*阿部ゆきのぶ脚本・演出 公式サイトはこちら シアター風姿花伝 5日まで
今回が初見の劇団だ。2007年に阿部ゆきのぶの個人ユニット「ゲンジツパビリオン企画」として旗揚げし、活動の本格化にともなって「ゲンパビ」と改名したとのこと。
サブタイトルの通り、宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』を題材にした現代劇である。
舞台には下手の手前にひとつ、上手奥にひとつ、そこからさらにもうひとつと複数の空間がつくられている。ランプのような明かりや、上手奥にも広がっているらしき舞台空間が幻想的な雰囲気を醸し出すなか、下手で少女が『セロ弾きのゴーシュ』を読みはじめる。
本作に限らず、賢治の作品は決してわかりやすいものではなく、以前ちがうカンパニーによるリーディング公演をみたこともあるが、今回の舞台を考える上では役に立ちそうにない。「セロ弾きのゴーシュは、ゴーシュがかっこうを虐待する話だ」という、大胆というかめちゃくちゃな解説を聞いたこともある。これはいささか極端にしても、セロが下手で金星音楽団の楽長からはひどく叱責され、仲間たちの足を引っ張っていると劣等感に苛まれているゴーシュが、つぎつぎにやってくる動物たちに「八つ当たり」しているという印象は否めない。
下手な演奏が、実は動物たちの癒しになっていたという流れも、もし同じ題材をちがう作家が扱ったなら、話をもっと劇的に盛り上げて「こんな自分が動物たちの役に立っていたのだ」と心を打たれたゴーシュが、演奏会の本番で動物たちへの感謝をこめて一生懸命セロを弾き、客席から熱烈な拍手を受ける・・・努力は思わぬところで必ず報われるなどとわかりやすい展開にするかもしれない。
これからご覧になる方は以下お読みになりませんよう、切に願います。
宮沢賢治の作品を舞台化する試みは枚挙にいとまがない。文字通り原作の舞台化もあれば、原作に与えられたイメージを立体化するもの、換骨奪胎したものなど、さまざまだ。
ゲンパビの作品は、『セロ弾きのゴーシュ』を登場人物がじっさいに読みながら、人々の日々のすがたが描かれるというものである。子ども向けの科学雑誌でライターをしている青年をゴーシュに、彼のアパートを訪れる友人や後輩、役者志望の恋人、下手にいる少女とその母を動物たちに見立てる構造だ。
上演時間は65分だが、自分には思ったより長く感じられた。とくに前半はなかなか集中できなかった。コミカルなキャラクターとして登場する相手とのやりとりなど、台詞をもっと研ぎ澄ませ、テンポをあげる(早口でしゃべるということではない)ことで、もっと生き生きしたものになるのではないか。
人間関係がうまく作れない青年のいらだちはわかる気がする。しかし人々は決して悪い人ではなく、むしろこの気むずかしい青年を心配して訪ねてくるわけだが、それだけにやりとりがぎくしゃくしたり、暴力沙汰寸前まで追い詰められたりする。その会話はまだまだ練り上げることができる。ここでも会話のテンポということを考えた。リズムと言ってもよいだろう。
少女の母親を演じた宍戸裕美が心に残る。昼も夜も働きながら病弱な娘をひとりで育てている。夜の仕事で飲み過ぎ、ライターの青年のアパートの前で眠りこんで、彼に助けられる。その恩を仇で返すようなことをやりかけて、ざらついた気持ちにさせられるところもある。
最初に宍戸の声を聞いたのは、少女が朗読する『セロ弾き~』の楽長の台詞だ。よく訓練されたいい声だとすぐに思ったが、後半のこの場面では彼女の生活実感、それもお金の苦労をさんざんしている疲労がぐっとにじみ出たもので、なぜこのアパートに来てしまったかなどが明かされると、この女性の枯渇した心の様相が伝わってくるのである。
終幕で、青年と喧嘩わかれした恋人が客席通路に立ち、『セロ弾き~』最後の一節、ゴーシュがあの日かっこうが飛んで行ったと思われる遠くの空をみながら、「ああ、かっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ」とつぶやくところを読む。
青年とゴーシュ、恋人とかっこうが、あまりベタな印象でなく結びつくこの場面は非常に美しく、劇作家はこの場面のために本作を書いたのではないかと想像された。
強烈に我を張るのではなく原作に誠実に向き合い、大切につくりあげたことが伝わってくる好ましい舞台である。空間や照明の使い方がいま少し洗練され、前述のように会話を書く力が高まれば、もっと素晴らしい舞台成果に結びつけられるのではないだろうか。
観劇前に数回、そして帰宅してからも『セロ弾きのゴーシュ』を読み直し、いぜんよりもこの物語が好きになった。「ああ、かっこう。あのときはすまなかったなあ」というゴーシュの台詞を、自分も同じように言いたい、言わなければならないという人が、この世にはたくさんいるのではないだろうか。