまわり、憲兵の目をくらましつつ、家族と観客にあざやかな印象を残して疾風のごとく去る。台詞も歌もダンス?もこなさねばならない。それまで電報配達の若者と防共護國団団員の小さな二役として出演していたから、まるきり白紙の状態ではなかったにしても、峰﨑さんは数日間の稽古とは思えないほど舞台になじみ、生き生きとしておられる。
三谷幸喜の『おのれナポレオン』で、天海祐希が急病で降板、宮沢りえがわずか2日間の稽古で代役をつとめたときは、両女優のタイプのちがいから台詞にも相当の改訂があり、それにともなって共演者の台詞、音響や照明のきっかけも大幅に変更せざるを得なくなり、スタッフキャストともに数日間徹夜状態だったとの報道もあった。
ここまで強烈ではないにしても、ご本人はもちろん、共演陣、スタッフの苦労も並大抵ではなかったはずだ。今回の観劇をあきらめようかとも思ったが、プロの演劇人が経験値と心意気をみせた舞台を体験することができ、ほんとうに幸運だった。
じつは公演を知ってすぐに観劇を決めなかったのは、母親のふじ役が秋山菜津子であることに少なからぬ懸念があったためだ。自分の知る秋山は、色気で魅了し、毒で相手を傷つける役柄のイメージが強く、美しく達者であることはすばらしいと思いつつ、血のつながらない子どもたちから何の違和感もなく「母さん」と呼ばれるオデオン堂の後妻には合わないように思えたのだ。
しかし物語がはじまり、ふじの最初の台詞をきいた瞬間、自分が狭量であったことを思い知らされた。秋山のふじは明るくさばさばして、それでいて情が濃い。せりふにはべたついたとことがなくてテンポよく、じつに好ましい造形である。つまらぬ偏見だったと反省することしきり。 傷痍軍人役の山西惇は、何年後にはオデオン堂の主人、父親の信吉役ができるのではないだろうか。むろん前回につづいて信吉役の久保酎吉は、終始控えめなポジションにあって抜群の安定感があり、井上ひさしの作品に欠かせない俳優であることがわかる。おそらくみた人の多くが、あのお父さんを大好きになるはずだ。
観劇した日は、終演後にトークショーがあり、出演俳優のなかから木場勝己、木村靖司、深谷美歩、後藤浩明が登壇した(司会進行はこまつ座座長の井上麻矢)。
井上作品に出演の多い木場勝己の発言はさすがに含蓄があり、メモを頼りに書き起こしてみると、「3時間の芝居のなかで、自分がしゃべっている時間はトータルで20分くらい。あとはずっと誰かの台詞を聴いている時間。芝居について考えることに費やせる」。
「井上さんの芝居は普通のことばで書かれているが、俳優の気持ちが下がったとき、その普通のことばが俳優の気持ちを上げてくれる。逆に高ぶってしまうときには、ことばが爆発を抑えてくれる」。パンフレットのインタヴューにも書かれていることだが、まぎれもなく現場の俳優の実感であり、心得であろう。
客席の自分もまた、気分が落ち込んでいるときに井上作品の台詞に勇気が出たり、慰められたり、傲慢に思いあがっているときに優しく諌められた経験があり、台詞を発する俳優と、それを聴く観客がともに同じ時間と空間に存在して成り立つ演劇の特殊性というものを改めて考えさせられた。
舞台は東京公演の千秋楽を終えて、兵庫、仙台、山形に向かう。緊急登板となった峰﨑亮介さん、新しく電報配達の若者と防共護國団団員役で登板となった今泉薫さん、だいじょうぶですよ、自信をもってがんばってください!そして田代万里生さん、あなたの正一役がみられなかったのはとても残念ですが(とても可愛かったのではないかしら?)、いまは治療に専念され、再会がかないますよう。
今回の『きらめく星座』は、つくる人みる人りょうほうにたくさんの贈り物を与えてくれた。けれど不吉で苦く、胸が苦しくなるような終幕の印象を忘れてはならない。わたしたちが生きている今を、新しい戦前にしないために。
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