因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団掘出者第7回公演『まなざし』

2010-03-19 | 舞台

*田川啓介作・演出 公式サイトはこちら (1,2,3,4) 新宿タイニイアリス 23日まで
 映画『ゴールデンスランバー』は、ある日突然首相暗殺の罪を着せられた青年(堺雅人)が逃亡を余儀なくされる物語である。映画のなかで、堺の父親(伊東四朗)がこんなことを言うのだそうだ。「(自分は息子のことを)信じているんじゃなくて、知ってるんだ」。
 映画は未見だが、なぜかこの台詞が心に残り、ときおり思い出す。
 単純に考えれば、「信じる」ほうが「知っている」よりもレベルが高いというか、数式にすれば「信じる>知っている」という感じだろうか。

 田川啓介の新作『まなざし』は、親子やきょうだい、恋人や夫婦、友だちの関係が入り乱れ、誰とだれがほんとうのつながりがあるのか、ふざけているのか心の病いなのか、実際にこのような症例や事件があったのか、劇作家の想像の産物なのか、みているほうも混乱し、頭の中が?でいっぱいになる。伝えたいことが強烈にぶつかってくるというより、いろいろな方向からボールが乱れ飛んできて、およそ1時間20分のあいだ集中してみることができたものの、はっきりした手ごたえをどこに求めていいのかわからないのが正直な印象である。

 そのせいだろうか、前述の父親の台詞を思い出した。
 信じているんじゃない、知ってるんだ。何に対して?痛々しいのを通り越して、確かな愛情とつながりを求めてはた迷惑なほど右往左往する登場人物に、それとも劇作家の迷える魂に?

「信じる」行為は献身的で美しい。崇高である。しかし性格の悪い見方をすれば、心の奥底には「信じられない」という気持ちがあるからこそ、敢えて「信じる、信じよう、信じたい」と能動的になるのであって、それに対して「知っている」に不自然な努力はない。まるごと肯定しているのだ。

 田川啓介は昨年2月上演の『誰』において、大学のサークル「まなざしの会」に関わる若者たちの生態を描いた。新作の題名が『まなざし』と知って、すぐに『誰』のことを想起した。さらにチラシや劇団HPに登場人物の独白とも劇作家の決意ともとれる文章が掲載されている。具体的に何が言いたいのかはわからぬものの、これを読むと相当にハードな内容ではないかと思わせ、新作に対する興味が掻きたてられる。しかし初日の舞台をみる限りでは、前作とは関連がなく、チラシの文章で期待をしたのも勇み足であった。

 短いことばのやりとりがときには微妙に、ときにはとんでもない方向へぶっとんでいく様子や、どちらも必死で自分の思いを話しているのに、それが強すぎて相手に拒絶されるさまなど、個々の場面、やりとりの描写は実に細緻で、みるものをぐいぐいと引きつける。毎回俳優の稽古がしっかりはいっていることを感じさせるのも特筆すべきであろう。しかしそれらが作品ぜんたいとして有機的に繋がっていたというより、散見したまま収拾がつかなくなって唐突に終わってしまった印象である。

 昨年12月上演の番外編をみたとき、上演時間が短い作品だったせいもあり、「もっと書きたいのではないか」と思ったが、新作の舞台をみて、その気持ちがもっと強くなった。作品によっては執筆前に膨大な資料にあたったり、取材をしなければならないものもある。またとことん調べ抜いて材料をそろえた上で書き進めたい性格の劇作家もいるだろう。本作執筆にあたって、田川は関連書を読んだり調べ物をしたりしなかったそうだ。それでいいと思う。所属する青年団の主宰者の執筆準備がいかに周到で綿密あろうと、それにたやすく影響を受けたり、自信をなくす必要はない。自分の方法でやってみればよいのだ。劇作家自身に書きたいこと、伝えたいことが強く内在しているのだから。しかし劇作家自身のこころの迷いが迷いのまま表出するのではなく、登場人物の台詞として、劇の設定として表現するまでに、何かもっと強く潔い筆の力が必要なのではないか。

 これまで番外編も含めて5本の舞台をみただけなのに、「信じているんじゃない、知ってるんだ」と言うのは図々しく、自分勝手な思い込みかもしれないけれども、そういう思いを抱かせる劇作家であり、劇世界なのである。

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