因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団フライングステージ第41回公演 『新・こころ』

2016-04-02 | 舞台

*夏目漱石原作 関根信一作・演出 公式サイトはこちら1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16) 3日まで SPACE梟門
 自分は毎年フライングステージの新作を楽しみにしている。なので今回の公演が2008年初演の再演と知ったとき、少し残念に思ったのである。初演を観劇したときのブログを読むと、夏目漱石の原作をゲイの視点で舞台化したことへの戸惑いばかりが支配しており、というより、たまげてしまったのであろう。不勉強の証だ。漱石没後100年の年に『新・こころ』との8年ぶりの再会は、自分にとって思いもよらない手ごたえと実りをもたらすものとなった。

 舞台は明治時代の終わり、漱石の原作の時代を描く場がふたつ、さらに漱石の作品を読み解こうとする現代の大学生と講師たちの場面の3つが交錯する。俳優のほとんどが2~3役を演じ継ぎ、明治と平成の若者が悩みつつ歩もうとするすがたを描く。

 作家には自分が精魂込めて記した作品であればこそ、「こんなふうに読んでほしい」という願いがあるだろう。逆も然りで「こうは読んでほしくない」と思うこともあるはず。漱石自身が『こころ』をどう読んでほしかったのかはわからない。しかし現代の大学の場面において、『こころ』を同性愛の視点で捉えようとするゲイの大学生藤原に対し、ふたりの大学講師はしきりに「そういう読み方はやめたほうがよい」と忠告する。文学を文学として捉えるならば、大人たちの忠告はまっとうであろう。しかし藤原はいつのまにか小説(虚構)を突き抜け、「先生」の遺書を裏読み、深読みして、小説の世界に入り込んでしまうのだ。
 なぜ大人ふたりは「どんな読み方をしても構わない、自由に考えてみなさい」と言わないのだろうかと考えた。藤原は自分がゲイであることを隠さない。うっかりすればストーカーになりかねないところを実に明るく、中島先生(『こころ』本編の「先生」と同じ俳優が演じる)に対しても軽やかに接する。藤原ほど解放されていない先生は戸惑うというより、彼によって自分の心が露わにされるのを恐れているようにも見える。そして作・演出の関根信一が演じる講師の吉永先生は女性である。ここが案外重要なのではなかろうか。

 むろん今回の『新・こころ』は「オールメールキャスト」(すべての人物を男性が演じる)ところがひとつの特徴であるから、男性が女性を演じているのだ。関根も俳優のひとりとして、女性である吉永を演じている・・・だけではないと思うのだ。吉永は中島と親しいようである。それは同じ近代文学を講じるもの同士ということもあろうが、吉永は女性の立場から、中島にある種の感情を持っている。それは恋愛感情のようでもあり、もしかすると吉永自身もセクシュアリティについて苦悩を抱えており、同様の悩みをもつ中島を案じているとも考えられる。吉永を女優が演じるのではなく、自身がゲイである関根信一が演じることによって、『こころ』の捉え方、『こころ』を通して自分の生き方の方向性を探ろうとしている藤原はじめ、人々の視点がより鮮やかに示されていると思われる。

 乃木大将の自決に殉じて自らも命を断とうとした「先生」を、藤原は「死なないで」と懸命に説得する。それは物語の読者として、物語に入り込むあまりの感情の発露でもあり、もしかすると明治の時代から今日に至るまで、自己の存在意義に悩む多くの人々に対して、「死なないで、生きてほしい」と呼びかけているとも考えられる。『こころ』の解釈、読解、批評というよりも、『こころ』を通した人生賛歌ではなかろうか。

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