”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(127)

2007年09月01日 09時43分05秒 | ビジネス

9月1日(土)曇
今週はなかなかよい天気になりませんね。先週までが猛暑すぎて、天も息切れかもしれませんが僕も猛暑の中で例年以上にヨット、ゴルフと遊びすぎてバテバテです。やっぱり「過ぎたるは及ばざるごとし」です。年齢を考えて中庸を守った生き方に徹すべきでした。
ということで8月15日の中庸解釈の続きです。
前回は孔子の説く「道」には5つの道すなわち五達道(君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友)のあるべき姿を三達徳(智・仁・勇)を持って実践して行くことでした。そしてこれらを実践して行くうえで根本となるのはただ一つ「誠」の心だと言うことでした。
ここまでの補足として僕が気に入っている所をちょっと紹介します。それは哀公が孔子に政治の要について問う場面です。

文武の政、布いて方策に在り、その人存すれば・・・・(略)・・・・故に政を為すは人に在り、人を取るは身をもってし、身を修むるは道をもってし、道を修むるは仁をもってす。
仁は人なり。
親を親しむを大なりと為す。義は宜なり。賢を尊ぶを大なりと為す。親を親しむの殺、賢を尊ぶの等は、礼の生ずる所なり。・・・

政をなすは人にある。人を取るには身をもってする。そのためにはまず第一に身を修めねばならない。身を修めるには「道」をもってし、道を修めるには「仁」をもってするのである。
仁とは人に対する道徳である。その中で親族を親愛することが最も重大である。義とは事に応じて相当の処置をすることである。その中では賢者を尊敬することが最も重要である。ただ親族を親しむにも親疏の度合いによって、あるいは賢者を尊敬するにもその賢徳の度合いによって等級をつけることは礼義の生じる所以である。

さて続けます
孔子が言うには学を好むのは「智」に近い、力行して厭怠しないのは「仁」に近い、自分がまだ未熟なのを恥じるのは「勇」に近い。この三つを知ることは我が身を修める根本を知ることになる。我が身を修める根本を知れば人を治める根本を知る。人を治める根本を知れば天下国家を治める根本を知ることになる。
天下国家を治めるには、どんな世の中でも不易なるべきものが九つある。第一は修身である。次に賢者を尊ぶこと、次に親族を親しむこと。次に大臣を敬し、群臣の心を察し、民を子として愛さねばならない。次に百工を国に招致し生活に必要な器具を潤沢にする。次に遠方からの旅人に親切にし、諸侯を懐柔しておくことである。これすなわち「九経」である。

天下国家を治めるにはまず己を修めるところから始まり、賢者を重用し、親族、大臣、官僚に心を配ることを説くあたりが儒教が封建国家の国教として都合の良い考え方だったのかもしれません。中国の「漢」の時代、日本の「江戸時代」にさかんに奨励された学問となったのもよくわかるような気がしませんでしょうか。
人間の社会においては、まったくの平等は理想ではあるけど現実的ではありません。それは社会主義の崩壊で歴史が証明していることです。私達がよい国と言われるためには、「機会平等」と自然とできる「秩序(道徳)」と個々の人達の差を埋める「思いやりの心」じゃないかと自分は思っていますがどうでしょうか?

今日で「中庸」解釈は終わりにします。孔子の説く「道」は三達徳をもって、五達道を実践することにあります。また天下国家を治めるには「九経」の不易ならざるものがあります。そしていずれにしてもこれらの根本となる心は「誠」の心だと説いています。
他はすべて忘れても、「中庸」を実践するには「誠」の心が一番のキーポイントであることだけは知ってください。「誠」の心は誰もが生まれながらにして持っている心です。ただ時として私利私欲に惑わされてしまい、見えなくなるものです。自分の煩悩も常に私欲との戦いです。多分人は皆同じ思いで苦悩するものなのかもしれません。
中庸の2/3はほぼ内容的に網羅しているはずです。最後の1/3は「誠」に対するもう少し詳しい記述と孔子の言葉を変えた子思の繰り返しです。興味のある方は是非読んでください。僕の3回の解説も多分理解の助けになると思います。

お疲れ様でした。

コメント
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