”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話

2009年12月12日 09時45分52秒 | Weblog

12月12日(土)晴

昨日3回目の忘年会が終って、残りはわずかになりました。まぁ一年無事に今年も過ぎたことを感謝しなければなりません。細かいことを言えば反省もいっぱいありますが何よりも健康であったことが一番です。

ところで今日は土曜日、朝からブログを書くのも僕にとってはめずらしいことです。今日の船の話はペリーはどうして日本に黒船でやってきたのでしょうかと言う話です。日本を植民地にしようと思えばできたはずなのに開国(外国の船が着ける港を作ること)を要求してきました。

話は変わりますが江戸時代には日本の近海にはたくさんの鯨がいたことは御存知でしたでしょうか。当時、対馬にはたくさんの鯨取りが集まっていたと言われています。ただ鯨は力が強くて、艪の船を漕いでモリを付いて取ることは大変な作業でした。ですからあまり取れなかった訳ですが、対馬の入り江に鯨を追い込んで網をかけて動けないようにしてモリを付くことを考え、日本でもたくさん取れるようになったのです。それでも沖を通る鯨は取れませんから、まだいっぱいいた訳です。鯨は肉は食べれるし、油は灯りに使えるしで余すことなく我々の先祖の役にたっていました。そこで漁師は鯨取りになる人がいっぱいいて日本の近海の鯨は激減していったのですが、それだけでなく、北氷洋からアリューシャン列島、カムチャッカ半島を下って日本近海に来る鯨はヨーロッパ人やアメリカ人のターゲットでもありました。彼等は足の速い蒸気船を持ち、モリを打ち込む漁法でたくさんの鯨を取るようになっていました。彼等は食糧としてではなく油を取るためだったのです。そしてアリューシャン列島から日本近海まで鯨を取るために長い航海をしていました。そうなると船の乗組員の飲む水や食糧を補給する必要がでてきます。そこでアメリカの漁民はアメリカ政府に頼んで日本に寄航できる港を開放するように迫ったわけです。

後日談ですが、日本も明治になって鯨を取るための船を作るようになったのですが、この頃は既に日本近海ではあまり取れなくなってしまっていました。鯨は哺乳類で子供はいっぱい産みませんから、乱獲によって北氷洋ではすでにいなくなっていたわけです。そこで日本人は南氷洋に出かけて鯨を取るようになったわけです。日本人は鯨の肉も食べるし、油も使うし、髭まで歯ブラシにするなど余すことなく使ってましたから現在でも鯨を取るので欧米人から批判されていますが、欧米人は油を取る目的でしたから、石油が出て来ると鯨は取らなくなって、手のひらを返したように自然保護を訴えるようになりました。身勝手と言えばほんとうに身勝手ですが北氷洋の鯨を絶滅の危機に追い込んだのは元々欧米人だったのです。まぁ日本人も生活のためとはいえ乱獲した事実は消えるわけではありません。まぐろなどの他の魚もそうですが欲張っていっぱい取ろうとするので海洋資源はどんどんなくなっていくのが現状です。もう少し節度ある資本主義が必要になっているのかもしれません。

今日の話は、ペリーが来航した目的は捕鯨のための寄港地を開拓することが目的の一つだったと言う話でした。ちなみに浦賀沖に現れた黒船は4隻でしたが、このうち2隻が蒸気船で残りの2隻は帆船でした。黒船と言うとみんな蒸気船と思われてしまいますが実際は2隻だったそうです。

日本人は魚を蛋白の補給源として古くから食べている民族ですが、もっと海のことを知って節度ある漁業をやっていかないと困りますよね。僕も魚は好きなのでいつまでも食べれるような工夫がもっと必要だと思います。それではこのへんで。

コメント
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