(仮)日本の医療 

医療の歴史を観る
文責 岡村常実

四気説から解剖学へ

2010-08-27 17:53:41 | コラム

中国は五行陰陽説と同時に『気』と『経路』を考え出しました。この概念は血液と同様『気』にも『気脈』なる通路があると信じられ、その通路に刺激を与える事で痛みの緩和や内蔵の働きを助ける効果があると考えました。『血液は陰、気は陽』で表裏一体の概念です。現在でも東洋医学では踏襲され『指圧、鍼灸』では馴染みがあります。さて、その『気』ですが四つあります。『宗気、栄気、衛気、元気』です。

 宗気:大気の精と食べ物の精から作られ、呼吸、発声、経脈を担当しま  す。

栄気:食べ物の精から作られる栄養素である。

衛気:脾臓(食べ物の精)と腎臓(先天の精)から作られ、免疫と体温調整、外皮保護します。

元気:腎臓(先天の精)から作られ、生命活動のもと(バイタル)を担当します。

以上『気』は陰性(女性)となります。血液の循環が確証されたのは1628年の ハーベイの血液の循環論であります。

後漢(AD150~220頃)張伸景の傷寒雑病論は五行陰陽医学の臨床を総括して編纂されたものとしています。

この漢医学が日本の医学でもあったのです。この流れを変えたのが蘭学であり、さらに近代医学の幕をコジ開けさせたのが、杉田玄白の解剖学、解体新書の出版でありました。

少し時代は降りますが、鎖国時代幕府の監視下にあった貿易で情報も医薬品も無い日本は独特な医学を誕み出しました。和漢方です。それから時代を経て、982年、医心方を著した渡来人丹波康頼から790年溯った時代、1773年。杉田玄白、前野良沢に移っていきます。

日本に初めて上陸した医学はラテン系医学で、宣教師ルイス・デ・アルメイダと言うポルトガル人となっています。宗派は当然カトリックです。対立図式ではイギリス・オランダはプロティスタント。スペイン・ポルトガルはカトリックとなり相当な険悪関係にありました。鉄砲と同時に医学が上陸しましたが、蘭語で著されたこれらの書物のなかにターヘル・アナトミアなる解剖学書が中川淳庵を経て杉田玄白に渡りました。ところが偶然的にも前野良沢も同書を長崎で入手しており、二人で共同翻訳しました。有名な解体新書の始まりです。

話は余談ですが、南蛮渡来とはスペイン、ポルトガルのラテン系を言い、毛唐、紅毛はイギリス、オランダを言います。徳川幕府は鎖国令を布きオランダのみ長崎の出島で交易を許可しました。八代将軍吉宗の時代には洋書解禁となり、翻訳が開始されました。蘭学の事始めと言って良いと思います。

尚、日本で最初に人体を解剖したのは1754年『山脇東洋』等によってでした。場所は、やはりといっても言い『京都六角獄舎』で、その時の記録が本邦初の解剖図書『蔵志』で、その5年後の事でした。杉田玄白が1771年江戸小塚原での解剖に立ち会ってから2年後の1773年『解体約図』を経て『解体新書』まで1年の早さでした。1774年の事でした。解体新書はターヘル・アナトミアの訳書と思われていますが、実は他の複数の解剖書等からも複写転用された解説本だったのです。


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