*田中千禾夫作 小川絵梨子演出 公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 28日まで
田中千禾夫作品は、2012年の春、文学座3,4月アトリエの会で上演された『おふくろ』を見ただけか。本作は昭和34年(1959年)、新人会第11回公演・創立5周年記念公演その5として、田中千禾夫・島田安行の演出で初演、第6回岸田國士戯曲賞を受賞した。その後も俳優座、地人会で再演され、近年では、俳優座劇場プロデュースで鐘下辰男の演出による上演もある。自分は遥か昔、岩崎加根子が出演していた舞台がテレビ放送されたのを少しだけ見たのみ、舞台観劇は今回がはじめてである。
舞台中央に廃屋らしき装置があり、登場人物とスタッフの手で小道具が持ち込まれ、舞台美術が整えられてゆく。劇場スタッフではなく、出演俳優が舞台上から上演中の諸注意などのアナウンスを行い、開演となる。廃屋は娼婦たちが客を引き込む部屋であり、反転すると病院になる。路上の場面は下手のスペースで行われ、作り込んだ舞台美術であるが、空間を自在に変容させる試みもなされており、意欲が感じられる。
昭和33年(1958年)の長崎市。煉瓦の壁だけになった浦上天主堂の保存について、市の議会が紛糾している。昼は看護婦、夜は娼婦になる鹿(鈴木杏)、原爆症の夫と乳呑み児を抱える忍(伊勢佳世)、ひたすら献身的な看護婦静(峯村リエ)、彼女たちを取り巻く男たちの誰もが戦争による傷が癒されないまま、懸命に生きるしかない。天主堂の前に崩れ落ちたマリア像の残骸は、国家間の戦争という有無を言わせぬ暴力によって理不尽に傷つけられた人々の心とからだの象徴である。
俳優はいずれも誠実で懸命な演技であり、それを見つめる客席には、「この時を待っていた」という、『マリアの首』に対して決してノスタルジアだけではない、焦がれるような空気があった。カーテンコールもダブルコールになり、舞台の俳優もよい手ごたえを得たのではないだろうか。
が、全編長崎弁の台詞であること、人々の心の乱れや、それに伴う激しい台詞の応酬に、自分の心身を「乗せる」ことができなかったのはまことに残念であった。これは自分のほうに理由があり、今回の舞台が心に響く力作であることは確か。できれば再見したいものだが。
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