因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝公演「神と人とのあいだ」第一部『審判』

2018-02-27 | 舞台

*木下順二作 兒玉庸策演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 第二部『夏・南方のローマンス』と交互上演 3月10日まで1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31
「神と人とのあいだ」は、
A級戦犯を裁いた東京裁判の速記録をもとに、木下順二が独自の視点で鋭く切り込み、戯曲として再構築した『審判』と、BC級戦犯裁判を巡る生々しい人間ドラマの『夏・南方のローマンス』の二部作である。民衆芸術劇場(第一次民芸)時代の1949年『山脈』(やまなみ)に始まって、多くの木下作品を上演してきた民藝にとっても、最重量級の財産演目であろう。二部作の一挙上演はこれが初めてとのことで、劇団はもちろん、客席にも「遂にこの日が来た」という喜びとともに、ただならぬ緊張が感じられる。

 第一部『審判』…1970年の初演の際、大滝秀治が演出の宇野重吉から大変に鍛えられたことは夙に有名で、大滝はその年の紀伊国屋演劇賞を受賞した。2006年の再演は未見、三演めとなる今回が自分にとってははじめての本式の『審判』観劇となった。実はたしか1998年夏、青年座スタジオで本作のリーディングを観劇したことがあり、本作の印象はその際の記憶がいまだに強く残る。

 舞台全面に法廷のセットが作られ、裁判長を中心とした判事たちが高いところから証言台や弁護人たちを見下ろしている。ところどころに人型が配置されているところは滑稽でもあり、不気味でもある。
 劇の全編が裁判の経過に沿って進行する、まさに「ガチの法廷劇」である。逃げ場もゆとりもなく、観客は裁判の傍聴人にならざるを得ない。演劇を見るというより、ひたすら台詞を聞くのである。といって、ただベタに裁判の様子が板に乗っているわけではなく、まず主席弁護人が、日本の「平和に対する罪」「人道に対する罪」を、この法廷で裁く権利がないと異議申し立てをし、次にヴェトナムにおける日本軍の残虐行為が追及され、最後にアメリカの日本への原爆投下の言及に至る。

 戦勝国が敗戦国を裁くなかに、大国同士の駆け引き、政治的エゴ、その中にかいま見える反骨精神、単純に有罪無罪と言い切れない曖昧なところ、人が人を裁くことができるのか、法がすべてか、神とはどんな存在か等々、一筋縄ではゆかない問いが炙りだされ、舞台の人々の苦悩は容赦なく観客にぶつけられるのだ。またこの日は俳優陣の調子もよいとは言えなかったようで、台詞を言いよどんだり、タイミングが合わない場面が散見してたことは残念であった。ラストシーン、日本人弁護人が振り絞るような声で、原爆に見舞われた無辜の民のことを訴え、裁判官がそれを無残に封じる台詞の呼吸は、もっとピタリと決まるのではなかろうか。

 休憩をはさんで2時間40分、集中を保つことは非常にむずかしく、終演後、重苦しい疲労と不完全燃焼感があったことは否めない。確かにこれはレーゼドラマであろう。しかし読むため「だけ」に書かれたのではないはず。生身の俳優が登場人物の言葉を肉声で発し、これも生身の観客が受け止める。そこに生まれる劇的緊張こそが本作の魅力であり、大変な困難があるだろうが、どうかこれからも上演の機会を作っていただきたいと切望する。

 木下順二は「芝居は劇場を出たときから始まる」と語っていたという(公演パンフレット掲載の兒玉、丹野対談より)。わたしの『審判』は1998年の夏に始まり、2018年の2月、もう一度始まったのだ。ずっと続く宿題であり、希望である。

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