”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話

2009年12月17日 21時10分38秒 | Weblog

12月17日(木)晴

12月に入って海に出ることも無く、月曜から金曜まで机に向っていたせいか、少々疲れ気味です。と言っても忙しいと言うほどでもありませんが考え事が多くなっています。ヨットやゴルフをしている時は一日何も考えずにひたすら遊びに集中していることが、すごい気分転換になっていることを改めて認識しています。僕は読書も好きなので毎朝早朝に職場に行き30分以上は本を読んでいます。通勤時間もほとんど読んでいるのでほぼ1週間に1冊のペースで読んでいますが、時々何のために読んでいるのかわからなくなることがあります。別に何の役に立つ訳でもなく暇をつぶしているだけかもしれません。特に自分のこれまでの考え方を180度変えるような本を読んでいる時は特に感じています。

現在読んでいる「日本史の誕生」ちくま文庫は今迄学校で学んできた常識をいくつかの点で疑わざるを得ない内容です。「日本」と言う国や「天皇」と言う言葉は38代目の天智天皇以来であり、日本書紀は39代の天武天皇が編纂し始めて40年近くかかって出来上がった日本で最初の歴史書であること。大和王朝は16代の仁徳天皇からが実在していてそれ以前はすべて創作であったこと。これらは中国の歴史書から類推していくと納得することばかりです。伊勢神宮や天照大神の伝説も天武天皇の時代の創作だそうです。また日本最古の書物の一つ古事記にいたっては平安時代初期の書物であるようです。
従って日本国は天智天皇が大津京で即位した668年から始まったことになります。それ以前の大和朝廷は倭国の中の一つの都市国家で仁徳天皇が勢力を持ったころからの話です。ではそれ以前はと言うと卑弥呼が出て来るわけですけどどうも魏志倭人伝は中国の歴史事情からかなり誇張して書かれているようで何十とある都市国家の一つで貿易の代表にすぎなかったようです。場所も魏志倭人伝に書かれている順番から類推すると瀬戸内海、山陽道の中間ぐらい(広島?)にあたるそうです。当時の倭国は中国との交易の場所がそれぞれ都市国家であり、倭人の世話役が王だったようです。その中には中国人だけの都市国家もあったそうです。
このように考えてくると弥生人の華僑説はすごく信憑性があって、縄文人が弥生人と渾然一体となって日本人が出来上がったと言うのがどうも真実のような気がします。

ちょっと話が飛躍しますが、秦のの始皇帝が中国を統一したのが紀元前221年で、その頃から中国との交易がさかんになったと考えると妙に弥生文化の起こった時代とマッチしています。それに秦の始皇帝が不老不死の妙薬を求めて、部下に童男・童女100人を連れて旅立たせた故事を思い起こすとひょっとして彼らが倭国に来たのではないかと思ってしまいます。

以前縄文人は沖縄や南西諸島から来たことを話したことがありますが、弥生人は朝鮮半島から来たと思われましたが、どうして騎馬民族でなく稲作民族だったかが、もう一つよくわからなかったけれども、中国の都、洛陽からの交易ルートや始皇帝の郡県制度を朝鮮半島にも作ったことから考えればかなり納得できます。中国では皇帝が変わる度に大きな戦争が起こり大勢の人が死んだとされていますが、中には戦争を避けて遠い倭人の国まで逃げ延びた人達が大勢いたような気がします。

日本の古代を考えると、何か複雑な気分になりますが、弥生時代と言うのは中国との交易を中心とした文化だったと自分は確信しています。

今日はちょっと頭をもやもやさせる話をしたので船の話は止めておきます。

コメント
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