*ブライアン・フリ―ル 作 谷賢一 翻訳&演出 公式サイトはこちら シアタートラム 19日で終了
観劇後はできるだけ早くブログを書く。この舞台のことを少しでも早く書きたい、読んでくださった方がひとりでも多く劇場に足を運んでいただけるようにと前のめりになるときもあれば、作り手の方々にはほんとうに失礼だが、一刻も早く書きあげて手を放そうと書き急ぐ場合もある。どちらにしてもあまり日を置かず、「リアルタイム」「速報性」を心がけようと思っている。
『モリー・スウィニー』は、あれあれ観劇から一週間も経ってしまった。舞台の印象が前者でも後者でもなく、「書く」という行為にどうしても行き着けないことは珍しく、その理由を探ることが『モリ―・スウィーニー』について考えるヒントになるだろう。
本作は96年夏に文学座アトリエ公演でみたことがある。そのときのタイトルは『モーリー・スウィニー』であった。モーリーに倉野章子、夫フランクが早坂直家、ライス医師に小林勝也、演出は鵜山仁。感想はメモすらしておらず、帰宅して家族から「どんな芝居をみた?」と尋ねられ、「生まれつき目の見えなかった女性が手術で奇跡的に視力を回復したが、だんだん精神のバランスが壊れていく話」と説明したら、「ずいぶん気の毒な話だ」という反応があった。 アトリエぜんたいが暗色で、非常に難解な作品であるとの印象が微かに残る。
今回谷賢一による新訳、新演出の本作が「モノローグドラマである」ことをさまざまな媒体に記されているが、はて文学座の舞台をみたときに、「これは3人のモノローグドラマだ」と認識していたか、実は記憶が曖昧なのだ。3人の会話がほとんどないことは覚えているが、家族に対して「今日の芝居はモノローグドラマだった」とは話していない。3人の登場人物が話す。舞台の台詞を聞く。途中フランクがめちゃくちゃなダンスをしたり、床に書いた文字を指して客席に「見える?」と問いかけたときに、多少空気が動いた記憶がある。
まず自分が著しい違和感をもったのはフランク役の小林顕作の造形である。盲目の妻モーリー(南果歩)を熱烈に愛しており、光に対してわずかに反応することから手術によって視力回復は可能であり、それが幸福であると信じて疑わない。直情径行型だ。この人物を小林はエネルギー全開で演じる。それも単なる熱演ではなく、アドリブ、客いじり、ものまねまで加えて客席を沸かせる。その日の客席の雰囲気にあわせてアドリブの内容も変えているらしく、頭の回転が速く、達者な人なのだろう。
しかし自分はどうしても馴じめなかった。モーリーとライス医師(相島一之)はフランクの暴走に翻弄されることなく、たとえば素になって吹き出すなどということもなかったが、フランクにあれこれ足し算的な演技をさせることで、劇世界と客席をどうつなぎたかったのか、どんな演劇的効果を狙ったのか、その意図がわからないのだ。
演劇に対して自分はあまり突拍子もない感覚や視点を持たない方であると思う。だから自分の通信やブログをある程度の期間読んでくださっている方なら、ある舞台に対して、「これはいかにも因幡屋好み」、逆に「この趣向はたぶん嫌いでしょ」などということがわりあい簡単にわかってしまうのではないだろうか。自分の感覚、志向からいくと、この作品でアドリブや客いじりなどとんでもないと眉をひそめて終わりなのだが、ではどんな舞台がみたかったのか、好き嫌いのレベルを越えて考えよう。
・・・というところまでようやくたどり着いた。
モノローグで構成される作品とはどんなものか。モノローグとひとり芝居はどう違うのか。
演じる俳優と客席の関係性は。たとえば法廷における傍聴人、講演会の聴衆など、「客席を何かに見立てる」という設定があるが、本作において自分が身をおいた客席は何だったのか。一気にわきあがるもろもろの疑問を考える上で、ひょっとこ乱舞主宰の広田淳一氏が自身のブログで本作について論考されていることは大いに助けになりそうである。
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