因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋通信66号をお届けいたします

2020-10-21 | 舞台
 まだ不安定な現況を鑑み、因幡屋通信はこのたびも当ブログにて公開といたします。メイン劇評は、7月上演の朱の会公演です(ブログ記事→稽古場訪問記公演前半同後半)。どうか最後までお読みくださいませ。
 
周五郎の句読点 ―作家と俳優と観客と―
 2020年3月なかば、俳優の神由紀子(以下神)が主宰をつとめる「朱の会」は、月末に予定していた『朱の会vol.3 朗読シリーズ 朗読×語り×劇』の延期を決定した。旗揚げから常連の出演陣に新しい顔ぶれも加わり、稽古も順調に進んでいたが、新型コロナウィルス感染予防のため、東京都からイベントの自粛要請を受けて多くの公演が軒並み中止や延期になるなか、致し方ない決断であったことだろう。
  仕切り直しの公演は、季節が移った7月11日と12日の両日、スタッフや客席誘導の俳優はもちろん、半数に減らした客席の観客にもフェイスシールドを配布して行われた。場所は野方のBook Trade Caféどうひんである。
 演目に変更はない。オスカー・ワイルド「しあわせの王子」(いもとようこ版の絵本を使用)を岩間太郎、幸田文の随筆「季節のかたみ」より、「雫」を吉田幸矢、「きざす」を豊田望、夏目漱石の「猫の墓」を中野順二、藤沢周平の「三年目」を渡部美和と神由紀子の二人が朗読して前半を終わる。
 後半一本目は、「かみしばい宮沢賢治童話名作集」(堀尾青史脚本)を神が構成した音楽劇風「セロ弾きのゴーシュ」である。ゴーシュ役の高井康行が本物のチェロを堂々と構え、岩間太郎、木野しのぶ、甲斐裕之、豊田望、渋沢やこが楽団員やゴーシュの家を訪れる動物たちを演じ継ぐ。演者が台本を持たない本式の上演で、ゴーシュの周辺を手作りの可愛らしい小道具や、場面を示すスケッチブックの絵(渡部美和制作)などが賑やかに彩る楽しい一幕である。
 そして最後の山本周五郎の「鼓くらべ」は、現在の朱の会における、ひとつの到達点を示す白眉のステージとなった。
 加賀の国。美しく、鼓の才に長けた15歳のお留伊(豊田)が、城内での鼓くらべを前に、旅の老絵師(中野)との出会いによって、芸術の本質に目覚めてゆく物語である。豊田と中野、老絵師が滞在する旅館の少女役の渋沢が前列に座し、木野、吉田、高井の3人が後列に控えて地の文を語る。高井はお留衣の鼓の師匠仁右衛門役も兼ねる。複数の俳優が語りを行う形は珍しいが、語り手が変わることによって、ほどよい緊張とメリハリ、緩急が生まれた。人物を演じる俳優は赤、語りの俳優は濃紺のストールを纏うなど、視覚的にも工夫が凝らされ、警戒していたお留衣が老絵師と次第に打ち解ける過程、鼓くらべ勝負本番の凄まじい緊張のさなかにあって、人と腕前を競うという呪縛から、お留衣が一気に解放される瞬間、老絵師の亡骸を前に、お留衣が心新たに鼓を打つ終幕までをくっきりと描き出した。
  今号は、この「鼓くらべ」の一幕を考えてみる。

◇句読点の不思議◇
 四章仕立ての「鼓くらべ」は20ページ足らず。黙読なら10分程度の短編であるが、原作を読み直して改めて気づいたのは、文中の読点の打ち方であった。たとえば、お留伊の心が激しく揺れ動く場面だ。
「その時である、お留伊の脳裡にあの旅絵師の姿がうかびあがって来た、殊に、いつもふところから出したことのない左の腕が!」
「その時である。」、「うかびあがってきた。」と、文が句点「。」で終わらず、読点「、」によって連なっていく。これは単に作者の癖なのか、何等かの意図があるのか、とすれば、どのように朗読すればよいのか。
 ふと思い浮かんだのが、テレビドラマ『相棒』の水谷豊演じる杉下右京警部である。終盤近く、「彼を殺したのは何々さん、あなたですね」と穏やかに断定したあとの台詞だ。「何月何日、あなたは〇〇した、そして翌日◎◎しようとした、ところが失敗してしまう、その跡を隠すために彼を殺害した、違いますか?」。明晰な推理のもと、絶対の確信を以て立て板に水の勢いで相手に反論の余地を与えず、圧倒する。実際の台本にどう書かれているかは不明だが、杉下警部の口調は読点である。
 周五郎作品の読点は、地の文の場合、人物の台詞に続くところが多い(前述の「鼓くらべ」の地の文が連続は例外的である)。たとえば嵐圭史の朗読CD(新潮社)の「赤ひげ診療譚」より「むじな長屋」を例にとると、次のような箇所の読点は、句点と同じ発語がされている。

 「おまえの勝ちだって」登は訝しそうに訊いた、「誰かと賭けてでもいたのか」

 次に、人物の台詞のなかに出て来る読点を見てみよう。労咳で死の床にある佐八が、別れた女房「おなか」のことを思い出す場面の台詞である。

 「自分の體の半分がおなかのほうへ取られて、おなかのやつといっしょに苦しんでいる、といったような気持ちでした、どういうわけなのか、やっぱり憎いとかくやしいという気は少しも起こらない、(中略)ただもう哀れで哀れで、息が止まるように苦しくなるんです」。

 嵐はまことにか細く弱々しい調子で、もどかしいほどゆっくりと語る。
 しかし句点ではない。この箇所の読点は、佐八が懸命に語ろうとする、途切れとぎれの息づかいである。
 次に同じ長屋の住人である平吉がしたたかに酔って管をまく台詞は、このように記されている。

 「病気になるほど飲む金があるんなら、ちっとは女房子のことを考えろってな、冗談じゃねえ、ええ、先生は外側からおれのことを見るからそんなことが云えるんだ、おらあそう云ってやった、」

 ぐいぐいと畳みかける嵐圭史の口調は鬼気迫り、殊に「冗談じゃねえ、ええ、」は、「冗談じゃねえ、ええっ?!」と、激しい口ぶりになる。平吉の台詞を最初から追っていけば、ここはぜったいに「ええっ?!」と相手に食ってかからねばならないだろう。この場合の読点は「?!」に転じているのである。

 つまり場面によって、その言葉を発する人物の心情によって、読点は変容している。句点は終わり、読点は続くという単純な区別には到底収まらない。「……」や「――」のようであったり、ときには文字に置き換えの出来ない微妙な間合いや、次の言葉のために深々と呼吸をする場合もある。また全編をひとりで語る場合、朗読の技術として、十分に息を継ぎ、間合いを長めに取る必要もあるだろう。
 ひとつの読点が、俳優にこれほどの演技を求め、俳優もまた作家の手のわざである句読点の一つひとつに心を注ぎ、肉声を通して人物の心の動きを表現する。あたかも作家といっしょに呼吸し、その筆づかいを人物の台詞を通して表現する。周五郎の句読点は、かように複雑微妙であり、立体的であり、劇的な効果を生むものなのである。

  考えてみれば、わたしたちは日常生活において、あるときは「。」で区切り、このようなときは「、」で繋げようなどと考えながらしゃべるわけではない。仮に嵐の朗読をインタヴュー「起こし」の要領で文字に書き記してみるとどうなるだろうか。前述の佐八の瀕死の言葉、酒の力を借りて平吉が吐き出す本音いずれも、「……」や「――」、「?!」など、知る限りの記号を総動員したとしても表現できそうにない。

 神由紀子の朗読の師匠である俳優の阿部壽美子は、「朗読とは破壊することだ。切り裂いて、突き破ることだ」と喝破した。そのためにはまず作品の理解が必要であり、言葉の意味、作者の意図を把握したとき、その一語に適切な声の高さ、速さ、色合いが決まるのだと。
  作品を徹底的に読み込み、作家の息づかいを自分の呼吸として人物に吹き込む作業を重ね、作家の頭、心のなかというより、作家のからだの中に入っていくがごとき行為が朗読であり、原作を尊重するあまり、作家の記した言葉に縛られるのではなく、読み手である俳優の信念と技術によって、むしろ自由に作品を破壊し、切り裂いて突き破ったところに、周五郎の句読点にふさわしい読み方があると思われる。

 さて、朱の会の「鼓くらべ」の読点に話を戻そう。この箇所の語り手は吉田幸矢で、敢えて区別すれば句点に近い息継ぎとテンポである。緊迫した場面であるが、決して性急にならず、観客が思わず前のめりに聞き入る背中をそっと椅子の背に押し戻すように、穏やかで端正な読みぶりであった。
 なぜここまで読点が多いのか不思議でならず、「どう読むのが正しいのか」に拘っていたが、俳優の朗読を聴いて原作を読み返すことを繰り返すうち、作中の人物の息づかいが感じられるようになってきた。
 作家が書き記したひとつの読点を俳優が受け止め、自らの声と呼吸を以て人物の言葉として発し、物語を語り、観客の耳に届ける。それぞれの場所に居た作家と俳優、観客が、「鼓くらべ」を通して交わり、20ページの小説が時空を超えて、新しい劇世界が形作られた。
 旗揚げから三年、朱の会は、ひとつの声、ひとつの色の形成にたどり着いたと言える。これを大切にしつつ、さらなる創作が続くことを願っている。
 
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