因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

ナショナル・シアター・ライブ2018『イェルマ』

2018-10-02 | 映画

*フェデリコ・ガルシーア・ロルカ原作 サイモン・ストーン翻案・演出 2017年8月31日 ヤング・ヴィック劇場(ロンドン)収録 公式サイトはこちら 4日まで TOHOシネマズ日本橋ほか
 
7月の同プロジェクト5周年記念のシンポジウムが嬉しいきっかけになり、2015年『スカイライト』以来久々の鑑賞となった。月一度の勉強会で、ちょうどロルカの作品を連続して取り上げていることも何かのご縁であろう。

 スペインの詩人であり劇作家であるロルカが1934年に発表した『イェルマ』は、岩波文庫の紹介文に「アンダルリーアという土地の霊と因習がもたらす宿命的な業に苦悩しながも、他ならぬその苦悩によって浄化されている女たちを描いて、<悲劇>の情念がいま蘇る」と記されている。特殊な土地柄と、その地に縛られ因習に支配され、もがき苦しむ劇中の人々の様相は、『ベルナルダ・アルバの家』でも『血の婚礼』でも、特に女性の登場人物について、執拗といってもよいほどの筆致で描かれており、今のわたしたちには俄かに実感しづらい。

 さらに詩人でもあるロルカの作品は、日常会話のやりとりだけでなく、歌や朗誦、舞踏の場面が少なくない。実はまだロルカ作品の舞台上演を一度も見たことがなく、ドラマの会でも、その場面のリーディングはまことにやりづらいのだ。

 舞台の設定を現代に置き換えたり、別の場所にすることは珍しくない。しかしサイモン・ストーンは、ロルカの原作を新作戯曲と見まごうほど大胆に切り開き、鮮やかに構築してみせた。換骨奪胎とまとめるには抵抗を感じる。舞台を現代のロンドンに置き換え、主人公の「彼女」(her)は編集者なのだろうか、ペンネームでブログを書き、パートナーのジョンも成功したビジネスマンである。新しく家を購入したのを契機に、彼女は子どもを産みたいと切り出す。突然の主張に戸惑いながらもジョンは同意するが、物語はここから数年間にわたる彼女とジョン、周囲の人々を巻き込んで混乱し、悲劇になだれ込む様相を情け容赦なく描いてゆく。

 舞台を挟んで、客席は対面式に設置されている。さらに舞台はガラス張りになっている。人物たちはガラスケースに閉じ込められた小さな生き物のごとく、距離じたいは近いにも関わらず、透明なガラスに遮られることで、観客はまことにもどかしい感覚に襲われるのである。

 原作はイェルマという女性が不妊に悩み、怪しげな呪術に頼ったり、かつて心を寄せ合った男性との関係を噂され、夫やその姉たちの監視下に置かれるうちに心が壊れてゆき、夫を手に掛ける物語である。サイモン・ストーンによるこの舞台では、設定が現代ゆえ、妻がブログに夫婦間のことまであけすけに書くことを夫が責めたり、不妊治療や養子縁組といった科学的、近代的な手段についても議論が戦わされる。

 つまり原作の時代に比べれば、子どもを持つためのさまざまな方法、選択肢があるにも関わらず、「彼女」とジョンは衝突し、行き詰まり、不妊治療の費用のために借金を重ねて破局に至る。子どもが欲しいのに授からない苦悩は、現代においても完全に解決されてはいないのだ。主人公は最後まで名前を呼ばれず、「彼女」(her)であることは、彼女はいつの時代でもどこの国にでも存在し、自分自身を切り刻むように激しく苦悩し、彼女によって傷つく人々もまた生々しい存在であることを示す。

 前半は「ロルカはどこへ行ったんだ?」と困惑しつつの鑑賞であったが、「もしかするとロルカは消してしまったほうが」と体制を立て直した後半あたりから俄然集中力が高まった。主演のビリー・パイパーはじめ、俳優陣の演技は瞬発力があり、熱演には違いないのだが、暑苦しい押しつけがましさがないのがいい。時に嫌悪感すら覚える「彼女」であるのに、カーテンコールでのさっぱりした表情にはゆとりが感じられる。

 この日スクリーンを通してイギリスの舞台から受け取ったことは、今実感していることよりずっと大きく深く、豊かなものではないかと思う。いつどのような形で結びつくかはわからないが、まずはナショナル・シアターライブ次回作『フォーリーズ』への足掛かりになったのは確かである。 

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