因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座12月アトリエの会『Hello~ハロルド・ピンター作品6選~』

2021-12-08 | 舞台
*ハロルド・ピンター作 喜志哲雄翻訳 的早孝起演出 公式サイトはこちら 信濃町/文学座アトリエ 15日まで

 舞台正面には牢獄あるいは隔離病棟を思わせる格子が下りていて、上手と下手も同じく格子で囲まれたスペースがある。8人の俳優は黒やグレー、ベージュ、茶色などいずれも地味な色合いとデザインの無国籍風の衣装をつけ、めいめいが中央の演技スペースに椅子や小道具を運んで台詞を語る。短編と中編合わせて6作を、途中2回の休憩をはさんで上演時間は2時間45分と、なかなかの長尺だが苦痛はなく、むしろ終わるのが惜しく感じられるほど濃密な舞台である。
 過去にいくつか、舞台に水を張ったり、床を傾けたりオブジェを置いたりなど、さまざまな趣向を凝らしたピンター作品の上演を観たが、いずれも演劇的効果や意図が掴みにくいものであった。本作がはじめての独り立ち公演となった若い演出家と8人の俳優による今回の上演は、舞台の拵えこそシンプルであるが、座組ぜんたいで戯曲に踏み込み、手探りする試行錯誤を経てこの表現にたどり着いたことが、客席においても良き手応えとして伝わってくる。

☆「家族の声」・・・どこか遠くにいるらしい息子が母親に宛てた手紙を語る台詞にはじまる。ところが次に母親が語りはじめると、両者の関係性は即座に綻びが見える。その内容は食い違い、相手に届いていないこと、そもそもほんとうに手紙を書いていたのかも怪しい様相を呈しはじめるからだ。柔らかな面差しで母親に語り掛けていた息子(上川路啓志)は、母親が語り始めるや、別人のように冷たく恐ろし気な顔つきになる。戯曲上の登場人物は3人だが、8人の俳優が次々と読み継いでゆくことで、その人物の心の変容、精神の均衡が破綻している可能性も炙り出されてゆく。その不気味な空気のなかに、互いの声が届かない家族の悲しみが漂う。相手の語ることばを聞いている俳優の表情から目が離せない。何かが読み取れるかもしれないと必死に見入ったが、答は得られない。むしろそれが本作の味わいであろう。

☆「ヴィクトリア駅」・・・タクシーの指令係(上川路)と、どこかに駐車している運転手(藤川三郎)の会話劇。誰でも知っているはずの「ヴィクトリア駅」を、運転手は知らないと言う。彼は突然精神の均衡を失ったのか。ピンター劇に多い(間)が(沈黙)に変容し、緊張感が高まってゆくが、そこに得も言われぬ詩情が醸し出される。もう少し研ぎ澄まされたやりとりがあって、そののちに着地するところを観たい。

☆「丁度それだけ」・・・二人の男(石橋徹郎、藤川三郎)が数字を言い合っている。金の話かと思っていると、核戦争による死者の人数だというから穏やかではない。あっという間に終わるが、それだけに恐ろしい1本である。

☆「景気づけに一杯」・・・暴力を見せずに暴力を描く。何らかの理由で捕らえられたヴィクター(萩原亮介)とジーナ(小石川桃子)の若夫婦と幼い息子のニッキー(寺田路恵)を、ニコラス(石橋)が尋問する。直接的な暴力はふるわない。触れることすらしない。しかし屈辱的で執拗な問いかけによって相手を追い詰めてゆく。背筋が寒くなる一編だ。

☆「山の言葉」・・・自分たちの言葉で話すことを禁じられた人々を体制側が虐待する。軍曹を中村彰男、士官を山本郁子が演じる。軍曹は若い女(小石川)に露骨に性的な振舞いをすることに対し、士官に女優を配する意図はどこにあるのか。女性が同性をいたぶる残酷性を出す方法もあったかもしれない。決して広くはない演技スペースの手前では看守(上川路)が囚人(萩原)を母親(寺田)の目の前で痛めつけ(暴行の場は見せない)、後方にはもう一人の看守(石橋)と頭巾を被せられた男(藤川)がいる。いつの時代のどこの国とも記されていないだけに、いつでもどこであっても起こりうる暴力的支配の様相を想起させる。

☆「灰から灰へ」・・・締めくくりの1本は、精神の均衡を失ったリベッカ(山本)と、その伴侶らしいがほんとうの関係ははっきりしないデブリン(中村)の会話劇。彼女はナチスドイツを想起させる政治体制による暴虐行為について切々と語る。戯曲冒頭に二人とも40代であり、時は現在と明記されていることから、彼らに実際の戦争体験はないことがわかるのだが、仮に戯曲を読まず、予備知識のないまま本作を観劇した場合、劇中のどのあたりで違和感を覚え、どのように理解に導かれるのか、もしかすると二人が戦後生まれであると最後まで認識できない場合もあるだろう。事前に戯曲や喜志哲雄の『劇作家ハロルド・ピンター』をはじめとする解説書などを読んでおいた場合と、観劇の印象にどのような違いがあるかを想像するのも一興である。
 最後の「こだま」をこのように見せる(聴かせる)ことで、6作品すべてがひとつの物語となって提示された。

 この記事を書いていて、公演チラシ表に「文学座×ハロルド・ピンター=希望」とあることに気づいた。6作品いずれも明るいものではなく、不可解な部分があるにも関わらず、わたしはこの図式に対し、自分なりの理解や納得を得た。さまざまな試行錯誤を経て上演されたであろう今夜の舞台に希望を見出すことができる。人間の心は厄介だ。自分自身の心さえ持て余すのに、目の前の相手ひとり、無数の人々が存在するこの世にあって、どうすれば良好な関係を作り、平和に生きていけるのか。ピンターは人間の心の奥底にメスを入れ、切り裂いてゆく。その手さばきは容赦ない。しかしその根底に人間というささやかだが、一人ひとりかけがえのない命を与えられていることに対する慈しみがあるのではないか。家族、友人、ひいては国家間の分断を乗り越えて、平和を実現する道筋がきっとある。遠い道のりであるが、それはすなわち「希望」という演劇の社会的役割ではないか。いささか話が大きくなってしまったが、佳き舞台から「希望」を確信した、嬉しい一夜であった。
アトリエ入口に因幡屋通信を設置していただいております!
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