”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話

2009年12月26日 17時31分46秒 | Weblog
12月26日(土)晴後曇

改めて昨日の話を思い出しながら書いています。でも多分昨日と同じ文章にはなりません。僕の場合一気に書いてしまうのでその時の気分によって言い方がかなり変わってしまいます。昨日の夕方に仕事上の先輩方が3人来ていただいたのでコーヒーを飲みながら楽しい一時を過ごさせていただきました。今年最後の対話になりましたが、ありがたいことです。そんな話の中で倭国(日本)はいつどうやってできたのかの話になりました。

結論的に言ってしまうと日本と言う国と天皇と言う言葉は天智天皇、天武天皇の時代からです。それ以前は倭国と言う都市国家が北九州から瀬戸内海沿いに大和まで点在していました。16代の天皇である仁徳天皇の時代ぐらいから大和朝廷と言えるぐらいに難波の王朝が強大になり、それ以前は華僑を中心とした都市国家がいっぱいあったようです。その中で中国との交易の代表になっていたのが邪馬台国の卑弥呼だったようです。魏誌倭人伝の誇張した表現を割り引いて想像すると邪馬台国は下関から広島付近の都市国家だったと想定されるようです。ただ倭国を治めていたと言うよりは中国との交易の代表者として利用されただけのようです。

日本の弥生文化は紀元前500年ぐらいからと言われています。そして秦の始皇帝が中国を統一したのが紀元前200年ぐらいのことです。そして始皇帝は朝鮮半島のつけねに楽浪郡をおき倭国との交易の拠点にしました。と言うことは既に始皇帝が統一する以前に倭国と中国は交易をしていたと思われます。このことから想像するに弥生文化は朝鮮半島から対馬、壱岐、北九州・出雲と漂着した中国人が定住し始めた結果発生した文化と考えるとうまく符合します。でも最初は少数の華僑が交易のために倭人(縄文人)と交渉する場所を港の近くに確保して、そこから外には出ようとしませんでした。そう言った港の周りがいくつかの都市国家になっていきました。始皇帝が不老不死の妙薬を求めて徐福に童男・童女100人を連れて旅出させたのも多分倭国だったと思われます。そして彼らも倭国のどこかに住み着いて都市国家を作ったと僕は考えています。

そこでそんなに古い時代から船はあったのでしょうかと言う疑問がでてきます。ではいったい船はいつ頃からあったのでしょうか?

世界で一番古い船は紀元前4000年ぐらいに既にあったとされています。それは古代エジプトの陶磁器や墓の壁画に葦を束ねて作った船が描かれていることから確かだと言えます。ただその頃の絵からはもっぱらナイル川で乗られていた帆船だったようです。地中海に出られる船になったのは紀元前2500年ぐらいからだと言われています。どうしてか?と言うと海では波が強いので波きりの工夫がされている船かどうか見極める必要があります。紀元前2500年頃の船には船首と船尾をマストを経由し綱で結んだ船が出現しています。こうすることによって船首が高く保つことができるので波を被ることは少なくなるわけです。

こう言うことから紀元前500年ぐらいには中国でも当然船はあったでしょうし、特に中国の揚子江流域の呉や越の人達は船を得意とする民族でしたから南アジアばかりでなく当然東アジアにも華僑として進出できたわけです。

話のあらすじはおおよそこんなことを書いていました。その他にも日本書紀についての話や倭国が統一されていく過程での難波王朝、播磨王朝、越前王朝にも話は及んでいましたがかなり長くなってしまうのでこの辺で今日は終わりにしておきます。
コメント
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