因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

鵺的第4回公演『カップルズ』

2012-01-27 | 舞台

*高木登作・演出 公式サイトはこちら 下北沢「劇」小劇場 31日まで (1,2,3,4) 
 ブラック企業の社長が、ある目的のために高層マンションの一室を購入した。夫婦仲は冷え切っているのに絶対に離婚しようとしないその妻につづいて、タイトルのとおり複数のカップルが部屋に訪れる。白一色に統一された無機質なベッドルームで、人間の根本的な問題があるときはおぞましいほどビジネスライクに、あるときは悲痛なまでに赤裸々に描かれる。
 当日リーフレット掲載の作者の言葉によれば、「本作は以前発表したある作品と同一のテーマを扱っています」とのこと。おそらくこちらの舞台のことと思われる。
 作者の言葉は、「自分自身の内なる対話の結果がこれです。共感も共鳴もできなかもしれませんが、面白くはできたと思っています」と続く。

 そのとおりであった。高木登の最新作『カップルズ』、おもしろい舞台だ。

 実際に起こった事件をベースにしたり、世相を反映した重苦しい題材を取り上げ、正面から取り組む作者の姿勢にはいつも頭がさがるものの、その描写、表現において違和感をもつことが多かった。しかし今回は物語や人物の嗜好の設定は多少極端ではあるものの、作者がひたすらに自分自身と向き合い、対話をしつづけた誠実な姿勢がうかがわれる舞台であった。
 題材を外ではなく、自己の内面に求めたことが効を奏したのではなかろうか。

 平山寛人がやや特殊な設定で本作の鍵を握る人物を演じている。たいへん不思議な俳優さんで、敢えてこのような演技(あるいは演出家の意図)なのかもしれないが、決して表情豊かに演じる人ではないし、台詞の言い方もどちらかと言えば平板である。にも関わらず、いつもながら変幻自在のみごとな造形だ。彼が自身の秘密を告白したときはさすがに引き、いくら何でも「ありえなさすぎでは?」と混乱した。しかし彼がなぜあのような言動をとっていたのか、周囲の人々が彼を受け入れているのかが次第に納得でき、共感や共鳴とまではいかないものの、彼を含めたカップルたちの心象に寄り添うことが可能ではないかと思わされたのである。
 

 非常に歯切れが悪く、煮え切らない書き方をしているのは、本作が初日を迎えたばかりであることと、高木登が「自分自身の内なる対話の結果」である舞台によって、今度は筆者自身の内なる対話へと否応なく導かれているらしいことへの戸惑いと恐れのためである。

 高木登作品の捉え方が微妙に変容する夜となった。これは勝負の一本ではなかろうか。戦う相手は高木であり、筆者自身でもあるのだ。いやさて、これはやっかいなことになったぞ。

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シアタートラムネクストジェネレーションvol.4演劇ユニットてがみ座『乱歩の恋文』

2012-01-27 | 舞台

  長田育恵脚本 扇田拓也(ヒンドゥー五千回)演出 劇団公式サイトはこちら シアタートラム 29日まで (1,2,3) 
 せたがや文化財団が主催する「シアタートラムネクストジェネレーション」の企画は、その名のとおり有望な次世代の劇団を多くの公募から選抜して上演するものだ。開演前の空気は期待よりも不安が大きく、張りつめたものが漂っているが、終演後のロビーはいつになく晴れやかで、てがみ座の舞台を祝福する人たちでいっぱいであった。

 江戸川乱歩の妻・隆子(りゅうこ。本名は隆)が、原稿が書けずに失踪した夫の行方を追って浅草を訪れる。そこで出会った傀儡師と人形たちの芝居によって、過去の自分たちの物語をみる。長田育恵の戯曲がすばらしい。虚実が入り混じりながら、乱歩という名をもつ夫に対する妻の溢れるような愛情と悲しみが惻惻と伝わってくる。この戯曲が舞台になったところをみたい!2010年秋、王子小劇場での初演を見逃してからずっとそう願ってきた。

 

 高い天井をいっぱいに使って大掛かりなセットを組み、奥行きも活かした力強い演出だ。舞台美術といい、衣裳といい、たいへんな手間と労苦があったのではなかろうか。観客とはまことにわがままでないものねだりなもので、これをみると王子小劇場の舞台がどのようなものであったのか、ますます知りたくなるのだ。

 戯曲と劇場、俳優の演技。さまざまな要素のバランスをとるのは、こちらが想像するよりもむずかしいのだろうか。舞台をみながら何かもうひとつしっくりしない感覚があって、それは戯曲を夢中で読んでいたときにはなかったものだ。

 たとえば、たいへん細かい箇所なのだが、物語の冒頭は舞台に緋色の緞帳が下りたまま、舞台前方のごく狭いスペースで演技が行われる。乱歩が置いていった原稿(連載休止の詫び状)を編集者がまたぐのである。本作はさまざまな空間が行き来するこしらえであるから、細長いスペースであっても、広さや奥行きをイメージしてみるべきなのだろうが、彼は乱歩の原稿をずっと待ち焦がれていたのに、床に原稿があるのに気づかないどころか、またいでしまっては・・・と引っかかった。それから終幕に若き日の隆(りゅう)が平井太郎(のちの乱歩)からの手紙を受け取り、たたまれた手紙を左がわから開いて読んでいたように見えたのだが、どうであったのだろうか。縦書きの手紙(ですよね?)は右から開いて読むのが自然だと思う。それとも左右など関係なく、開きかけた手紙、開いたところにあの和歌が書かれてあったのかしら。

  

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